東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

岡本和之 『タイ鉄道旅行』 めこん,1993.

2006-02-25 00:28:47 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
失礼ながら、この本はじめて買ったとき、これからはこの手のガイド風旅行記はくさるほど出版されるんじゃないかと思った。

ところが、今になって読みかえすと、実に貴重な記録であり、ガイドブックだ。

この本が出版されたころから、タイに関する本は続々とあらわれた。

ところが、現地に滞在している人が書いた本は、あまりにディープな情報かアンダーグラウンドな逸話ばかりめだつようになる。

一方、旅行者の書いた本、ガイドブックは安宿と安飯ガイド、もしくはリゾートとツアー案内になってしまって、ちっとも先にすすまない。

その結果、本書のように、あらゆることがらを扱った本が逆に出版されなくなってしまった。
本書のもっともよい点は、エキゾチックなタイ風俗やいかにも観光地風の描写を避け、ふつうのタイの生活を旅行者として見ている点だ。
これがジャーナリストだと、公害・売春・難民・汚職の話ばっかりになってしまう。

わたしはロンリープラネットなど英語のガイドブックを読むのが好きだが、日本のガイドブックがショッピングと安宿案内ばっかりなのに対し、むこうは、遺跡と寺院と国立公園案内ばっかり、という傾向がある。

その点、本書はその欠落をうめる情報がたっぷりあり、しかも、のんびりとした旅行気分が味わえる。
さらに、書かれた時期(筆者が実際に乗った時期)を考え合わせると、貴重な過去の記録になるかもしれない。

おっと、肝心のタイ鉄道のこと。

著者も書いているように、これは、鉄道マニアのためのガイドではない。
鉄道そのものより、沿線の風景と歴史、現在の産業、乗客の様子がメインである。
では、タイの鉄道はどういうものか、というと、やはり、こういってはなんだが、過去の遺物、動く遺跡に近い存在かもしれない。
一般にタイ人にとって、有効な交通手段としての役目を終えている。
近代のタイの産業化遺産といってよいのでは。

そういう意味でしょぼい世界遺産よりもよっぽど遺産・遺跡としての価値はあるんじゃあないでしょうか。

東南アジアってどこ?

2006-02-19 23:14:05 | 訪問者のみなさまへ
東南アジアってどこ?

えーと、いろんな歴史本・ガイドブック・事典にのってますが、「東南アジア」、"Southeast Asia" "Southeastasia" というのはとても新しい概念です。

もともと第二次世界大戦中、ブリテン側がはじめて使ったことば "Southeast Asia" というのを日本語訳したのが「東南アジア」なんだそうだ。

それ以前は、日本では「南洋」と呼び、漢語では「南海」と書いていた。
ヨーロッパでは East India, East Indies, つまり東インドと漠然と呼んでいた。この場合、現在のインドやパキスタンも含めるし、極端な場合は日本列島も含める。
ただし、チャイナだけは Chaina, Cathay, などと呼んでいた。まだ、どこからどこまでがチャイナかわからない時代だったのだ。

しかし、20世紀後半、この地域に独立国がいっぱい生まれると、東インドだのインドシナだの南洋という呼び方はどうもしっくりこない。そこで、戦時中の作戦地域を呼ぶ名称を借りて、Southeast Asia と呼ぶことにし、日本も東南アジアという言葉を教科書や貿易統計や外交文書に使うようになった。

60年代までは、いったいどこいらへんまで含めるか、あやふやだったが、70年代あたりで、現在のASEAN地域を示すことに合意がとれたみたいだ。
もっとも、当時ASEANにはヴェトナムもラオスもカンボジアもビルマもはいっていなかったけれど。

そんなわけで、現在、東南アジアといえば、ASEAN加盟十カ国、つまり、ミャンマー・タイ・ラオス・カンボジア・ヴェトナム・マレーシア・シンガポール・ブルネイ・インドネシア・フィリピンを示す。

しかし、このわたしのブログではそんな国家の枠にこだわらない。

地質学的にはチベット高原が森林帯にかわるあたり、つまり中華人民共和国四川省の西部からずっと南東方面にむかい、ニューギニア島をへてグレートバリアリーフまで含む。
メラネシアの島から黒潮にのって日本列島近海まで含め、西のほうはアンダマン諸島はもちろん、スリランカやモルディヴ諸島にも目をむける。
タイ族の居住する広西チワン族自治区、オーストロネシア語族の故地台湾など当然東南アジアとしてとらえる。

文化的には、この地域に大影響を与えた、インドとチャイナに触れずにはすまされないし、イスラーム、キリスト教、ヨーロッパ諸国も東南アジアを通じてこそよくわかる。もちろん、日本列島も日本人も。
結果的に、ブログの内容は日本から見た東南アジアが、おおきな割合をしめるはずだ。

ただし、東南アジアは日本人から観察されるためにあるわけではないし、日本と共通の要素があり、歴史を共有している部分が多いにしても、日本との比較だけで理解できるわけではない。
そのことは肝に銘じておこう。

井野瀬 久美恵著,『植民地経験のゆくえ―アリス・グリーンのサロン……』人文書院,2004.

2006-02-13 00:24:59 | ブリティッシュ
メアリー・キングズリーの足跡を追ううちに、アリス・グリーンという人物にめぐりあった著者の、ここ4,5年の研究成果をまとめた著作。

アイルランド国立図書館の司書でさえ、「日本人であるあなたが、どうやって気づいたのか?」とたずねるほど、忘れられた人物が、本書の中心人物アリス・グリーンである。

ではそのアリス・グリーンとはどういう人物かというと、

歴史家の夫J.R.グリーンの著作を管理し、その印税でサロンを経営。
歴史家・自由党議員・女性参政権反対運動(女性参政権運動ではない!)・フェビアン協会派のたまり場になる。
その中で、メアリー・キングズリーと知り合う。
王立ニジェール会社、オイル・リヴァーズ保護領(ニジェール沿岸保護領)の政策に関与。
ここまではメアリーの応援者という立場。

南アフリカ戦争の捕虜収容所で看護活動をしていたメアリーの死。
その死の状況を調査すべく、南アフリアへ旅たつ。
さらに、ブリティシュ帝国各地に設けられた収容所のひとつであるセント・ヘレナ島で捕虜へインタヴュー取材・調査を開始。
ここで、「ボーア戦争」といわれた戦争の複雑な構造を知る。

ボーア戦争なんて、学校の世界史の授業で習ったきり、すぐ忘れる人が大部分だと思うが、この戦争はブリティッシュ帝国にとって、ものすごい大きなものだったらしい。
ちょうど、日本がブリティッシュ帝国の子分になって、日清戦争に勝ち、浮かれていた時期である。
東アジアのことは子分にまかせ、親分は南アフリカで忙しい。
もっとも親分はアフリカばかりでなく、全世界で絶え間なく戦争をしていたのだけれど。

ボーア人というのは、オランダ人の子孫で、農業・牧畜をやっている、貧しい農民である。
トランスヴァール共和国・オレンジ自由国(それにしても、勝手の名前をつけるもんだ)には、「オランダ人」という悪いやつらがいて、資源を独占している。
ヨーロッパから、義勇兵というのが参加している。ドイツ・イタリア・デンマーク・フランスなどからやってきた連中である。
以上がボーア側。

一方、ブリテン側には、本島からの軍、ケープ植民地や自治領(カナダ・オーストラリアなど)からの参軍、そしてアイルランド兵がいる。

アイルランド人はボーア側の義勇兵になっている者もいる。

ここで、アリス・グリーンはイングランド人によって、野蛮・臆病・残忍といわれて侮蔑されているボーア人の実態を知る。
メアリー・キングズリーが「アフリカ人の法と慣習を尊重する」態度と同様に、アリスはボーア人を利理解しようとする。

さらに、アイルランドに対するイングランドの無知に怒り、対抗する活動をはじめる。

著者の井野瀬さんが指摘するように、残念ながら、アリス・グリーンにはボーア戦争にまきこまれたアフリカ人に対する関心はない。

しかし、アイルランドへの関心・関与は増大し、アイルランド史の研究・教科書執筆にとりかかる。
最終章では、イースター蜂起への関与、ロジャー・ケイスメントとの関係が少々触れられているが、これらは、今後の研究で、じっくり取り組んでくださるはずだ。

ながながと、まずい要約読んでくれて、すまぬ。
ぜんぜん、わからなかったでしょう。
各自、自分で本を読むなり、ウェブで調べるなりしてください。

ええと、それで、本論よりもびっくりしたのは、

『王様と私』で有名な(有名なといっても、わたし自身はじめて名前を知った)アンナ・レオノーウェンスのことが書かれているのだ。

どういう女かというと……

もともと、あのミュージカルは、アメリカ人宣教師マーガレット・ランドンという人が書いた
Anna and The King of Siam というアンナ伝が元なのだが、そのアンナ伝はアンナの著作、

The English Governess at The Siamese Court,1870
The Romance of The Harem,1873

の2冊が元。(それにしても三文本的な煽情的タイトルだなあ)

ところが、1976年、アンナの息子ルイの伝記で、アンナの正体(?)が暴露される。
Britowe,W.S. "Lous and the King of Siam",1976.
というのがその息子ルイの伝記本。

これによって判明したアンナ・レオノーウェンスとはいかなる人物か?

ボンベイ近郊アーマドナガールで生まれる。
父は家具職人兼大工
母はユーラシアン(ヨーロッパ人とアジア人の混血)。
父はアンナが生まれる前に死亡。
母、東インド会社付属軍兵士と結婚。

アンナは無事じ成長したらしく、18歳で東インド会社経理事務員のトマス・レオノーウェンスと結婚。
長女エイヴィス出産(娘もいたのか?!)
長男ルイ出産。
夫は転勤をくりかえし、そんな中、ペナンで急死。
未亡人になったアンナはシンガポールで陸軍兵士の子女を教える学校教師を務める。
そうしているうちに、総領事からシャム宮廷での家庭教師を依頼される。

こうして、アンナの宮廷生活(?)が始まるわけである。

では、その後のアンナは?

それは、
Dow,Leslie Smith,Anna "Leonowens A Life Byond 'The King and I'",1991
である。
この本ではアンナのカナダでの活動が述べられている。
そして、「過去や出生をでっちあげた女」というラベルの影にかくれて不当に無視されていたカナダでの活動、たとえば、ハリフォックスでの美術工芸学校設立、ロシアのポグラム批判、慈善活動などを紹介しているそうだ。

へぇ~。

まるで、おしんのような波乱万丈の生涯ですね。
井野瀬久美恵さんはジーン・リースとの関連も指摘しています!鋭い!

井野瀬さんは、「白人女性中産階級は、ブリテン島の中で自生したものではなく、植民地との関係の中で創造されたものである。」と、主張し、このアリス・グリーンを扱った一連の研究の大テーマでもあるわけです。

こうした、巨視的な視点をもち、実証的研究をつづけている井野瀬さん、個人的に注目しています。
けど、アンナ・レオノーウェンスという人物については、わたしは、どうもエキセントリックな色物というイメージしかわかないなあ。

英語のウェブ・サイトをみると、後期の慈善活動を強調したサイトが多いようだし、アンナ自身の責任ではないが、映画『王様と私』のイメージは反省することなく、くりかえされている。

なんと、ジュディ・フォスター主演で『アンナと王様』という映画まで作られているんですね。
ビデオを借りてきて見たが、あまりのあほらしさに途中でやめた。
ジュディ・フォスター扮するアンナが王族の少年に『アンクル・トムの小屋』を勧めるシーンがあるのだ!
おいおい!
USAのアフリカ系にとって屈辱的な三文小説をタイの王族に勧めるのかよ!
知らない人のためにお節介な解説を加えると、この『アンクル・トムの小屋』はアフリカ系つまり黒人を侮蔑する内容のため、ほとんど禁書扱いである。小学校で紹介されることはない。図書館で推薦されることはない。
でも、ひそかに楽しみたい読者は存在するらしい。
エロ本を読むように、この小説を楽しみたい読書層を満足させるために、タイの王族に薦めるという設定をひねくりだしたのだろうか?
ああと、一応、カナダに渡ってから、アンナとストウは交際がある。めんどくさいから、ウェブで調べてくれ。
しかしなあ、どの面さげて、ブリティッシュ女がタイ人に奴隷解放を説教するというのだ?
虐げられたユーラシアン女のど根性か?

以上急いで書いたので、ほとんど意味不明の内容かもしれない。

なお、息子のルイは、この後タイに住み続け、木材(チーク)を商う事業をしていたようだ。
プラヤー・アヌマーンラーチャトン 森幹男 訳,『回想のタイ 回想の生涯』によれば、オリエンタル・ホテルの中に事務所をかまえていた時期もあった。王室関係の仕事をしたエピソードも紹介されている。

トメ・ピレス『大航海時代叢書 5 東方諸国記』 岩波書店,1966

2006-02-12 00:09:33 | 翻訳史料をよむ
 トメ・ピレス(生田 滋,池上 岑夫,加藤 栄一,長岡 新治郎 訳)『大航海時代叢書 5 東方諸国記』 岩波書店,1966.

1966年発刊。
ということは、訳者の生田滋、池上岑夫といった大家の方々が三十代になったばかり。
長岡氏のみ年長者である。

こんな若い連中に、こんな大事業をまかせるとはすごい。
第二次世界大戦で上の世代のおもりがはずれた結果だろうか?
それとも他に人材がいなくて、若い連中にまかす以外なかったのだろうか?

ともかく重厚長大な訳業である。

まず、活字本が日本国内に1冊あるかどうかというものだし、写本はパリの議会図書館蔵のマイクロ・フィルムを使用したそうだ。

参考書も内田嘉吉文庫、天理図書館など、古い貴重な本といえば必ず名前があがるところを利用している。

大航海時代叢書第1期の準備段階では、第2期の予定はなかったわけだから、後に第2期に収録されるバロスの『アジア史』の関連部分が相当長く訳出されている。
それ以外にも同時代のスペイン語・ポルトガル語・漢文史料を紹介・要約している部分がいっぱいある。

そんなわけで、本文よりも注のほうが長いという、ムツカシイ古典の訳の典型。

さらに、一般読者ばかりなく、研究者にとっても原書の参照はむずかしい時代だから、可能なかぎり、原文の語句を伝え、原文の脱落やミスや意味不明な点を伝える注がついている。

さらに、さらに、当時のほとんどの読者にとって未知の内容を伝えるものだから、原書にない(もともと原文は草稿で、書籍になっていない)地図・図版・写真を収録している。

つまり、これ1冊で、原文の字義通りの意味を伝えると同時に、同時代の史書を紹介し、さらに、当時の状況を解説する注を加えているのだ。

そんなわけで、紅海からインド洋、コロマンデル海岸、ベンガル湾、スマトラ、ジャワ、マルク諸島、ボルネオ島、南シナ海沿岸、琉球・日本、最後に当時の最大の港市メラカ(マラッカ)の産物・風俗・権力を知る最高の史料となっている。

とはいうものの……

もんのすごく読むのがたいへん。
地名がポルトガル式、民族や王国もポルトガル式、おんなじような王国(といっても港市で、人口はせいぜい三千人です)がえんえんとつづくし、原著者のトメ・ピレスは要領を得ない文章を書く人だ。

東南アジア史には必ずといっていいほど引用される史料であるから、ポイントになるところ(マラッカの記述など)はもうわかったいる。
全体として記述に山場もないし、結論もない。

これは、わたしの想像だが、もともとこの大航海時代叢書は、

「なぜ、日本が鎖国している間にヨーロッパ諸国は世界を制覇することができたのか?彼らは何をみたのか?彼らの何が世界制覇を可能にしたのか?」

という問題意識から出発したのではないか?

コロンブス、マギャランイス(マゼラン)から始まり(その前のポルトガルの西アフリカ航海も収録されているが)新大陸を征服し、東インドとシナを訪れ、日本に辿りつくまでの、ヨーロッパ勢力の軌跡を原文からよみこんでみようというもくろみがあった、とおもわれる。

結果として、この東方諸国記も訳出されたわけであるが、そこに現れたのは、繁栄する東南アジアの港市、交差する商人、多民族・多言語の社会であった。

それとともに、ヨーロッパ人の無知と生産性の低さ、貧しい文化、嫉妬と羨望も表現されている。

一方、後のサイエンスの基盤となる思考もヨーロッパ人にめばえてくる。

このサイエンス、科学の発達も、ヨーロッパ自身が世界各地に旅立った結果ではないだろうか?
たしかに、この東方諸国記がかかれた16世紀、ヨーロッパは貧しく、無知で、汚かった。
しかし、最初に世界にとびでた側の勝ちである。

鉄・繊維・窯業・航海術・武器、どれをとっても当時のヨーロッパがインドやシナに勝てるわけがなかったが、全世界の情報を集めることができたのは、悔しいけれどヨーロッパなのだ。

梅棹忠夫,『東南アジア紀行』中央公論社,1964.

2006-02-10 23:27:32 | 名著・話題作 再読
1964年原本発行。
一般に読まれている文庫本(中公文庫)は1979年、上・下2冊本。
わたしも文庫本で読んだが、今回再読したのは『梅棹忠夫著作集 第6巻』。

決定的名著。大傑作。必読。

はずかしいことに、わたしがこの傑作にであったのは80年代にはいってからだ。
もっと早くしっていれば、東南アジアにたいする興味ももっと早くめばえていたろうに。
悔やまれる。
しかし。
もっと早く読んでいたにしても、この本の真価を理解できたかどうかわからない。

最初に読んだときは、もっぱら後半のカンボジア・ヴェトナム・ラオスの旅行がおもしろかったが、今回再読して、前半のタイ滞在・短期旅行も後半におとらずするどい観察がもりだくさんだ。

たとえば、今回もっとも共感したのは、以下の箇所だ。

チェンマイ盆地の穏やかな風景や、カレン族のフレンドリーな対応の後で、山地(稜線から山腹に住む)ミャオ族の村を訪れる。

そこで著者は、ミャオのこどもが、夕食を丼飯のような外食ですます風景をみる。
著者は、家庭的なものが失われた無残な光景、と感じる。

しかし、その後、次のようにのべる。
このミャオたちの生活も、商品作物(商品作物というのは、この場合、ケシ栽培のこと)を作り、貨幣経済にまきこまれた民族の必死の生き方ではないだろうか?
著者はこう自問する。

すごい。すごすぎる。
これは、1954年の話ですよ。
このころ、日本はまだ、食うや食わずの生活で、誰もが、工業化と商品経済を求めていた時代ですよ。
その時代に、タイのミャオ族の村で、貨幣経済化されていくひとびとの生活をこんな醒めた目で、共感を持ってみることができたのだ。
しかも、昔ながらの生活をよしとする牧歌的な無責任な感想ではなく、これも生き残るための対応では

なかろうか、と積極的に評価する。しかし、評価しながらも、全面的に肯定できないもどかしさも表現

されている。

こんな部分は、20年前に読んでも理解できなかったな。
いざ、自分が、グローバライゼーションの荒波にさらわれないと、貨幣経済と商品化ってもんが理解で

きない。なさけない話だけども。

こんな鋭い観察がてんこもりの旅行記だが、これから読む人は、半世紀まえの日本の状況のほうが、衝撃的かもしれない。
いや、半世紀前の日本の状況がわからないので、理解できない部分がおおいかな。

たとえば、タイで、梅棹忠夫や若い研究者はフィールド・ワーク旅行の道中、コカコーラやペプシを飲む(塩を入れて飲む、というタイの習慣も紹介されるのは、有名です。)

ところがですね、よくきけよ、当時、日本で、コカコーラだのペプシだのを知ってた人はほとんどいないのだよ。
東京や大阪の金持ちか、米軍基地で働いていた人ぐらいじゃないかな。
なにしろ、当時、日本にはフランチャイズのメーカーがなかったはずだから。
つまりですね、コカコーラは日本よりタイのほうが早くひろまったんですよ。

まったく残念なことに、梅棹忠夫の著作としては『文明の生態史観』、『知的生産の技術』のような、ある種空想的な著作のほうが注目をあびた。

かくいうわたし自身も、『知的生産の技術』の悪影響をうけて、いま、こういうふうにキーボードを打っているわけである。

具体的な事実と観察がもりだくさんな著作は軽視されるものなのだ。

この『東南アジア紀行』を著者の最高傑作とよぶのは、その後の著者に失礼かもしれない。
なに、かまうもんか。
梅棹忠夫という人は、どんどんアイディアを出して、自分はこまかいことをやらないで、ほっぽりだしてしまう人なんだ。

梅棹忠夫の後をついで、こまかいこと、実証的なことを研究していったのが、本書の旅行に同行した石井米雄(京都大学東南アジア研究センター初代所長)であり、国立民族博物館の館長職を押し付けられた佐々木高明や石毛直道であり、さらに、探検家根性をふきつけられた高谷好一や本多勝一であり、空想を発展させたのが小松左京である。