同文舘出版1988を文庫化。
リスボン,ジブラルタル,マルタ島,コルフ,コンスタンチノープル,黒海,シロス島,スミルナ,スエズ,ペリム,アデン,マデイラ諸島,テネリフェ島,ベルデ岬諸島,バサースト,シエラレオネ,アセンション島,セント・トマス島,フェルナンド・ポー島,セント・ポール・デ・ロアンダ,喜望峰,クルアムリア,ボンベイ,ツリンコマリー,カルカッタ,ペナン,シンガポール,ラブアン島,香港,上海。
以上が19世紀大英帝国の石炭補給線(p203)
どうしてこんなに貯炭地が必要なのか、というと、つまり当時の蒸気機関は効率が悪く、石炭を山のように消費するからである。
太平洋やインド洋を横断するなんて場合、積荷の大半を石炭が占めることになる。
蒸気船というのは、貨物輸送のための商船では、とうてい燃料費をまかなえない代物だった。
軍艦でさえ、ペリー艦隊(1953年当時)は、日本近海までは帆航でやってきたのである。
では、蒸気船は、釜の水はどうして補給していたのか?
水も大量に運んでいたのか、というと、違った。
なんと、海水を使っていたのだ!
みなさん知っていました?
そのため蒸留器(コンデンサー)が発明される前は、海水で蒸気をつくっていたわけで、圧力が制限された。つまり効率が悪かった。
こんな具合に、燃料食いで効率がわるく、敵の弾丸が外輪にあたれば致命的である蒸気船も、軍艦としては、ひじょうに有利な要素があった。
それは、浅瀬、河口など海底地形が複雑で海流が複雑なところで、小回りが利くことである。
帆船は大洋を航海する場合、抜群の効率であったが、狭い海峡や港湾、河口で身動きが不自由だったわけだ。
それに対し、珠江デルタや天津の白河など、地形がいりくんだ海域での作戦行動に抜群の威力を発する。
上陸作戦では、清帝国の人海戦術に悩まされ、コレラや下痢に戦力を削られる場合も海上戦力は圧倒することができた。
本書は、東アジアからインド洋まで圧倒的に優勢だった大英帝国のパワーを、海軍力から分析したもの。
大英帝国の経済力・金融制度・情報収集、あるいはそれをささえる官僚組織・教育・学問研究など、グレート・ブリテンのパワーを分析する研究は山ほどあったが、本書は単純にして明快な軍事力に焦点をあてたもの。
日本近代史研究者、アジア史研究者などから高い評価を得ている研究である。
時代は19世紀、アヘン戦争、アロー戦争の時代。
東インド会社の海軍(Campany Marine というものがあったのだ!)とインド海軍(というものがあったのです!1830年ボンベイ海軍から改称)とロイヤル・ネイヴィー( Royal Navy 英国海軍、イギリス海軍、などと訳される)との関係。
東インドステーションと中国・日本ステーションの分割(1964年四国連合艦隊の下関砲撃の前後)といった組織の変遷。
民間組織である郵船、貨物船と、軍事徴用制度。
海図制作。
財政問題、軍縮問題(軍縮問題というのは、常に予算削減問題だ)。
といったトピックを扱っている。
用語だけ並べると、細かい問題ばかりつっついた学術書のような印象をあたえるが、19世紀の世界を知る上で基本中の基本をあつかった内容である。
紅茶運送、アヘン戦争、ビルマの植民地化など、船舶建造技術、海軍力から描写していて、わかりやすい。
英国軍がやってくる前に、なぜアメリカ合衆国のペリーが日本に来航できたのか?という歴史の問題にも、ある程度の解答がしめされている。
フィルモア大統領の時代に実施された海軍遠征計画はなにもペリーの「日本遠征隊」だけでなく、1851年~53年の間には、そのほかにもベーリング海峡にまで赴き、北極海におよぶ海図作成に重要な貢献をした「北部太平洋調査隊」、パラグアイとの通商条約交渉を進展させ、あわせて海域諸国との通商関係の改善をはかることを任務とした「南米南東岸ラ・プラタ川およびその支流への遠征隊」、さらには対外通商と移民にアマゾンを開放するという外交上の目的を進展させるために派遣された「アマゾン探検隊」などが編成されていたのであり、そのすべてが、民主党ポーク大統領時代のアメリカ膨張政策の延長線上においてなされたもんであった。(p141)
ああ、そうだったのか!
みなさん知ってた?
それに対し、大英帝国のほうは、インドという大物を飲み込み(1857年インド大反乱)、カリブ海・地中海・インド洋・西太平洋で覇権を握ろうとしていたのだから忙しいのである。そして1854年3月から2年続いたクリミア戦争が最大の懸案事項であったわけだ。
まったくありがたいことに、ロシアやオスマン帝国、インドやパキスタンの諸勢力、序しがたい清朝の官僚組織、各地の土侯や海賊がばらばらに行動し、結果的に日本への大英帝国の圧力を減らしてくれたわけだ。
リスボン,ジブラルタル,マルタ島,コルフ,コンスタンチノープル,黒海,シロス島,スミルナ,スエズ,ペリム,アデン,マデイラ諸島,テネリフェ島,ベルデ岬諸島,バサースト,シエラレオネ,アセンション島,セント・トマス島,フェルナンド・ポー島,セント・ポール・デ・ロアンダ,喜望峰,クルアムリア,ボンベイ,ツリンコマリー,カルカッタ,ペナン,シンガポール,ラブアン島,香港,上海。
以上が19世紀大英帝国の石炭補給線(p203)
どうしてこんなに貯炭地が必要なのか、というと、つまり当時の蒸気機関は効率が悪く、石炭を山のように消費するからである。
太平洋やインド洋を横断するなんて場合、積荷の大半を石炭が占めることになる。
蒸気船というのは、貨物輸送のための商船では、とうてい燃料費をまかなえない代物だった。
軍艦でさえ、ペリー艦隊(1953年当時)は、日本近海までは帆航でやってきたのである。
では、蒸気船は、釜の水はどうして補給していたのか?
水も大量に運んでいたのか、というと、違った。
なんと、海水を使っていたのだ!
みなさん知っていました?
そのため蒸留器(コンデンサー)が発明される前は、海水で蒸気をつくっていたわけで、圧力が制限された。つまり効率が悪かった。
こんな具合に、燃料食いで効率がわるく、敵の弾丸が外輪にあたれば致命的である蒸気船も、軍艦としては、ひじょうに有利な要素があった。
それは、浅瀬、河口など海底地形が複雑で海流が複雑なところで、小回りが利くことである。
帆船は大洋を航海する場合、抜群の効率であったが、狭い海峡や港湾、河口で身動きが不自由だったわけだ。
それに対し、珠江デルタや天津の白河など、地形がいりくんだ海域での作戦行動に抜群の威力を発する。
上陸作戦では、清帝国の人海戦術に悩まされ、コレラや下痢に戦力を削られる場合も海上戦力は圧倒することができた。
本書は、東アジアからインド洋まで圧倒的に優勢だった大英帝国のパワーを、海軍力から分析したもの。
大英帝国の経済力・金融制度・情報収集、あるいはそれをささえる官僚組織・教育・学問研究など、グレート・ブリテンのパワーを分析する研究は山ほどあったが、本書は単純にして明快な軍事力に焦点をあてたもの。
日本近代史研究者、アジア史研究者などから高い評価を得ている研究である。
時代は19世紀、アヘン戦争、アロー戦争の時代。
東インド会社の海軍(Campany Marine というものがあったのだ!)とインド海軍(というものがあったのです!1830年ボンベイ海軍から改称)とロイヤル・ネイヴィー( Royal Navy 英国海軍、イギリス海軍、などと訳される)との関係。
東インドステーションと中国・日本ステーションの分割(1964年四国連合艦隊の下関砲撃の前後)といった組織の変遷。
民間組織である郵船、貨物船と、軍事徴用制度。
海図制作。
財政問題、軍縮問題(軍縮問題というのは、常に予算削減問題だ)。
といったトピックを扱っている。
用語だけ並べると、細かい問題ばかりつっついた学術書のような印象をあたえるが、19世紀の世界を知る上で基本中の基本をあつかった内容である。
紅茶運送、アヘン戦争、ビルマの植民地化など、船舶建造技術、海軍力から描写していて、わかりやすい。
英国軍がやってくる前に、なぜアメリカ合衆国のペリーが日本に来航できたのか?という歴史の問題にも、ある程度の解答がしめされている。
フィルモア大統領の時代に実施された海軍遠征計画はなにもペリーの「日本遠征隊」だけでなく、1851年~53年の間には、そのほかにもベーリング海峡にまで赴き、北極海におよぶ海図作成に重要な貢献をした「北部太平洋調査隊」、パラグアイとの通商条約交渉を進展させ、あわせて海域諸国との通商関係の改善をはかることを任務とした「南米南東岸ラ・プラタ川およびその支流への遠征隊」、さらには対外通商と移民にアマゾンを開放するという外交上の目的を進展させるために派遣された「アマゾン探検隊」などが編成されていたのであり、そのすべてが、民主党ポーク大統領時代のアメリカ膨張政策の延長線上においてなされたもんであった。(p141)
ああ、そうだったのか!
みなさん知ってた?
それに対し、大英帝国のほうは、インドという大物を飲み込み(1857年インド大反乱)、カリブ海・地中海・インド洋・西太平洋で覇権を握ろうとしていたのだから忙しいのである。そして1854年3月から2年続いたクリミア戦争が最大の懸案事項であったわけだ。
まったくありがたいことに、ロシアやオスマン帝国、インドやパキスタンの諸勢力、序しがたい清朝の官僚組織、各地の土侯や海賊がばらばらに行動し、結果的に日本への大英帝国の圧力を減らしてくれたわけだ。