東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

小田空,『中国の思う壷』(上下),旅行人,2001

2006-12-31 15:26:51 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
中国の旅行記や滞在記をとりあげると、きりがないが、結局読んだ本で印象に残ったものをブログにおとしていく、ということになる。

本書下巻は、延安で日本語教師として過ごした時期の話題。
もはや中国のことを他人事としてかたづけられなくなった著者のディープな中国観察記録である。
もちろん、著者と出版社をみれば一目瞭然なように、軽いノリのトリビア満載の滞在記である。が、深刻な話題をひとつ。

「絶対的に貧しい、どん底の貧困」について。
どうしようもなく貧しく、そこからぬけでる方法もなく、政府もどこも対処のしようがない。イデオロギーや宗教がどうのこうの、エスニシティやジェンダーがどうのこうのと、しちめんどうくさいことを言う以前の、絶対的貧困。
そういう貧困の中で生きていく(あるいは死んでいく)人たちがいっぱいいるらしい。
「顔に表情がない」という一見差別的な表現があてはまる人々。
統計数字にもあらわれず、開発援助や医療援助の目にもとまらず、地元政府のプログラム(保健衛生や教育)も無視している貧困がある、らしい。

東南アジアだったら、こういう貧困は、一時的な気候異変や天災のため、あるいは戦争や内乱のためであることがおおい。
あるいは資源の不均衡な分布、開発経済による環境破壊・汚染、そういうことに原因が求められる。
でも、そういうことがなくても、一時的ではなく、ずっとずっとむかしから、どん底の貧困状態で生きる人たちがいる、らしい。

東南アジアだったら、「豊かさの指標を市場経済だけで測ることがまちがいだ。」とか「数字に還元できない豊かさがある」なんていえる場合もあるが(そして、東南アジアの場合でさえ、そういうもののいいかたは、しばしば誤りであるが)、そんないいかたが通用しない貧しさが存在する、ようだ。

小田空さんが観察した中で、「スーツが一張羅の工作者」というのがある。
「貧しかったら、スーツではなく、動きやすい働きやすい衣類があるのではないか?」という主張は通用しない。
ほんとに「一張羅」、その今着ている衣服以外、衣類がないのだ。
冠婚葬祭に着ていける服、一着しか所有していないのだ。

ふ~む。
東南アジアだったら、ハダカで暮らせるし、スーツなどの場違いな衣類は、単に古着として安いから、という場合があるのだが……。
しかし、延安で衣類なしに過ごすというのはムリなような気がするから、やはりスーツが一張羅という状況も生じるのだろうか?

たいへん深刻な問題である。
これはイデオロギーの問題でも、文化大革命など過去の政策の問題でもなく、植民地政策のせいでもなく、現在の政治・行政の怠慢のせいでもなく、経済開放政策によって解決できる問題でもないようだ。

本書のこの話題を思いだしたのは、
河野和男,『自殺する種子』,新思索社,2002
に、ラオスの生活は、中国やインドに比べ、絶対的な貧困は少ないという、指摘があったからだ。
ラオスが貧しくないなんてのは、ふつうの旅行者の印象だったら無視するところだが、著者の河野和男さんは、タイで育種研究を続けていた研究者であり、栄養問題にも通じているはずだし、なにより一般的な貧困状態を見ている人であるから、かなり信頼性が高い。

OEAやダム開発にかかわる調査では、貧困を強調したり、逆に開発にともなう貧困を過小評価する傾向にあるから、この種の報告書の「貧しい」とか「貧困」という表現は信用できない。
各種統計からも、政府の公式見解からも、ほんとに貧しい人の実態はこぼれるようだ。
また、援助組織や慈善団体の報告は、飢餓や戦乱の状況ばかり強調しがちで、日常的に恒常的に昔からずっと貧しい地域というのは見えにくくなる。

しかし、やはり、こういう絶対的に貧しい地域、人々は存在する、らしい。
と、いうこと……


椎名謙介,『エルフィ・スカエシ/シリン・ファルハット』ライナーノーツ,1985

2006-12-29 11:18:28 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
OVERHEAT C25Y0159 の解説。
インドネシアで1984年9月発売のカセット・アルバムをそのままLPレコードにして日本発売したもの。
ディレクターが解説を執筆した椎名謙介氏。同じくオーバーヒート・レコードからでた、エルフィ・スカエシのベスト盤の選曲もしている。

この椎名謙介さんが、「ダンドゥット」という音楽を意識的に聴いたのは、1983年ジャカルタの街中でのこと。皆既日食をみるためバリ島に行く途中のことである。
強烈なショックを受けた著者は、帰国後、オーバーヒート・レコードの米光達朗ディレクターとともに、インドネシアのポップ・ミュージック、特にインドネシア産レゲエをレコードを企画する。
しかし、その企画がすすむうち、インドネシアポップの主流ダンドゥット、そのもっとも人気のあるスター、エルフィのレコードを出すことになる。
これが、日本における最初のダンドゥットのレコードである、といいたいが……

椎名謙介さんが書いているように、すでにダンドゥットはレコードになり、何万人もの日本人がきいていたはずである。
そのレコードとは、
スネークマンショー『死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対』。
スネークマンショーのコントの間に、リップ・リグ・パニックやホルガー・シューカイの曲が収まっている。そのなかに、Su'udiah という歌手(?)の名義で、'Bunga Dahlia' というダンドゥット曲が含まれている。

そして、椎名謙介こそは、そのスネークマンショーの構成メンバーなのである。
自分で作ったアルバムの曲を、ろくに聴きもしなかった、というわけである。
が、ちょうどこのころ、海外の文化が、コンテキストや文化背景をすっとばして、ぞくぞく日本に流れこむ現象がはじまったのではないでしょうか?

このことは、決して悪いことではなかった、と思う。
椎名謙介と米光ディレクターが「インドネシアのレゲエ」レコードを企画したのも、文化的背景を無視した企画だが(インドネシアのレゲエもおもしろいですよ、ダンドゥットと同様に)、こうした企画があってこそ、今まで知られなかった文化が発見できるのだ。
何万人も観光客が訪れ、何千人も現地駐在員がいるにもかかわらず、ダンドゥットは、日本人にきこえない音だったのだ。

もちろん、文化的背景、歴史的コンテキストも大事ですよ。
村井吉敬さんの『スンダ生活誌』には、すでにロマ・イラマ(ダンドゥットの創始者といわれる男性歌手)のことが話題になっているらしい。(未見、未読)

あるいは、このレコードのタイトル『シリン・ファルハット』の意味。
これは、ニザーミーの『ホスローとシーリーン』、岡田恵美子訳で平凡社東洋文庫、1977年に翻訳がでていたペルシャ文学の古典からの翻案なんですね。
このことを教えてくれたのは、インド文化全般の案内人・生き字引のような松岡環さんでした。

小林尚礼,『梅里雪山 十七人の友を探して』,山と渓谷社,

2006-12-27 16:32:21 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
1991年、京都大学学士山岳会・中国登山協会・雲南省体育運動委員会の三者合同登山隊が梅里雪山の主峰カワカブ登攀中に遭難。17人全員行方不明となる。

本書は、その遭難現場にでかけた著者の滞在記。
遺体や遺物の収集、現地の村の住人とのトラブル、協力、理解の過程を描いたもの。
(遺体は遭難現場とみられる氷河上から、水平距離4,000m・高度差1,400mを、7年半かけて流下した)

著者はカメラマンでもあり、掲載の写真はすばらしく、植物の垂直分布の多様性が理解できる。
樹林帯限界線が氷河より上部、つまり、樹林帯にくいこく氷河がみられる地域である。
また、河床はサボテンが見られるほどの乾燥気候である。

それ以上に重要なことは、著者の最初の心境が変わり、梅里雪山の高峰群に村人と同じような信仰心をもって対峙していくことだ。
かってによそからきて、東チベットの巡礼の山の頂上征服をめざし、かってに遭難した登山隊に対し、村人は冷淡である。
あるいは、中国登山協会や漢族の組織に対しても冷淡である。
そうした環境のなかで、遺体収拾を続け、著者は村人の信仰を理解する。
(わたし自身としては、どうしてこうまで遺体収拾にこだわるのか、いまいち理解できないのだが……)

村の人と梅里雪山巡礼路を歩き、四季の移り変わりを体験する。
エベレストベースキャンプやアンナプルナ内院のトレッキングと同様、この地域の観光シーズンはモンスーン前とモンスーン後である。つまり春先と秋から初冬である。
著者は、夏の間(つまりモンスーン期)麓の村に滞在し、雨季の東チベットを描写する。
この、雨季、つまり夏の村のようすがいい。
巡礼のカワカブめぐりも、外国人旅行者や漢族の旅行者も、モンスーン期を避けるようだが、夏は村人にとって農耕や牧畜やきのこ(マツタケ)狩の季節である。


最後に、麓の明永村の変化も描かれる。
ご存知のように、この地域は、金沙江(長江)・瀾滄江(メコン川)・怒江(サルウィン川)の3本の大河が収斂する大峡谷地帯で、「三江併流」という名の世界自然遺産に登録された。
遭難当時は、日本への連絡も北京を通さないとだめだったのが、携帯電話が普及する。
また、民宿やホテルができる。
遺体が収容された氷河の下には、遊歩道(?)が建設される。

著者のホームページ
www.k2.dion.ne.jp/~bako/index.html

星野龍夫,『濁流と満月 タイ民族史への招待』,弘文堂,1990

2006-12-20 17:19:51 | フィールド・ワーカーたちの物語
田村仁(たむら・ひとし)カラー写真が64ページフューチャーされていて、共著の形をとっているが、まず、文章のほう、星野龍夫さんの文章のみレヴューする。

と、いっても、わたしにはとうてい評価できるものではない。
東南アジア関係でわたしが読んだ本のなかで、もっとも難解な書物である。

もし著者が星野龍夫氏ではなく、出版社が弘文堂でなければ、どうせ研究室にとじこもっている学者の重箱の隅をつついたような研究だろうとみなして無視するところである。
だが、本書は、東南アジア関係書を数多く出版している信頼できる出版社の本であり、著者も翻訳などで著名な研究者であり、しばしば東南アジア史の参考文献に挙げられている。

以下、内容を把握できない読者(つまりわたし)による紹介であるので、あまり信頼しないでほしい。

13世紀半ば、モンゴル帝国の東アジア・東南アジアへの膨張以前、タイ民族に関する資料はほとんどない。
ところが、13世紀後半から、タイ民族が東南アジア大陸部に湧き出たように史料が増える。
歴史学者によって「タイ人の沸騰」と呼ばれる現象である。(そうですよね?!)
では、このタイ民族はどこから現れたのか?を考察した書物である。(そうですよね?!)

扱う領域は、東北タイ・北部タイを中心に、ラオスやミャンマー北部、カンボジア、ベトナムを含む。
扱う史料は、クメール語やモーン語の碑文、ベトナムの漢文史料、中国の漢文史料。
そして、言語学的手法と考古学的手法によりタイ人の移動(ホントに移動したのかどうかも含め)、隣接して居住している民族、敵対した民族との関係を検証・推理した研究である。

著者の星野さんは以前、『月刊しにか』に、クメール碑文・モーン碑文を解読したヨーロッパの学者は漢文が読めないために、基本的な間違いを犯していると指摘するエッセイを発表した(号数不明、今手元にない、調べ直すのはめんどくさい。)。
その間違いが訂正されないまま引き継がれていると、警告していた。
その例として、碑文史料中の「ジャワ」は現在のインドネシアのジャワではなく、メコン中流域とする。
以上が第1章。
以上の地名同定の過程で、北タイ、東北タイ、ベトナム、ラオスの地理が外観されるが、これ以後も細かい地名がどんどん出てくる。
著者にとっては周知の地名であり、河川の位置、山脈の配置、現在の道路や都市など読者も自明の前提として話がすすむ。(このへんで、大半の人は読むのをあきらめる。)

第2章はさらにアタマが痛くなる言語学的考察。
ここで、ベトナム語が南亜語族であり(現在、ほぼ全世界の学者に承認されている。)、タイ語話者は、この南亜語族と同じ地域つまり、北部ベトナムの紅河デルタに7世紀ないし10世紀ごろまで住んでいた、後のベトナム人(京族)と後のタイ人は同じ地域に住んでいたという仮説が提唱される。
(ですよね?!)

第3章は、漢文史料の地名同定。
タイ族がすすんだと思われる道筋の推理、同定。
この章が一番ややこしい。しかし、もし、ちゃんと理解して読めば、ラオスから東北タイ、北タイまでの歴史紀行になっていると思う。

第4、第5章は、遺跡案内。
もし、これらの章をしっかり理解して読めば、最高の遺跡案内になると思う。
どうして、ここで遺跡・仏像・寺院の考察が出てくるかというと、タイ族移住以前の権力構造、その後の変化を追っているのだと思う。(そうですよね?)

第6章、さらに難解。
たぶん、先住の高度文明(クメール、モーン、それからパガンなども……)とタイ人の関係、タイ人は奴隷的な境遇だったのか、というようなテーマだと思う。
本書の白眉と思われるが、よくわからない。

第7章
タイ人による国家の形成。
星野龍夫さん独自の見解なのか、歴史学界である程度受け入れられている仮説なのか、よくわからないが、すごい仮説が提唱される。

スコータイ王国ラームカムヘェーン王は、フビライ率いるモンゴル帝国軍、占城軍総管、征緬行省招討使、「劉金」という人物と同一人物である。
え?
ええ?!
つまり、最初のタイ語碑文として名高い(タイの小学生は暗記させられる)スコータイ碑文を記したラームカムヘェーン(ラームカムヘーン)王は、モンゴル軍の現地案内人、モンゴルに協力してチャンパやパガンを襲った軍の地方長官だった、というわけ?
とはいうものの、結論部分も論証過程もよくわからない。

インドシナ半島全域の土地勘があり、川筋や山脈のようすが実感でき、遺跡や寺院をイメージでき、クメール語やラーオ語が多少ともわかれば、ものすごく楽しめるだろう。
筆者の推理を追体験できれば、すばらしい読み物になると思う。
しかし、「タイ語かラーオ語がわかっていれば、クメール語のラジオ放送なんか10日も勉強すればわかるようになる。」などと、のたまう著者とわたしのような読者では、かなり頭のレベルが違うようだ。残念。

われと思わん方は、じっくり読んで、著者の推理の盲点をついたり、ミスを発見して楽しもう!!

(蛇足;さすがにウェブ上で、本書をまともに紹介しているページはない。みなさん、中身を読んでないのに、いいかげんに紹介しているので注意!!)

加藤久美子,「シプソンパンナーの交易路」,1998

2006-12-16 21:56:27 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
著者はシプソンパンナーの権力構造の研究成果が著名な文献学者。
中華人民共和国政府が雲南のタイ族居住地を解放した後、この地方の権力、農民支配、水利権利などの社会調査がおこなわれた。
この地方のタイ族社会を「奴隷制」とか「専制主義」ととらえた官製の研究報告が出版された。
著者の加藤久美子さんは、調査報告の中にかくされたデータを分析し、再構成し、シプソンパンナーの盆地社会の首長(ツァオムン)は、交易を基盤にした権力であり、土地や農民を支配する農耕を基盤とした権力ではない、という結論を導いた。
中華人民共和国の調査結果を使い、官製の報告書とはまったく異なる姿を描いた業績として名高いようだ(わたし自身は未読)。

そんな業績をもつ著者が、短期間の聞き取り調査をしたのが、本論。

新谷忠彦 編,『黄金の四角地帯』,慶友社,1998

2006-12-15 10:15:31 | 多様性 ?
『黄金の四角地帯,―シャン文化圏の歴史・言語・民族 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所歴史・民俗叢書 Ⅱ』という長ったらしいサブ・タイトルがついている。

副題のしめすとおり、アジア・アフリカ研究所の共同研究の成果をまとめたものであり、中国雲南省・ラオス・タイ・ミャンマー4カ国にまたがる(ベトナムのタイバック地方、インドのアッサム州の一部にも分布)シャン文化圏についての研究である。

この地域は20世紀をつうじて、外側からの旅行・調査が困難なところであった。ところが、1990年代にはいり、国境が開かれ、学者の調査が解禁され、道路やインフラが整備され、開発・交易の場として注目されることになる。
このまま一挙に国境を自由に往来できる状況になるか、と思われたが、その後のミャンマーの政治事情により、ミャンマー方面の往来は不便になった。
それでも1970年代80年代に比べれば、商品の流れも外国人の往来もずっと自由であり、本書は、そんな時代を反映した中間報告のようなものである。

この「シャン文化圏」を規定するのは、第一に言語である。
新谷忠彦,「第1章 言語からみたシャン文化圏の民族とその分布」で概略がしめされている。

ざっとみて、さほど複雑ではない。
54ほどに分類されている言語名をみると、頭がいたくなるほど複雑であるようだが、実際はそれほどでもない。
まず、先住と考えられるモン・クメール諸語があり、その上にメコン水系でタイ諸語がかぶさり、サルウィン水系でカレン諸語がかぶさり、標高の高いところにチベット・ビルマ諸語が分布している。
言語学者を悩ませているのは、系統の問題、どっちが元からあるか、どっちがどっちの影響を受けたか、という問題であるようだ。
インド・ヨーロッパ語族の系統がすっきりしているため、他の世界の言語の系統もすっきり解けると考えられた時期もあるが、この山地東南アジアにしても(東アジアと同様に)、系統の問題はすっきり解決できるものではなさそうである。

専門の言語学者を悩ませる問題がある一方、ふつうの人を悩ませるのは、やはりさまざまは声調、複雑な借用語である、とおもう。
言語学的に近縁だからといって、必ずしも覚えやすいとは限らない。
この地域の言語は、近接する文明圏である漢語圏とインド圏から膨大な語彙を借用している。また、クメール語やシャム語など国家を形成した強い言語の影響もある。
そんなわけで、この地域の言語を学ぶのは容易なことではない。

さらに、タイ諸語研究者の宇佐美洋(うさみ・よう)さんの指摘するところによると、言語学者が注目する音韻や文法よりも、一般の住民は文字やイントネーション、ポーズなどに注目する。
それによって、他のグループが自分たちに近いか遠いかの判断は、言語学者のイメージとは異なることになる。

大江志乃夫,『日本植民地探訪』,新潮社,1998

2006-12-14 09:36:55 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
ある意味これはスゴイ旅行記。
どうすごいかというと、あまりにも普通の旅行記であることだ。

どんな経緯で旅行したのかが、すべて明記されている。

サハリンは、1996年「鉄道ジャーナル」主催の鉄道マニア向けのツアー。
南洋群島は、1995年「ピースボート南太平洋の船旅」のツイン・ルーム。
旅順、大連は、1996年、旅行社をつうじての手配旅行。
台湾は、1995年、JTB主催の団体旅行。
韓国は、劇団「わらび座」の1995年ソウル公演に後援会員として便乗。
北朝鮮は、1997年、チャーター便による「友好交流会議訪朝団」に便乗。

いずれも、観光客としての普通の旅行であり、日本出発から、帰国までこまかく書かれている。
まるで、はじめて海外旅行に行った中年夫婦(著者は夫人を同伴している)の旅のよう。

著者は茨城大学名誉教授であり、大日本帝国の植民地研究の第一人者。
「岩波講座 近代日本と植民地」全8巻の編集委員である。(このシリーズについては、いいたいこと、書きたいこと、文句があるが、今その点をうんぬんしている余裕はない。)

当然、旅行した地域のバックグラウンドに精通しており、資料探索も職業として専門である。

しかし、本書は普通の旅行者として、実にこまかく旅行を楽しみ、交通手段から食事まで解説されている。
そういう意味で、ほんとは旅行代理店にまかせきりで見物しただけなのに、さも、現地の人と交流したように書いている旅行記より信頼できる。
著者のバックグラウンドからして、過去の日本を告発する内容が濃いと予想したが、その点は偏りがない。
むしろ、あまりに旅の細部がくわしすぎてかったるい部分がある。

日本の過去の植民地政策を肯定的にみる立場の人たちも、もし、旅行記を書くのなら、これぐらい正直に書いてほしいもんだ。
単に旅行代理店(コーディネイターなんて呼ばれるのか?)の用意した人物と会っただけで、たいそうな事を書いている旅行記は、読んでいてつまらないので。

岩波講座 「帝国」日本の学知 第8巻 空間認識と世界認識 2006

2006-12-13 17:16:14 | 20世紀;日本からの人々
付録 文献解題

内田正雄・西村茂樹 纂輯 「興地誌略」,1870~77
内村鑑三 「地理学考」 1894
牧口常三郎 「人生地理学」 1903
和辻哲郎 「風土」 1935

柳田國男 「都市と農村」 1929
森谷克己 「アジア的生産様式論」 1937
ウィットフォーゲル(平野義太郎・宇佐美誠次郎 訳)「支那社会の科学的研究」 1939
R・W・ダレエ(黒田禮二 訳)「土と血」 1941
石川栄耀 「国土計画 生活圏の設計」 1942
江澤譲爾 「地政学概論」 1943
大塚久雄 「共同体の基礎理論」 1955

岡倉天心 「東洋の理想」(原文は英語) 1903
西田幾多郎 「日本文化の問題」 1940
田辺元 「種の論理の意味を明にす」 1937
田辺元 「国家的存在の論理」 1939
津田左右吉 「支那思想と日本」 1938
谷川徹三 「東洋と西洋」 1940
岩山岩男 「世界史の哲学」 1942
西谷啓治 「世界史の哲学」 1944
鈴木大拙 「東洋的な見方」 1963

伊波普猷 「古琉球」 1911
桑原隲蔵 「蒲寿庚の事蹟」 1923
藤田豊八 「東西交渉史の研究 南海篇」 1933
岩生成一 「南洋日本町の研究」 1940
信夫清三郎 「ラッフルズ」 1943
石田幹乃助 「南海に関する支那史料」 1945

伊東忠太 「法隆寺建築論」 1893
以下、建築に関する文献略す

以上、岩波文庫に収録されているような大古典から忘れられた著作まで、帝国日本の空間認識、世界認識を論じた書物(や論文)として解説。
(年代は初版の発行年、文字は必ずしも正確ではないが、めんどくさいので許してくれ)

ふ~む。
つまり、植民地を持つ帝国の知識人の成果として読める著作というわけか。
わたしは当然(当然と居直るな!)まったく読んでないが、わたしの読む本の参考文献として挙げられることが多い書物群である。
あ、まったく読んでないというのはウソだ。数冊読んでいるが、その書名を出してもしょうがないでしょう!!

タン・ロミ,『阿片の中国史』,新潮新書,2005

2006-12-13 10:08:46 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
著者は東京生まれの中国国籍女性。名前は漢字だが、日本語フォントにない文字らしい。

タイトルどおり、19世紀20世紀の阿片をめぐる中国事情を概観した新書である。
あまりにも大きなテーマで、本書程度の分量では、輪郭をつかむのもむずかしい。
たとえば、阿片吸飲は東南アジア一帯にひろまったのだが、これも、なぜか(強権を発揮しなくとも)なくなってしまった。

ビルマ北部・タイ北部・雲南省・四川省・ラオス北部のケシ栽培の実態も複雑だし、流通の実態に関する本も(少なくともわたしは)適当な本がみつけられない。

第4章で、ブリテッシュ阿片交易商人を描いた小説が紹介されている。
有名なロビンソン物語の第二部『ロビンソン・クルーソーのその後の冒険』(平井正穂訳の岩波文庫でのみ入手可能、翻訳事情はめんどくさいから調べる気がしないが、この第2部の翻訳はほとんどないし、読まれていない。)
この場で、こういうことを書いても誰も信じてくれないだろうが、わたしは、この第2部を読んでいるし、ロビンソンが阿片を含むアジア海域貿易で儲けた商人だというのは知っていた。(ちなみに、第1部は奴隷貿易商人としてのロビンソンである。)
う~ん、悔しい、わたしのブログでロビンソン物語を紹介する前に、書かれてしまった!

海部陽介,『人類がたどってきた道』,日本放送出版協会,2005

2006-12-12 10:58:47 | 自然・生態・風土
たいへん読みやすい。
ホモ・サピエンス(新人)の進化を解説したもの。

1990年代から、いろんな説が錯綜し、われわれしろうとは、何を基準にし、何を基本としたらいいのかわからん状態になったが、21世紀になって、ほぼ学説は安定してきたようだ。
新人はアフリカで進化した。
10万ないし5万年前にアフリカから拡散した。
新人以前の人類(旧人)は駆逐された。
オーストラリア人もニューギニアの高地人も新人であることに関しては、世界中の人類と同じである。

以上の基本を前提として、やや詳しく進化と拡散が解説されている。

著者はジャワ原人の現地調査をした研究者である。
ジャワで発掘される原人に関しては、現存人類(つまりわれわれ)とは別の系統である。
研究者はしばしば、自分の研究対象を誇大にとらえがちだが、著者の強調するところによれば、いわゆるジャワ原人は、現生人類の祖先ではない。
これは確実である。
ジャワ原人の研究は、なぜ、われわれ新人と異なる人類が、これほど長くジャワ地域で生存を続けたか、という点にあるようだ。

というわけで、人類進化を手軽に知り、サヘルランド(オーストラリアとニューギニア)、北方(シベリヤから北アメリカ)、大洋(リモート・オセアニア)への拡散の概略を知るのに最適。