東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

高野秀行,『イスラム飲酒紀行』,扶桑社,2011

2012-12-02 16:07:50 | 旅行記100冊レヴュー(予定)

初出

『ジー・ダイアリー』2006 マレーシア 2011 トルコ、シリア

『週刊SPA!』2008 パキスタン、アフガニスタン 2010 イラン、ソマリランド、バングラデシュ

『本の雑誌』 2010 チュニジア

書き下ろし カタール

おもしろかった。やっぱりエンタメ系旅本は文章力か。以下、本書の内容とズレるが、感想少々。

飲酒が許容されるか推奨されるか、それとも忌避されるか侮蔑の対象となるか。このことは、わたしも常々考えている。本書のタイトルのように、その原因を宗教に起因する、と早合点しそうだが、どうもそうではないのではないか?という気がする。飲酒に寛容であり儀式にアルコールを用いるはずのキリスト教徒でもUSAのように禁酒法を制定したりする。飲酒が五戒にはいっている仏教世界では酒が飲まれている。

必ずしも農民の社会は飲酒に寛容で、都市民は礼節を重んじるために飲酒に不寛容というわけでもない。必ずしも支配層だけが飲酒を独占し、被支配層には禁ずるというわけでもない。必ずしも都市のファッションとして飲酒がスタイリッシュなライフスタイルとみなされるわけでもないし、近代的な生活として持ち込まれるわけでもない。気候や宗教でも割り切れない。

ひとつの法則でくくれるような、許容・禁止、推奨・忌避、の原理はないようだ。




藤原新也,『全東洋街道』,集英社,1981

2012-12-02 16:06:08 | 旅行記100冊レヴュー(予定)

初出 PLAYBOY日本版 1980年7月号から81年6月号。

文庫 集英社文庫1982 上下2巻。

装幀 杉浦康平。目次の反転した(地球の内部から見上げたような、しかも南を上にした)地図がすごい発想(装幀者の発想ではなく著者の発想)。

1980年2月4日から81年3月12日まで402日間の旅

イスタンブール 冬海峡/アンカラ 羊の腸のスープ/地中海アンカラ 薔薇の日々/黒海 夢海航路/シリア・イラン・パキスタン イスラム思索行/カルカッタ 東洋のジャズが聴こえる/チベット 深山(みやま)/ビルマ 金色の催眠術/チェンマイ 草の娼楼/上海 神なきカテドラル/香港 満月の海の丸い豚/朝鮮半島 紅の花、黒い雪/高野山・東京 旅やがて思想なり

毎日芸術賞受賞の作品であるが、芸術のわからないわたしから見ると、何が写ってるのかわからない写真多し。文章と写真が関係ない、つまり、写真がなくとも成立するんではないか?と思える写真集である。芸術写真のわからないアホの見方だと笑ってくれ。

よくもわるくも、ある種の方向付けを示した、画期的ともいえる作品ではあるのでしょう。

暗い景色、ブレた写真。雪と雨、暗い室内。酔っぱらい、娼婦、乞食、僧侶、市場。著者の文章には、おめでたい繁栄に酔う日本人への呪詛のような言葉がほとばしる。このあと、さらにバブルのお祭り騒ぎが始まるとは、著者も予想していなかったろう。

一読の価値あり。

10年前だったら、読むのはいいけどマネをしないでください、と注意書きをつける必要があったかもしれないが、今じゃマネをしようとする若い者はいないかな……。


吉川公雄,『サバ紀行』,中公新書,1979

2012-07-07 18:59:26 | 旅行記100冊レヴュー(予定)

大阪市立大学東南アジア学術調査隊の第一次で梅棹忠夫・石井米雄といっしょにカンボジア・ベトナム・ラオスを調査した人である。専門は昆虫学、医学博士でもある。

その大阪市立大学東南アジア学術調査隊の第三次、第四次の記録が本書。発行は1979年であるが、調査は

第三次が1964~65

第四次が1966~67

書名が誤解をまねくが、マレーシア半島部、サバ、サラワク、ブルネイも含めた記録である。

第三次調査隊はカンボジアをめざしたが、南ベトナムとカンボジアの国境紛争で調査は許可がおりず、マレーシアへ転進することになる。その過程とマレーシアでの予備調査が本書の前半である。

1964年、65年というのはすごい時代であった。64年トンキン湾事件、65年アメリカ直接介入となるのだが、カンボジア(シハヌーク王の王国である)は北ベトナムを支持、それが南ベトナムとの紛争となる。一方、インドネシアとマレーシアの関係が悪化、一時国交断絶となる。その後、65年にはインドネシア九月三十日事件、シンガポール分離独立、という時代である。

そういう時代のマレーシアであるから、数名の商社マン以外日本人はおらず、ほとんどまったく情報がない時代である。著者を含めた研究者は英語の学術書が頼りであるが、その入手もむずかしい時代なのである。写真もなし地図もなし、もちろん映像やカラー写真などない。旅行記は戦中の堺誠一郎、里村欣三のものぐらい。もちろんまだ文庫化されていない。五里霧中の状態で、たまたま入国可能になったマレーシアで予備調査するのが第三次の記録である。

とっても親切(おせっかいな?)マレーシア人に案内されて動きまわり、人脈が不思議なほどつながる。ちなみに、ブミプトラ政策などまだない時代であって、インド系もマレー系も華人もみんな親切で日本人を歓迎する。みんな西洋化されている。西洋化されていない著者たちは四苦八苦。

後半は書名どおり第四次のサバ調査で、キナバル山登山、ラナウ高原地区、セピロック保護地区、サンダカン、内陸行政区(ケニンガウを中心とする)。キナバタンガン川流域調査は涙をのんで断念。

書かれている内容自体は、今現在読むと、あまりにもあたりまえのことが多いように感じるが、当時はまったく情報がない地域なのである。当時の調査研究を知るため、マレーシアの状況を知るために一読の価値あり。

 


なかがわ みどり・ムラマツ エリコ,『ベトナムぐるぐる。』,JTB,1998

2010-09-18 22:43:24 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
文庫は角川文庫,2005 (加筆があるようだが未見)

イラストや絵本、キャラクターグッズのデザインを共同でやっている女性2名による旅行記。書き下ろし。著者たちのサイトは

http://rose.ruru.ne.jp/kmp/

1997年暮から98年のテトにかけての長期旅行ながら、前作『エジプトがすきだから。』より旅行期間は短いのだそうだ。

マンガ風イラストと細かい文字と写真を組み合わせたタイプの旅行本で、同じような体裁のものが続々と出版されているが、本書は高品質の部類。最後に著者たちの旅行中の記録やメモが載っているが、本文の脱力&きままなムードとは違ってかなり几帳面に記録をとっている。ちなみに、この頃はデジカメではなくフィルム写真だろうが、写真を撮るのが目的ではない旅ではきれいな写真を残すのはむずかしいことがわかる。光源が弱い写真やぶれた写真が多い。

最後の「あとがきのじかん。」に、〈ベトナムについては他の本がいっぱいでていて、今さらガイドブック的なこと入れる必要もなかったから、思い切り自分たちの旅や、体験したことをかけったかな。〉という発言がある。え?1998年だと、まだまだベトナムに関する本って少なかったような気がするが。
ともかく、ベトナム自体の変化がはやいのと、旅行書のブームの変化がはやいのがあわさって、本書の記載が当時どれほど新鮮でめずらしいのか、もはや把握できないほどである。

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著者たちとほぼ同じ頃に短期の旅行をしたことがあるが、ふむふむそうだそうだと頷く点も、ちょっと違うだろと思う点、両方ある。

たとえば、p28-29 に載っている安宿の写真だが、知らない人がみると、ずいぶんぜいたくなホテルに泊まっているように見えないだろうか。ベトナムは基本的設備や建付けが悪いわりに写真に撮ると豪華にみえる宿がけっこう多いのである。
あるいは、p-100-102 の食べ物の写真。ふつうのスナップ写真では、うまいものもまずいものも、安いものも豪華なものも、ほとんど判別できない。

暑さにかんしては、わたしは雨季にしか旅行したことがないので、暑いと思ったことはない。著者たちはそうとう暑かったようで、午後は宿のクーラーで涼むという行動パターンであったようだが、雨季はクーラーなんてほとんどいらなかった。

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著者たちが旅行した当時から、ボラれる、シクロは怖い、バイクびゅんびゅん、というのがベトナム旅行のイメージだったのだろうか?

わたし自身の感想としては、ボラれる、というのは東南アジアにかぎらずどこにでもある習慣だとおもう。ご近所の人がカフェでコーヒーを一杯飲む値段とよそ者が飲む値段がちがうのはあたりまえなのだ。ご近所でなくても、怖いヤクザもんや、うるさい政府関係者なら、ご近所値段以下あるいはタダでサービスするのではないだろうか。

ヤクザ者でもなく党関係者でも公安でもない旅行者ならボッタくられるのは当然のような気がする。
たんなる旅行者としては、ヤクザ者や公安料金ではなく、多少ボッタくられるのもがまんすべきではないだろうか。普通の人として扱われているのだから。

ボッタクリ以上にすさまじいのが、海外からの観光客向けのツアーである。とくに、日本語ガイド付ツアーになると信じられないような価格である。
ちょっとバイクの運ちゃんにチップをはずんで10USドルぐらいで済むものが、10倍20倍あるいは50倍の値段になっている。
わたしのような旅行者が数日でばらまく金額だって、都市生活の家族が一か月に使う金に相当するだろうに、日本語ガイド付ツアーなんてのは彼らの年収に相当する金額を一日で使うのである。
ふつうのベトナム人にとってこんな観光客は、非現実的な富をかかえてやってくる宝船のようなものだ。

タイやマレーシアなら、むかしから日本以上に市場経済・異文化移入の波をかぶっているが、鎖国のような状態が続いたベトナムでは大金を持った観光客がおしよせるのはほとんどの人にとって初めての体験だろう。
農村のがんじがらめの習慣にしばられ、外国人に対して疑心暗鬼だったベトナム人がよそ者からボッタくる千歳一隅のチャンスなのだ。

もうすこししたら、ボッタクリもなくなって、なんだかベトナムに来た気がしないなあ、てな感じになるかもしれない。

金井重,『シゲさんの地球ほいほい見聞録』,山と渓谷社,1991

2010-09-14 20:46:40 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
改題して
『年金風来坊シゲさんの地球ほいほい見聞録』,中公文庫,2000

年くってから長期海外旅行をしたいと思っている方は必読。
蔵前仁一さんや下川裕治さんのバックパッカー旅行記も楽しいが、彼らは若いときから出かけたベテランだから、あまり真剣に参考にしないほうがいいように思う。

さて、著者のようなひとり旅の長期海外歩きが誰でもできるか?著者はドジで他人の世話になりっぱなしの旅行のように書いているが、行間を読むとかなりむずかしいのがわかる。

1927年生まれで1980年で退職。世間の人間関係から逃れ自分のすきなことをやるためにまずアメリカに向かう。そこから、メキシコへ向かい、スペイン語を勉強し、南下してブラジルまで足をのばす。だいたい、スペイン語を勉強しようという意欲自体ない人も多いのである。著者は外国語がダメなどと書いているが、字面どおりに受けとらないように。
バックパッカーにとって難関の南米をすいすい歩いてしまったように書いてあるが、そうとうに体力もスキルもある人である。

この1920年代生まれの人たちというのは、丈夫な人とひ弱な人の差が激しいように思う。健康な人は30代40代に負けないくらいに丈夫。人生の辛酸をなめ、社会の荒波にもまれているので、ひ弱な若者には耐えられないことも耐えられる。

一方、日本社会に順応しすぎたひとは、海外旅行などまったくダメである。上下の身分、職種、学歴、男女の別、世間体などに凝り固まっている人は、海外の人にコミュニケートできないし、日本人の若い人とも話ができない。自分のスキルが低いのに要求だけ大きいので周りからきらわれる。

著者・シゲさんの場合は組織の中でまじめに労働する一方で、組織以外の場で行きぬく力も養っていたように思える。
それになんといっても丈夫で体力がある人だ。アンナプルナ・ベースキャンプまで行ってしまうのである。

というわけで、くれぐれも本書のような旅がかんたんにできると誤解しないように。情報収集もしっかりやっているし、怪我や病気の対策もちゃんとやっている。ネパールで骨折したり、タイでパスポート・TC・航空券を盗まれたエピソードがあるが、こういう事態にも対処できる人なのである。

見習うべきところは、飽くなき好奇心と、日本の堅苦しい世間からはなれたいという強固な意志である。それに、この方、独身だ……。世話すべき家族はいないようだし、旅行に反対する家族もいないようだし。

兼松保一,『貧乏旅行世界一周』,秋元書房,1961

2010-09-11 18:53:31 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
覆刻版が日本ユースホステル協会,1990
文も写真もまったく同じ覆刻と思ったが、NDL-OPACによればページ数が異なる。原本未見だが、たぶん文章の部分に修正や変更はないみたいだ。
ちなみに小田実『何でも見てやろう』と出版年同じ。

著者は1927年生まれ1998年死去。
国際ユース・ホステル連盟執行委員などつとめる。
1954年パート・ギャランティ渡航。パート・ギャランティとは、渡航費用は自前だが、受入れ先の大学などで滞在費用が保証されるもの。フロリダ州立大学修士課程でレクリエーション学専攻。この時点ですでに日本に妻子あり。

アメリカでのユース・ホステル運動の創始者となるモンロー・スミス夫妻の援助・協力により、帰国途中にヨーロッパ・中東・アジアをまわる旅行が可能になる。
1956年9月5日カナダのケベック発、57年4月3日、帰国。

予算はどうしたかというと、カナダからヨーロッパまでは大学研修の一環としての船とトラックでの移動。この間モンロー氏の助手というかたちで、大西洋横断航路の旅費のみで参加した。一行とローマで別れる際に、モンロー氏から400ドル(約144000円)もらう。この資金で中東・アジアをまわり帰国する。

かなり珍しい、ラッキーなケースである。
当時の日本の物価からみて、1ドル360円というのは、現在の5000円ぐらいの価値があると思っていいだろう。しかしそれぞれ国の物価がよくわからないので、400ドルという金額がどの程度すごいのかどうか、よくわからない。当時はアメリカ合衆国だけが圧倒的に金持ちで、敗戦国のドイツやイタリアも、中東の国も日本もたいして変わらなかったのかもしれない。

**********

われわれの世代からみると、ユースホステルなんてのは内務班と民青をたして二で割ったような(←こらこら、若いもんにわからない喩えを使うな)、規則ばかりうるさくて、たいして安くもない宿泊施設というイメージである。
しかし、ヨーロッパと北米の間でも事情は異なるようだし、1950年代の日本では、ヨーロッパ的な憧れの施設だったのかもしれない。いずれにしろ、安いとか貧乏旅行向けというより、中産階級の青少年向けという感じかな。

そういう時代であるので、著者の写真も実際に旅行中も背広をきてネクタイをしめるというスタイル。その後のバックパッカーとかヒッピーとはまったく異なるのである。

さて、著者はどんな国へいったと思います?
これが驚くのだ。おそらく1957年の時点で、これほどの地域・国へ行けたのは稀有ではなかろうか。

ヨーロッパはフランス・ルクセンブルク・西ドイツ・オーストラリア・スイス・スペイン・ポルトガル・イタリア。それにモロッコにも。

ひとり旅になってからは
レバノン・ヨルダン・国境のエルサレム・シリア・イラク・アラビア湾を渡ってパキスタン(西)。陸路でインド横断。

さらにカルカッタから航空便で、
ビルマ・タイ・イギリス領香港のあと、なんと中華人民共和国

なぜ中共(と表記、日本と国交なし)に行けたかというと、周恩来首相あてに、世界各国の体育事情を視察しているのだが、中国の事情も見たいと手紙を書いたのだそうだ。(ローマから発信)
すると、入国許可の電報がカルカッタに届き(アメリカン・エキスプレスの事務所)中華全国体育総会の負担で旅行できることになった。香港から中国旅行社の係員の指示に従い入国。広州・上海・天津・北京などを国賓待遇(?)で視察できた。

中華人民共和国内では体育活動・スポーツ施設の見物が多いが、ほかの国でもその種の写真が多い。
たとえば、ダマスカスでの女子軍事教練、スカートをはいてバレーボールをするバグダッドの少女たち、イラクのガールスカウトなど貴重な写真もあり。

各国の査証の値段や移動方法もちゃんと書かれており、そうとうに珍しい旅行記である。

しかし、現在の立場から文句をいうのもなんだが、これほど珍しい地域・国へ行けたのだから、もっといろんなところを見ればいいのに、読んでいて歯がゆい。
スエズ動乱直後のエルサレムとか、アラビア湾を船でバスラからカラチまで航海、ラングーンとバンコックにも滞在。

そう、東南アジアはラングーンとバンコクだけ数日の滞在。ああ、もったいない。
中国の招待旅行で行くところが制限されるのはしょうがないにしても、ほかの国ではもっとおもしろいところがありそうなのに、観光名所だけなのである。

つまり、1950年代というのは、金銭的にも貧しかったが、それ以上に知識が乏しかったのだ。情報が限られているため、今からみるとありきたりの観光地しか見てないのである。

宮田珠己,『東南アジア四次元日記』,旅行人,1997

2010-09-02 21:50:53 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
文庫は文春文庫PLUS 2001
    幻冬舎文庫 2010

実は初めて読むのです。
親本の旅行人版を買おう買おうと思っているうちに品切れになり(蔵前編集長すまぬ)、文春文庫も買おうと思っている時に見つからずで、今回幻冬舎から出たのでゲット。

読むと脱力して元気がでる本だ。
本書のあとの『わたしの旅になにをする』などより、強烈なギャグは少なく、わりとちゃんとした(?)旅行記だ。とはいうものの、思わず噴出す場面は多々あるが。

旅程は、香港~ベトナム南部~カンボジア~ベトナム北部~ラオス~タイ北部~ミャンマー~タイ中央部~マレーシア~シンガポールという黄金コース。ミャンマー以外は陸路を歩く、もはや定番といっていいコースだが、サラリーマンをやめて長期旅行に出かけられるという開放感にあふれた旅である。

 何もかも忘れてのんびりしたいと思うことがあるが、実際にのんびりできたためしがない。今も、体は疲れているし、気力もダレているが、かといって休養ばかりでは退屈で落ち着かない。
 何でも海外旅行というと、あちこち観光して回ったり、うろうろしてひとつとこrにじっとしていられない旅行者は馬鹿にされる傾向があるが、そういう風潮には納得いたしかねる。私に言わせれば、右も左もわからない土地でうろうろしているうちに、元へ戻れなくなって、にっちもさっちもいかなくなったり、行きたいところにたどり着けなくておろおろすることこそが旅の醍醐味である。(p167-168)


うーん。わかる!

それにしても、ラオスビザが100USドルというのにはびっくりした。当時はそんな時代なのである。その高いビザ代を払い、ワット・シェンクアンなどというお間抜けな寺のようなテーマパークのような所を見るだけ、という旅行である。
ちなみに、現在は15日以内なら日本人は無料!ベトナムも15日無料である。
入場料無料の遊園地みたいなものだ。
それから調べてみたら、ワット・シェンクアンって意外と有名な所なんですね。ほかに見るようなところが無いからかもしれないが。

東南アジアの旅ってこんな具合なんだなあってわかるという意味ではベスト5にはいるくらいの良質な旅行記である。ほんと。

山口文憲,『日本ばちかん巡り』,新潮社,2002

2009-12-13 21:45:43 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
詳しい紹介は今しないが、日本の宗教を考える本として、旅行記として、エンタメ・ノンフィクションとして、異文化観察記録として、めったにない傑作。

初出は同じタイトルのシリーズとして『藝術新潮』に1990年3月号から1995年11月号まで不定期連載。

それが、この単行本がでたのが、2002年。さまざまな紆余曲折、スッタモンダがあったようだ。ひらたく言えば、取材した教団からの「訂正」や「収録拒否」の依頼があった。それに対応して、やっとこの書籍の出版までこぎつけたというわけ。

単行本化にあたって、新しく上九一色村の取材も行っている。あのオウム真理教をめぐる一連の事件も、本書成立の障害になったようだ。つまり、われわれは、あのオウムのような反社会的な似非宗教ではなく、まっとうな信仰を守るものであるから興味本位の取材はことわる、と言いたい教団があったわけだ。

もちろん、「収録拒否」や「訂正」を要求した団体ばかりでなく、ひじょうにおおらかで協力的なところもある。本文を読めばわかるだろう。

収録された、教団・聖地は、

天理教 奈良県天理市
金光教 岡山県金光町
大本 京都府亀岡市・綾部市
世界救世教 神奈川県箱根町・静岡県熱海市
真如苑 東京都立川市
善隣会 福岡県筑紫野市
嵩教真光 岐阜県高山市
天照皇大神宮教 山口県田布施町
出雲大社 島根県大社町
辯天宗 奈良県五條市・大阪府茨木市
伊勢神宮 三重県伊勢市
生駒山系の神々 奈良県、大阪府
松緑神道大和山 青森県平内町
いじゅん 沖縄県宜野湾市

ちくま文庫で2006年文庫化。もうすぐ品切れになりそう。

中根千枝,『未開の顔 文明の顔』,中央公論社,1959

2009-05-19 21:27:27 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
これは意識的に避けていた本。安易な日本人論がはやった時期に『タテ社会の人間関係』など発表していた方なので避けていた。
ただ、戦後日本人として初めてマニプールに入った人物であるようで、そのマニプール(ウクルルまで行っている)を含めた見聞録。

まあ、読む前から内容が想像つくのだが、その想像どおりのことが書いてあるのだ。
この種の滞在記、インドとヨーロッパと日本の比較、現地日本人社会や政府官僚との付き合い、などなど、ある種のパターンの原型といえるだろう。
1953年から3年ほどインドに留学し、留学というけれど現在の言葉でいえばフィールド調査でしょうが、その後ヨーロッパにも滞在した人物である。

インド滞在中はアッサム州でガロ族のフィールド調査。家族組織や婚姻をおもな研究対象とする社会調査である。今日の水準からみて、どうのこうのと言ってもしょうがないが、せっかくナガ族の踊りを見ているのに、音階のこともリズムのこともなんにも書いてないのがツライ。ちなみに小泉文夫(1957年インド留学)よりも早くインドに滞在した貴重な調査であったわけだが。
佐々木高明や石毛直道は、悔しくてうらやましくて歯ぎしりしたであろう。中尾佐助がブータンやシッキム、アッサムに行く5年以上前だ。同じころ(1956年)堀田善衛がインドで考えているが、つきあったのはインテリだけである。

日本軍の話を聞くという、後のフィールド研究者がたびたび遭遇する、微妙な感情を記録したもっとも初期の記録である。さいわい当地では日本軍は勇敢で規律正しかったようだ。よかったよかった。

シッキムがまだインドの州になる前の時代のガントック。
ここでは、シッキム王第一王女ククラ姫とおついきあいする。姫に、ブーティア族の調査だったら、ラチェンやラチュン(シッキム)へ行けばよいとすすめられる。しかし、外国人の入域はインド政府から厳禁されている。
さらに、「ごいっしょにラッサにいらっしゃらないこと。私たちと同じ顔をしていらっしゃるんですもの、チベット服を召したら絶対にわからないことよ。ラッサはそれはすばらしいの。」とお誘いを受ける。おお!

後半は、ストックホルムとイギリスでの短期滞在、帰途のギリシャの旅も記されている。

……と読んでいって、これ、以前に読んでいたと気づいた。
最初に意識的に避けていた、と書いたのはウソです。中公文庫のこの種の紀行はずいぶん読んでいるから、本書も読んでいたのだ。記憶がどんどん薄くなっている。まあ、まったく内容を忘れてしまっているよりはマシか。

〈読む前から内容が想像つくのだが、その想像どおりのことが書いてあるのだ。〉と書いたが、以前読んでいたから当然だ。

丸山静雄,『写真集 東南アジア』,修道社,1961

2009-05-05 21:31:58 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
定価800円の豪華写真集。週刊誌20冊分。封切映画4回分。

豪華といってもほとんどモノクロで260ページほど。修道社という社名に似あわず、紀行書や旅行本を出していた出版社らしい。巻末ちかくにパンナムの広告あり。

著者がニューデリーやバンコクの特派員時代にとった写真であろうが、沖縄からアフガニスタンまで含む。
しかし、豪華写真集にしては、紙がもったいないと思うような無意味な写真が多い。
ダムや工場の写真はまだしも、議事堂や舗装道路の写真なんて、当時の読者でも興味ないだろう。遺跡や寺院の写真も絵葉書のように外側から撮ったものが多く、おもしろくもなんともない。

全体として、通行人も車も自転車も住民も少ないという印象。実際、都市の人口がまだ少なかったのだろう。東南アジア=過密・混雑、というイメージはまだなかったのだ。過密の代表としてシンガポールの裏通りが載っているが、二階建の住宅から洗濯物がのびている程度であるから。
東南アジアに比べ、インドのほうが活気があり、近代化されているように見える。プルトニウム抽出工場だの原子力研究所まであるのだから。

貴重な記録といえないこともない写真もあることはある。
平和なプノンペンやカブール、ほとんど人気がないクアラルン・プールやシンガポール、アメリカの援助でできたコンポンソム道路、サラブリからラオス方面への友情道路、などなど。ただし、写真のキャプションがないと、どこが写っているのかわからないけれども。その写真の説明も、ちょっと問題ありの部分があるのだが、まあ、時代の気分ということでよいだろう。

ということで、わざわざ捜すほどではないが、図書館などで偶然みつけたら見ておくように。