東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

一海知義 校訂,鶴見祐輔 『<決定版>正伝 後藤新平』,藤原書店,2005

2009-05-18 21:50:35 | 20世紀;日本からの人々
アンチョコも書評も読まず、まず第3分冊、台湾時代 を図書館から借りる。

どんな読者を対象としているのだ??
表記は新字・常用字体、現代かなづかい。漢文読み下し調の引用文は現代語訳(釈文)付き。ここまでやらないと、読む人がいないのだろうか。
かくいうわたしも、振り仮名はありがたい。もっとルビを多くしてもよかったと思う。
しかし、難解語句の註釈、こんなもの必要ですかね。それよりも、突然出てくる人名や地名を注記してもらいたかった。うるさい注文ですが。

内容はともかく、造本と版組はグッド。手に持って読めるし、文字のサイズも適切。通読可能である。
原本(底本?)は全4巻で後藤新平伯傳記編纂會, 1937.4-1938.7
勁草書房から再刊(国会図書館のサイトによれば復刻)全4冊, 1965-1967

毎日出版文化賞受賞だが、そんなに興味を持つ人多いのか。まさか、嫌中派が本書をひもとくとは思えないし、ビジネスに応用しようというオッサンが読むとはおもえないし、研究者は以前の版で充分だろうし。
ただ、わたしのような読者がぺらぺらめくるには、ありがたい。
本書は身内の側から後藤伯爵を顕彰するために編まれたものだから、事実としての信頼度は高くないだろうが、発行当時のフィーリングをつかむには最適。ばりばりの当事者側からの視点というのは、意外とアクセスがむずかしい。

*****

以下、第一章 台湾民政長官 1898~1906 の4までのメモ。

全体として、ひとりの人物・後藤新平に的をしぼっているので、流れをつかみやすい。
当時の政党、議会、軍部など、概論的なものを読んでもすっきりしないが、本書のような書きかたは、人脈もわかるし、登場人物も活き活きしていて、するする読める。

ただ、どうも話がうますぎる、という疑いも濃くのこる。

土匪招降策・台湾事業公債・三大事業と三大専売事業、こんなにうまくいったはずないのだが。
ほんとに、台湾経営が黒字になったのか。この点、本書だけで判断するのは危険と思われる。

とくに驚いたのは、簡単にかかれている土地調査(p302-11、たったの10ページ)
これは、島内の完全測量、土地台帳の整備、地租改正のことなのである。
ヒデヨシから明治政府まで、面積が違うとはいえ、日本で何百年もかかったことですよね。それが、こうも簡単に解決して、反乱も抗議も起こらなかったとは信じられない。

そのほか、幣制の整備、アヘン専売、タバコ専売、など、こんなに簡単にできたのか??

*****

もうひとつ、重要な点は(少なくとも読んだ限りでは)、日本内地からの農業移民はまったく考えられていないこと。
最初から住民がシナ人であり、彼らが生活し生産し、内地人が統治する、という前提になっていたようだ。

なお、土匪討伐の経緯でも描かれているとおり、この場合の土匪とは、すべて華人である。〈土人〉というのは、華人住民であることに注意。
まだ、オーストロネシア語系の原住民(当時の言いかたで、生蕃)のことはまったく考慮の外。

丸山静雄,『インパール作戦従軍記』,岩波新書,1984

2009-05-15 22:13:18 | 20世紀;日本からの人々
著者は1944年7月20日から退却行を開始する。すでに7月3日に作戦中止命令が大本営からだされ、7月10日から撤退を開始していたのだが、連絡がとどかなかったようだ。

チャモール→シボン鉄橋→モレー→カボウ谷地(チンドウィン河西岸)→クンタン→モレーへ引き返す→モレー渡河点→ヘシン渡河点→ヤナン渡河点→シッタン(チンドウィン河の渡河点)
と、著者は一命をとりとめる。
この部分を読んだかぎりでは、とても記録をつける余裕もなく、ほとんど記憶で書いているようだ。
退却した兵士も同様であって、後世の記録にはほとんど残っていない。一番難局を体験した記録は残らないのである。ともかく、前線にいた兵士の大部分は死亡したようだ。正確な死者数は不明だが、そのうちの大部分はマラリヤや赤痢、栄養失調などの病死である。

悪名高い牟田口中将第十五軍司令官の無謀な作戦といわれる。が、この段階の補給・兵站・航空戦力を考えると、誰がやっても同じような結果であったろう。かといって、兵隊を遊ばせておくわけにもいかず、ようするに、これだけ根性を出しましたという言い訳にするための作戦であったようだ。

特定の個人が無能だったとか、作戦計画がまずかった、といっても始まらない。ようするに、兵器と糧食と移動手段が優れているほうが勝つのである。それでも英印軍の損耗も死者一万五千、傷者二万五千であるそうだから、ようするに、こういうところで雨季に戦闘をやれば、これぐらいの死傷者が出るということなのだろう。
幸か不幸か作戦地域は、ほとんど住民がいない森林地帯であった。だから、略奪も強姦もおこらず、食料の自活もできず、兵士はどんどん衰弱して死んでいったのである。

こうした日本軍のありさまを見て、ビルマ軍将軍アウンサンは1945年3月27日(「盤作戦」イラワジ会戦のあと)、日本軍の指揮系統を離れる。
つまり、牟田口司令官らの作戦がビルマ独立に貢献したともいえるわけだな。

******

順序が前後したが、著者が取材した経緯について。
このインパール作戦では、各新聞社は各作戦部隊に割り当てられていた。

弓兵団(第三十三師団)は毎日新聞
祭兵団(第十五師団)は読売新聞
烈兵団(第三十一師団)は同盟通信

朝日新聞は第十八師団のフーコン作戦を割り当てられていて身動きがとれず、インパール作戦の割り当てはなかった。そこで、大阪本社・社会部の著者が、朝日だけ除外されるのは納得できない、と取材を申し込んだ。
しかし、現地ではじゃまもの扱いされ、取材や記事通信はほとんどできなかったようだ。(つまり、著者はウソ記事を配信しなかったわけで、そのことが、戦後にこのような著作を書く自信につながっているのだろう。他の作戦では、けっこうウソ記事も配信したと述べている。)

1944年3月にラングーン到着、その後本書のインパール作戦終了後、メイミョウで休息し、断作戦を取材するが、記事はほとんど発信せず。
仏印にいってからの「明号作戦」に関しても、もはや記事を載せる余裕が本土の本社にない状況になっていた。

ともかく、40年以上たってから、他の資料や著作を参考したうえでの著作であるから、当時の1944年の記録ではない。

たとえば、p53-64 に書かれているような、ナガ族(タイ語族を話す民族)についても、1944年当時に見聞したこともあるだろうが、その後の知識も加えられているだろう。当時の記者がこのような観察をしたのは貴重だが、本書の内容が実際の当時の観察だったかどうかは疑問。

というわけで、誰が書いても正確な記録とはならなかったろう。
ただ、全体としてインパール作戦とその前後を知ることができるコンパクトな内容である。

岡野薫子,『太平洋戦争下の学校生活』,平凡社, 2000

2008-12-06 18:48:29 | 20世紀;日本からの人々
新潮社 1990年刊の再刊,平凡社ライブラリー版。

幼いころに父親を病死で亡くし、母子家庭であった著者の戦時中の記録。しかし、都会の中産階級の暮らしであり、下層の経験とは違うし、農村や外地の暮らしとも全然異なるであろう。
なにしろ、著者の大伯父・岡野繁蔵という人物は、オランダ領東インドで、大信洋行という貿易業・デパートを経営していたという桁違いの人物。(神戸大学のデジタルアーカイブで検索すると、この人物に関する新聞記事やインタビューが読める)
著者の家族は、この大伯父から援助を受けていた。
ガイジンが国外退去した後の野尻湖の別荘を管理する、などという時流を見る目がある人物で、著者は大伯父の招待で昭和19年の正月にスキー旅行!

小学校卒業後、女学校に進学するのが当然と思うような家庭である。
それに生活環境もよく、都心の家なのに庭があって、道路で遊べる時代だったのである。
小学校・女学校の級友や恩師とも、よい関係であったようで(よい関係すぎる、教育者の立場からの記述が多いなあ)、本書執筆に際してもアンケートをとったり、思い出話を聞いている。1943年(昭和18年)ごろまでは、明るく楽しい学校生活であり、敗戦や空襲など真剣に考えられないのんびりした生活だったのである。

大恐慌の年1929年に生まれた著者の記憶は1930年代前半から始まる。
日常の思い出や感想を記すとともに、大事件の報道、歌や映画の思い出、勅語や詔書、法規や制度がほどよい分量で挿入される。(この分量が重要で、あまりに引用ばかりだと、うんざりするし、個人の思い出話というのも単調なものである。)

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われわれ1950年代生まれの者は、この種の知識は映画か小説からしか得られなかった。ほどよくまとまった本は1980年あたりまでなく、従軍記は被害者意識ばっかり、内地の記録は食糧難の話ばかり、戦記や歴史は単調な事実の羅列ばかり、という状態であった。

冷静にこの時代が記録されるようになると、今度は読者の側が、基本的な知識がない、という状態になった。
上下水道もガスもないし、家風呂がないのがあたりまえなのに、それを悲惨な状況と思ったり、義務教育期間が短いことを後進国の欠点と考える。
さらに、記録する側の記憶が歪み、悲惨さが強調されたり、逆に昔はよかった風になると、正確なイメージが浮かばない。

そんなわけで、昨今、〈ほんとうはこうだった〉〈真実の日本は……〉てな調子の論議もおこるわけだが。
本書ぐらいの分量で、本書ぐらいの冷静な筆致がちょうどよいと思われる。

当時の小学生、女学生が当然のこととして知っていた勅語・歌・ものがたりが載っているし、授業や集会、掃除、行事についても詳しい。
〈ニッポンジンとして……!!〉と力む前に、勅語や詔書ぐらい暗唱できるように!

前項のトピックにひきつづき、日本列島でのヤプーの飼育記録であります。前項、『アーロン収容所』や『家畜人ヤプー』に対して、雌ヤプーの側からの反論・批判はないんでしょうか?わたしがさがせないだけで、いっぱいあるのだろうか?

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こまかい話だが、本書の中で一番驚いたのは……(p325-7)

蚕というのは桑の葉を食べて育つ昆虫であるが、東南アジア各地には、別の食性を持つ蚕の仲間が多数存在する。(日本にも)
その中で、アッサム原産で、ヒマ(ひまし油を採る樹木)の葉で育つヒマ蚕というものを、著者は育てる。
学校の先生からもらって、飼育日記をつけていた。

そのヒマ蚕(正式名称は恵利蚕)は、繊維原料の減産を補う目的で鐘紡が研究所を設け、高松宮殿下も飼育していると報道されていたんだそうだ。ジャワなど南方での衣料材料として有望視されたんだそうだ。

ほんとに飼育に成功して繭ができる直前まで育てた著者はすごい。(観察ノートは正体不明の外部の人間に没収された。女学生の研究成果を参考にしようとしたのか?何か別の意図か?)
それにしても、現実離れした政策はともかく、外来種による生態の攪乱など考えなくともよいのんびりした時代であったのだ。

会田雄次,『アーロン収容所』,中公新書,1962

2008-12-05 21:27:48 | 20世紀;日本からの人々
現在は中公文庫で入手可能(字句の修正などあるようだが、大幅な改訂ではないようだ。)

まず、わたしも発行当時に読んだわけではないから、刊行当時の反応について。

意外なことだが、本書は、その書き方があまりに軽く、ユーモラスなので反感をもたれたらしい。
敗戦後すでに17年たっていたわけだが、被害者意識だけの苦労話、あいつが裏切った、こいつが汚いマネをした、という罪のなすりつけあいを垂れ流した記録が先行したようだ。

さらに、意外だが、(以下わたしの主観が入るが)、アメリカ人は軽薄な物質文化だけのやつら、ロシア人は共産主義という狂信的な主義にそまった野蛮人、シナ人は……(以下略)という、固定観念・民族差別があったにもかかわらず、最大の害悪であるイギリス人に対しては、紳士的・合理的・冷静・秩序をおもんじる・といった肯定的評価がまだまだ残っていた、ということである。 というか現在でも同じような勘違いが跋扈している。

そうしたなかで、本書は、客観的に捕虜収容所の生活を記録し、イギリス人とはどういうものかを暴いた代表的な作品。何千冊、何万回もくりかえし、引用、論評されているであろう。

ええと、若い読者にいっておきますが、本書の中隊は、ひじょうに例外的。
英軍側が信じなかったように、大学卒の人間が一兵卒で参戦しているなんてのは、めったにないことだ。
そのうえ、この中隊は町場の旦那衆とか、職人とか、ふつう戦場には駆り出されない階層の人たちがいっぱいいて、とても戦場で戦力になるような部隊ではない。
敗戦直前のごたまぜ即席編成部隊です。

さて、何度も何度も論じられているエピソード、著者ら収容所の日本兵が白人女性に屈辱的な扱いを受けた話について。
わたしも、最初は著者の憤懣に同感したし、著者の分析、白人以外を動物扱いする文化的背景を西洋人たちが確固として保持している、ということに同意していた。

しかし……。
現在では、ちょっと違う感想を持っている。
本書で描かれる収容所での白人女性たちも、暗い抑圧的なブリテン島からアジアにやってきて、解放的な気分になっていただけではないか。勝者対敗者という力関係があったのは否定できないが、無邪気に楽しんでいただけではないか。
その白人女性たちに、屈辱を感じたのは、白人女性たちの具体的な行為ではなく、日本人側の精神状態ではないのか、と思えるのだ。(よくいわれるように、日本兵も平気で人前でハダカになって水浴びしていた。暑い地域では当然のことだが、西洋人側から野蛮と言われた。)

現在でも、〈どこでもハダカになるバカンス客〉〈みだらな格好をして現地の習慣を尊重しない観光客〉、といった非難はよくあるし、さらに〈ふしだらな日本人女性旅行者〉というのも繰りかえし唱えられる文句だ。
だけども、そういう非難・文句を垂れるのは、ようするに羨ましいだけではないか。
本書で描写される女たちも、本国に帰れば、淫らな女、イギリスの尊厳を傷つける女、と言われたかもしれない。

本書の中で、この〈日本人兵士の前で平気でハダカになる白人女〉というエピソードだけが強調されるのは、読む側に暗い欲望と劣等感があるためだろう。
そういう意味で、この点を、つまり読者のコンプレックスを白日の下に曝した著者は先駆的であった。ただ、それを向こう側、白人側だけの問題として、〈西洋人なんてこんなもの〉で済ませるのもウソだし、問題を隠蔽している。

植民地的状況下でのハダカの問題、性の問題は、果てしなく広いテーマであって、わたしのブログでも何回かとりあげたが、問題が多肢にわたり、まとめて論じることは不可能。

*****

『家畜人ヤプー』の作者(もしくは作者の代理人??)である天野哲夫氏死去の報を読み、本書を取り上げた。
あの本も、植民地的状況・キリスト教文化とアジア・白人と黄色人、といったさまざまな角度から論じてみたいが、今、余裕ない。

*****

ただし、一番最初に書いたように、本書『アーロン収容所』は、飄々としたユーモアと意外にのんびりした収容所体験を読むべき。
前項『「ベンゲット移民」の虚像と実像』などと同様、東南アジアにおける日本人・日本移民という広い視野を忘れないように。

早瀬晋三,『「ベンゲット移民」の虚像と実像』,同文舘,1989

2008-12-05 00:05:48 | 20世紀;日本からの人々
避暑地の恋、高原のサナトリウム、テニスコートにティーハウス、軽井沢からシムラまで、アジア各地に点在する高地の植民地宗主国人のリゾート地、そのルソン島版がバギオであり、そこまでの道路が通称ベンゲット道。
その工事と日本人移民をめぐる事実と虚構を論じた研究書。

1901年、アメリカ合衆国がフィリピン諸島を領有してすぐに工事は計画された。
当初の目論見を大幅に超過した予算と工事日程、その中で日本人労働者の募集が行われ、〈日本人移民によって完成した道路〉という伝説が生まれた。

まず、この20世紀初頭の状況だが、日本人出稼ぎ労働者は単純労働に従事するだけの低賃金労務者なのである。後の農業移民や独立商売人とはかなり様子が異なる。
さらに、アメリカが日本人・中国人の契約労働者を規制していた時代なのである。日本人出稼ぎ労働者は、曖昧な地位のまま、移民周旋業者によって送られ、劣悪な環境の中で工事現場で働き、ある者は病死し、ある者は離脱するなか、完成後にダバオに渡りマニラ麻栽培で成功した者もいた。
その後の農業移民の活躍により、この通称〈ベンゲット移民〉は勤勉な日本人移民の先駆とされる伝説が生まれたが、本書は一次資料から、その実態を考察し、さらに、虚構と現実のズレを考察する。

もとより資料の不備や散逸があるが、おおよその概略としては、この工事は決して日本人移民が中心ではない。
フィリピン人が多数であったし、アメリカ人(この場合のアメリカ人というのは、黒人や中米諸国からの労働者を含む)、中国人も多かった。
その中で、日本人の美徳とされる時間厳守、集団行動が後に過大評価されるわけだが、労働者の質としては、特に優れたものではなかった。死亡や病気が多かったのは、アメリカ当局の対応の悪さもあるとはいえ、日本人労働者の衛生観念の無さ、現地の気候への順応力の低さ、経済観念の無さ、そういうことが影響している。
〈怠惰なドジン〉といわれたフィリピン人のほうが、衛生観念や健康管理の面で優れていたのである。(自分たちが生まれた土地だから当然ですが。)

その後の〈ベンゲット移民〉伝説は、1930年代の南進論、大東亜共栄圏論議の中で増殖していく。
さらに戦後も映画やマスメディアで(それに本書には記されてないが、観光ガイドなどでも)伝説が無批判に繰り返されてきた。
詳しいことは本書を読んでくれ。

で、大筋の枠組みとしては大東亜共栄圏時代から現在まで続く、発想というか、思考の枠組み、偏見がある。

つまりだ、日本人移民と中国人移民は、他からみれば、(よい意味でも悪い意味でも)同じようなものなのだが、中国人移民と利害が拮抗しているという認識がない。
アメリカと日本の間の関係だけが意識されている。
さらに、現地の住民が存在しないかのように考える。地元のイゴロット人と婚姻関係を結んだ者は、あっぱれ日本男子などとは思われず、堕落した非国民とされる。
あるいは、工事現場にはインド人、アメリカ・インディアン、黒人、ラテンアメリカ系の労働者もいたのに、まったく存在が無視されていく。

早急な結論はともかく、当時の移民状況、対米関係を知る逸話が冷静に記されているので、どうぞ一読を。

『水木しげるのラバウル戦記』,ちくま文庫,1997

2008-06-08 11:15:17 | 20世紀;日本からの人々
1994年単行本。

ラバウル滞在中に描いた絵に1949年から51年ごろに文章とつけたものが最初。次に1985年発表の『娘に語るお父さんの戦記・絵本版』(河出書房新社)の絵。さらにトーマ滞在中に描いた絵に解説。という三部構成。

つまり、日本に帰って復員してからの絵ではなく、現地で描いた絵と回想である。

うーん、すごい人。今さらわたしなどが言うもでもないが。とんでもなくズレた人である。
しかし!若い諸君よ、この水木先生のような、精霊や妖怪と交際できるような人でも、やはりその代償に腕一本差し出さなくてはならなかったのである。
凡人が水木先生のような体験ができるなどと、浅はかな考えを抱くべきではない。軍隊生活に適応しようとして、たちまちマラリアか赤痢かリンチで死んでしまうよ。
ともかく稀有の記録。読むべし。

岡本達明・松崎次夫,『聞書水俣民衆史 第五巻』,草風館,1990

2008-01-18 18:07:08 | 20世紀;日本からの人々

ともかく読んでみてくれ、という以外ない圧倒的な一冊。
副題「植民地は天国だった」。

朝鮮赴戦江のダムと発電工事、咸鏡南道の興南工場建設、朝鮮窒素コンビナート、移住、労働、社宅の生活、朝鮮人との関係、敗戦、脱出、正式引揚げまでを生存者からの聞書で構成する。

あらゆるルポルタージュ、オーラル・ヒストリーに共通することだが、ひとびとが生々しい記憶をもっている時点では、口を開きたがらない。
やっと話を聞くようになると、証言者がどんどん亡くなっていく。
本書の証言者も、現在ほとんど鬼籍にはいられている。

読み方は百とおりもあるだろうが、とりあえず、以下のこと。

ダムの建設はT.V.A.に匹敵する120億kw、興南工場だけで当時の日本の内地の発電量の四分の一を消費。

別世界のような建設工事、労働現場。これが近代化ということか。

水俣で食うや食わずだった労働者が朝鮮へ押しよせる。正社員と雇員、日雇までの階層構造。それに社宅の奥様の生活、あぶく銭をもった若い工員の生活。

ソ連軍の侵入から敗戦、武装解除、工場再開、脱出、引揚げまでのこと。
つくづく、これは生き残った者の証言と思い知らされる。体力のない者はどんどん死んでいく。金のない者も死んでいく。
朝鮮人とつき合っていた、友人もいた、という証言があるのは、そういう人が生きのびる可能性が大きかったということでしょう。
シベリアへ抑留された社員や、いちはやくトンズラした憲兵などは、この聞書にはあらわれない。そういう者たちもいたのだ。

興南工場周辺の人々はソ連軍の攻撃を予測していなかったし、当時の日本国内のようすも知らなかった。敗戦も予期していなかった。
反対に、この咸鏡南道のことは、水俣在住の人々以外知らなかったということ。
軍需機密扱いであったし、戦後は会社の公的記録や偉人伝の中で断片的に記されるだけだった。

京大探検者の会 編,『京大探検部 【1956-2006】』,2006

2007-12-20 21:39:04 | 20世紀;日本からの人々

発足当初の目的は、とにかく日本を脱出すること。学術調査もパイオニア精神もその後のことで、まずビサを取得し、資金を集め、海外へとびだすこと。
これだったのだ。

ということは、海外渡航が自由化され(あくまでも手続き上で、資金の問題は残る)、文部省の海外調査予算ができたあとは、初期の障害はなくなり、探検隊の意義は変わってしまった、ということ、そういうふうにわたしは読んだ。

設立までのトラブルは本多勝一が執筆しているように、山岳部的な岩登り派との確執があった。
それから、今西錦司という人は、やっぱり桁はずれというか、ヘンな人で、この人は人間のいない場所でも一番乗りすることに意義を見出すタイプであるようだ。
探検部全体に多大な影響を与えた人物であるが、後の各隊員が活躍する分野とは違う方向の人物である。そういうこと。

高谷好一が初代プレジデント(部長のようなものか)だったというのは、初めて知った。イランへ行っている。
高谷好一を含め、本多勝一・石毛直道など後に東南アジア方面でさまざまのフィールドワークをする連中が初期の探検部員である。その初期のようすを知る上でおもしろい本。高谷好一は執筆していない。

イスマイル・マラヒミン,『そして戦争は終わった』,その2

2007-11-10 20:00:41 | 20世紀;日本からの人々
これからがほんとうの書評・感想だ。
ハジ・ゼンとその家族は、その名のようにメッカへの巡礼もすませ、上の娘たちは嫁いでシンガポールに住む、というネットワークの中で生きるムラユ(マレー)文化圏の金持ち、ゴム農園経営が戦争のために停滞している富豪の家である。
アニスは、母系社会ミナンカバウに生まれたでかせぎ行商人、故郷のムスメと結婚できず、でかせぎ先のムスメと婚姻をめざす。(ここいらへんが、ミナンカバウの家族を知るのに最適な例かも)
ジャワからきたクリウォンも、ハジ・ゼンのムスメとの婚姻を望む。

こうした、移動・行商・婚姻のネットワークが乱される中でおきた関係が、この小説の中心ドラマだ。
同じように、家族関係や経済関係が乱された日本人やジャワ人のことも(オランダ人のことも)描かれる。
しかし、本筋は、リアウ州・トゥラタック・ブル村に生きる人間の結びつき、家族とのトラブルや男女のドラブルである。
異常な話にみえる、日本内地大阪のできごとや、ジャワ島プルウォクルトやパチタンのできごとは衝撃的である。しかし、この物語の中で重要なのは、やはりこの小さい村の日常の小さいできごとである。

日本人の描き方がおかしい(事実、おかしな描写も多い)、オランダ人の描き方がワンパターン、ジャワ人の描き方がステレオ・タイプ(と、いう批判はなかったのか?)、それはもっともであろうが、この小説は、リアウ州カンパル・カナン川流域の村の生活を描いた物語である。その細部を楽しむのが、まず一番である。

イスマイル・マラヒミン,『そして戦争は終わった』,1991

2007-11-10 17:18:56 | 20世紀;日本からの人々
高殿良博 訳、井村文化事業社。原書1979年、インドネシア語小説。

場所;インドネシア、スマトラ島、リアウ州、トゥラタック・ブル(カンパル・カナン川流域)
時;皇紀2605年8月半ばの月曜から木曜まで
登場人物

木口軍曹
小瀬中尉
宍道少佐
日本兵10名ほど
サティヤ(小瀬中尉の世話をする女、ジャワ島プルウォクルトのムルシ村出身)

ウィンペ(オランダ王国軍軍曹、元ボクサー、ジャカルタで育つ)捕虜
ファン・ロスコット(オランダ王国軍中尉、牧師助手)捕虜
オランダ人捕虜は31人

クリウォン(オランダ人捕虜といっしょのロームシャ、ジャワ島パチタン出身)
ハサン爺さん(15年前から村に住んでる流れ者)
ハジ・ゼン(村一番の金持ち)
ハジ・ドゥラマ(ハジ・ゼンの妻)
レナ(ハジ・ゼンの末娘、19歳未婚)
アニス(ミナンカバウ人の行商人、ブキティンギ出身で村に滞在)
ハジ・ウスマン(ワルンを営む村人、アニスがここに住んでいる)

「森」という名の奥地の村、100人ほどの男女が住むといわれる。

爆撃も戦闘もない静かな村の四日間を描く。近くには、プカンバルからシジュンジュンまでの石炭運搬用鉄道があるが、この村は工事現場から離れ、ロームシャの集団もいないし、日本軍も小隊が駐屯するだけ。

ラマダン月、礼拝や村人の日常生活が描かれる。
一方、村に滞在する日本軍将兵、オランダ人捕虜、ジャワ島から来た者たちの過去が、場面場面で回想の形で語られる。
どうも戦争が終わったらしいという噂が、ミナンカバウ人商人らの間にひろまる。日本が勝ったのか、アメリカが勝ったのか、和平か?これから売れる商品はなんだ?
一方、オランダ人捕虜たちは、「森」と呼ばれる奥地への脱走を計画している。

翻訳されたインドネシア語小説では、すこぶる読みやすい。事件や登場人物の描写も起伏があって簡潔。日常的風景と登場人物の過去がからまって、読ませる一編。

訳者のあとがきもおもしろい。
訳者が軍事専門用語のチェックをお願いした北埜忠一氏からの日本兵の暴力描写にかんする義憤と抗議の手紙も載せられている。

でも、この作品、空想物語ですから……。〈一度行って、村の女と寝たら、戻ってこれない村〉なんてものが出てくる話なんだが。
なお、英訳も出版されており、オランダ人の描き方が一方的だという批判もあるそうだ。ふーむ。

Ismail Marahimin, Dan Perang Pun Usai, 1979
英語版は、
John H. MaGlynn, And the war is over, Luisiana State University Press, 1986. 現在、Grove Press, 2002 で入手可能のようだ。