東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

安丸良夫,『神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈 』,岩波新書,1979

2009-12-07 20:00:46 | 名著・話題作 再読
30年前の刊行であるから、その後の研究の成果は膨大であると思われるが、コンパクトな名著として現在もマストだと思う。(欲を言えば、もうすこし振り仮名を多くしていただきたかった。恥ずかしながら読めない字がたくさんある。普通の辞書に載っていないのだよね、固有名詞は)

**Ⅰ 幕藩制と宗教 **
 1 権力と宗教の対峙
 2 近世後期の排仏論

Ⅰは前史としての水戸学、一向一揆、キリシタン禁制、荻生徂徠、太宰春台、中井竹山『草茅危言』、会沢安『新論』などを概観。

**Ⅱ 発端 **

 1 国体神学の登場

第一次官制と神祇官、復古の幻想、御巫・卜兆の除去、慶応4年の神仏分離
事例;比叡山麓坂本の日吉山王社(ひえさんのう)
事例;興福寺 岩清水八幡宮 北野神社

 2 神道主義の昂揚

事例;楠社 白峰宮 招魂社
事例;宮中祭儀における神仏分離
東京遷都 浦上キリシタン
東西本願寺の動向→朝廷側に

**Ⅲ 廃仏毀釈の展開 **

このⅢ部、辺境に起こった事例としておもしろい
事例;津和野藩 隠岐 佐渡 富山藩 松本藩
事例;苗木藩(美濃の山間の一万石ほどの小藩)
政府の政策よりも先走って廃仏毀釈を断行。真宗門徒の抵抗。
蛭川藩では、廃仏毀釈が徹底した。

と、いうように辺境の地では廃仏毀釈が先行した例があるが、僻地の小藩だからこそ可能であり、富山や松本では成功しなかった。

**Ⅳ 神道国教主義の展開 **

 1 祭祀体系の成立
明治2年の改革から
教部省の成立、あったま悪そうな官僚たちが、祭政一致・神仏分離を画策するが、現実の政策に追いつかない。

事例;伊勢神宮の改革
事例;神宮動座への抵抗
現在の神宮祭祀が確立

 2 国家神の地方的展開
明治4年5月14日「官社以下定額及神官職員規則等」
明治4年3月 神武天皇祭を「海内一同遵行」
祝祭日の制定
人日(じんじつ)上巳(じょうし)端午(たんご)七夕(たなばた)重陽(ちょうよう)の五節句を廃止。
元始祭(1月3日)皇太神宮遥拝(9月17日)神武天皇祭(3月11日)の設定
大麻配布
天皇・皇室の洋風化

**Ⅴ 宗教生活の改編 **

 1 ”分割”の強制
この部分は修験道について。本書の内容の中でいちばんハッとした。
つまり、もともと仏教的要素が強い山岳信仰をむりやり「神社」にしてしまったのである。”分割”って言ったって、もともと”神道”の要素なんかないのである。
わたしは道教の要素も強いと思うが、現在の研究ではどうなっているんだろうか?

事例;吉野山蔵王権現
事例;出羽三山
事例;富士講 仙元大菩薩
事例;竹生島(琵琶湖) 秋葉山(遠江国)
事例;神田明神(平将門の御霊を祀る)

 2 民俗信仰の抑圧

神社改め、つまり小さい祠や氏神の統廃合
民俗行事の抑圧。本書が記するように順調に進行したかどうかは少々疑問だが、ホームレス、エンターテイナー、マジック、ギャンブル、ライヴシアターの抑圧。

**Ⅵ 大教院体制から「信教の自由」へ **

 1 大・中教院と神仏合同布教
明治4年9月、島地黙雷(西本願寺派僧侶)の建言~キリスト教対策
教導職と三条の教則~仏教側優位、神道側劣位

 2 「信教の自由」論の特徴
仏教勢力は経済力でも、理論や人材の面でも神道勢力に負けるものではなかった。特に真宗は対抗的な論理を持ち、近代化に対応した。

また、政府の中枢にある者も「信教の自由」を模索した。当時、どの程度の認識があったのか細かい分析が必要だろうが、大勢として、信教の自由に向かわざるをえない状況であった。
島地黙雷のような洋行の経験を持つ知識人たちは、信教の自由、政教分離の原理を理解し、さらにナショナリズムに向かう傾向を持ちはじめた。

岩倉使節団~条約改正
真宗五派の大教院離脱(明治6年10月)

というわけで、つかのまの廃仏毀釈であったわけだが、この混乱が民衆宗教を混乱させ、仏教の改革をまねき、また、新たに発明された神道も定着することになるわけだ。

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「本書の発行年が古い(1979年初版)こともあり,現代的な観点からはいささか不充分な点が見られるものの,本書は日本における世俗化の歴史を通史的に見通す上で今なお示唆に富む文献である」と、東大の「共生のための国際哲学特別研究Ⅲ」「世俗化・国家・宗教」セッション(2009.07.01)でも報告されているので、安心しました。

別に権威にすがるわけではなく、最新研究動向ってのはシロウトにはなかなか近寄りがたいので。このセッションは羽田正氏が中心らしい。岩波新書創刊70周年記念のオススメでも推薦していたのは大塚和夫氏だけだった。中東・イスラム研究者のお墨付きだぞ!

安丸良夫,『出口なお』,朝日新聞社,1977

2009-12-05 20:16:11 | 名著・話題作 再読
名著である。

朝日選書として1987年に再刊。
2009年 『出口なお ―― 女性教祖と救済思想』,洋泉社MC新書として再刊。わたしはMC新書版は未見。なぜ今まで他社の文庫に収録されなかったのか?

大本教は明治後期から大正時代には、ジャーナリズムからも学問の側からも、完全に蔑まれていて、まともな研究の対象にならなかったのはもちろん、まともな報道や論評も皆無に近い。
1920年代30年代、二度のいわゆる大本事件があり、思想弾圧の事例として扱われることが多い。しかし、宗教として宗教団体として考察されるのは、
乾孝・小口偉一・佐木秋夫・松島栄一の共同研究による『中央公論』連載の「教祖誕生」。
のちに、
乾孝・小口偉一・佐木秋夫・松島栄一, 『教祖 庶民の神々』, 青木書店, 1955
そして、
村上重良,『近代民衆宗教史の研究』,法蔵館, 1958

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さて、著者は大学院生時代にアルバイトとして『大本七十年史』の編纂に参加した。そこで原資料に接するとともに、出口なおというひとりの女性の生涯に興味をいだく。
歴史学の方法論、宗教社会学の立場、無学の老婆の「筆先」という資料をどう読むか、などなどいろいろ困難なバリアがあるが、ともかく本書を書きあげたわけだ。
ミイラとりがミイラにならず(研究者が信者になってしまわず)、しかも信者や教団に共感をもち、さらに教団側からも排除されない(資料の閲覧が許される)ように研究するのは、何重ものハードルを越えなくてはならないようだが、それらのハードルは楽々クリアしている著作でしょう。

こんにちの宗教社会学の方法、あるいは歴史学の研究法からみて、本書の水準がどれほどの位置にあるか、わたしはわからん。
しかし、伝記として、宗教を論じた著作として、圧倒的なパワーがある。

なお、本書執筆時点では刊行本が少なかった「大本神諭」は、その後教団の正典版のほか各種の書籍として刊行されている。
NACSIS Webcat で調べると、「大本神諭」エスペラント語版は民博でしか所蔵していないな……。

http://www.oomoto.or.jp/Japanese/jpOnisaburou/umesaoueda.html
「おほもと」公式サイト掲載の、梅棹忠夫と上田正昭の対談

こんなにもちあげるのもなんだかなあ……

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以下、たんなる感想ですが
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本書がパワフルで感動的なのは、描かれる出口なおという人物の力でもあるが、最近のみょうにアクロバティックな理論やタームを使わずに、いわば古臭い方法でアプローチしているせいではなかろうか。

第1章の「おいたち」から第3章の「内なる声」までの、なおの生活史とバックグラウンドを描いた部分がまず圧倒的である。
宗教を論じる場合、社会経済的な要因にばかりかかわったり、心理学的なアプローチをとった著作は、読んでいてシラけてしまうのだが、本書の描写は、小細工なしのストレートな筆致で感動的だ。(第1章で、エリクソンとか土居健郎を持ち出しているのは、少々鼻白むけど)

だからこそ、グローバリゼーションに揺れる地域社会の混乱がよくわかる。

11人の子を産み、そのうち8人を成人まで育て、頼りない夫が死に、親戚縁者や娘の嫁ぎ先とトラブルを起し、借金に追われ、近隣の住民から疎まれ、ついに発狂する。もちろん、大本教では発狂などと言わず、神がかりと言っているわけだが。

発狂後の「筆先」では、積年の恨みや怨念が爆発するように、親戚や娘、息子たちを罵る。
後に「大本神諭」としてまとめられた教典は、終末思想や排外思想として読める部分が多く、いわゆる教典としての体裁を整えているのだが、神がかり直後の「筆先」はまわりの人間に対する呪詛のかたまりだ。グローバリゼーションが最初に破壊するのは家族、という見本のような話だ。

あっと、無学文盲の老婆が突然文字を書き出した、という逸話があるようだが、本書の分析によれば、それほど異常なことではないし、以前からなんらかの読み書きはできていたようだ。

大本教成立の背景となる綾部は、田畑もあるが、なおの夫・政五郎のような職人もおおく、賃金労働者も多いところ。
なお自身や娘たちも、糸引き(繭の糸を人手で挽く)や製茶のような近代産業のパート仕事をしている。また、なおが饅頭を売ったりボロ買いをして暮らしをたてた、というのも都市的な生活環境があったればこそ可能なことである。
また、喜三郎(のちの出口王仁三郎)が牛乳製造をしていたとか、娘の夫が人力車夫というのもモダンな職業である。

一方で、これが前近代的なものか近代的な現象がわからないのだが、博打打ちやヤクザが往来し、「不具者」や自殺者が多かった。憑きモノに憑かれる者も多く、その憑きモノを退散させる祈祷師も多かった。

そういう背景があったわけである。

第4章・第5章では、神がかりのあと、金光教の分派のような形で、民間信仰や迷信を取り込むなかで、金光教と分離し独立した教派になっていく過程が描かれる。
このへんを読むと、なおがアクセスできた信仰や世界観というのは、実に狭くて凡庸だということがわかる。凡庸だと言っても貶めているわけではない。
世間的な病治し、うしとらの金神とか竜宮の乙姫とか達磨といった凡庸なキャラクター、既成の教団のイミテーション、こういったものからしか新しい宗教は生まれないのだろう。

第6章で、なおの混沌とした世界観を翻訳すべき人物、喜三郎=後の出口王仁三郎が現れる。
王仁三郎が出現しなければ、なおも、ひとりの発狂した老婆として歴史の闇に埋もれてしまっただろう。だからといって、王仁三郎が大本教を創ったとはいえないところが、宗教のおもしろいところである。

著者・安丸良夫は、なお自身の「筆先」と王仁三郎の著作の齟齬を読みとる。ここいらへん、直筆資料にあたった著者の強みであるが、少々読み込みすぎの感じも受ける。
なおの「筆先」に強烈な近代批判があることはたしかだが、はたして、国家とか天皇というもの概念として持っていたのだろうか。

最後に日露戦争後の話が説かれる。
なおの予言した「立直り」は起こらず、日本は日露戦争に勝利し、ますます金と利己主義と外国かぶれの世の中になっていく。

そして、教団の理論も組織力も王仁三郎を中心としたものに変わっていく。
実は、この時期が教団としての大本が確立した時期なのだが、その理論は、なおの原初的な呪詛や神がかりではなく、国家神道の理論を折衷した知的(?)なものになっていく。

大正7年(1918年)、なお、数え年83歳で死す。
よくまあ、こんな生活をして、83歳まで生きたもんだ。

大正10年(1921年)第一次大本教事件

藤谷俊雄,『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』,岩波新書,1968

2009-12-04 19:36:31 | 名著・話題作 再読
当時つまり40年前としては、スタンダードかつ簡潔な一冊であったと思われる。たぶん、現在はもっと緻密で、異なる観点からの研究があるだろう。

第3章 近世「おかげまいり」の実体

が、各種史料から、「おかげまいり」の参加層、参宮圏、人数、それに要した費用や物資の流通、踊りや歌、藩や政府の反応、知識人の記録態度などなどを分析する。

この部分が本書の読みどころ。一般の人は、だいたい本書のこれらの記述で「おかげまいり」ということを知ったのではないか。

当時1960年代の宗教観というのは、つまり、宗教とは民衆の闘争エネルギーを空振りさせ、体制を安定させるものだ、云々という考えである。「宗教はアヘンである」ということですね。
また、祝祭的・儀礼的な宗教よりも、思索的・理性的な宗教のほうが、格が上という意識がはっきりとあった。

ただ、本書の分析には、すでに、宗教行為も重要な経済行為であり、流通や交通の発達を基盤にしている事実が示されていると、わたしは読む。

第4章 慶応の「ええじゃないか」

は、過去の「おかげまいり」を人為的に作り出した幕末の倒幕・攘夷運動と関連させてみる分析が紹介されている。
ここでも、「ええじゃないか」は、ブルジョワ革命に結びつかない不毛な騒動という見方が一般的であったようだ。

土屋喬雄,「維新史上のナンセンス」,1931
羽仁五郎,「幕末における思想動向」,1933
遠山茂樹,「近世庶民心理の一面」,1948

論者によって強調する点は異なるが、「ええじゃないか」は有効な体制変革に結びつかない未組織の集団的狂騒、民衆のエネルギーの安全弁であったと分析する。

村上重良なども、ほぼ同じ。
E.H.ノーマン,「『ええじゃないか』考」も、盲目的な運動であったと捉えるが、それを反動的とか進歩的とか評価するのは無意味という見解も出している。

反動的とか進歩的とか体制変革とか懐かしいタームが出てくるが、当時はこんなふうに分析していたわけである。

第5章 解放運動としての「おかげまいり」

書き忘れたが、「おかげまいり」の研究の嚆矢は
井上頼寿(いのうえ・よりひさ 1900-1979)、『京都民俗志』などの著作がある民俗学者の1930年代の研究であるそうだ。

階級闘争史観の最盛期である1930年代らしく、その方面からの分析なのだそうだが、賃金労働者や都市の下層民の運動として捉えるみかたもあったのだ。

また、安丸良夫の説も紹介されている。
それによれば、世界史的にみれば、近代の民衆運動は千年王国やミロク信仰、太平天国のような宗教運動の形をとったものが多いのに対し、日本の近代化は宗教運動の形をとらなかった。と、いうもの。

それに対し、著者・藤谷俊雄は、「おかげまいり」に世直しの要素があるとし、また、一揆と「おかげまいり」に共通する要素も指摘する。
しかし、宗教的な指導層である国学者や儒学者が、「おかげまいり」層である下層農民や都市民に同情・共感することはなかった。と、著者は見る。

第6章 民族形成運動としての「おかげまいり」

吉岡永美,『抜け参りの研究』,1943

が、「国民的運動」、皇国史観の立場から「おかげまいり」を説いた最初の論であるそうだ。
もちろん、「おかげまいり」を回帰運動、「国民的」「民族的」運動と捉えるのはインチキの間違いである。

一方、著者の主張する、日本の仏教がブルジョワ的発展に寄与せず、日本近世の宗教改革運動は、主として神道信仰とむすびついていた、とするのも、なんだかな~という気がする。
著者は、金光教・黒住教・天理教などが、伊勢信仰の影響があったと捉える。
また、幕府の神道信仰に対する抑圧、国学者や神道家の無関心は支配権力の抑圧政策によるものと捉え、儒教的君主主義の仁政思想を抜け出ることができなかった、とする。

最終章、「7 宗教と民衆運動」の中で、著者は、マスヒステリア的運動を指導するリーダーが現れなかったとか、狂騒が体制批判・改革へ結びつくには、禁欲的な精神が生まれなければならない……などと、述べているのは、今読むと、なんだかなあ、というかんじがする。

近藤信行 校訂,志賀重昂,『日本風景論』,岩波文庫,1995

2009-11-16 22:08:21 | 名著・話題作 再読
初版 明治27年(1894)。
初出は『亜細亜』明治26年12月、『亜細亜』とは政教社の機関誌『日本人』を誌名変更したもの。

岩波文庫での最初の版は1937年(昭和12年)で、小島烏水の解説・校訂で、第15版(1903年 明治36年)を底本とする。

この岩波文庫の新版は、旧岩波文庫版を底本にして初版・第17版も参照している。旧版の烏水の解説と内村鑑三が『六合雑誌』に発表した書評(1894年12月15日)も収録。

ええと、わたしは実は旧版を見た(読んだとはいえないな)ことがあるのだが、岩波文庫版が1995年に新しくなっていることを知らなかった。

近藤信行氏の解説にあるように、日清戦争の前年に刊行され、日露戦争までの10年間ほどの思潮に莫大な影響を与えた書であるそうだ。
日本の明治期ナショナリズムの最重要文献で、本書を論じたものは多数あるので、そのナショナリズム方面に関してつけくわえることはない。

現代の読者が手にとってみると、まず圧倒されるのが、漢文の引用である。
とても読めません。とほほ。訓み下し文がついているのでなんとか読めるが。

どこがナショナリズムやねん、こんなシナ語ばっかり使って!とツッコミたくなるが、当時の教養ある人士はみんなこの程度のものは読めたのだろう。ただし、ほんとうに一般読書人が読めたとは限らない。というより、ムード的に読んでいたはずである。

それに、和歌・漢詩・俳句などの引用、めまいがする。

つまり、本書は、自然地理学と漢文教養と江戸時代の文学的素養とヨーロッパ的自然観のゴタマゼなのである。ゴタマゼといって悪ければ、アンソロジー、和漢洋折衷とでも言ってよいだろう。

実は、わたしが本書の存在を知ったのは、
三田博雄,『山の思想史』,岩波新書,1973
からである。
『山の思想史』は手元にないし、内容も忘れたが、明治期の登山啓蒙の出発点として、とりあげられていたような気がする。(記憶違いだったらスマン)

登山や自然観察という点で本書を読むと、ヨーロッパ的アルピニズムと歌枕や俳諧紀行文の橋渡しをする内容として読める。
著者・志賀重昇は札幌農学校に学んだ英語の素養のある人物で、ヨーロッパ的自然観をいちはやく紹介したとも言えるが、身体はまだまだ江戸時代のままという状態。後の加藤文太郎や今西錦司とは、ほど遠い感性・肉体であるなあ、と思ってしまう。

岩手大学の米地文夫という方が、ちゃんと分析しているので参考までに。
岩手大学教育学部研究年報第56巻第1号(1996.10)15~34

米地文夫,「志賀重昂『日本風景論』のキマイラ的性格とその景観認識」

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気がついた点をランダムに。

屋久島も白神山地も根釧原野もない!

著者は愛知県岡崎の出身で、札幌農学校に学び、北海道各地を渉猟しているが、寒いと感じなかったのだろうか。吹雪がひどいとか、逆に積雪が素晴らしいという記述がない。絵を見ているような描写ばかりだ。

全体的に禁欲的。温泉につかって温まった後、きゅっと一杯、という感じはない。

何度も繰り返し出てくる〈跌宕(てっとう)〉という見慣れない語。

細事にこだわらぬこと/しまりがなく勝手にふるまうこと
豪放/のびのびと大きいこと

という意味らしいが、英語の sublime の訳語ではないか?
と、思ってウェブを流したら、やっぱり、そう考える人がたくさんいるようだ。
でも、やっぱり訳し間違いではないか?

p36 に

日本に絶特なる禽鳥の多住するはこの所因、ダーウヰン、ウォレースの「島国は生物の新種を多成す」と立説せしもの、日本これを例証して余あり、即ち鵂鶹の一新種の如き日本に絶特なる者あり、……

とあるが、ダーウィンもウォーレスも「島国は生物の新種を多成す」なんて言ってないはずだ。もしそうだったら、日本列島もブリテン島も同じくらい種が豊富だってことになるでしょ。よくある誤解だが、このころすでに広まっていたのか?

ちなみに、鵂鶹(きゅうりゅう、文字化けするかもしれない)というのはミミズクのこと。学名Glaucidium。
それでこのあとに鵂鶹(きゅうりゅう)という語をふくむ栗本匏庵という人の漢詩が紹介されているんだけれど、日本にミミズクの新種が棲息する、という事実とはまったく関係がないんだよね。

新種というのは、この場合、たんにヨーロッパの分類学に知られていなかった、という意味だから。

日本の風景の優位を説く志賀重昂の一見科学的な主張ってのは、フィリピンやインドネシアにもばっちり当てはまる。火山性の島嶼、水蒸気の多い気候というのは、島嶼部東南アジアのほうが顕著なんだよな。

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本書に対する解毒剤、もしくはワクチン。

照葉樹林帯から出発し、多様な生態を実見した著者による、ほんとうに生態的な観点から日本の自然の多様性を論じた、

佐々木高明,『日本文化の基層を探る―ナラ林文化と照葉樹林化』,NHKブックス,1993

ボルネオ島のフィールド・ワークをした研究者が、日本の自然の多様性を論じたもの。これは、実際『日本風景論』を意識しているんじゃないかと思えるような書き方である。

加藤真,『日本の渚 ― 失われゆく海辺の自然』,岩波新書,1999

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なお、
大室幹雄,『志賀重昂『日本風景論』精読』,2003
は未読。というより、この本を読む前に、『日本風景論』を見てみようと思ったわけ。

北杜夫,『どくとるマンボウ航海記』,中央公論社,1960

2007-06-02 18:37:04 | 名著・話題作 再読
1958年11月から59年4月まで水産庁漁業調査船「照洋丸」の医師として乗船し、インド洋から地中海、アフリカ沖大西洋、バルト海をめぐった旅行記であり、かつお資源調査船乗組員の記録。

わたしの世代だと、読んでなくとも題名くらいは知っている超有名作。
あんまり有名すぎて読んでなかったり、無視している人も多いのではなかろうか?

「文芸首都」という同人誌に発表された短信を、中央公論社の宮脇俊三氏が目をつけ、単行本として発行したもの。文庫は各社から何種類も出ている。現在新潮文庫で入手可能であるようだ。

今回、新潮社版「北杜夫全集」第11巻で読みなおす。
日本からマラッカ海峡を抜け、インド洋から紅海にはいり、スエズ運河を抜け、地中海、アフリカ西岸、北ヨーロッパ、という航路である。
とうぜん、東南アジアを抜けたわけだが、往きのシンガポールと帰りのコロンボ以外は寄港なし。
シンガポールが独立前なのである。
(この時期の旅行記で、東南アジアが無視されるのは、旅行記の著者たちが無関心という場合もあるが、入国がむずかしい、経費がかかりすぎる、という理由もあるようだ。交通や観光のインフラが整っていない地域は、ヨーロッパなどよりずっと金がかかるし、留学制度もなかった)

スエズやポート・サイドはスエズ動乱後の混乱、「アラブ連合」は、ナセルを英雄と仰ぐ国である。
ポルトガルは中立国だったんだ!
ハンブルクのあるドイツは敗戦国だった。
という時代の話である。

日本人の海外旅行は大学院にはいり、留学でもしないと不可能な時期である。
著者も外国に憧れるものの、留学の道を閉ざされ、本や映画を通じて、外国を知るだけである。
どんな手段でも一度外国を見たい、外国の膣、いや土を踏んでみたいと、若者たちが妄執していた時代である。
著者のマグロ船医師という身分は実にラッキーであり、そしてむろん、普通の身分、普通の経済力、普通の学力の者が到達できる道ではない。
本書は軽妙なエッセイであるけれども、この点、著者をフツウの人とは考えないように。
なにしろ、学識も教養もある。
引用する書物もトーマス・マンはもちろん、ツヴァイクの『マゼラン』、ウォーレスの旅行記など守備が広いし、SF(という言葉はなかった)やトンデモ系にも興味がある人で、その方面の話題も多い。
映画の話題も多い(当時のフツウの教養であるようだ。)
ただし、ギャグは古すぎて、今読むとかったるい。しらける。(マーク・トウェインあたりの影響だろうか?それから、椎名誠さんなんか、影響うけているんでしょうか?)

それから、やたらと酒を飲む話が多い。
これは、著者が精神科医にあるまじきアル中というわけではないし、船員稼業のマドロス連中が特別のんべえだったわけでもないだろう。
そうではなく、旅行の話の中で、どんな酒をのんだとか、どこの酒場で飲んだという話は、読者の憧れであり、読みたい話題だったのだ、と思う。
現在よりも、酒の消費量は少なく、スコッチやワインは実際に味わったことのない幻の飲み物であり、ビールでさえ、日常的に飲めるものではなかったのである。

中尾佐助,『栽培植物と農耕の起源』,岩波新書,1966.

2006-04-15 01:05:40 | 名著・話題作 再読
googleで中尾佐助を検索すると、「トトロ」「もののけ姫」がでてくるのかよ!
よし、わたしはぜんぜん別の方面からいくぞ。

本書の第一の意義は、ヒトは炭水化物とたんぱく質と脂肪が必要だってことを明確にしたことだ。
近代の栄養学が不完全で弊害もあることは認めるとして、この三要素が必要なのは確実な事実である。
最近は脂肪のとりすぎがからだに悪いとか、カロリーのとりすぎだとかいわれ、この三要素がかろんじられているが、まず人間のくいものの最重要要素はこの三つである。
こういうと、カルシウムはどうなんだ、ビタミンは、鉄分は、と反論されそうだが、地球中のどの地域でも、この三要素がとれていればほかは、そこそこ満足されるような食物体系になっているのである。
別のいいかたをすれば、もし、三要素が十分でもほかの必須栄養素が欠けている食物体系では、そこの人間はいきのびることができなかった。

そして、ここからが重要だが、世界の文明地域では、この三要素を栽培植物と家畜から摂取するような体系をつくりあげたのだ。だからこそ文明の地といわれるようになったわけだ。
そうしてみると、稲作以前の東南アジア、メラネシア地域はひじょうに不完全である。
栽培植物(サゴヤシ・バナナ・イモ類・パンノキ)からはほとんど炭水化物しか摂取できない。
さらに決定的な違いは、これら東南アジア産の植物が、種子を利用する植物ではない、つまり穀物ではないということだ。
穀物ではない、ということは、調理に時間がかかり、保存がむずかしいということだ。とうてい、大文明を発生させる基盤にはならない。
家畜は犬と鶏ぐらいでたんぱく質と脂肪には不十分である。乳製品の利用がない。ブタの飼育に必要十分な作物・自然条件が欠けている。(あくまで稲作以前、新大陸の作物導入以前のこととして)
そもそも、サゴヤシやバナナでさえ、野生のものを採取している地域もあるから、以前はもっと野生植物に依存していたとおもわれる。

つまりだ、東南アジアは文明の地ではないのだ。
こういうと、なんか東南アジアをみくだしているようだが、そうではない。
そもそも地球上で文明を発生させたのは一ヶ所だけ、中東の肥沃な三日月地帯だけである。世界四大文明なんていうのはウソである。他は三日月地帯の亜流である。
ただ、栽培植物にかんしては、新大陸の農耕が強力なインパクトを旧世界に与えたが、それ以外では、二流である。
おなじ二流なら、亜流よりもまったく違った環境に対応した東南アジアのほうがおもしろいではないか!
ユーラシアの大部分でもサハラ以南でも、農耕と牧畜を主体にした食糧生産が支配的になったなかで、東南アジアだけは採取と漁撈を基盤要素にした文化が続いたのだ。
これは稲作が導入されてからも続くことになる。
もちろんブタを飼うとか牛をいけにえにするといった家畜利用もあったが、日常的におこなわれたのは、さかなとりであり、野生・半野生植物の利用である。
乾燥したサバンナ地帯の影響をしりぞけ、独自の栄養体系をつくりあげたのだ。

そういう意味で、世界四大文明や五大文明のなかまにいれてもらう必要はない。
むしろそんな文明と別の価値を生きてきたこたに東南アジアの意義があるのだ。

中尾佐助は、米、稲作を湿地の雑穀栽培ととらえている。
現在でも、この見方が有効なのかどうか、ちょっと疑問だが、ともかく稲作を含め穀物をつくる農耕はサバンナ経由で伝播したもので、長江流域のどっかで生まれたのが稲作であろう。
かといって、稲作の起源は中国にあり、なんて意見には、わたしは組しませんよ。なぜなら、稲作がうまれたころ、長江流域はチャイニーズの住むところではなかったから。

梅棹忠夫,『東南アジア紀行』中央公論社,1964.

2006-02-10 23:27:32 | 名著・話題作 再読
1964年原本発行。
一般に読まれている文庫本(中公文庫)は1979年、上・下2冊本。
わたしも文庫本で読んだが、今回再読したのは『梅棹忠夫著作集 第6巻』。

決定的名著。大傑作。必読。

はずかしいことに、わたしがこの傑作にであったのは80年代にはいってからだ。
もっと早くしっていれば、東南アジアにたいする興味ももっと早くめばえていたろうに。
悔やまれる。
しかし。
もっと早く読んでいたにしても、この本の真価を理解できたかどうかわからない。

最初に読んだときは、もっぱら後半のカンボジア・ヴェトナム・ラオスの旅行がおもしろかったが、今回再読して、前半のタイ滞在・短期旅行も後半におとらずするどい観察がもりだくさんだ。

たとえば、今回もっとも共感したのは、以下の箇所だ。

チェンマイ盆地の穏やかな風景や、カレン族のフレンドリーな対応の後で、山地(稜線から山腹に住む)ミャオ族の村を訪れる。

そこで著者は、ミャオのこどもが、夕食を丼飯のような外食ですます風景をみる。
著者は、家庭的なものが失われた無残な光景、と感じる。

しかし、その後、次のようにのべる。
このミャオたちの生活も、商品作物(商品作物というのは、この場合、ケシ栽培のこと)を作り、貨幣経済にまきこまれた民族の必死の生き方ではないだろうか?
著者はこう自問する。

すごい。すごすぎる。
これは、1954年の話ですよ。
このころ、日本はまだ、食うや食わずの生活で、誰もが、工業化と商品経済を求めていた時代ですよ。
その時代に、タイのミャオ族の村で、貨幣経済化されていくひとびとの生活をこんな醒めた目で、共感を持ってみることができたのだ。
しかも、昔ながらの生活をよしとする牧歌的な無責任な感想ではなく、これも生き残るための対応では

なかろうか、と積極的に評価する。しかし、評価しながらも、全面的に肯定できないもどかしさも表現

されている。

こんな部分は、20年前に読んでも理解できなかったな。
いざ、自分が、グローバライゼーションの荒波にさらわれないと、貨幣経済と商品化ってもんが理解で

きない。なさけない話だけども。

こんな鋭い観察がてんこもりの旅行記だが、これから読む人は、半世紀まえの日本の状況のほうが、衝撃的かもしれない。
いや、半世紀前の日本の状況がわからないので、理解できない部分がおおいかな。

たとえば、タイで、梅棹忠夫や若い研究者はフィールド・ワーク旅行の道中、コカコーラやペプシを飲む(塩を入れて飲む、というタイの習慣も紹介されるのは、有名です。)

ところがですね、よくきけよ、当時、日本で、コカコーラだのペプシだのを知ってた人はほとんどいないのだよ。
東京や大阪の金持ちか、米軍基地で働いていた人ぐらいじゃないかな。
なにしろ、当時、日本にはフランチャイズのメーカーがなかったはずだから。
つまりですね、コカコーラは日本よりタイのほうが早くひろまったんですよ。

まったく残念なことに、梅棹忠夫の著作としては『文明の生態史観』、『知的生産の技術』のような、ある種空想的な著作のほうが注目をあびた。

かくいうわたし自身も、『知的生産の技術』の悪影響をうけて、いま、こういうふうにキーボードを打っているわけである。

具体的な事実と観察がもりだくさんな著作は軽視されるものなのだ。

この『東南アジア紀行』を著者の最高傑作とよぶのは、その後の著者に失礼かもしれない。
なに、かまうもんか。
梅棹忠夫という人は、どんどんアイディアを出して、自分はこまかいことをやらないで、ほっぽりだしてしまう人なんだ。

梅棹忠夫の後をついで、こまかいこと、実証的なことを研究していったのが、本書の旅行に同行した石井米雄(京都大学東南アジア研究センター初代所長)であり、国立民族博物館の館長職を押し付けられた佐々木高明や石毛直道であり、さらに、探検家根性をふきつけられた高谷好一や本多勝一であり、空想を発展させたのが小松左京である。