東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

ミルトン・オズボーン,『シハヌーク 悲劇のカンボジア現代史』,岩波書店,1996

2009-04-24 19:31:41 | 国家/民族/戦争
小倉貞男 訳,石澤良昭 監訳。
原書 Milton Osborne,"Sihanouk Price of light, Prince of Darkness",1994

うーん。
著者はカンボジア現代史の第一人者であるようだ。それで一般読者にとって困るのは、著者自身の知識が豊富すぎて、こまかい事実をどんどん羅列していくことである。あまりにも細かく、ついていけない。
もともと政治史をめざした著作であるから、文句をつけるのがおかしいが、もう少し、経済や文化、世界の状況など説明してもらいたい。

それから、一番気になるのは、やはり、そこかしこに漂うバカにした筆致。もちろん、シハヌーク殿下を批判したりバカにするのはけっこうであるが、それが政治や外交とどう関わるのか、いまひとつ納得できない。たんに人格的にバカにしているみたいなところが多い。その人格批判やゴシップがこの著作の目的なら、それはそれでいいんですが。

監訳者の石澤良昭が「カンボジア人からみたシハヌーク国王」という小文でフォローしている。しかし、この文も本書のテーマとはずれているような気がする。フォローになっていない。

登場人物が多すぎるので、一覧表か簡単な解説がほしいところだが、なし。索引もなし。だから、ええと、この人物は……と前の部分をめくらなくてはならない。
政府機関や政党、政治団体の名称もこんがらがる。
あと、頻出する〈左派〉〈右派〉、〈左翼〉〈右翼〉という表現がどっち側なのか、何を意味するのかとまどう。これも一覧表が欲しかった。

というわけで、興味深い事実が山ほどあるにもかかわらず、前後関係がわからず欲求不満になった。

******
細かいことだが、へんな部分。(p195)

1966年前後、カンボジアから南ベトナムの共産勢力へ、米が密輸されていた。農民の余剰米はすべて政府が買い取ることになっていたが、政府買取価格が低いので、華人の穀物商人がどうどうと買い集めて、国境まで輸送していた。(政府は黙認)

それで、プノンペンからの米の運搬のための賄賂の相場があった。
トラック一台で国境までの買収金が1500USドルだというのだ。

ちょっとおかしいぞ。
1500USドル=54万円。
当時の日本の標準価格米小売価格の4.8トン分である。
米価の高い日本での4.8トン分も賄賂を払う?なんて考えられないのだが。
桁間違いではないか。150ドルでも高すぎると思うが。

なお、ほかにも数字がおかしいところがあり、訳者が訂正している部分あり。

『本多勝一集 第16巻 カンボジア大虐殺』,朝日新聞社,1997

2009-04-23 23:24:31 | 国家/民族/戦争
『カンボジアはどうなっているのか』,すずさわ書店,1978
『カンボジアの旅』,朝日新聞社,1981
を収録したほか、関連する座談会や小文を収録。

文庫版の『検証・カンボジア大虐殺』,朝日文庫,1989
で省かれていたベトナムに関する部分も収録。たとえば、ハノイのタンロイ・ホテルをさんざん貶している部分。うーん……本多勝一らしい。

本題にはいる。1978年3月1日にハノイ入り、3月8日からの取材が前編。すずさわ書店から刊行された内容である。
ナヤン・チャンダが取材したのと同じ時期。
今読むと、ひじょうにくどい。なにをあたりまえのことを書いているのかと思う読者も多いだろう。
しかし、本文中にあるように、ハノイ政府のヤラセではないかという疑惑、実は殺戮しているのはベトナム軍ではないかという疑惑があったのだ。

ナヤン・チャンダ,『ブラザー・エネミー』の紹介で、ベトナムは外交がヘタだと書いたが、それでもなんとか対外的イメージをよくしようと画策している。ところがカンボジア(ポル・ポト政権)は、まったく無防備に、将来のことを考えずに、無差別殺戮をしている。あまりにも作為がないので、逆に、これはハノイ政府が……という疑いもうまれたわけである。

ただし、すでにこの段階でも現地を取材した記者は、カンボジア内でとんでもない事態が起きていることを納得している。本多勝一や石川文洋カメラマンばかりでなく、前項のナヤン・チャンダやヨーロッパの記者たちは、何が起きているのか予感する。

ところが、日本でもアメリカでも、取材した記者たちの報道が疑われたわけだ。
そこで、本多勝一らは、さまざまなメディアでうったえるわけだが、肝心のカンボジア内の取材ができないので、説得力がない。ハノイの宣伝に乗せられているという非難も多かった。
そこいらへんの事情が、本巻の付録として収録された対談や小文でわかる。

もっとも、日本共産党系の『文化評論』などに載った記事では、ますます疑われたかもしれない。当時は、日中友好ブームであり、〈バスに乗り遅れた〉共産党のくやしまぎれの反論だと思われたかもしれない。

******

ところで、ウェブ上に散乱する、〈本多勝一がカンボジア大虐殺を否定していて、さらにその否定していた事実を隠蔽している〉という説について。
これは、1975年当時の話で、無差別虐殺が起こる前のことで、さらに全体の文脈からみてどうでもいいことなので、こだわるほうがおかしいだろう。

わたしが、ちょっとひっかかるのは、この『本多勝一集 16』で、朝日文庫版『検証・カンボジア大虐殺』の中の座談会「虐殺はなぜ起きたか」が収録されていないことである。

その座談会「虐殺はなぜ起きたか」は、鈴木利一・井川一久・矢野暢の三人の座談会で司会が本多。
このなかで、矢野暢が、あ、先生そりゃまずいですよ、と言いたくなる発言をしているのだ。さすが本多勝一司会は気がついたのであろう、「この座談会の発言はそれぞれの発言者の意見であり、全員の考えではない」、と念を押しているのだが。
うーむ。矢野暢の著作に感服し、本多勝一のファンでもあるわたしは、困ってしまうぞ。

ただし、ネット上のプチウヨのみなさん、この『本多勝一集 16』に収録されていないからといって、またまた本多は過去の著作を隠蔽したなんて、騒がないでくれよ。
もっともプチウヨの諸君は、矢野暢の発言のどこがマズイのか気がつかないかもしれないが。
あえて引用しませんので、みんな文庫で確かめてね。

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以上のこととはまったく別に、当時は政治離れの時代であったことも知っておくべきでしょう。
戦争や政治のことではなく、もっと歴史や文化を知るべきでは、というムードというか決意があったはずだ。

1977年、鶴見良行は『マラッカ物語』を連載中。これも、まだまだイデオロギー的にこだわった著作ではあるのだが、もっと長い歴史を知る、民衆の暮らしを知るという方向を探っていたはずだ。

桜井由躬雄は、1978年1月にバンコクの東南アジア研究センターバンコク連絡事務所に派遣される。まず、タイ国内をみようと、東北タイへ。

星野龍夫と森枝卓士は、1984年に『食は東南アジアにあり』へ結実することになる食文化に興味をもっていたはず。(本業は別ですよ)

山口文憲は1977年は香港。映画をみたり散歩をしたりしていた。

前川健一さんはバンコクや台湾の屋台でメシを食っている。1979年にはビルマにも行っているんですね。

出版社めこん、1978年創業。1979年の台湾の小説『さよなら・再見』が第一弾。

というのが、1977年から78年。

NHK 編,『謎の国・カンボジア』,日本放送出版協会,1979

2009-04-22 19:03:39 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
ちょうど民主カンプチア、つまりポル・ポトが、外国向けプロパガンダとして西側の報道機関をうけいれていた時期。NHK特集として1978年10月13日に放送されたようだ。(NHKアーカイブのサイトによる)
日付と行程がしっかり出ている。
1978年9月16日から9月30日まで

9月16日 プノンペン空港
9月19日 コンポンチャム
9月20日 車でコンポントムへ。「一月六日ダム」取材
9月21日 シェムリアップ着
9月22日 アンコール・ワット見物
9月23日 シソポンから列車でバッタンバン(特別列車である)
9月24日 バッタンバンから列車でプノンペン
       イエン・サリと会見
9月25日 コンポンソム港
9月26日 ベトナム国境でベトナムから逃れてきたカンボジア系ベトナム人を取材(ハ・ティエンの近く、地名不明)
9月27日 タケオでサハコー取材、ポルポト首相と会見
9月30日 プノンペンから出国

写真と文は、NHKカメラ取材部の飯田睦美(男性です)。とくにおかしな記述はない。もっとも、全95ページのうち、人影のないアンコール・ワットの写真が30ページほどであるが。
なお、人っ子ひとりいないアンコール・ワットというのは不自然なようだが、観光写真でもたいてい見物人は写っていないので、本書の写真がとりわけヘンなわけではない。

本書の協力者として、フリーカメラマン馬渕直城、NHK教養部の谷尾襄、NHK外信部の永田昌弘と佐藤公一、それに「日本カンボジア友好協会」という団体。

くりかえすが、本書のなかに、とりわけポル・ポトを礼賛する文や、ベトナムを非難する文はない。
外信部の永田昌弘の文(2ページ)も、カンボジアとベトナム両者の主張が異なり、どちらを信じたらよいかわからない、というニュアンスである。

フリーカメラマンの馬渕直城は、行方不明になっている一ノ瀬泰造カメラマンと共同通信の石山幸基記者の安否をきづかっているが、虐殺の噂は否定している。

というような、ある意味貴重な一冊。わざわざ捜して見るほどでもないけれど。
これを見たら、カンボジアも一応平和なんだ、と思ってしまうのもむりないか。

ナヤン・チャンダ,『ブラザー・エネミー』,めこん,第8,9,10章

2009-04-21 21:15:39 | 国家/民族/戦争
ここで、ベトナムはさらに外部世界から批判される道にすすむ。すすまざるをえない状況になる。ボート・ピープル、つまり華人系住民の国外退避(もしくは国外退去処分)がピークになった時期でもある。

第9章では、アメリカとの国交回復を画策する外交が描かれる。
カーター政権の国務長官ヴァンスと東アジア・太平洋担当国務次官補ホルブロックはベトナムとの国交回復をめざすが、国家安全保障担当補佐官ブレジンスキーは中国との国交回復を優先する。ふたつの派の対立は、中国派が成功し、USA=ベトナムの国交正常化は棚上げされる。

なお、この時期、日本は日中平和友好条約締結(1978年8月11日)。
小平はASEAN諸国との関係修復でも、ベトナムに先んじる。タイは中国への基地使用、航空路許可などで協力することになる。

米中国交正常化は1979年1月1日。その1週間前のクリスマス、ベトナムはカンボジアへ侵攻開始。世界中から非難されることになる。

以下第10章では、1979年2月17日からの中国による〈懲罰〉行動、つまり中越戦争までが描かれる。

ナヤン・チャンダの説くところによれば、ベトナムというのは実に戦争が強い。外交はヘタで、経済もうまくいかないのに、戦争となると、がぜん強さをみせる。
カンボジア侵攻にしても、プノンペンまで攻める予定はなかった(と著者は分析)のに、あれよあれよというまにカンボジア軍を敗走させプノンペンを占拠。(しかし、新政府のミコシにすべきシハヌーク殿下は救出できず!)

中越戦争でも、主力部隊はカンボジアにいたのに、民兵主体のゲリラ戦で中国軍に対抗し、自軍以上の人的損失を中国軍にあたえる。ベトナム側は公式の数字を発表していないが、中国側の推測によれば、中国軍の死傷者はベトナムの2倍。

第11章では1980年代なかばまで概説されるが、この部分はあらっぽい。三派連合とポルポトの関係、国連やASEANとの関係、さらにややこしくなるが、本書の記述はここでおしまい。

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以下、単なる感想。

世に言う陰謀史観というものがある。つまり、この世界をあやつる陰の大物がいて、彼もしくは彼らの思うがままに歴史が進展している、というまことしやかな解釈である。
本書の登場人物を例にすれば、小平はインドシナ情勢を牛耳り、おもうがままにベトナムとカンボジアを戦わせていた、というような解釈である。もちろん、こんな分析はウソである。ひとりの人物、ひとつの勢力によって、自由にできるほど単純な話ではない。

さらにやっかいなのは登場人物それぞれが、合理的にうごかないことだ。たとえば経済的利益を最優先するという方針はない。あるいは、組織の中でトップに立つために手段を選ばない、というよくある悪玉タイプでもない。第三者からみると、なにがなんだかわからない行動を選ぶ場合も多い。

それとは別に、千年ニ千年と続く民族の怨念とか、地政学上の必然という言葉をもちだすのも、やっぱり正解ではないだろう。著者ナヤン・チャンダは、時々読者をその方向へ誘導するクセがあるが、それですっきり解釈したと思っても意味ないだろう。
本書はカンボジア内の無差別虐殺に関しての記述はひかえめである。あの虐殺の理由にしても、民族性などという怪しげなものを持ちだすのは危険だろう。

ナヤン・チャンダ,『ブラザー・エネミー』,めこん,第7章

2009-04-20 20:09:44 | 国家/民族/戦争
第7章 嵐の前の静けさ
1977年のカンボジア=ベトナム関係

この部分が当時外界に知られていなかった、混乱した内容。

現在では、ほかに資料・著作があるからはっきりしているが、まったく勘ちがいした憶測があった。

簡単に事実を整理すると、1977年、ポル・ポトはベトナム侵攻を開始し、一方、ベトナムも徹底的に抗戦する準備を始めた。
すでにカンボジア内部では、幹部の粛清、一般住民の虐殺が進行していた。国境付近ではベトナム住民の殺害、クメール人の難民も発生中。
ベトナム側からの反撃もあり、カンボジア軍に被害も出ている。
フン・セン、ヘン・サムリンなどが粛清をおそれてベトナム側へ逃亡。

そして、ついに12月31日、カンボジアはベトナムと外交断絶を発表する。

しかし、ハノイ側は徹底的な報道規制を敷いている。「ポル・ポト・デビュー」を歓迎する政府側の発表もある。これは、北京を牽制している間に反撃の準備をすすめるためだったのだが、西側のメディアは、完全に誤解した。
つまり、同じ共産主義国家なら、当然協調路線を歩むだろう、と。あるいは、反共主義者のみかたとして、共産国ではどんな不合理な事件が生じてもふしぎはない、とみなしていた。

そこで、散発的に外にもれる難民の話、国境付近での戦闘、死体などについてさまざまな憶測が生まれた。

あれは、偶発的な事故だ。もしくは、局所的な不作による飢餓ではないか。

いや、反ハノイ勢力、旧南ベトナム政府関係者が処刑されているのだ。

あれは、カンボジア国内かベトナム国内かしらないが、共産主義者内部の権力争いだ。

いや、すべてCIAあたりが流したデマだ。

つまり、誰もこれを二国間(カンボジア対ベトナム)の戦争とはみなかった。ほんとだってば!さらに、中国が加勢しているのがカンボジアと認識している外交ウォッチャーはほとんどいなかった。

ひとりのハンガリー人記者の話がある。
カンボジアからの侵攻に憤慨したベトナム軍第七軍管区の司令官チャン・ヴァン・チャ将軍は、この実態を外国のメディアに知らせようとする。将軍は、この記者シャドール・ジョリに前線を見せ、記事を書かせようとする。
ジョリは国境付近でカンボジア軍に虐殺された死体を見、ベトナムに逃げてきたクメール・ルージュ幹部にインタヴューする。
しかし、その取材の結果は、ハノイの上層部によって発表を禁じられた。

つまり、ハノイ上層部は、カンボジア側の虐殺の発表も禁じたのである。

1978年3月4日からの著者自身の取材についても述べられている。
著者チャンダ(=ファー・イースタン・エコノミック・レヴュー誌)とル・モンド誌、NRCハンデルスブラッド誌(オランダ)、計三名の記者がハノイによばれ、自由に取材する許可をもらう。

現在読んでみて、本書のこの部分に書かれていることは、誇張のない事実である。
しかし1978年の段階で、外の世界で、この記者たちの記事が信頼されたかどうか微妙なことろだ。
当時の状況からみると、この三人の記事は、ハノイが招待してハノイが見せたいところだけ見せられた提灯持ち記事と見られる可能性もあった。実際、ヤラセ風の演出があったことも、チャンダは書いている。(なお、同時期、日本人記招待されているが、やはり親ベトナムの記者・カメラマンによる偏向した報道と、とらえる見方も多かった。)

その後の世界の大部分は、強力な軍事力をもつベトナムがカンボジアを侵略している、と捉えた。(実際強力な軍事力であったし、領土侵害ということなら、侵略行為にあたるわけだが)

なお、本格的な軍事衝突の前の1978年秋、カンボジアは中国のすすめで、虐殺や粛清のイメージを払拭するキャンペーンをおこなう。このとき、USAやベルギー、そして日本の代表も招かれる。その結果、虐殺がタイ難民キャンプあたりのデマだという記事もあらわれる。(第10章p542)

実際にはカンボジアでは、このころ(1978年秋)、中国の軍事援助を着々を受け入れ、粛清を続けていた。さらに、中国はベトナム軍の本格的侵攻に対して、〈懲罰〉を加える用意はあるが、プノンペンは陥落するかもしれない、と予想していた。

ナヤン・チャンダ,『ブラザー・エネミー』,めこん,第4、5、6章

2009-04-19 19:44:26 | 国家/民族/戦争
第4章;ベトナムと中国の関係を歴史をさかのぼって叙述
第5章;サイゴン陥落後のUSAとの関係修復
第6章;サイゴン陥落前後のベトナム=ソ連関係

第4章でわかること

著者ナヤン・チャンダの語る中越関係史。1000年前からの歴史をつうじての中越間の伝統的な華夷秩序。それを現代にそのまま適応できるかどうかは疑問である。疑問であるが、中国の指導者たちの態度は、華夷秩序の中で生きているとしか読めない。イデオロギーや資源獲得という問題ではない。

濱下武志が説いたような朝貢・冊封体制から、中国=ベトナムの関係をみるなんて、1980年当時、だれも考えていなかったんだから。
中国の指導者たちは、ベトナムがインドシナの強国になることを決して許さない。これは、毛沢東生存時も四人組が粛清された後も小平の時代も変わらない。

夷をもって夷にあたる、という大昔からの戦略が基本方針であるというわけだ。

第5章でわかること。

ベトナムはアメリカの対応を過剰に楽観的に予想していた。まったく外交下手で、井の中のカワズである。
ニクソン政権の提出した援助、西側の投資の再開など、ベトナム側の予想はまったくはずれた。USA国内では、ベトナムに対する怨念がたかまり、反戦運動は下火になり、ウォーターゲイト事件の影響でニクソン政権の約束など反故にされる。
ベトナムに対する賠償など、問題外。

著者ナヤン・チャンダは、ベトナムの指導者たちが、マルクス主義者の常として、戦争は経済的な利益追求のために行われると考えていたとする。つまり、アメリカは経済侵略のために戦争をしていたのだから、戦争が終われば利潤追求のため投資を再開する、と。(マーシャル・プランや日本の例もあるし!)
しかし、USAは議会制民主主義国家なのである。皮肉なことだが、賠償や援助の案件はきっちりと議会で審議されて、否決された。

アメリカばかりでなく、ヨーロッパの国も投資には消極的。日本もアメリカの顔色をうかがっていて、手を出せない。

そこで、ベトナムが経済的援助を期待できるのはソ連だけになる。

第6章でわかること

中国と同じく、ソ連もベトナム戦争が永遠に膠着状態が続くことを願っていた。
ベトナム人の間でまことしやかに伝えられる自慢話がある。ソ連は、ベトナムが強くなりすぎないように、B52を迎撃できるロケット砲を供与しなかった。しかしベトナム人は自力で迎撃システムを改良し、B52を撃墜できるようになった、という話。(著者チャンダもこの話は噂なのか本当なのか判断しかねるようだ。)

ベトナムとしては、ソ連の干渉を減らしたい。だが、西側にそっぽを向かれ、中国の圧力に抗していくために、世界の嫌われ者ソ連の援助をあおぐしかない。
なんてこったい。

ここで、ベトナムは世界中から孤立することになる。

ナヤン・チャンダ,『ブラザー・エネミー』,めこん,1999

2009-04-19 19:40:30 | 国家/民族/戦争
友田錫(ともだ・せき)瀧上広水(たきがみ・ひろみ)訳
原書 Nayan Chanda,"Brother Enemy",1986
日本語版のために「付章 カンボジア和平から現在まで」を追加

まず、誓ってもいいが、本書に書いてあることは1979年ごろ、誰も知らなかった。
ベトナム指導者内部のこと、中国の上層部のことは、想像するしかない。ソ連の態度は比較的わかりやすいが、それでも憶測まじりである。さらにカンボジア内部のことはまったくわからない。

USAの情報機関も、各国の外交官も、各国の報道機関も、全体をみわたすことができなかった。後になって、おれはちゃんと知っていたんだぜえ、というやつはたいていウソつきである。
もちろん、中国通、ベトナムシンパ、ソ連外交ウォッチャー、アメリカ外交ウォッチャーという人々はたくさんいたが、それらの見方は相互に矛盾している。何を根拠にし、誰を信じたらいいのか、さっぱりわからないという状態であった。

本書を読んでも、あまりにも細かい事実を統合するのがたいへんだ。
巻頭に並べられた「主な登場人物」が100人ほど。
それらの人物が織りなす中国・ベトナム・ソ連・USAの政策は、矛盾しながらコロコロ変わっていく。中心のカンボジア内部事情は推測する以外にない。本書執筆時点でも、現在でも、カンボジア内の事情は推測する以外にない事件が多いようだ。
たいへん複雑でやっかいなことだが、本書あたりを座標軸にして見ていく以外ないだろう。

なお、本書があまり詳しく論じていないこと

1.ASEAN諸国と日本のこと(第10章では、小平の外交とともにかなりのスペースが割かれているが)
3.ベトナム国内の経済事情と旧南ベトナム解放戦線派と北ベトナム政府派の対立など。
3.ラオスの事情

*****

著者ナヤン・チャンダの新著(2007年、日本語訳『グローバリゼーション 人類5万年のドラマ 』上下,NTT出版,2009年)について、YouTubeで見られる。

http://www.youtube.com/watch?v=0EvriWgx4xo

カリフォルニア大学バークレー校、The Institute of International Studies という組織の提供で、 "Conversations with History" というシリーズのひとつ。[7/2007]
Harry Kreisler という人がホストで、ナヤン・チャンダの新作 " Bound Together "を紹介する対談。

翻訳がでたから読めばいいんだれど、めんどくさいので、YouTube ですます。YouTube ばっかり見てるとバカになるのだが。
58分ほどの対談。本の内容は、ジャレド・ダイアモンドが書くような、5万年のタイム・スパンで綴る、人類の遭遇の歴史。
「商人」「布教者」「冒険者」「戦士」というパターンで、人類がいかに遠方に旅し、別の集団と遭遇したかという物語。
なんか、ずいぶんあたりまえの内容みたいにみえるが。

開高健,『ベトナム戦記』,朝日新聞社,1965

2009-04-14 23:09:21 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
素稿『週刊朝日』,1965年1月8日~3月12日
開高健全集』第11巻,新潮社,1992 で読む。

開高健だから、コーヒーとパンの話があるんじゃないかと読んでいったが、なし(基地のアメリカ兵用の食料のなかにある、という描写が一か所あるが)。
新しい天体の発見よりも戦争の話が大事、と著者が考えていたわけではないだろうが、当時の読者の求めるトピックではなかったのだろう。それとも、当時の読者に説明するのがたいへんだから、書くのをひかえたのだろうか。
もっとも、フランス風のパンやドリップ・コーヒーに感動するのは、われわれ1950年代生まれ特有の関心のもちかたであって、開高健の世代にはとりわけ関心がなかったのかもしれない。また、今現在の読者にとっても、フランスパンに驚くなんて、オジン臭い感覚だと笑われるかもしれない。

ニョクマムの話はありますよ。詳しいサカナの料理や味の話はない。

いちばん驚いたのは、日本工営がやっている賠償事業。ダニム川のダム工事、ファンランの灌漑工事を著者は見聞している。
つまり、当時のベトナム共和国には、報道関係者や外務省関係以外に、工事関係の日本人が滞在していたわけだ。
この時期、のんきに賠償事業をしていたとは驚き。ちょっと調べればベトナム共和国に対する賠償が締結されたのが1959年だから、この時期に工事していてもふしぎはないのだが。

工事現場で労働者にまぎれて、べトコン側とベトナム共和国政府側双方のスパイがいた、という話。おもしろい。
沖縄出身で、戦後ベトナムにのこり、べトミンに加わって戦い、現在(取材当時)日本人の通訳をしている人物の話もあり。

ただし、全体として圧倒的なのは、戦闘シーン。題名に偽りなし。
ベン・キャット基地(ブンタウ)からフォック・チャン県北部サ・マックという地区での作戦についていく。

そのほか気になる点。
この1964年末の段階で、すでに枯葉剤が広範囲に使用されていたこと。ここいらへん、わたしも弱いところで、いつ頃、どんな作戦が実行されたのか、こんがらがっている。(まあ、月単位で事件や戦闘や政策をおぼえている人はいないだろうが。)
著者をはじめ、在ベトナムのジャーナリストたちも、どんなに深刻な事態になるか、想像できなかったようだ。もちろん、日本の読者には、さっぱり通じていなかった。

USA/南ベトナムの戦略村政策について。
本書にはイギリスがマレーでやったことがヒントになったと書いてある。しかし、マレーで(いったいぜんたいマレーのどこだ?)こんな戦略村モドキがあったことなど知らんぞ。どこにソースがあるのだ?調べてみよう。(わたしには、この戦略村構想が、ベトナム戦争に関するベトナム共和国およびUSA側の政策で、いちばんまずいことだった気がする。)