東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

水野浩一,『タイ農村の社会組織』,創文社,1981

2006-11-21 22:39:11 | フィールド・ワーカーたちの物語
1979年に若くして亡くなられた水野浩一の論文を前田成文・坪内良博が編集したもの。
京大東南アジア研究センターが集中的に調査した東北タイのドーンデーン村の実証的社会調査記録である。

序章で述べられているように、タイの農村社会については、アメリカ人のエンブリー(John F. Embree) が日本社会と比較して、ルーズな社会と名づけたエッセイが大きな衝撃を与えた。
ヨーロッパと中国ぐらいしか参照したり比較する視点がなかった時代に、いきなり日本とタイを比較する論文があらわれた、というわけである。
衝撃も大きかったが、批判・反論も大きく、ルーズ、ルーズというけど、何がルーズなんだ、農村の組織か?構造か?ひとりひとりの人間の行動か?性格?、だいたい、社会組織に人間の行動が決定されるのか?
そもそも「農村」てなんだ?日本の農村とタイの農村が比較できるのか?
などなど議論を巻き起こしたようだ。

そうした中で、日本の研究者としてもっとも深く社会調査をしたのが水野浩一であった。
農村の経済、農地所有、家族、親族、階層構造、村落自治、宗教儀礼などについて実証的な調査結果がまとめられている。
特に「屋敷地共住」という概念を提出し、タイの農村は核家族であるがイングランドやヨーロッパの核家族とは異なるし、都市の核家族とも異なるという点を描きだしたのが大きな業績である。(そうですよね……)

とはいうものの、本書を、わざわざ現在読む人だったら、付論の「フィールドからの報告」と「工業化と村落の変貌 中部タイのオム・ノーイ村」のほうが、おもしろいのではないでしょうか。
1960年代前半の調査、ちょうどわたしが小学校高学年の時代、東京オリンピック前後である。
読んでいくと、別世界のようでもあるし、日本に近いような場面もあるし、なかなかおもしろい。

エマ・ラーキン 著 大石健太郎 訳,『ミャンマーという国への旅』,晶文社,2005

2006-11-19 22:18:43 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
ひょっとして、ラストに、とてつもないどんでんがえしがあるのでは、と期待したり、本書全体がパロディもしくはブラック・ジョークではないかと深読みしてもムダである。
ストレートにミャンマー軍事政権を批判した内容であり、著者自身にミャンマー社会とビルマ人を貶める思考があるのではないか?と自問する姿勢はまったくない。
わたしからみると、「人権ハラスメント」、あんたらの国はこんなに人権無視で非人道的で遅れているんだよ!としつこくしつこくわめきたてる本である。

ミャンマー社会全体への視点は、汚いものをみて目をそむける態度である。
スイカに群がるハエとか、汚いトイレ、ペンキのはげた建物、粗末な衣類などをことさら強調している。
悪かったよな、汚くて。
せっかく海外旅行するんだから、もっと積極的に楽しんで、肯定的にとらえればいいのに。

著者の旅は、ジョージ・オーウェルの過ごした都市をたどるものであるが、大英帝国のアジア支配については、著者に特に不満がないようだ。キプリングについても、深い批判も共感もないようで、英語圏の一般人はこの桂冠詩人の作品をあたりまえのものとして、捉えているようだ。(コメントの指摘のように、キプリングが桂冠詩人だというのは間違いです。われながら、なんで、こんな無責任なこと書いたんだろう)

ひとつだけ、もっともだと思う点は、ミャンマーの人たちが英語学習にとても苦労している状況だ。
著者のもとへも、英語を学びたい、英語を話したいというミャンマー人がたくさん集まる。
英語を話すこと、英語を勉強することに、ひじょうに憧れているのだ。
こうしたミャンマーの状況からみると、日本の英語学習環境はめぐまれている。
だから、本書の中で、意味不明の文、わけのわからない内容がたくさんあっても文句をいってはいけない。
訳者に文句をいうくらいなら、原書を読もう。
日本では英語を学ぶこともも容易であり、原書も入手できる。
翻訳者に文句をいってはいけない。

ノーマン・ルイス 著,野崎嘉信 訳,『東方の帝国』,法政大学出版局

2006-11-17 22:26:30 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
Norman Lewis, An Empire of the East Traels in Indonesia, 1993

トマス・クック紀行文学賞、というのを受賞したブリテン人のインドネシア旅行記。
なんと84歳の旅行である。
息子たちの運転する車でアチェーの旅行。
娘といっしょの東チモールの旅行。

トマス・クック紀行文学賞というのが、どういう賞なのかよくわからないが、全体的に普通の旅行である。
もしかすると、原文がユーモアたっぷりの名文なのかもしれないが、翻訳ではよくわからない。
あるいは、84歳の老人旅というのが売りどころなのか?

訳者の解説が勘違いで、「失なわれゆく世界」を記録したものではない。そんな肩に力がはいった旅行ではなく、もっと気楽で悠々とした旅である。
とはいうものの、どうして、アチェーだの東チモールだの、インドネシアの恥部をえぐるような地域ばかり選んだのか疑問である。
また、バリ島で偶然会ったタクシー・ドライバーが1965年の大流血事件をくわしくしゃべる、というのも、ちょっとウソくさい。そんなに、外国人旅行者に対し、気安く過去の忌まわしい事件をしゃべるもんだろうか。

石澤良昭・生田滋 著,『東南アジアの伝統と発展』,中央公論社,1998

2006-11-17 22:24:30 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
新版「世界の歴史」の第13巻。
今回、根気よく通読をめざす。
残念ながら300ページくらいでダウン。
結論。
本書の通読は不可能、というか意味がない。

専門分野での業績も多く、一般読者向けの本も多い著者ふたりであるが、本書については、やはり、王朝や王様のなまえの羅列でおわっている。
というか、東南アジアの歴史、1500年前くらいまでは、王様の名を列挙する以外の史料がないのではなかろうか。
また、ヨーロッパや中国の歴史叙述の方法を取り入れた場合、こんな具合にしかならないのではなかろうか。

東南アジアに興味をもてば、だれでも、一冊で歴史が通観できる本がほしいとおもう。
それで本書のような通史をめくってみるわけだが、本書を含め、通史の体裁で東南アジアを知るのは不可能であるようだ。

わたし自身の方法としては、以下のようなことを考えている。
この、中央公論社のシリーズ全30巻を例にすると、
第13巻;明清と李朝の時代
第14巻;ムガル帝国から英領インドへ
第15巻;成熟のイスラーム社会
第16巻;ルネサンスと地中海
第17巻;ヨーロッパ近世の開花
第18巻;ラテンアメリカ文明の興亡
を読む。
これらは東南アジアと関係が深い地域の15世紀~18世紀あたりまでの歴史である。次に、
第19巻;中華帝国の危機
第20巻;近代イスラームの挑戦
第25巻;アジアと欧米社会
などを読む。
そうすれば、自然に東南アジアの歴史もわかってくる。

そんな悠長な方法ではなく、てっとりばやく東南アジアの歴史を知りたい、と誰もがおもうけれど、それは不可能なのだ。
というより、他の地域と独立した、固有の歴史なんてもんは、どこの国にもどこの地域にもないのだよ。

LOFT BOOKS 編集・制作,『06-07年版ニッポン放浪宿ガイド200』,山と渓谷社,2006

2006-11-05 22:42:14 | 実用ガイド・虚用ガイド
本ガイドの編集者および、このガイドで紹介されている宿泊施設経営者のせいではないけれど、やっぱり日本じゃあ、こんな放浪宿はムリだ。
本書の中にも書かれているが、日本で安く長期の旅をしようとおもったらモーターバイクか自家用車で動くしかない。
もちろん、自転車というのもありだし、自転車や徒歩のほうが長期の旅にふさわしいのはたしかだ。
だけど、夏はいいにしても、秋・冬・春はムリだ。雨にぬれたり、車に泥をかけられたりしたら、凍死する。
それでは、鉄道やバスの旅はどうかというと、とても放浪気分ではないし、コストがかかりすぎる。

こう考えていくと、夏場は、公園に野宿できるから安宿は必要ないし、秋・冬・春は、とても寒くて、公共交通機関で旅行する気がおきないのだよ。
もちろん、本書で紹介するような宿にとまるのが目的の人はいいだろうし、安く移動するのが楽しい旅行もあるだろう。
わたしの現在の気分としては、とても日本国内を、素泊まり3000円だの4000円もの金をかけて旅行する気はない。
毎日コンビニ弁当なんて考えただけでもいやになるし、雨の中を歩いてユースホステルにたどり着くとか、青春18切符で動くなんて、うんざりする。こんな貧乏放浪旅でも、結局一日1万円ぐらいの費用がかかるだろう。

つまり、こういうことだ。
日本では、電気、上下水道、道路、電話などに莫大なコストがかかっている。働いている人の賃金にも、高額の家賃、健康保険、年金のコストが含まれている。
こういう社会では、どんな生活をしようが、基本的なコストは(地方差などあるが)不変である。
安宿だろうが、ユースホステルだろうが、民宿だろうが、自称高級リゾートだろうが、ビジネスホテルだろうが、その基本コストは変わらないのだ。
そして、食事も風景も交通機関も均質なものになる。
こういうところを旅行する気にはならないのだよ。

本書には、秋田県の乳頭温泉、五能線、秋田内陸縦貫鉄道沿線などディープな地域も紹介されている。
まあ、一度は行ってみたいところかもしれませんね。
しかし、ここで暮らす者としていうと、夏はいいけど、そのほかの季節はとてもたいへんである。
移動はほとんど自家用車であるし、冬に新鮮な野菜はすべて県外・国外産だし、魚も県外・国外産だ。(とれたての山菜が冬にあるわけない。)
サイクリング道は道路工事資材置き場になっているし、道をたずねれば、タクシーに乗れと言われる(東南アジアの観光地みたい!)。
地元の人は、自家用車で移動することしか頭にないので、バスや鉄道の時刻なんて誰も知らないし、駅の位置すら知らない人もいるのだ。

まあ、恐いものみたさ、徒労を体験するために、一度くらい行ってみるのもよいでしょうが、ゆめゆめのんびりとした旅行ができるとは考えないように!
同じ年代が集まってわいわい騒ぐのは楽しいでしょうが、今の日本ではあまりに高価な楽しみだ。外国の宿で騒いだほうがよいでしょう。
本書には、個性的なオーナーが多数紹介されているが、長期の旅行で必要なのは、濃密なサービスではなく、ほっといてもらえる静かな宿ではないでしょうか?
そんな、ひとりほっといてもらいたい時に泊まるとすれば、やはりビジネスホテルになると思う。
東南アジアのゲストハウスも、濃密なサービスや同好の士の集まる空間である場合もあるが、ほっといてくれる宿も多いのですよ。

それから、本書紹介の施設には、禁煙の施設がやたら多いのだが、禁煙の要求はほんとに客の要求でしょうか?過去のユースホステルの禁酒規則と同じように、オーナーの趣味ではないでしょうかね?

上坂冬子,『原発を見に行こう』,講談社,1996

2006-11-01 15:31:06 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
中華人民共和国、インド、パキスタン、韓国、台湾の原子力発電所施設見学旅行記。
著者以外は技術畑の専門家といっしょ、原子力開発関係の国際組織の人脈を通して、めったにないチャンスに乗った旅行である。
はっきりいって、原子力発電に関する著者の見解は判断不能。わたしも著者と同じくしろうとであるから、いったいぜんたい原子力発電が必要なのか、経済的なのか、安全なのか、本書を読んでも判断できない。
ただし、ヒステリックにならず、冷静に判断しようとする著者の姿勢は共感できる。
たとえば、韓国から北朝鮮に原子炉技術を輸出する計画に対し、著者はたいへん好意的にとらえている。(本書執筆の時点で、北朝鮮で韓国型原発が稼動するのは2003年!と予定されているが、残念ながら、実現しなかったようだ。)
北朝鮮が原子力発電で電力供給が改善されるのならば、それは肯定的にとらえるべきであるし、韓国が協力するのもたいへんよいことである。
こんなあたりまえの態度で観察する著書の姿勢は共感できる。

東南アジアに関しての記述もあり。
現在、計画中だけで稼動させている国はないが、将来導入したい国は多いようだ。
さてさて、どうなることやら。