東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

菅谷成子,「スペイン領フィリピンの成立」,2001

2009-08-03 22:48:55 | 通史はむずかしい
『岩波講座 東南アジア史 3』収録
1565年ウルダネタによる北太平洋経由の帰路発見。これが画期。

マガリャンイスによる太平洋横断も画期的ではあった。
しかし、マガリャンイス隊は、スペイン王国にも東アジアにも東南アジアにも、ほとんど影響を与えなかった。
住民がハシカや天然痘でバタバタ死んでいくことはなかった。言語も地名も残っている。金鉱も銀山も発見されなかった。珍しい香料も産物もない。食糧の余剰もない。

マガリャンイス後も、ブルネイ王国の影響下にある首長たちがわずかな領域をまとめる程度。付近の海を日本人や華人が通り過ぎるだけ。(香木や金などわずかな取引は、日本人や華人との間でおこなわれていた。)

スペイン人もやってこない。帰り道がないから。西側はポルトガル人の領分である。
それが、レガスピ隊の到着、ウルダネタ隊による帰路航路発見によりフィリピン諸島は、一部ではあるけれど、ヌエバ・エスパーニャつまりメキシコと結ばれる。
ペルー領のポトシでは銀鉱の開発が始まっている。

ここで、福建=マニラ=アカプルコを結ぶ太平洋航路が確立する。
マニラ経由の絹製品を太平洋~大西洋とふたつの大洋を経て運んでも、500%の利潤があったそうだ。これぞ海のシルク・ロードてなもんだ。銀を求める明朝側の要求とも一致する。

マニラは福建商人の都市になる。同時に明朝の管理貿易からはずされていた日本人商人もやってくる。

アメリカ大陸のようなエンコミエンダ制は名目ばかりで、農業開発はほとんどない。マニラは食糧も交易品も日常品も労働力も福建(と一部日本や現地)から調達するという、完全な中継貿易都市になった。
マニラ=アカプルコ間の貿易が許されるのはフィリピン在住スペイン市民だけ。ほかのヨーロッパ人はもちろん、フィリピン諸島外のスペイン人の貿易も禁止された。しかも、マニラに入港できるのはアジア商人だけで、ほかのヨーロッパ商人は締め出された。ほとんど日本の鎖国のような状態は、1834年(!)まで続く。

ヌエバ・エスパーニャからの銀の流入は、明~清の経済と社会、東アジア・東南アジアの歴史に巨大な影響を与えることになる。
しかし、フィリピン諸島の社会は、それほど急激な変化・変容はなかったようである。
たしかに、マニラ周辺の首長の反乱、海賊行為などは頻発したが、ラテン・アメリカのような破壊的な影響はなかった。
むしろ、マニラの交易と都市生活に不可欠である華人とスペイン人の衝突が多い。
カトリックの支配も緩やかな変化であり、悪名高い教会支配といったものが生ずるには、スペイン人の数が少なすぎた。むしろ首長層がカトリック化し、カトリックの儀礼や教義が土着化していったと見てよいだろう。
ミンダナオ~スルー海域のムスリムの抵抗もスペイン人が記録するほど強力ではない。

そうではなく、マニラだけが突出し、地方の農業開発や綿製品工業が停滞したことが19世紀・20世紀になると顕在化する、と見てよいようだ。

こうして、スペイン領フィリピンはマニラだけが交易都市になり、ほかの地方はダト(首長)がプリンシパル(有力者)になってカトリック教会が浸透するという形になる。

石井米雄 ほか編,『岩波講座 東南アジア史 3』,2001

2009-07-31 20:11:46 | 通史はむずかしい
15世紀末から17世紀まで、交易の時代の東南アジア。
〈交易の時代〉というのは、アンソニー・リードが提唱したもので、この時代の東南アジアを港市国家が興隆し東西南北の交易が東南アジアを中心に展開した時代と捉える画期的な史観である。

本巻は、リードの〈交易の時代〉論を踏襲するとともに、リードが見落としたインド洋交易圏と明朝のインパクトを押さえる。
さらにリードが〈東南アジアの貧困の起源〉として描いた17世紀後半以降についても、交易の時代と連続した時代として考察し、ベトナム・ビルマなど大陸部国家の動きも視野に入れる。
つまり、交易の時代を17世紀前半で終わったしまったと捉えず、連続した歴史の中に位置づける。

わたしのブログのリード,『交易の時代』のエントリーは
blog.goo.ne.jp/y-akita-japan/.../19c00ff4151e9e66c7476162ae7ac662

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交易の時代については五つの論文、論文というより概説という体裁である。

家島彦一 イスラーム・ネットワーク
小川博  鄭和の遠征
生田滋  大航海時代(ポルトガルを中心に)
鈴木恒之 オランダ東インド会社
菅谷成子 スペイン領フィリピンの成立

以上、わたし自身はすらすら読めたので、とくにサマリーはしない。(と、思ったが、何個か書いた。)

以上の「交易の時代」に、東南アジアの各領域が固まったことについて、六つの論文。

西尾寛治 「17世紀のムラユ諸国」
石井米雄 「後期アユタヤ」
八尾隆生の論文は2編。
       15世紀のベトナムについて「山の民の平野の民の形成史」
       16-18世紀について「収縮と拡大の交互する時代」
奥平龍二 「ペグーおよびインワ朝からコンバウン朝へ」
加藤久美子 「山地タイ人国家」

ベトナムは前の巻もそうだったがややこしい。
ジャワについては鈴木恒之論文が扱っているが、この巻になってカンボジア平原が消えている。もっとも、カンボジア平原ばかりでなく、メコン・デルタもまだ見えないのであるが。
一方で、従来見過ごされてきた「山地タイ人国家」(シプソンパンナー、ランナー、ランサーン)も射程におさめる。

『岩波講座 東南アジア史 2』その3

2009-06-25 22:05:01 | 通史はむずかしい
ベトナムと大陸北部のタイ人世界を積み残したが、ひとまず東南アジア史の古代世界から去る。

この第2巻で描かれるのは、モンゴル帝国のインパクトはけっして東南アジアの古き良き世界を壊滅させたのではなく、新しい時代の幕開けを告げるものである、という見方だ。
モンゴル軍の衝撃が大きかったか、さほど影響を与えなかったか、議論が分かれるところであるが、ひとつの時代の画期としては意味があるだろう。

〈13世紀の危機〉というセデスの説は、13世紀を分水嶺とする点では当たっているかもしれないが、決して危機ではなく、新しい世界の幕開けである。

ずっと後の世に、まだ東南アジア史研究家というものが存在したら、〈20世紀の危機〉はあったか否か?なんて議論をするかもしれない。

たとえば、

20世紀の東南アジアは日本の衝撃によって危機に陥ったか?

いや、日本の衝撃は、20世紀全般の北アメリカの衝撃に含まれるもので、連続した流れに位置づけられる。日本独自の衝撃などと呼べる要素はなかった。

いや、衝撃という用語自体おかしい。それ以前もそれ以後も、東南アジアらしさは継続している。日本も北アメリカも、20世紀以前から東南アジア史に参入しているプレイヤーたちの一つのすぎない。

いや、日本が関わった事件はさほど重要ではないが、この時期は、その前と後を分ける歴史的な画期として意味があるのだ。便宜的に、〈大日本参入時代〉と名づけよう。

それは過剰な評価である。この20世紀東南アジアはヨーロッパやラテン・アメリカ、イスラム世界と同じような世界システムの一部であったのだ。東南アジア特有の要素はない。ゆえに、日本の衝撃などという過大評価は、ちゃんちゃらおかしい。

いや、東南アジアにとってのインパクトは小さいが、日本にとっては重要な事件である。東南アジアの研究者も、日本のことを無視しないで、日本に与えたインパクトを理解してほしい。

……なんて議論をするかもしれない……

深見純生,「海峡の覇者」,2001

2009-06-24 22:13:20 | 通史はむずかしい
『岩波講座 東南アジア史 2』所収
ムラカ王国成立直前までのマラッカ海峡両岸とマレー半島港市を扱う。

やはり、ここが東南アジアの中心。四方向からの動きが交差する。

現地のチャディの短い刻文をのぞくと、現地史料は限られている。
しかし、来訪者の史料は抜群に多い。
なんといっても、マルコ・ポーロ、イブン・バットゥータ、鄭和の船団、三つの文献があるのはここだけ。
南インドのチョーラ朝刻文、インドとタイの刻文、ジャワの『パララトン』、『ナーガラクルターガマ』(これは、ジャワ側では『デーシャワルナナ』と呼ばれる)がある。
漢籍史料は正史の朝貢関係のほか、宮廷外の『嶺外代答』『島夷雑誌』『諸蕃志』『大徳南海志』『島夷誌略』などなど。
アラビア語史料との摺りあわせもできる。

ただし、各々の史料の描く港市、地名が微妙に咬み合わないので、地名比定や勢力分布に議論が生じる。
〈三仏斉〉と記される〈王国〉がどこにあるのか、どれほどの勢力なのか。
本論の著者も、ほかの論者も、〈三仏斉〉は広域を領土をもった国ではなく、交易の拠点を占める港市であり、時代とともに位置が替わったという見方におちついている。
〈三仏斉〉と〈室利仏逝〉を同じとする漢籍史料はなく、正史記録者には連続する政権と捉えられていない。というか、正史記録者は、地理的位置に無頓着なようだ。

ともかく、東南アジア史の概説では、しょっちゅうこの〈三仏斉〉はどこですか?という説明があるが、あんまり気にすることはない。
複数の港市が鼎立し、興亡を繰り返していた、と覚える。

海賊・国家・商人の三位一体となった港市である。

13世紀
単馬令=ターンブラリンガとマラユ

ターンブラリンガ(=ナコーンシータマラート)が台頭する。王チャンドラバーヌ。
一方、スマトラ側の港市マラユ(=パレンバン)はジャワ勢力。

そこへシャムの勢力(前アユタヤ)が北側から流れこみ、14世紀前半にはナコンシータマラートはシャムの勢力に組み込まれる。
明初、朝貢貿易が枠をはめていた時代にはジャワ(マジャパヒト王国最盛期と重なる)がマラッカ海峡ルートまで掌握していた。

パレンバンは亡命華人の流入で混乱。(これを収拾したのが1406鄭和の航海)。
パレンバンの混乱の中、マジャパヒトは海峡ルートをコントロールできなくなる。
動乱の中で1400年ごろパレンバンから押し出されたパラメスワラ王子がムラカ建国。

とういうわけで、錯綜しているが、1400年ごろを境にして、ジャワ勢は東のジャワ海、ヌサ・トゥンガラ、マルク方面だけに撤退。
スマトラ島東岸の港市群は存続するが、中心はマレー半島西岸のムラカ(=マラッカ)に移る。
シャム勢は、マレー半島の中ほどでストップ。

こうして、イスラムの到来とポルトガル人の参入を待つことになる。

青山亨,「東ジャワの統一王権」,「シンガサリ = マジャパヒト王国」,2001

2009-06-23 21:59:36 | 通史はむずかしい
『岩波講座東南アジア史 2』収録の二論文。

アイルランガ政権(1019-)からクディリ王国(-1222)への過程
その後の短期シンガサリ王国(1222-)と次のマジャパヒト王国(1294-)
シンガサリ = マジャパヒトと二重ハイフンでつないでいるのは、領域的に文化的に連続しているから。血統も繋がっていることになっている。

ある意味、東ジャワはわかりやすい。
10世紀以前の中部ジャワ・マタラム王国が内陸的で、ぎごちない〈インド化〉の時代だったのに比べ、東部へ移ると現在まで辿れる文化が生まれる。
中部→東部という重心の移動は、インド洋へ注ぐプロゴ川・オパック川流域→ジャワ海へ注ぐブランタス川流域への移動である。

いちはやく、インド的なものを垂迹させ(衰弱ではないよ。インドの神様のキャラクターをジャワ的に翻案した。インターネット用語の「アバター」が「垂迹」。)。
古ジャワ語文学『アルジュナウィワーハ』をはじめとするカカウィン成立。ラーマーヤナをジャワ語で語り、マハーバーラタを翻訳する(部分的だが)。
マジャパヒトの宮廷ではジャワ語による年代記『デーシャワルナナ(別名ナーガラクルターガマ』(1365)が完成。

寺院建設も壮大で非人間的なものではなく、親しみやすいカワイイ物、ケッタイな物が生まれる。
上座仏教やイスラーム浸透以前に、土着文化が生まれたと見てよいだろう。

地理的な範囲も、あくまで大陸部やマラッカ海域と比べてだが、現在の文化領域と重なる。ジャワ東部、マドゥーラ島、バリ島が中核域。それより東のヌサ・トゥンガラやマルク海域、北のカリマンタン島には、ジャワ勢力を脅かす勢力は存在しない。

このような文化圏の成立が早期に可能だったのは、やはり東南アジア最高の農業生産性の高さと人口密度。
あくまで推定の域であるが、各時代をつうじて、ジャワ島中・東部の人口は東南アジア全体の四分の一とみられる。
東南アジア全体の人口が2000万人なら、ジャワ人は500万人。全体が1億人ならジャワ人は2500万人、と大雑把に見積もられている。
現代なら人口の高さは必ずしも国力や文化的先進性に結びつかないが、近代以前においては抜群の利点だったと思われる。

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アイルランガ王の事績は以下のように伝えられている。(こういう細かい話にこだわることはないのだが)

有名なプチャンガン刻文1041年(別名カルカッタ刻文)による。

シンドク王は東部へ都を置いた王であるが、彼シンドク王自身はマタラム王国の正統な後継者を任じていた。
そのシンドク王の跡を継いだのが娘イーシャーナ・トゥンガウィジャヤ女王。
その女王の娘グナプリヤダルマパトニー(別名マヘーンドラダッター)
グナプリヤダルマパトニーはバリの王ウダヤナと結婚し夫とともにバリを統治。
その息子の一人がアイルランガ。
アイルランガは、ジャワのダルマワンシャ王に請われてジャワに渡り、王の娘と結婚した。

この辺の理由がわからないし、ダルマワンシャ王の血統も不明。

ともかく、アイルランガ王は、シンドク王の娘の娘の子つまり母系の曾孫として、さらにダルマワンシャ王の娘婿として王位継承権を持ったようだ。

ダルマワンシャ王の時代はマラッカ海峡方面(三仏斉)へも勢力を延ばし、マハーバーラタ翻訳事業も試みられた時代である。
しかし、中部ジャワ方面からのウラワリという地方領主の反乱で王都は灰燼に帰す。ダルマワンシャ王死す。
その時、アイルランガは腹心の家臣とともに山林の隠者の庵に退避し、1019年、ヒンドゥー教シヴァ派僧、仏教僧、バラモン教聖者たちの聖別を受けて王位についた。

どういう意味じゃ?とつっこみたくなる部分もあるが、インド神話のモチーフと双系制の王位継承をリミックスした内容で、解りやすいといえば解りやすい。
実際の勢力争いがどうであったか、現代人の思考からは疑問も生じるが、こういう内容の刻文が記されたというのは、それなりの世界観が定着していたということだろう。

その後、アイルランガ王はブランタス・デルタの開発と海外交易を奨励する。実際は地図で見るとちっぽけなブランタス・デルタも当時の技術では治水がむずかしかったようで、農業の中心は中流域だったようだ。
交易港はマス川河口のフジュン・ガル。
外来の商人は、北インドのカリンガ出身者およびアーリア人、スリランカのシンハラ人、南インドのドラヴィダ人、パンディキラ(パーンディアとケーララ)出身者、チャンパーおよびルムン(おそらくアチェー)出身者、クメール人。

その後、アイルランガ王の晩年(1052年と推定する説が新しい)王国を二分する。
カフリパンに都を置くジャンガラ王国(トゥバン~スラバヤ~パスルハン、沿岸領域)
ダハ(クディリ)に都を置くパンジャル王国(クディリからマディウンの内陸領域)

これもマハーバーラタに同じモチーフがあるそうだ。

その後、ジャンガラが消滅、パンジャルの後継者としてクディリ王国が支配。刻文の空白期間があるが、クルタジャヤ(1194-1205)まで王の記録あり。

1222年、ケン・アンロクがクルタジャヤ王を倒しクディリ王国滅ぶ。

といっても、クディリ王国時代も断絶があり、ケン・アンロク以降のシンガサリ王国も前代の領域を引き継ぎ、名前が変わっただけで、同じような王国が続いたようにも見られる。

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長々とヘタな要約みたいなものを書いたが、何を言いたいかというと、

モンゴル侵攻の時の混乱(シンガサリからマジャパヒトへの転換)も、上記のような混乱と同じようなものではないか、ということ。

モンゴルの目的は、現在広く了承されているように領土的な支配ではない。
交易ができればいいのであって、現地の勢力の血統とか正統性は問題ではない。

とすると、モンゴルのインパクトというのは、ジャワ東部にとって、いつの時代にもあるような混乱である。
モンゴル撤退後、すぐに元に朝貢している。

ジャワ東部にとってモンゴルの衝撃とは、モンゴル軍の上陸の戦闘ではなく、ずっと西のほう、マラッカ海峡の勢力の変化であろう。

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シンガサリ→マジャパヒト転換の経緯と〈元寇〉

1279   南宋滅ぶ

1280~ 元、シンガサリへ使節数回
1289   クルタナガラ王使節へ刺青をして返す
1292   元、2万の遠征軍派遣

1292  クディリ領主ジャヤカトワン反乱
     クルタナガラ王殺害さる
     クルタナガラ王の娘婿ウィジャヤ、王統を継ぐ
     ウィジャヤ、マドゥーラへ脱出
     ウィジャヤ、トロウラン付近に拠点を築く
     (この場所のマジャの実が苦かったのが、マジャパヒトの名の由来)
     
1293  元軍、ジャワ北岸トゥバンに上陸
     ウィジャヤ、元軍に降伏
     ウィジャヤ、ジャヤカトワンを共通の敵と伝える。
     元=ウィジャヤ連合、クディリを陥落

     ウィジャヤ、元軍を攻撃、撃退
(このへん、なぜ簡単に撃退できたか不明)
1294  ウィジャヤ、マジャパヒト国王として即位

1295  マジャパヒト、元へ朝貢開始
     (つまり、元撃退の2年後に朝貢、以後37年間に10回の朝貢)

つまり、元の使節を追い返す理由がないし、マジャパヒトと王国名を変える必要もない。(元に対する外交上、名前を変えたのだろうか??)

この後、マジャパヒト王国は、東王宮と西王宮の二つの王家に別れ、お互いに娘を嫁入りさせる。
トリブワナー(1328-1350)は、出家した女王ラージャパトニー(!王女ではない、女王である)の娘であり、王国の摂政となる。
その女性摂政を補佐したのが有名な宰相(パティ)ガジャ・マダ。

彼ガジャ・マダの時代に多数の遠征により、バリやジャワ島最東部がマジャパヒトの勢力下にはいる(バリ島へジャワ風文化の浸透)。反乱も多いがすべて鎮圧。ガジャ・マダは、次のハヤム・ウルク(ラージャサナガラ王)の時代も宰相を務める。この時代に、スンダ地方にも勢力をのばす。有名らしいスンダ事件があるが、詳細はよくわからん。

この頃がマジャパヒトの最盛期で、現在に伝わる宮廷文化(クリス、ガムラン、ワヤン・クリ、ワヤン・ベベル)、敬語体系など、ほぼ出そろう。

東はヌサ・トゥンガラ、北はボルネオ島、西はスマトラ島、マレー半島まで交易支配圏におさめる。
とくに三仏斉(=バレンパン)の権益は重大案件であり、三仏斉で明朝の使節を殺害するという、他の地では考えられない事件もおこる。それにもかかわらず、明朝はマジャパヒトを懲罰することができなかった。東部海域からの産物を支配するマジャパヒトの力はそれほど大きかったのである。

著者の分析によれば、マジャパヒトは明朝の朝貢体制が安定していた時代は交易の主導権をにぎることができた。
しかし、明が朝貢(管理貿易)を維持する国力が衰え、民間貿易が活発になると、交易の中心はマラッカに移り、海峡へのマジャパヒトの影響力は衰える。東部ジャワがそれまで掌握していたジャワ海・フローレス海・マルク諸島の交易を、マラッカが奪い取る形になり、マジャパヒトは交易の拠点として力を失う。
ジャワ島北海岸にドゥマクなどイスラム王国が生まれ、次の時代の主役になる。
マジャパヒトが消滅した正確な時期は不明。16世紀初頭らしい。

石井米雄,「「ポンサーワダーン」(王朝年代記)についての一考察」,1984

2009-06-22 18:01:46 | 通史はむずかしい
『東南アジア研究』,22巻1号,1984年6月 所収
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/54702

pdf ファイルで読める『東南アジア研究』を紹介していくとキリがない。
わたし自身、時々ぺらぺらめくるだけで、各論文を熟読しているわけではないし、熟読しようと思っても、頭がついていかないのだが、概論的な図書よりも学術論文のほうが解りやすい場合がある。
とくに『東南アジア研究』の論文は、中身は濃いが文章が平明で、読もうと思えば読める。

ちなみに、東南アジア学会の『東南アジア 歴史と文化』のほうも電子化が予定されているようで、はやくタダで読めるようになってほしい。(実際に電子化されても、熟読しないだろうが……)
現在、著作権委譲に関する告知がでている。現在の会長が伊東利勝氏なんですね。

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以下メモ。直接読めばいいので、他の方には不要だろう。石井米雄の単著にも収録されているはずだが未見。

で、中身は、

19世紀から20世紀にかけて、タイ王朝史観の成立過程。
その中核となる「ポーンサワダーン」(王朝年代記)
がどのような過程で成立したか。

通称パレゴア本「シャム王朝年代記」
通称チャイニーズ・レポジトリー本(1836-38)
通称モー・プラドレー本(1864年)
 タイにおける最初の印刷された史書

以上は、「ポーンサワダーン」と総称される王朝の年代記であり、アユタヤに降臨した神の化身の王統の歴史として綴られる。
つまり、アユタヤ以前の物語はない。

ラタナコーシン朝年代記

通称「御親筆本」(1855)
ティパコーラウォン著『ラタナコーシン王朝年代記』
 1869年完成。1901年出版
ダムロン親王『2世王年代記』
 1916年完成。刊行は1961年
三世、四世の年代記は1934年完成。

ダムロン親王による『五世王年代記』は1934年ごろ(立憲革命でペナンに逃亡中)書かれ1950年出版。

ダムロン親王による『御親筆本王朝年代記』の改訂出版、1914。
この1914年改訂出版の前文で、
「スコータイを王都とする時代」
「アユタヤを王都とする時代」
「ラタナコーシン(=バンコク)を王都とする時代」
という三時代区分を提唱した。

同時期、ジョルジュ・セデスは、『御親筆本王朝年代記』の出版を海外にしらせる。
その後、セデスはダムロン親王の招きでバンコク滞在。(1918-29、12年間)
「国立ワチラヤーン図書館」主席司書、王立翰林院事務局長をつとめる。
ラーマカムヘン王碑文、ナコーン・シーチュム=リタイ王碑文を研究。
1920年「スコータイ王朝の起源」を発表。
1924年『スコータイ碑文集成』出版。

ダムロン親王は1924年、チュラロンコーン大学で「タイ国史」の特別講義、1925年『シャム史講義』として出版される。

同時期、「国立ワチヤラーン図書館」(「」でくくるのは国立ではない、という意味か??)中国語専門家ルアン・チェーンチーンアクソーン、暹羅関係の漢籍記事をタイ語訳。これが『明史・暹羅伝』の見解をタイ語で紹介し、「スコータイからアユタヤへ」というシャム史の見方を定着させる。1917年出版「タイ史料集成 第5集」

ダムロン親王の〈ポーンサワダーン〉概念は、現代の歴史学とは異なること。
その時代の王朝年代記の読み方には注意が必要であること。

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以上、年号を並べたが、明治維新や第一次大戦の年号と照合すると、タイ王国の危機と国史の誕生が関連づけられるだろう。

藤原貞朗,『オリエンタリストの憂鬱』 第8章

2009-06-21 19:45:54 | 通史はむずかしい
第8章 アンコール遺跡の考古学と日本

この第8章だけでも新書一冊以上の濃い内容。有名人多数登場。

たとえば伊東忠太。
水戸影考館所蔵の「祇園精舎図」について、「「祇園精舎図」とアンコール」という講演をし、アンコール・ワットの平面図であると指摘したのが伊東忠太、1910年のこと。
伊東忠太は1912年の段階ではやくもハノイ極東学院を訪れている。
本書によれば、この時点では建築学的興味は薄く、むしろ日本人とアンコールの歴史的関係に重点を置いていたそうだ。
その後、築地本願寺、京都・祇園閣などクメール建築のモチーフの影響がある作品をつくる。靖国神社公式参拝に反対しているのが築地本願寺を含む浄土真宗というのが、なんとも皮肉というか。建築様式ばかりでなく、意外とルーツが共通しているってことはないかいな?大谷探検隊もフランス側の調査と交差しているし……。こういう話につっこむとキリがないので止めるが。

たとえば岩生成一。
「アンコール・ワットにおける森本右近太夫の史蹟」は1928年。

しかし、本格的な紹介とブームになったのは、1940年代、仏印駐留の時代。このころフランスの研究がどっと翻訳・紹介されている。というか、この時代だけがフランスの研究成果輸入ブーム。

1940年6月 パリ陥落
        カトルー総督、日本の軍事協力保留
        カトルー解任、ジャン・ドゥクー新総督
1940年8月 ドゥクー総督、日本と軍事協定
1940年9月 日本、北部仏印進駐
1941年7月 日本、南部仏印進駐

一連のアンコール・ブーム以前に、極東学院の人脈と深くつながっている日仏会館が設立されている。1924年3月。

くわしく解説すると、本章の中身を全部書くことになるが、ひじょうに大雑把にいうと、以下のような、日仏両者の齟齬がある。

極東学院としては、日仏会館はアジア研究の出先機関にすぎない。日本側はフランスの研究の器だけ作ってほしい。
一方、日本人にとっては、輝かしいフランス文化の窓口である。アジアがどうのこうの、そんなことは関心がない。

それが、1940年代、アジアは一つ!欧米の文化を追従するような根性じゃいかん、我々日本人こそがアジアを研究するのだ、という雰囲気になる。もっとも、ほんとうはパリやフランスに憧れているんだけれど。

一方、本国から切り離された極東学院のメンバーにとっては、なんとしても生き残り、自分たちの研究基盤を確保したい。研究基盤ばかりか、仕事や生活も日本に認められないと成り立たない。

両者の思惑が異なるなか、フランスと日本の協力体制が生まれる。
極東学院の主要メンバーは院長ジョルジュ・セデスとヴィクトル・ゴルベフ。
セデスはハンガリー生まれ(←まちがい、祖父がハンガリー人、パリ生まれだ)のユダヤ人で、ベルリン大学でドイツ文学の学位取得、1911年にインドシナに渡り、1918年カンボジア女性と結婚している。
ゴルベフはロシアのサンクト=ペチェルプルクの貴族の家系に生まれ、裕福な社交人。ドゥメール、サロー、ペタンとも親交あり。いやあ、本書を読むまでまったく知らなかったが、小説になりそうな数奇な人生だ。アンコール研究者としては1920年極東学院のメンバーになり、航空写真による分析を導入、プノン・バケン研究の嚆矢。

メトロポール・パリから見ると余所者である彼らが、日仏友好・文化交流の中心となり、戦中を生きのびる。ちなみに、ゴルベフの事績もセデスの戦中の事績も、極東学院の歴史の汚点のように扱われていた。1943年から45年の極東学院の活動は『学院紀要』にまったく記録されておらず空白である。

この、つかの間の日仏友好に登場する日本側の人物は、太田正雄=筆名木下杢太郎・藤田嗣治・和田三造・黒田清・梅原末治などなど。
わたしが知らない名も多いが、このうち第二回教授交換でインドシナへでかけた考古学の梅原末治が重要。韓半島の考古学成果がフランス側に紹介され、梅原自身はドンソンを視察している。学級肌の人物。

梅原のように、考古学調査やドンソンに興味を持った人物は例外で、大勢はアンコールが目玉。
帝室博物館との〈美術品交換〉もクメール美術が目玉であった。
結果として、現在の東京国立博物館にアンコール時代の彫像があるわけである。

日本のメディアも、おめでたく「東邦の盟主」として、アンコールの廃墟を日本人が守るのだ、というメッセージを発する。
いわく、
「今日のカムボヂア人がこの民族の後裔であるといふことが、些の誤りもない事実であるならば、大東亜共栄圏確立の澎湃たる東亜民族の血のたぎりが、仮死の状態に眠る民族の血を湧きたたせないではおかないであらうと信じる」(朝日新聞1941年8月10日)

やれやれ……。

本書を通読して、ここまで読みすすめてきた読者にとっては、意外でもなんでもないし、これこそが学問を推進するムードであり政治的な場であるのだと、容易にわかる。だいたい、現代でも同じような文句があるよな。

著者は、いまさら教条的な批判をしても無意味である、いや戦争や植民地的状況が学問を作るという立場で書いているが、本書の内容を講演したとき、予想どおりに、日本の過去の植民地主義的研究を批判される。
講演は韓国のソウルで2006年。
そこで、型どおりの批判を受けるとともに、内容を書籍として発表することを薦められる。
著者は書籍として出版する気はなかったのだが、韓国人の励ましで、めでたく本書が誕生することとなったのだ。

よかったよかった。
それにしても意外な事実とおもしろい話がてんこもり。
出版社めこん以外からの刊行だったら、けっして手にすることはなかっただろう。

ジョルジュ・セデスという巨人については書き出すとキリがないが、タイ王国史に関して、事項参照。

藤原貞朗,『オリエンタリストの憂鬱』,めこん,2008 その3

2009-06-20 22:11:17 | 通史はむずかしい
以上のような、極東学院とメトロポール、対立しながらも一定の方向へ進んだアンコール研究を、著者は非難しているわけではない。
無駄なイベント、国威発揚、人種偏見、すべて学問の発展にかかわったと捉える。そんななかで、現在なら激しい批判を浴びるだろうスキャンダルが、美術品の売却である。

ジョルジュ・グロリエとアンリ・マルシャルが主導し、新しい学院長であるセデスも容認、いや推進したようだ。

念のために書いておくと、これは違法行為ではない。合法的な売買である。
最初は、観光客向けに、それこそレンガの破片のようなものを、土産物として売った。
次に小金持ちの観光客のため、二流・三流の石像を売り始める。オークションも開く。
そして、ニューヨーク・メトロポリタン美術館などへ、高額の一級品を売るまでになる。

このことは、学院の資金調達のための苦肉の策でもあるが、同時にアンコールの美を世界に発信することにもなる。
野次馬気分の観光客であれ、ニューヨークの美術館であれ、本物を提供しないことにはアンコールをアピールできない。
さらに、パリの美術館にこそ世界最高のクメール美術が様式順に揃っている、というステイタスをアピールすることになる。

****************

ちなみに、ジョルジュ・グロリエという人物は、本書に登場する中では珍しく芸術家肌の人間である。つまり考古学者や建築家でもなく、歴史家でもなく、冒険家でもない。
植民地官吏の息子としてプノンペンに生まれ。もちろん教育はパリで受け、第一次大戦にも従軍するが、そのほかの大部分はカンボジアで暮らす。1945年憲兵隊の手に落ち、獄中で死去。
カンボジア美術学校校長としてでカンボジア人の指導をし、クメール美術の復興をめざす。伝統文化の「ルネサンス」を推進したのだ!当然、〈現地人〉を指導するのは〈フランス人〉のグロリエであるのだが……
さらに、カンボジア美術館のブティックで、隣の美術学校で制作したレプリカを販売する、という新機軸も彼が始めたのも彼である。それが、本物販売にエスカレートする……

このジョルジュ・グロリエには息子がいて、その息子もクメール研究者になる。
現在では息子ベルナール = フィリップ・グロリエのほうが有名だろう。〈水利都市〉論のグロリエです。
わたしは混乱していて、グロリエという名の人物が二人いて、父子とは知らなかった。

うるさいケチをつけるわけではないが、本書の索引も混乱している。
ベルナール = フィリップ・グロリエ という息子のほうの項目しかないが、この項目にあるページは大部分は父・ジョルジュの話である。

藤原貞朗,『オリエンタリストの憂鬱』,めこん,2008 その2

2009-06-13 21:26:29 | 通史はむずかしい
全体の対立軸は、インドシナへ実際に出かけて発掘や修復をした極東学院のメンバーと、メトロポール=パリのエリート学者たちである。
対立を悪と見るのではない。むしろ、対立の中で考古学や美術史、歴史学の成果が生まれた。

象徴的で画期的な事件がいくつかあるが、まず、
フィリップ・ステルネ著『アンコール遺跡のバイヨン』の衝撃(第4章 10節)

1927年発表。そうとう有名な著作で、画期的な研究らしいが、恥ずかしながら初めて知った。もっとも、知った後で過去に読んだ本をみると、けっこういろいろな本に出ている。

アンコール・トムのバイヨン寺院の年代考証で、それ以前の説を覆し、アンコール・ワット建設の後の時代、とした。
その後、セデスが碑文解読から13世紀建設という説で補強する。ジャヤヴァルマン建立の寺院として定説となる。

定説もなにも、現在ではあまりにも当然のことで、ことさら強調されないし、年代考証に論争があったことすら説明されない。

ところが、これは1927年になって、やっと明らかになった学説なのだ。
しかも、現場の極東学院のスタッフの頭越しに、一度もアンコールを実見したことのないパリの学者ステルネによって提唱された。
これは、アンコールの現場にいる研究者たちに、深い屈辱を与えた。

著者によれば、そしてわたしも同意するが、これは現物の遺跡を見たことがないパリの学者だからこそ発見できた成果である。
ステルネは、〈寸法が必ずしも正確でないデッサンや写真だけを検討し〉、推測した。
実証的な研究成果ではなく、理論から導かれた考証である。しかし、やんぬるかな!その理論的な考証のほうが、地道な現場の研究よりも正しかったのだ。

現在から冷静に考えると、ステルネの方法は格別めずらしくもなく、極東学院のスタッフが悔しがるほどでもない、とも言える。

現実の遺跡の前に立てば、暑さと埃、泥と砂、植物と昆虫、そういった混乱と自然の猛威のほうが圧倒する。
実際の修復作業にかかると、カビや湿気で変色した石材の細部を検討して元の位置を考える。とても全体の様式を考察している余裕はない。
いや、全体的な様式を予見せずに、地道に部分部分を修復していくのが学問的な修復なのだ。それと反対に、最初から完成図を予想して「復元図」を作ってしまったのが第1章で紹介されたドラポルトなど19世紀の学者である。

ちょっと脱線するが、実際の遺跡を見て、たとえば、これがヴィシュヌ像か!おお、ウプサラ像だな、あれは乳海攪拌か、なんてわかる人は、そうとう訓練を積んだ研究者だけである。
たいていの人は写真や美術全集で見たものを確認するだけだ。
遺跡現場では、仏像の様式や浮彫の構成よりも、アリやアブやトカゲのほうに注目してしまう。

そして、現在簡単にアクセルできるあの美術全集の構成、オリエント、エジプトからアフリカ、ポリネシアまでを系列に並べるという発想は、このアンコール研究の直前に生まれた新しい発想なのである。
この新しい発想の上で、世界各地の様式を俯瞰できる立場のメトロポールのエリートだからこそ、クメール美術の年代も推定できたというわけだ。

このような、学問的成果を積むメトロポールのエリート VS. 予算も人材も不足した極東学院の現場の対立が本書の主題である。

双方に関わったメンバーを紹介した第3章・第4章がわたしには一番おもしろかった。(著者の友人からの反応には、くどすぎる、というものがあったそうだ。)

その後の章では、遺跡からの美術品売却というスキャンダラスな話題が論考される。この部分については別項で。

第7章 パリ国際植民地博覧会とアンコール遺跡の考古学

大仏帝国の威信を世界に発信し、同時にアンコール調査の成果を一般大衆や政府関係者にアッピールするイヴェントが1930年のパリ国際植民地博覧会である。
この博覧会の最大のモニュメントが、実物大アンコール・ワット復元である。
莫大な経費をかけ、この経費の十分の一でも実際の遺跡研究に向けられたら……と、現在なら思える、壮大な無駄である。

この有名な博覧会は、他の面でも悪名高くさまざまな方面からの研究がある。
イスラーム諸国をエキゾチックな退廃とみなし、アフリカの原始的な美を賞賛し、カリブ海の文明化を称揚し、ポリネシアの無垢の野生を愛で……といった調子で、現在批判される偏見のオン・パレードである。
コロニアリズム、人種主義、文明化、といった用語を使って、いくらでも批判できる。シュール・リアリストらの反対運動も有名だ。

その中で、最大の呼び物がアンコール・ワットであった。
すでに、極東学院は地道な調査・研究のほかに、観光地としてのアンコールの整備も業務の一環であり、ツアーのプロモーションの意味もあった。
バリ島で進行していたような観光化がアンコールでも進行していたのだ。

博覧会のパヴィリオンは閉会後すべて取壊されたが、恒久施設として「植民地宮」だけが保存される。
1939年まで「植民地博物館」、その後1960年まで「フランス海外県美術館」1961年からは「アフリカ・オセアニア美術館」と何度も名称を替えて存続した施設であるが、2006年開設の「ブランリー美術館」に展示物が移管され、役割を終えるはずであった。取壊される予定だったのが保存運動が起き、現在「国立移民博物館」として再生されている。
ちなみに、パリの観光案内などでは、無数の有名博物館、個性的な美術館の蔭になって、ほとんど無視されているようですね。

その現在の「国立移民博物館」の建築様式と外壁装飾、内部のフレスコ装飾が紹介されている。アンコール、というよりアンコールもどきも描かれている。観光客の訪れないパリの穴場、過去の遺産か恥辱か、という感じのものであるようだ。

さすがパリ、奥が深いもんですね。

藤原貞朗,『オリエンタリストの憂鬱』,めこん,2008

2009-06-12 22:27:07 | 通史はむずかしい
毎年毎年傑作を刊行する出版社めこんであるが、これはめったにない重厚な一冊。
未刊行資料を読みこなした完全な学術書であるが、読みやすくおもしろく、基本的な事実や時系列の情報もそろっている。
さらに、著者のスタンスも明確。

 私は本書に登場するオレンタリストの政治的行為に対して、善悪の判断をするつもりはない(そもそも近代の政治に善悪など存在しただろうか)。フーシェの言葉に明示されるように、植民地主義時代のオリエンタリストは学問が政治であると強く自覚していた。政治性なしには学問が成立し得ない、政治的であるがゆえに学問足りうる、そのような認識すらあった。こうした自覚的なオリエンタリストの行状や事績に対して、現在の我々が、たとえばエドワード・サイードの『オリエンタリズム』を盾にして、それを学問の名を借りた政治にほかならなかったといったところで、堂々巡りのトートロジーで意味がない。

 サイードがタイトルとして「オリエンタリズム」とは、従来は単に「東洋学」を意味する言葉であったが、彼の著作が注目されて以降、この言葉はまずもって西洋人が東方に向けた支配的で軽蔑的な態度を指すものに変わり果てた(少なくとも日本では)。私はサイードの分析の骨子に異議を唱えるつもりはない。しかし、サイードに依拠して、オリエンタリズムを短絡的に政治的悪として非難して事足れリとする言説が横行するようになった現状には異議を唱えたい。そもそもサイードの件の書が流行したのは、当時の我々がオリエンタリズム(東洋学)とは何であったかをまったく知らなかったからであろう。かりにフーシェがこの書を読んだとすれば、何を当たり前のことを書いているのだと思うだけである。

 私の目的は東洋学がいかに政治的であったかを明らかにすることではない。これは目的ではなくて前提である。この前提のもとに、私は、ある意味で政治史としてのアンコール考古学史を書き、政治的達成としての今日の考古学・美術史学の姿を浮かび上がらせたいと思っている。二〇世紀のアジア考古学が政治抜きでは成立も成功もなかったことを確認したいのである。その政治が悪だというのであれば学問もまた悪である。政治的悪のもとに豊かな学問的成果がもたらされたという現実もある。今日、オリエンタリストの言説や行動の政治性が非難されるのだとすれば、(前章で紹介した一九〇二年の東洋学者会議の方針に顕著なように)学問と政治を切り離し、学問に内在していた政治的な部分を忘却しようとしたからにほかならない。さらにいえば、現在に至る学問の伝統を擁護するために、我々はそうした現状においては、植民地主義時代を生きたオリエンタリストの事績に対して、せいぜい、彼らの学問的業績は素晴らしいが、政治的には問題がある、というような的外れな評価をするしかない。我々が継承した学問を擁護するために、その犠牲としてかつての学者の政治性が非難される。彼らオリエンタリストはこうした屈折した不幸な運命のもとにあるのだ━━これが、本書のタイトルを「オリエンタリストの憂鬱」としてゆえんである。こうしたまったく都合のよい学問礼賛と政治批判の現状にある学問史を克服し、すぐれて政治的であったオリエンタリスムの一つの歴史を描き出すことが本書の目的なのである。

(p160-161)

なお、引用文のなかのフーシェとは、ガンダーラ美術の権威で、「アフガニスタン考古学代表団」を結成、調査した人物。
イギリスと戦争を繰り返していたアフガニスタンに、1923年から乗り込み、積極的に政治に介入し、フランスの独占的調査を確立した。

上記引用だけ読むと、堅苦しい学術書に見えるが、おもしろい話がてんこもりである。また、フランス語文献学者によくある、ムツカシイ言葉使いはありませんので、その点安心してください。

しかも、人名辞典にさえ載っていないような無名の人物から超有名人まで、19世紀末から20世紀半ばのフランスの学界を横断した視野の広い著作である。

さらにすばらしいのは索引。
(1)人名・(2)団体名と機関名・(3)著作物・(4)主要遺跡と芸術作品・(5)そのほか、出来事や事件、法令、主要概念など、と五つのセクションにわかれている。

これがありがたい。すべて原綴り付き。
たとえば、
インド = シナ考古学調査団 Mission archeologique d'Iind-Chine
という団体があるのだが、一見すると、これは測量器具や鉄砲を担いで奥地へわけいって調査した団体みたいに思える。しかし、これは1898年に結成されたフランス極東学院の前身の組織であり、具体的な遺跡調査はやっていない。できなかった。

まだ、アンコール地区がシャム国王の統治下にあった時期に、フランス極東学院が開設されたのである。
アンコールがカンボジアに返還されたのは1907年。
インドシナ総督と(上座仏教の)僧侶たちの間で交渉が成立し、アンコール・ワットから僧侶が立ち退くのが1910年3月である。翌年、カンボジア国王によって「アンコール国定公園指定の法令」が発布され、「指定された地域はフランス極東学院によって管理される」法的根拠が固まる……というような細かい話を続けるとキリがない。

こうした状況で、中国とインドという巨大な文化遺産を持つ地域に挟まれたインドシナをいかにフランス圏内の偉大な文明遺跡とするか、それが当時のオリエンタリストが直面した問題である。
ジャワを独占したオランダ、インドを独占したイギリスに対抗し、それにドイツの学問伝統に対抗し、いかにフランス独自の学問をうちたてるかが課題でもあった。

その結果、本書に登場するオリエンタリストたちは、インド・中国はもちろん、カイロとアテネの東洋学、日本・オランダ領東インド・内陸アジアの考古学・美術史と交差する。スケールの大きな思想史であり政治史である。

ぜひ御一読を!