『岩波講座 東南アジア史 3』収録
1565年ウルダネタによる北太平洋経由の帰路発見。これが画期。
マガリャンイスによる太平洋横断も画期的ではあった。
しかし、マガリャンイス隊は、スペイン王国にも東アジアにも東南アジアにも、ほとんど影響を与えなかった。
住民がハシカや天然痘でバタバタ死んでいくことはなかった。言語も地名も残っている。金鉱も銀山も発見されなかった。珍しい香料も産物もない。食糧の余剰もない。
マガリャンイス後も、ブルネイ王国の影響下にある首長たちがわずかな領域をまとめる程度。付近の海を日本人や華人が通り過ぎるだけ。(香木や金などわずかな取引は、日本人や華人との間でおこなわれていた。)
スペイン人もやってこない。帰り道がないから。西側はポルトガル人の領分である。
それが、レガスピ隊の到着、ウルダネタ隊による帰路航路発見によりフィリピン諸島は、一部ではあるけれど、ヌエバ・エスパーニャつまりメキシコと結ばれる。
ペルー領のポトシでは銀鉱の開発が始まっている。
ここで、福建=マニラ=アカプルコを結ぶ太平洋航路が確立する。
マニラ経由の絹製品を太平洋~大西洋とふたつの大洋を経て運んでも、500%の利潤があったそうだ。これぞ海のシルク・ロードてなもんだ。銀を求める明朝側の要求とも一致する。
マニラは福建商人の都市になる。同時に明朝の管理貿易からはずされていた日本人商人もやってくる。
アメリカ大陸のようなエンコミエンダ制は名目ばかりで、農業開発はほとんどない。マニラは食糧も交易品も日常品も労働力も福建(と一部日本や現地)から調達するという、完全な中継貿易都市になった。
マニラ=アカプルコ間の貿易が許されるのはフィリピン在住スペイン市民だけ。ほかのヨーロッパ人はもちろん、フィリピン諸島外のスペイン人の貿易も禁止された。しかも、マニラに入港できるのはアジア商人だけで、ほかのヨーロッパ商人は締め出された。ほとんど日本の鎖国のような状態は、1834年(!)まで続く。
ヌエバ・エスパーニャからの銀の流入は、明~清の経済と社会、東アジア・東南アジアの歴史に巨大な影響を与えることになる。
しかし、フィリピン諸島の社会は、それほど急激な変化・変容はなかったようである。
たしかに、マニラ周辺の首長の反乱、海賊行為などは頻発したが、ラテン・アメリカのような破壊的な影響はなかった。
むしろ、マニラの交易と都市生活に不可欠である華人とスペイン人の衝突が多い。
カトリックの支配も緩やかな変化であり、悪名高い教会支配といったものが生ずるには、スペイン人の数が少なすぎた。むしろ首長層がカトリック化し、カトリックの儀礼や教義が土着化していったと見てよいだろう。
ミンダナオ~スルー海域のムスリムの抵抗もスペイン人が記録するほど強力ではない。
そうではなく、マニラだけが突出し、地方の農業開発や綿製品工業が停滞したことが19世紀・20世紀になると顕在化する、と見てよいようだ。
こうして、スペイン領フィリピンはマニラだけが交易都市になり、ほかの地方はダト(首長)がプリンシパル(有力者)になってカトリック教会が浸透するという形になる。
1565年ウルダネタによる北太平洋経由の帰路発見。これが画期。
マガリャンイスによる太平洋横断も画期的ではあった。
しかし、マガリャンイス隊は、スペイン王国にも東アジアにも東南アジアにも、ほとんど影響を与えなかった。
住民がハシカや天然痘でバタバタ死んでいくことはなかった。言語も地名も残っている。金鉱も銀山も発見されなかった。珍しい香料も産物もない。食糧の余剰もない。
マガリャンイス後も、ブルネイ王国の影響下にある首長たちがわずかな領域をまとめる程度。付近の海を日本人や華人が通り過ぎるだけ。(香木や金などわずかな取引は、日本人や華人との間でおこなわれていた。)
スペイン人もやってこない。帰り道がないから。西側はポルトガル人の領分である。
それが、レガスピ隊の到着、ウルダネタ隊による帰路航路発見によりフィリピン諸島は、一部ではあるけれど、ヌエバ・エスパーニャつまりメキシコと結ばれる。
ペルー領のポトシでは銀鉱の開発が始まっている。
ここで、福建=マニラ=アカプルコを結ぶ太平洋航路が確立する。
マニラ経由の絹製品を太平洋~大西洋とふたつの大洋を経て運んでも、500%の利潤があったそうだ。これぞ海のシルク・ロードてなもんだ。銀を求める明朝側の要求とも一致する。
マニラは福建商人の都市になる。同時に明朝の管理貿易からはずされていた日本人商人もやってくる。
アメリカ大陸のようなエンコミエンダ制は名目ばかりで、農業開発はほとんどない。マニラは食糧も交易品も日常品も労働力も福建(と一部日本や現地)から調達するという、完全な中継貿易都市になった。
マニラ=アカプルコ間の貿易が許されるのはフィリピン在住スペイン市民だけ。ほかのヨーロッパ人はもちろん、フィリピン諸島外のスペイン人の貿易も禁止された。しかも、マニラに入港できるのはアジア商人だけで、ほかのヨーロッパ商人は締め出された。ほとんど日本の鎖国のような状態は、1834年(!)まで続く。
ヌエバ・エスパーニャからの銀の流入は、明~清の経済と社会、東アジア・東南アジアの歴史に巨大な影響を与えることになる。
しかし、フィリピン諸島の社会は、それほど急激な変化・変容はなかったようである。
たしかに、マニラ周辺の首長の反乱、海賊行為などは頻発したが、ラテン・アメリカのような破壊的な影響はなかった。
むしろ、マニラの交易と都市生活に不可欠である華人とスペイン人の衝突が多い。
カトリックの支配も緩やかな変化であり、悪名高い教会支配といったものが生ずるには、スペイン人の数が少なすぎた。むしろ首長層がカトリック化し、カトリックの儀礼や教義が土着化していったと見てよいだろう。
ミンダナオ~スルー海域のムスリムの抵抗もスペイン人が記録するほど強力ではない。
そうではなく、マニラだけが突出し、地方の農業開発や綿製品工業が停滞したことが19世紀・20世紀になると顕在化する、と見てよいようだ。
こうして、スペイン領フィリピンはマニラだけが交易都市になり、ほかの地方はダト(首長)がプリンシパル(有力者)になってカトリック教会が浸透するという形になる。