東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

ハンチントン,『気候と文明』,岩波文庫,1938

2007-11-30 22:46:37 | フィクション・ファンタジー

不愉快なアメリカ人を怒らせるには、「日本には四季があります。」といえばいい。
たいてい、「こいつら日本人は四季があるのは日本だけだと思ってるのか?」と怪訝に思い、さらに、アメリカに四季がないような口調を不愉快に感じる。わっはっは。

しかし、四季があるところに住んでいるのが文明人という偏見をひろめたのは、ヨーロッパ人であり、北アメリカのヨーロッパ系である。
日本人が、そのマヌケな偏見を忠実に受け継いでいることに、やつらは、おのれのマヌケな姿を見て不愉快に感じるのである。

その〈四季のある温帯が文明を生む〉という概念を広めた代表が本書。戦中の翻訳で、日本人も白人並にエライのだ、という幻想をひろめた本。岩波文庫の奇書の一冊。
奇書であるのは、著者が「人種が文明を決定する」という幻想のかわりに「気候が文明を決定する」という妄想を、一見科学的、客観的に立証しようとしているからである。
ようするに、〈暑いところに生まれた人間はアホだ〉というかわりに、〈暑いところで育つ人間はアホだ〉と言い換えたものにすぎない。
これをヨーロッパ人がアフリカ人やインド人や南アメリカ人をバカにする根拠とするのならまだしも、日本人が率先してこの妄想にとりついたのである。
「世界中の学者からアンケートをとる」という驚くべき方法で、どこの国がアホかどこの国がリコウかという論旨の根拠にするというのがすごい。が、悲しいかな日本の学者もこのアンケートに素直に協力しているのですね。とほほ。『南海一見』(中公文庫で再刊)の著作もある 原勝郎も回答している。ほかに新渡戸稲造と山崎直方という人物も回答。

なお、今ウェブで検索したら、広島大学文学部の河西英通という方(『続・東北 : 異境と原境のあいだ』などの著作があるのに、お名前を存知あげなかった失礼!)の授業で2007年にとりあげられている。〈「奥州平泉」から「イェール大学」を結ぶ一本の赤い糸に注目せよ!〉というメッセージがあり、なかなか鋭いことを勉強するようだ。
シラバスは、home.hiroshima-u.ac.jp/syllabus/2007/2007_02_BY001002.html

ハンチントン,E.著,間崎万里 訳,「気候と文明」,岩波文庫,1938
初版, 1922, 旧中外化会
Huntington,E., Civilization and climate, Yale Univ.Press

桜井由躬雄 編,『岩波講座東南アジア史 4 』、再び

2007-11-29 20:46:43 | 移動するモノ・ヒト・アイディア

東南アジア史学会関西支部での本書への批判への反批判が
www.l.u-tokyo.ac.jp/~yumio-s/japanese/article/counter_critic.html

うーむ。このレベルになると、もはや常人はちかよりがたし。
桃木至朗さんが、日本の大学教員で東南アジア史専門は70人ほど、といっているが、批判にせよ賞賛にせよ、きちんと読んで理解できる人は、この70人プラス予備軍、プラス周辺の歴史学関係者くらいだろう。
ひとりの読者としては、第4巻で19世紀の初めまでいっちゃっていいのか?という疑問もあるが、史料の量と研究者がいるかいないかという理由で、19世紀以降が中心となるのはやむをえないようだ。
18世紀がちゃんと一巻にまとめられたことで、わたしなんぞ満足しているのだが。
それにこの巻は、人の移動、権力の盛衰という、ある意味わかりやすいことがらを中心にするのだが、これに経済指標がからむと、もうシロウトには手に負えない。(第6巻が経済分析でレベルの高い研究がそろっているようだ。)

シリーズ全体の目次をながめ、上の関西支部の批評など読むと、通史が描かれるのは不可能であるようで、このような論文集にならざるをえないようだ。(総論部分をもっと長くすべきだった、という批判は、わたしももっともだと思う。)
東南アジアを一体の歴史世界と捉えることが可能か、意味があるか、という古くからある疑問(いちゃもん?)も提出されているが……。しかし、ヨーロッパ史や中国史だって、一体の歴史世界なのか?という疑問が提出されている現在、東南アジア史にそんなやっかいな設問を投げられてもなあ……という気がする

増田えりか,「トンブリー朝の成立」,2001

2007-11-29 20:43:25 | 移動するモノ・ヒト・アイディア

タークシンを中心にみるとどうなるか。
ビルマ勢力によるアユタヤ陥落の後、ターク・シンの敵は以下のとおり。
まず、タイ湾東海岸チョンブリーとチャンタブリー。
ピサヌローク周辺のルアング王。サワンカブリーのチャオ・プラ・ファーン一派。ボロマコート王の王子テープピピットを推すピマーイ勢。ナコンシータマラートの総督代理。
ターク・シンはこれらを1770年ごろまで制圧する。

しかし最大の競合相手はハーティエンの鄚天賜(マックティエントウ)勢力。
清朝が、鄚氏をアユタヤの正統王子を擁する政権と認めたため、ターク・シンは朝貢を送ることができない。
清朝の乾隆帝は、タークシンも鄚氏も中国的価値をもつ中国人として判断している。
ベトナム西山軍にやぶれトンブリーに逃亡することにより、鄚氏はターク・シンとの競合に敗れるわけだが、ターク・シンの課題は、清朝の冊封を受けることである。

清朝に対して臣下として冊封を認められることは、シャムの王権の根拠にはならない。ターク・シンの権力を簒奪したラーマ一世は、ターク・シンの冊封外交をひきつぐ一方、同時にシャムにおける正統権力としてアユタヤ朝から続く正当性を主張した。
シャムの対外交易が清朝の冊封体制の一部として機能するのは、東南アジアの交易がシンガポールを中心とする蒸気船交易体制にかわる時代、つまり1940年ごろまで続く。
しかしその後、ラーマ四世の朝貢体制を批判する方針により、18世紀から続く冊封体制は、まちがった変則的なできごととして看過されることになる。

北川香子,「ポスト・アンコール」,「ハーティエン」,2001

2007-11-29 20:42:56 | 移動するモノ・ヒト・アイディア

〈最後のサンスクリット碑文が刻まれた14世紀から、ポルトガル人による記述が見られるようになる16世紀までの200年間は、同時代史料が全く存在しない。〉

なにげなく書かれた一節であるが、なんと200年間完全に空白、その後も『王朝年代記』という18世紀末以降に編纂された史料が中心である。
この空白を埋めるための、あやふやな説明が従来のポスト・アンコール史である。

うーむ。こまった問題だ。一国の歴史は連続したものとして描かれねばならない。しかし、史料の示すところは、領域の一定しない複数の勢力の分立。これを〈カンボジア史〉としてとらえることに意味があるのか。
無責任に言ってしまえば、意味ないのだ。
〈タイ〉と〈ベトナム〉にはさまれ、両者のバトル・フィールドとしか表現されない歴史は、国民国家の歴史としては情けないかもしれない。が、別項「トンブリー朝の成立」や「タイソン朝の成立」に描かれた〈タイ〉や〈ベトナム〉の歴史をみればあきらかなように、両側の大国も一体となった連続する歴史を持つ政体ではない。

歴史は国家形成へむかって進むものではない、という認識こそが東南アジアの歴史を知ることだろうが、幸か不幸かカンボジアという国家になってしまったため、自国の歴史が問題になる、という状況が出現してしまった。
タイやベトナムこそは(そして東アジアの国こそは)、単線の歴史観を見直さなくてはならないし、苦労していることであろう。学校の教科書に載せるには、ベトナムやタイの公式の歴史がいいだろうが、そうではない歴史があることを発見しているのが歴史研究というものだろう。

桜井由躬雄 編,『岩波講座東南アジア史 4 』,2001 収録

大橋厚子,「東インド会社のジャワ島支配」,2001

2007-11-29 20:42:22 | 移動するモノ・ヒト・アイディア

ジャワ島西部プリアンガン理事州のグデ山南麓、スカラジャ、スカブミ、チマヒ、チフラン、チチュルクの青壮年の女に焦点をあてた、経済・労働・家族の分析。

おおざっぱにまとめると、18世紀の出口と名づける1790年代末から1820年代のあいだに、この地方は以下のような状態であった。

夫婦と子供からなる家族の男(夫)は、コーヒーの栽培・運搬、それに賦役のため家族を離れ、長期間にわたり商品作物の栽培や集荷にかかわる。家庭内の成人男性が、東インド会社の収税・商品交易のための労働力となる。
一方、女は灌漑水田のための労働、育児と家事、綿作と機織という、いわゆる家事労働に専業化する。
このことは、東インド会社側にとっては、効率的な男性労働力の提供を可能にし、家族にとっては首長やイスラム指導者による安全保障や冠婚葬祭の儀礼を保障し、最低限の現金収入を得るというしくみをつくった。

ということだが、著者自身がいちばんよくわかっているように、これは、まるで20世紀日本の近代化の中の家族イメージだ。
なぜ、こういう結果になったか。なぜ、こういうイメージが描けるのか。
それは、当時の東インド会社が残した史料が、上記の家族イメージの上にのっかった見方をする史料であったからだ。そして、20世紀日本の経済・社会・家族のイメージも同様な無意識の前提を持っていたからだ。

著者・大橋厚子さんは、こういう史料の限界をよーくわかったいる。本論のキメは、上記の18世紀ジャワ島プリアンガンの生活ではなく、そうしたイメージしか描けない史料と、それを残したオランダ東インド会社と20世紀日本の共通性である。
もちろん、史料や見方が共通であるだけでなく、かなりの部分で社会組織や家族観が共通であるのは否定できない事実である。
著者は、独身者や放浪者、身体障害者や老人が史料に現れない限界を、しっかり指摘している。

桜井由躬雄 編,『岩波講座東南アジア史 4 』,2001 所収

桜井由躬雄 編,『岩波講座東南アジア史 4 』,2001

2007-11-29 20:41:28 | 移動するモノ・ヒト・アイディア

このシリーズの目玉だ。(といっても、もちろん、全巻読んでいるわけではないが。)
18世紀に一巻をあてる。
「東南アジア近世国家群の展開」というタイトルではなんのことかわからないが、以下のように概説される。

1 地方の時代
というのは、この時代以前には史料にあらわれない辺境が歴史に登場する。〈交易(商業)の時代〉の都市ではなく、ジャワ(ジャワ島中央と東部)や紅河デルタのような人口稠密な地域でもない、海域や山地の権力体や社会が現れる。
しかし、現れたとたんに、もっと大きな権力や広域体制にのみこまれる。その狭間の時代と空間を、五つの論文で代表する。

2 華人の世紀
これが新しい概念。
各地域に自生的(自生的というと語弊があるか)な権力が機能せず、交易や辺境の資源開発、プランテーションの開発の人材として、華人が流入する。
これら華人は19世紀の複合社会を準備する構成員になるわけだが、18世紀では、華人のアイデンティティを保ったまま定住する場合と、現地で同化・婚姻関係を結んで定住する場合がある。
フィリピンではカトリックに改宗した〈華人メスティーソ〉、タイ湾沿岸ではタイ化した華人系シャム人が、次の時代の国家の一員となる。

3 広域歴史圏
トンブリー朝、コンバウン朝、タイソン朝、これが後にタイ、ビルマ、ベトナムになるわけだが、18世紀にその領土やドミナントな民族が決まる。

以上、いままで一番よくわからない時代を説いた一巻である。
各論文は難易度が高い。史料分析の問題からVOCの変化、清朝の朝貢体制からスペイン王国の体制までからませて論じるし、広域歴史圏の話になると、各言語の地名が乱れとんで、なかなか頭にはいらない。
それに、各論者は、慎重に物語を語ることを避けているようで、ひとつの方向への収斂という書き方ではない。それが、この時代をわかりにくくしている要因だろうが、歴史研究者は禁欲的だから、それ以上を望んではいけない。

まず、どの程度わかりにくいかぐらいは、つかめる一冊でしょう。

立本成文,『共生のシステムを求めて』,弘文堂,2001

2007-11-25 17:57:39 | フィールド・ワーカーたちの物語

この著者の本を読むのはこれがはじめて。
研究領域はよく知っているし、どんなことを書いているかも知っているが、一般向け著作の少ない研究者の場合、まったく著作を知らない、読まないということがある。

副題「ヌサンタラ世界からの提言」、シリーズ名「現代の地殻変動を読む」、というタイトルから予想されるように、東南アジア海域世界の生き方を理解し、現在のグローバル化へのアンチ・テーゼを提唱したもの。

著者の主張する、提言する、東南アジア世界のエコ・システム、ソーシャル・エコ・システム、圏的発想、二者間関係を基盤とする人間関係、そういうことはわかる。理解できる。
しかし、それを東南アジア全体、さらに日本列島や東アジアに適応できるか、あるいは、グローバル化に対抗するオルタナティヴになるか、というと、わたしには判断不能だ。
たしかに、著者の描く、うごきまわる人々、ディアスポラ、フロンティア社会、そういったものはすばらしく、風通しがよくて爽快で、国家や企業にがんじがらめに縛られた社会で暮らす者にとっては魅力的にみえる。
とくに第4章のブギス人の世界、第5章のエスニシティを考察した部分、第6章の国家のひずみを描いた部分がみごとであるが。

家族や世間を考えると、不自由なもの、束縛するもの、と感じてしまうわたしがまちがっているのは、わかる。かといって、ヌサンタラ世界のように生きられるかというと、今住む世界とはまったく異質な世界であるように思える。むむむ。

桜井由躬雄,『緑色の野帖』,めこん,1997

2007-11-17 11:58:49 | 移動するモノ・ヒト・アイディア

それで、この一冊。
必読!最適!おもしろい!
というか、これを読まなかったら、東南アジアの歴史のイメージはつかめなかったでしょうね、わたしは。

全体が二種類に活字で組まれているが、ひとつは東南アジア史の短い概説。もうひとつは著書の旅と研究生活の記録。ぜんぶの章に地図入り、旅の記録は日付入り。

前項『東南アジア世界の形成』でとびだした、「ヌガラ」とか「ムアン」という概念がなぜ必要とされたか、そもそもなぜ東南アジア史を研究するのか、そういった事情が著者自身の経歴として語られる。この類の、悪くいえば自分史みたいなものになってしまう事情を、ちゃんと他人にわかるように書いてくれる歴史研究者はあんまりいないので、とても参考になる。
歴史研究のモーティベーションというか、目的というか、そのへんがわからないと、いくら新概念や新発見を説かれてもわからないのだよ。

さらにわかりやすくて楽しいのは、各章が短い旅行記になっていること。
第13章の終わりを見よ。著者・桜井由躬雄は、王国の呪術者であり長老である人物から、宮廷の賓客として認証され、王国の歴史家になるのだ!その「宮廷」「呪術師」「王国の歴史家」がどんなものかは、各自が本書を読めばわかるが、こんなエピソードがあるからこそ、歴史書の背景がわかる。
あるいは第11章のスマトラ・バルス。「新唐書・室利仏逝伝」「諸蕃志」の記述やトメ・ピレスの情報、マースデン『スマトラ志』の記述、タミル語碑文、などなどの史料に描かれたスマトラ・バルスがどんな世界だったのか、「インド化」とはどういう状況のことだったのか、世界市場向け商品を生む地に暮らすバタックの神話が外の世界とどう関連するか、そういうことがよーくわかる。

先史時代から摩天楼とドイモイの時代まで時空を旅するのであるから、当然、東南アジア全域をカバーするわけではない。
しかし各時代の焦点となるようなトピックと場所を描くことにより、全域・全世界の歴史のイメージが浮かび上がる。フィリピンもビルマもまったく描かれていないが、それは本書のイメージと方法を応用して他の本を読めばわかっているというものだ。
歴史家はむづかしい語句やいいまわしや専門用語を使うことに慣れているから、難解な文章になってしまい、一般読者にちんぷんかんぷんになっていまいがちだが、本書の文章は微妙な問題を扱いながらも読みやすい。ああ、わかりにくい部分があるとすれば地名や生態用語や植物名だろうが、それくらいは自分で調べよう。インターネットも事典も図鑑もあるんだから。

石井米雄・桜井由躬雄,『東南アジア世界の形成』,講談社,1985

2007-11-17 11:56:46 | 多様性 ?
これはとことん専門的な一般大衆のレベルをこえた一冊。
「ヌガラ」「ムアン」「プラ帝国」「制海路政国家」などの新しい概念を提出し、有史以前から19世紀までを描いたもの。

「〈ビジュアル版〉世界の歴史」シリーズの第12巻。つまり写真や図版をたくさん載せた一般読者向けのシリーズの一冊であるのだが、歯ごたえがありすぎ、消化しきれない分量をもりこんでいる。
ページの三分の一が文章で、残りが写真や図なのだが、文章と図がずれていて、説明の補助になっていない。本文にでてこない人物や建造物がいっぱい載っているのだが、それらが本文とどう関連するのかわからない。索引もなし。
なにしろ、文章が250ページほどの三分の一、新書本にして150ページほどの分量で、これだけ広範囲の内容を説くのはむりでしょう。

日本の東南アジア史研究の、当時の最先端を反映したものの、読者を悩ます結果になった一冊。

桃木至朗,「東南アジア史 誤解と正解」,2006

2007-11-17 00:09:53 | 多様性 ?

第4回全国高等学校歴史教育研究会、2006年8月2日、大阪大学での発表。
www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/main/seminar/2006/momoki_honbun.pdf
質問への回答、「ではどうしたらよいのか?」
www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/main/seminar/2006/momoki_qa.pdf
研究会のサイトの入口は
www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/main/seminar/index.html

あははは、おもしろい。失礼。現場の先生はたいへんでしょう。
高校教科書や大学入試問題の東南アジア史関係のマチガイを分析したもの。
まず、「誤解と正解」のほうだが、これがもう、日中韓の現代外交問題がからんだ論争とは、ぜんぜん別。わたしのブログでも、まちがいは多いだろうが、じぶんのことは棚にあげて笑ってしまう。

1.地理がわかっていない。
入試問題や教科書を書くひとが、山脈や島、河川や都市の位置を知らない。もちろん指摘されればわかるだろうが、のっぺりと赤黄緑青で着色された国別の地図しかあたまにない。だからへんな問題を平気で作る。

2.言語や文字を知らない。
これは、まず現在の国家語になっているベトナム語やタイ語を知らないということ。
それから史料が書かれている漢語やサンスクリット語、パーリ語やアラビア語を知らないこと。読めないのはしょうがないが、文書制作の約束事を知らない。
さらに、一民族一言語、一国家一言語の神話にとりつかれているので、古代の王族や住民を現代の国民のようにとらえていること。

3.宗教を知らない。
これはイスラームの教義がどうの、上座仏教のしくみがどうの、という問題ではない。そうではなく、民衆も王族も外来者も、みーんな信仰にかんしてはちゃらんぽらんで、真剣に信じたり、カノンを守ったりしないということ。この状態が東南アジアはもちろん、他の世界でも常態である。
遅れた国の人は敬虔な信仰心をもっている、という差別のあらわれじゃないか。

以上の基本的な無知の上にのっかっているのが、農業基盤重視、領域国家、単一民族国家、王朝交代史、植民地中心史、ナショナリズム史観である。
これがごちゃごちゃに組み合わされて、重箱のすみをほじくる入試問題が作られている。

一方、東南アジア史学界では70年代に常識になっていることが、やっと教科書に載りはじめた。
高谷好一も石井米雄もアンソニー・リードも「劇場国家」も「まんだら」も教えられず、というより教師も知らず、大学入試問題をつくる側も知らない、という状態がつづいてきた。そうした状況を改善しょうとするのが、この研究会である。

しかし、現場の先生からみると、「こんな新しい研究成果を教室ではとても追っかけられない、時間がない」という声がある。桃木至朗さんは無視。むむ。
東南アジア史研究者からいえば、単線発達史観や単一民族国家史観をくつがえすためにも、東南アジア史を教える意義があるのだろうが。

問題は、生徒にとっても教師にとっても、基本的なことを学ぶ時間すらないのに、重箱のすみをほじくった、おまけに基本事項をまちがえた入試問題が作られ、それに対処しなくてはならないことだろう。さらに、東南アジアなんて、入試の10パーセントにもならないし、最新研究成果を知らなくても、いや、知らないほうが解ける問題ばかりで……。

入試問題以外にもノイズは多い。
桃木至朗さんが強調している「かわいそうな東南アジア」イメージの増幅。戦争や環境問題を扱っても、結局生徒は、かわいそうイメージをもつだけで終わる危険がある。
あるいは、「バーンチェン・ショック」「鄭和の大航海」のようなトンデモ系。(あの『1421』については桃木さんもトンデモと言ってます。)
さらに、ジャワの「強制栽培」の例にみられるように、東南アジア史研究者としては、植民地主義万能ではない、という意味で影響を過大視すべきでない、という文脈で検討しているのに(さらにその後の「倫理政策」も問題だ!)、一周おくれの側からは、搾取を肯定しているのでは、という反論が起きる。そんな問題もある。

うーむ。
しかし、暇にまかせて東南アジア本を読んでいる年寄りからみると、高校生はたいへんだ。高校生としては、世界史なんてたくさんある科目の一部、東南アジア史はさらにその数パーセント、とてもつきあっちゃいられないよなあ。
土地所有制、封建制、産業革命、議会制、国民軍、労働市場の自由化、そんなことをやっと覚えたら、そんなもんじゃないって言われてもなあ。