東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

村井吉敬,『スンダ生活誌』,日本放送出版協会,1978

2012-12-02 16:06:57 | フィールド・ワーカーたちの物語

NHKブックスの一冊。

1975年1月から約2年バンドンに滞在した記録。ちなみに、妻といっしょの滞在と書かれているが、その妻が内海愛子という女性だということは、いっさい書かれていない。わたしはずっと、この村井吉敬と内海愛子という人はどういう関係なのかと疑心暗鬼だったのだが、たんなる夫婦であります。ちゃんと書いてくれればいいのに。

さて、その暮らしであるが、大家の婆さんとのトラブル、家政婦とのトラブル、窮屈な人間関係、寄付や物乞いや賄賂や意味不明に要求される金銭の問題が著者を悩ませる。留学生として入学した大学でも、わけのわからない金を要求される。これが異国で暮らすことなのか。たいへんな生活である。

本書を読んで、インドネシアでベチャと値段交渉するなど不可能だと思った。彼らベチャ引きは、日本人の百分の一ぐらいの現金で生活しているのである。反失業状態の彼らにとって、時間は無限にある。仲間うちでの束縛と助け合いの慣習ががっちり彼らを縛っている。同郷や同業の仲間の掟をまもらずに、外国人を安く乗せることなどできない。10分ほどで行けるところに、30分でも1時間でも交渉する余裕がむこうにはあるのだ。急ぐときにベチャなど乗ってはいられない。では、最初から、えーい持ってけドロボーと高額の金額を提示したらどうなるか。やっぱり彼らはさらにふっかけるだろう。やはり30分でも1時間でもねばるのである。充分高額な言い値だから納得するだろうというのは、こちらの勘違いであって、持てるものからは、よりいっそうふんだくらなくてはならない。

だからいつまでたっても金がないのだ、もっと合理的に考えられないのか、と腹をたてたくなる。腹をたてるのももっともだが、彼らに、経済的な合理性を求める根拠がわれわれにあるか?そして、合理的に勤勉に競争原理で働いたら、彼らは豊かになるか?そんなことは、ありえない。

と、著書が書いているわけではない。

著者はぎりぎりの生活をしている農民や農村からはみでた半失業者の現実を描いているわけだが、解決の道はとうていみつからない、絶望的な状態である。読んでいて暗い気持ちになる。

著者は日本製のオートバイの普及にあまり良い印象をもっていないようだが、本書を読むと、インドネシアの比較的裕福(といっても、日本の基準からみてかなり低い所得の層)が、オートバイに憧れるのも理解できる。公共交通が機能せず、インフラの不足を自前で補わなくてはならない層にとって、オートバイは素晴らしい資本財だろう。おまけにかっこいい。著者には、どうも、このカッコよさに憧れる欲求不満の若者の心情が理解できないところがあるように思える。いや、本書全体の欠点ではないけれど。


国立民族博物館の佐藤浩司さんのサイト

2010-01-20 22:02:01 | フィールド・ワーカーたちの物語
建築人類学者の眼
http://www.sumai.org/asia/sumba.htm

すばらしく凝ったサイト。
大部分未完成のようですが、写真、図面、動画、フィールド調査のようす、などなどもりだくさんの内容である。

南洋とか東南アジアなどと大雑把な見方をせず、本気でオーストロ・アジア諸語の民族の住居を知るために必見のサイト。ぼんやり見るだけでも楽しいサイトで、リンクもたくさん貼ってある。

これを見たら、弥生時代建造物のルーツは南方、などと軽々しく言えなくなるでしょう。

見ればわかるけれども、注意点を二、三。

まず、あたりまえだけれども、サイトで紹介されるのは現在の姿です。

佐藤浩司さんは東南アジア全域ばかりか、東アジアにも詳しいようですが、得意のフィールドは、東インドネシア方面であるようだ。つまり水稲稲作地域ではない。

高谷好一の生態区分によれば、この地域は、水稲稲作地域でもないし、陸稲稲作地域(陸稲卓越型焼畑)でもない。サゴヤシを含むイモ・雑穀栽培地域〈サゴ区〉、陸稲や雑穀もあるがイモが主要ななカロリー源である〈イモ・稲区〉である。

田(高田)洋子,『メコンデルタ フランス植民地時代の記憶』,新宿書房,2009

2009-06-28 20:30:02 | フィールド・ワーカーたちの物語
ありそうでなかったメコンデルタ開発史。農村の聞き取り調査。

メコンデルタもひじょうに誤解されやすい地域である。
鮮やかな果物と野菜の山、豊富な鮮魚、ベトナム全土の米の30%を産出するという統計数字、緑の稲田と青い空白い雲……日本人のイメージする豊かな農村にぴったりの風景だ。

事実豊かな地域であるのだが、ここメコンデルタ西部=ミエンタイ、ティエンザン(ティエン川)より南西部の開拓が始まるのは19世紀にはいってから、本格的な開発は19世紀後半である。
それ以前は人口希薄で農耕を拒む地であった。農耕ができないどころか、雨季は人が住む地面もない、乾季は飲み水もない、という自然条件が支配する。
現在でも、排水ができない〈閉ざされた氾濫原〉~チャウドックあたりからホーチミンまで広がる地域、ウーミンの森といわれる酸性土壌の低湿地など、農業不適地がある。

植生を無視した地図でみると、この広いデルタ全体に水田が広がっているように誤解してしまうが、ティエンザン(ティエン川)とバサック川(ハウザン)の自然堤防と後背湿地が主な農地である。
大規模開拓時代以前の小規模移住も、この自然堤防・後背湿地と、海岸部の微高地であった。

また、二期作・三期作がひろく行われていると紹介されることが多いが、二期作が可能になったのは、1975年以後、一般的には1980年代である。
それ以前は、二回移植作つまり苗床を二段階に作り二度田植えをする方式、雨季のみの浮稲作、感潮河川水(塩水)の流入を防いで雨水のみで育てる方式、などなど年一回の作付けのみ可能であった。

それ以前に、わたしの基礎知識がないせいか、どうにもわからないことがある。
以前の大地主が無くなったのはいつのことなのか?
抗仏戦争の間、カントーやヴィンロンその他の町に避難していたと語る農民が多いが、その間どうやって食っていたのか、どこから食糧が来たのか、よくわからない

というわけで、本書の著者・高田洋子を中心に編集された

『東南アジア研究』 第39巻1号 
(特集)20世紀メコン・デルタの開拓
www.cseas.kyoto-u.ac.jp/seas/39/1/index.htm

ウェブ上でpdfファイルで読めるのを見てみる。
こちらのほうが、学術論文であるのに、基本的なことがわかる。

なお、1975年の調査に基づく論文も
『東南アジア研究』第13巻1、2、3、あたりに掲載されている。

フランス人大地主が稲作プランテーションから締め出されたのは、ゴ・ディン・ジェム政権の1956年法令から。
フランス人地主に賠償金を支払って稲作から撤退させ、北部からの難民を入植させた。(なお、ゴム栽培大会社は、この後も1975年まで存続する。)

調査地となったトイライ村は、フランス時代から続く米作中心地であったために、その後もべトミン解放軍と南ベトナム政府軍の両方が支配(=税金を徴収する)を争う地になったわけである。

**********

本書の内容にもどる。

この地域をフランス人大地主が開拓し、ベトナム人農民が入植し、現在見られる景観が作られていった歴史を、農民のインタビューを通じて描く。

調査地は、
第一章
旧カントー省オーモン県トイライ村
 氾濫原に開拓された運河沿いの14集落からなる。現在二期作・三期作が可能で全国有数の穀倉地。

第二章
チャヴィン省チャヴィン市ホアトゥアン村
 海岸平野の砂丘と低地。

写真も豊富で、インタビューに応じてくれた農民のスナップもすべて掲載されている。

中央政府の許可をとり、省→県→村の人民委員会に挨拶し、すべての許可をクリアし、やっと集落(アップ)のレベルまで辿りつくという調査であるので、なにかと障害も多い。著者らがインタビューしている間、公安員が別の部屋で記録をとっている。
であるから、解放後の政策に関する批判はご法度だろう。民族的な対立も触れてはならない話題のようだ。

著者たちの調査の目的は農業。
つまり、実際の農作業のやりかた、収穫量、土地の所有関係、地代や小作料、父母・祖父母の時代の移住や結婚、現在の暮らし向きを知りたい。

しかし、役所や公安はそれ以外のことにも首をつっこむだろうと用心する。
それもそのはず、著者たちが選んだ調査地チャヴィン市は、カンボジアの首相もつとめたソン・ゴック・タン(『ナガラ・ワット』誌の創刊者、日本に亡命したのち、1945年からの短期の独立政権首相)の生家があり、近くにはポル・ポト派として有名になるイエン・サリの生家もあった。キュー・サン・パンもこのへんの生まれらしい。

つまり、海岸の微高地はクメール人の暮らす地であり、運河造成や農業開発は進んでいなかった。
しかし、なぜかクメール人の大土地所有制が進行した。その後、キン族の入植がすすみ、現在はキン族のほうが人口が多い。この過程で、この地のクメール人が現在のカンボジア方面へ移住するという動きもあった。

なお、インタビューに応じた老人の中には、ベトナム語が話せないクメール人も多い。読み書きは、男性はベトナム語かクメール語どちらかができる者が多いが、女性ではまったく読み書きを習わなかった者もいる。
まったく使用しないフランス語を習った人も多い。(フランス人を実際に見たことがない人も多い。)

一方、19世紀から20世紀に運河が開発された氾濫原は、フランス人大地主の所有する土地をベトナム人(キン族)が耕作し、クメール人農民は少ない。1950年代に大地主制が廃止され、自営農民や新たな入植者が到来した。

両方の調査地とも、伝統的な共同体、まとまった村とか集落とはいえないようだ。
インタビューされた人々は、宗教に関しては気軽に答えているようだが、ベトナム風仏教(祖先供養を重んじる)とクメール人上座仏教が同じ村の中にあった。
ホアハオ教がデルタで勢力をもったのも、1930年代恐慌時の農村疲弊を背景とするが、そのホアハオ教やカオダイ教の寺院もある。
カトリック教会もある。(カトリック教会は、元地主でもあり、開拓民を導入することもあった。)
しかし、集落全体の祭や儀礼はない。かっちりとまとまった農村ではなく、開拓地にやってきた余所者の集合なのだ。

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いろいろゴチャゴチャ書いたが、不正確にまとめると、

メコンデルタ河岸段丘~氾濫原は19世紀後半からフランス人大地主のプランテーションとして開拓された。

華人は籾米流通を支配する。クメール人ベトナム人との通婚もあり。
インド人チェディ(金貸し)が土地所有に食い込むこともあった。
クメール人は農業労働者ではなく、19世紀以前から先住し、プランテーションでは自警団として雇用されるなど、キン族農民とは別の身分。

運河は当初は灌漑用としてではなく、流通つまり舟による運送と、治水機能のため。
1975年以降、新運河の掘削によって耕地と灌漑田の拡大が図られる。
多収穫品種の導入で、二期作・三期作も可能になる。

抗仏戦争の時代、政府軍対べトミンの時代、ふたつの勢力が衝突する地になった。
結果として、独立軍に加わる者、フランス軍に従軍する者、べトミンに協力する者、南ベトナム政府軍兵士になる者など、その後の運命を変える結果になる。
クメール人で、ベトナム軍兵士として対カンボジア戦に従軍した者もいる。

土地所有、農地改革に関しても、自分の土地を奪われた者、小作地を所有できた者、所有があいまいなままだった者など、いろいろ公言できない不満や屈託があるようだ。

現在、稲作不適地は果樹栽培、野菜栽培、養魚などに活用されている。

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ちなみに、マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』で有名であるが、映画のロケに使われた昔の邸(ユェン家御殿)も残っていて、本書でも紹介されている。
開拓時代の大地主というのは一国の領主のような存在であったらしい。

小泉潤二 編訳,ギアツ,『解釈人類学と反=反相対主義』,みすず書房,2002

2009-03-31 22:36:48 | フィールド・ワーカーたちの物語
前項の小田実の著作にもあるように、1960年代のUSAでは政府やナントカ財団が補助金をだして、やっきになって東南アジア・東アジアの研究者を育成していた。当然ながら、ひも付き研究に縛られ、糞論文を量産しているだけの研究者もいたわけだ。
同じく小田実の本にある例。普通の人間が教師としてふるまい、生徒の能率をあげさせる、という実験をイェール大学でやった。実は人間が(戦場で大義名分があれば)どれだけ残酷になれるかという実験なのだが、そんな心理学の実験に援助金がでていたわけである。

一方で、小田実の友人のような反体制派の学者も、ワイフがパートで稼いでる間に亭主が博士論文制作をして、MDだのPh.Dを得るというパターンがあったそうだ。電話帳のような本をひたすら大量に読んで、論文をでかすのである。

政府や軍部やナントカ財団の欲しい結果というのは、ぶっちゃけて言えば次のようなことである。

あの残忍で不合理な日本人でさえ、われわれが教えてやった民主主義を覚えて、立派に経済成長をなしとげているではないか。
それなのに、ベトナム人はなぜ、あのような無駄な抵抗をするのだ。やつらは、どういう背景があって、あのように無意味で不合理な戦争を続けるのだ?
あるいは、インドネシア人は、なぜああも、非能率で非合理な社会を持つにいたったのか。どうすれば、あんな迷信じみた遅れた社会を改良できるのだ。

誰か教えてくれよ。若いやつらを研究者に育てあげろ。
マニュアルどおり調査すれば、結果がどんどん生まれる体制を作れ。

というわけで、哲学と文学をいなかの大学で学んだクリフォード・ギアツも、マーガレット・ミードにほとんど命令されて人類学の道にすすんだそうだ。

しかし、ギアツという人物は、ミードやベイトソンのようなアメリカ人類学界の主流にはならなかった。そして、東南アジア研究の分野でも主流からはずれていた。
第2章に本人が書いているところによれば、アメリカではコーネル大学だけが突出していて、ほかのミシガン大学やウィスコンシン大学には、対抗できるプログラムがない状況であるそうだ。

*****

難解なことで有名なクリフォード・ギアツであるそうだが、本書は、編訳者・小泉潤二の解説にも助けられ、原文が講演記録であるということもあり、まあ、理解できないこともない。

少なくとも、農業インボリューションをめぐる論争に関してはわかった。
ギアツは自分の論文はの批判にはほとんど応えない人であるそうだが、農業インボリューション論争についてはめずらしく反論を書いた。
つまりだ、

論争参加者のほとんどは、ギアツの論文を以下のように捉えた。
ジャワ島は地球上まれにみる人口稠密な農村である。耕地が細分化され、資本主義の発達に必要とされる農村内での資本蓄積が生じなかった。そのため、市場経済にテイク・オフできない。どこまでも貧しさを微調整するだけの、内向きの発達(インボリューション、本書の訳語では〈内旋〉とする)が進行した。
これは、近代的な市場経済へすすむ障害である。
いや、ジャワ島でも農村の資本蓄積はすすんだ。階級分化もあった。
これは19世紀に起こった、オランダの政策が悪い。いや、それ以前からだ。

以上のような論争に対し、ギアツの異議申し立ては、次のようなものだ。

しろうとの読者からみてわかりにくいのが、ギアツの、つまり本書の中の〈脱経済主義〉という用語。
経済主義というのは、経済を大きな文化というか、社会全体のいとなみの外側に置く分析方法である。つまり、社会全体、文化全体を規定する変数として、経済というものがある。
ギアツが反論するのは、そのように経済を文化全体、社会から切り離した要素として説明してはダメだということ。「経済行為」とみられるもの、研究者が分析するものも、文化全体の中で他から分離できないものである、ということ。

つまり、ジャワが近代的市場経済に(日本のように)テイク・オフできない、しないことの説明として、経済行為だけを切り離して、変数として、要素として、分析しても意味ない、とギアツはいいたいわけだ。

もっとつっこんだ論議として、マックス・ウェーバーやカール・ポランニーらの理論の影響を受けているようだが、詳しくはわからん。ここでストップ。

*****

『ヌガラ ━ 十九世紀バリの劇場国家』はさらに問題が複雑。おちらは、経済を外在化する方法への批判ではなく、文化を外在化する方法を批判しているようだ。

ギアツの問題提起まではわかる。
国家が行う儀礼については、(編訳者、小泉のサマリーによって)、以下のような分析、理由付けがある。

1.「大野獣敵国家観」においては、儀礼とは民衆に暴力装置を誇示し、威嚇するためにある。まあ、軍隊のパレードのようなもの。

2. その反対に「大欺瞞的国家観」、国家は民衆を搾取する政治イデオロギー装置であると捉える視点。その国家観では、儀礼は支配者による民衆の搾取を隠蔽するための装置として捉えられる。

3.ポピュリズム的国家観では、儀式は民衆の意思の崇高さを賛美する道具となる。

4.政府とは、あらかじめ決められた合法的なゲームの規則によって、限界効用的利益を追求するものと捉える国家観(多元的国家観)においては、儀礼はゲームの規則を既定であるかのように見せかける役割をおう。

以上、4つの国家観のどれもが文化を外在化して捉えている。しかし、ギアツの主張するところによれば、このような見方ではヌガラ国家(=バリの国家)のもっとも興味深いところをわれわれの視野の外に逃すことになってしまう。

では、どういう見方をすればいいのかは『ヌガラ バリの劇場国家』を読まなくてはわからないだろうが、本稿でだいたいの方向はわかった。

西丸震哉,『さらば文明人 ニューギニア食人種紀行』,講談社,1969

2008-12-28 19:19:59 | フィールド・ワーカーたちの物語
文庫は角川文庫,1982
『41歳寿命説』,情報センター,1990なんて本を出し、本書も食人種なんて放送禁止用語満載、トンデモ系に扱われるような人。

わたしは、この人好きだったな。
今でも41歳寿命説は基本的に正しいと思っている。41歳平均寿命というのは、まったくハズれたが、動物として生きる能力をうしない、医療制度とエネルギー高消費にがんじがらめになって生かされているだけの現代人では、寿命をまっとうしているとはいえないだろう。

本書の内容も好きだ。

まじめな調査記録ではなく、著者の行程と見聞に加え、すきかってな感想と自省をまぜこぜに書きなぐったものだが、おもしろい!
だいたい何の目的でどこの経費で行ったのかきちんと書いていないのだが、ニューギニア山地の住民の栄養状態調査が主目的であったようだ。まさか全部自費ではないだろう。
旅行期間が1968年から1年ほど、著者44歳から45歳の話である。
目的地は独立前のパプア・ニューギニアのニューギニア島高地。ここでヨーロッパ人や外来文明と接触していない食人種を探すのが目的というか著者の希望である。

ここで、用語の問題。

著者は食人種という言葉をなんのためらいもなく使っている。たんに、食生活、食文化を表すものとして、食人種という言葉を使っているようだ。
さらに、首狩と食人は別である、という認識もある。
儀礼や部族間闘争や復讐ではなく、たんに食物として人を食べるという部族がいるらしいのである。この点、本書の中で正確に述べられているわけではない。
ともかく、著者は、食人の習慣が残っている地域を探す。

桁ハズレの人物である。まず足慣らしのため、ポートモレスビーからブナまでの山脈越えを単独でやる。日本軍が横断し多数の餓死者を出したところである。ここを、通訳もポーターもなしで、当然徒歩で横断。これは研究目的ではなく、単に気候と地形に慣れるための準備である。

ほんとの目的地は大パプア高原地帯。4000メートル前後の山があり、ところどころに滑走路と役所の施設がある。そこいらで、地図の空白地域から、文明と未接触の食人種をみつけようというわけである。
旅行の中でヨーロッパ人のミッション、政府関係者、医療関係者、それに多くの住民と遭う。そこで著者が筆のおもむくままに観察したことがらを書くのであるが、痛快。放送禁止用語なんてまるで頓着せず、好きなことを書いている。
ヨーロッパ人に反発しつつも、ついつい自分もヨーロッパ人と同じような感情を持ち、同じような目で現地人をみてしまいがちなことなど、何度も書いている。現代日本(といっても40年前だが)への憤懣も書きまくる。

ハイライトは、ビアミ族の調査。
カリウス山脈南麓、一日18時間も雨が降る湿地帯で、ブタもイヌも持たない(伝播していない)部族。サツマイモとサゴヤシが主な栄養源。

排便とセックスをどうやっているか?という謎?が解明?されているのだが、著者が実見したわけではない。あくまで、行動と臭いから判断したものだが、著者の推理は歩きながらやる、というものである。少なくとも、排便に関しては間違いないだろう。

あと、しばしば誤って引用される、人肉は化学調味料(味の素)の味がする、という話。これは、西丸震哉自身が調査して本書に書いてある。それによれば、被験者が「人肉の味がする」と言ったのは、味を表現する単語が少ないため、そして家畜や野生哺乳類の味を知らないからである。だから、過去に食べた中でもっとも近い味を伝えただけである。なにも味をつけない試験紙を舐めて「かぼちゃの味」だと答えるのも同じことである、そうだ。

*****

純学術的なことはほとんどないが、気になることは、サツマイモとタバコについて。
これは、この地域の住民がヨーロッパ人と接触する以前から伝播していた。(ほぼ確実)
商品あるいは作物の伝播はあったのだ。
それにもかかわらず、鉄器など他の文化はまったく伝わっていない。
著者は文化人類学者ではないので、儀礼についての記述は大雑把だが、儀礼・娯楽が乏しいという著者の判断は正しいようだ。認めざるを得ない。

著者は、四分割音を採譜できるほど音楽の素養があるのだが、その歌にしても、やはり乏しいという判断は否定できないように思う。つまり、娯楽も食文化も、ひじょうに単調な生活なのである。

この単調な生活が、数千年前から続いている、という判断が正しいかどうか、現在では評価が分かれるところではないだろうか。食生活の面でも、この栄養的に貧しい状態は、ひょっとして数百年前、あるいは数十年前に生じたことかもしれない。

*****

関係ないが、いや著者の性格や考えに深く関係しているかもしれないが、この西丸震哉の奥さんてのはすごい若くみえる美少女タイプなんですよ。(実際に若いのか?)
別の本で、夫婦そろい、他の客といっしょにレストランで食事した話題があった。他の客は、おいしいおいしいと言っていたが、自分は普段食べているものに比べ、さしてうまいと思わなかった、というエピソードがあった。
なんかすごい奥様なんですね。
この紀行の最後1か月半、奥さんもニューギニアに来ていっしょに住んだそうだ。

岩田慶治,『東南アジアのこころ』,アジア経済研究所,1969

2008-12-16 19:02:36 | フィールド・ワーカーたちの物語
前項に続き、これも著者のタイとラオスでのフィールド・ワークを紹介したもの。
調査地域がすごいんですよ。
北ラオス・ルアンナムター、ヴァンヴィアン(ヴァンヴィエン、バンビエン、ワンウィエンと表記される。)の近くのパ・タン村で、今、バックパッカーの巣窟と化した地域のすぐ近くなのだ。
そこで50年くらい前に滞在調査し、その後1968年に再訪した時の話が最初に語らえる。
なんと、この時は政府とパテト・ラオ派の抗争の真最中で、アメリカ軍も駐留していたのである。
ルアン・ナムター方面に行く方、ぜひとも一読を!

そして、本書の残り三分の二は、東北タイのドン・レーク(ダンレック)山脈北側とナム・ムーン(ムン川)にはさまれた地域、スリン県のプルアン村周辺の記録である。

前項『日本文化のふるさと――東南アジアの民族を訪ねて』よりも、日常生活、現在の収入や将来のこと、現実の問題などが扱われる。つまり、来世がどうの精霊がどうのという話は少ないので、その方面が苦手な者でも読める。

当然、著者の見方の中で、現在の研究水準からみておかしい部分もあると思う。たとえば、わたしが気になったのは、村人へ将来設計のことを質問するやりかた。これは、どうも純粋学問的にみると、誘導尋問のようなもので、危ないのではないだろうか。ただし、この部分も過去の記録としてはおもしろい。
民族とは何かとか、ラオ人とクメール人の過去の移動・移住、ラオ人とクメール人の違いといった話題も、分析が荒っぽいように思える。

以上、批判がましいことも書いたが、本書が書かれてから40年、調査時期からみれば50年近くが経過しているので、こういう時代もあったのか、と驚く貴重な記録である。
前項と同じく、
岩田慶治著作集第1巻『日本文化の源流 比較民族学の試み』,1995,講談社
に収録。

岩田慶治,『日本文化のふるさと 東南アジアの民族を訪ねて』,1966

2008-12-14 19:02:28 | フィールド・ワーカーたちの物語
偉大なる先駆者であるから、 誰も批判はしないし、細かい間違いを指摘するよりも基本的な思想を学びとるべき学者であろう。しかし、本書はやはり……。
初版は角川新書で1966年。
角川選書としての再刊が1991年。
岩田慶治著作集第1巻『日本文化の源流 比較民族学の試み』,1995に収録。

もし今、〈日本文化のふるさと〉などという書名を見たら一瞥もせずに無視するだろう。しかし、これは1960年代の話。この書名も時代の流れとして許容しよう。

著者がはじめて東南アジアを訪れたのは、1957年の有名な第一次東南アジア稲作民族文化総合調査団のメンバーとして、タイ、ラオス、カンボジアを調査したのが最初。その後、1960年代前半までに、

東北タイ・スリン県プルアン村(クメール人の村)
北タイ・チェンマイ近くのメーコン村(シャン族の村)
北ラオスのサム・ヌーア地方、ヴァンヴィアンから20kmのパ・タン村(タイ・ヌーア族の村)

に当時としては長期の滞在調査をする。
その成果を一般向けに書いたものが本書である。

文中、なんども安易な比較をしてはいけない、という警告と自制の言葉が述べられるが、やっぱり、安易な比較になっていると思う。

ただし、1960年代前半では、決定的に資料が不足している。東南アジアに滞在して研究する学者も、今では数百倍になっているだろう。
今ではあたりまえの知識になった衣食住に関すること、稲作、精霊(ピー)信仰、祭りなど、当時としては貴重な知識であったはずだ。読者も未知の情報、おもしろい話を求めていただろう。安易に現在の目から批判はできない。
しかし、岩田慶治を責めることはできないが、その後の東南アジアを見る歪みを生んだことも否定できないのでは。

つまりだ、20世紀のタイやラオスの事情と、古事記や魏志倭人伝、あるいは柳田國男や折口信夫の著作の断片と比較して、似ているとか共通点があるなどというのは無意味なのだ。
同じ人間なんだから、エチオピアだろうとアイルランドだろうと、共通する点があるのは当然だ。
そして、稲作、婚姻、通過儀礼、ピー信仰など、恣意的に選択された事項を、断片的な日本の事情と比較する、というのが、間違いなのだ。
たとえば、婚姻の儀礼をことこまかく描写しているが、では、離婚に関してはどうなのかというと、まったく触れていない。
稲作に関して、こまかい儀礼を紹介しているが、トウモロコシやキャッサバに関してまったく触れていない。
こういう具合に、あらかじめ選択された枠組があるのだ。

おそらく、現在の多くの研究者は、以上のような比較の誘惑を退け、日本との共通点を探したくなる気持ちを抑え、禁欲的に調査をしていると思う。また、どっちが新しい、古いという判断にしても、ひじょうに慎重である。東南アジアに日本と同じ要素があったとしても、東南アジアのほうが新しい場合も少なくない。

以上、著者の岩田慶治を批判するわけではない。
ただ、彼の調査から半世紀たってもあいかわらず〈日本文化のふるさと〉だの〈日本民族の故郷〉だのというステレオ・タイプが生きているのは、どうにも腹が立つことである。

古川久雄,『植民地支配と環境破壊』,弘文堂,2001

2008-11-23 22:52:21 | フィールド・ワーカーたちの物語
この著者がこんな本を執筆するとは、意外である。
意外、といっても著者の主張が意外なのではない。古川久雄らしい主張である。

意外というのは、文献を大量に引用し歴史的文脈で植民地支配を論じ、植民地支配と環境破壊は同根であると強く主張していること、平和憲法の精神を世界に広めることこそ求められ、平和憲法をなし崩しにするのは国益を損ねると主張していること、そういった議論のすすめかたである。

いうまでもなく、著者は、世界中を自分の足で歩き、自分の目で環境破壊の現場を見ている人間である。
本書では、ニューカレドニア、ブラジルなど(東南アジア研究者としては)意外な地域の環境破壊が克明に語られている。
その悲惨な現状をみて、その歴史的来歴をたどり、さらに現在の植民地支配である世界銀行・IMF・金融戦略を断罪する。
1992年のリオデジャネイロ地球サミットの虚妄をあばき、〈持続可能な開発〉などというお題目を批判する。リオデジャネイロ・サミットの事務局長モーリス・ストロングという人物は、かつて1992年の地球サミットで、アメリカのベトナムでの枯葉剤作戦を隠蔽するために、日本やノルウェーの捕鯨をスケープゴートにする策略をあみだした人物であるそうだ。

〈1997年の金融危機は、生産物や農園などモノを一切媒介することなく、アガリだけをかっさらう金融商品という新たな武器の威力を試す実験だった。核兵器に等しい暴力である。〉
あの1997年の金融危機は、インドネシアに対し国家が解体するほどの打撃を与えた。(ほんとに、インドネシアの通貨はどこまで下落するんでしょうね。そのうちベトナムやミャンマーの通貨みたいに、外の国の通貨と交換不能になるのか?)
その打撃が、弱い方へ弱い方へと波及し、現在インドネシアの感潮帯と泥炭湿地は耐えられない破壊が進行している。著者はこの地域の研究者として、環境の保全と回復に取り組みたいと決心している。

著者のすすむ道については、まあ、わたしのような者が期待しようが、無視しようが、どうでもいい。
それよりも、株が暴落しただの、銀行がツブれただのと、あたふたしている連中よ、どうってことないではないか。日本が不景気だなんだかんだといっても、飲み水がないとか、凍え死にすとかの話じゃないでしょうが。
今までさんざん荒らしまわっていた銀行や投機会社がツブれそうで、ありがたいことじゃないか。

机上の空論と笑う向きもあるだろうが、これくらいの理想を熱く語る学者がいるのは気持ちいい。
毎日毎日、銀行や証券会社の飼い犬のように経済予想をしている学者モドキではなく、この古川久雄みたいに、プランテーションの私兵に拘束されたり、湿度100%の湿地林で何日も調査するような、修羅場をくぐりぬけた人がバーンと言ってやらねば。

今枝由郎,『ブータンに魅せられて』,岩波新書,2008

2008-11-15 23:47:24 | フィールド・ワーカーたちの物語
前項とはうってかわって、〈国民総幸福〉なるものを提唱する著者のブータン案内。

この著者の本はすでにわたしのブログで
『ブータン仏教から見た日本仏教 』,NHKブックス,2005
を紹介済。

ブータンの仏教、著者とブータンの出会いについてはあちらのほうが詳しいが、本書はあるゆる話題をもりこんだ総合ブータン案内。
著者に関しては、もうブータンの第一人者であり、信頼する以外ない。
というか、よっぽどしっかりした研究者がじっくり滞在して研究する以外に、著者を凌駕する視点は生まれないだろう。

だからといって、著者の見方を全面的に認めるわけではない。
〈人口60万、人口60万、ジンコウロクジュウマン〉と呪文を唱えながら読みすすむ。
なんと、正確な人口が把握されたのは2005年になってから。それまで、2倍以上の数字が国際的統計で使われていたというんだから。

60万ですよ。日本でこの程度の都市、あるいは自治体に住んでいる人は多いでしょう。その自治体の長、偉い人、大金持ち、そんな者がどんな人間か、と考えれば、ブータンに人材がなくともふしぎはない。(第四代国王は例外的に聡明な方であったようだが)
人口過密、資源不足で悩んでいる国家とはまったく異なるのである。
この総人口の少なさ、人口密度の薄さ、大国の干渉を遮っていた自然環境、どれもこれも他の地域の参考になるものではない。

そうした環境基盤の上での〈幸福大国〉である、ということだ。

と、ケチをつけるようだが、すごい話、おもしろい話がいっぱい。
とにかく読んでみよう。
詳しい内容はこれから読む方のために触れない。

ただ……
こうした桃源郷タイプのくにに憧れる方、あなたはコーヒーもアイスクリームもビールもない世界に生きられますか。
こういう問いかけがあまりに物質的すぎて嫌味ならば、あなたは、書物のない世界、小説も随筆も旅行記も学術論文もマンガもない世界で生きられますか。

著者が10年も滞在したのは、仏教研究のほか、国立図書館新設に関わったためである。
もちろん、国立図書館といっても東京やパリのものとはまったく違う。
なにしろ、(本書中のすごいエピソードの一つだが、)アップル社がゾンカ語(ブータンの国語)システムを開発したのは著者の依頼によるものなのだ!!
つまり、活版印刷も謄写版もない、手動タイプライターと文字通りのカット&ペースト(本物の糊と鋏で)の世界からいっきにコンピューターシステムへ!もちろんフォントも開発した。

こういう社会であるから、当然、書物とか読書という習慣はない。いや、習慣がない、というより概念がない。(このへん、経典についての詳しい逸話を読むように)

こんな社会は、わたしは耐えられないな。
まあ、生まれたときからそうなら、それで満足でしょうが。
ただしこれから先どうなるんでしょうか。
外の世界を知った若者たちが耐えられるだろうか。

いうまでもないが、ジャーナリズムや教育や書物出版はあったほうがいいが、市場経済や外来の娯楽文化は拒むというのは、無理なのだよ。

青木恵理子,『フローレス島におけるカトリックへの「改宗」と実践』,2002

2008-08-16 21:48:00 | フィールド・ワーカーたちの物語
短い論考ながら、貴重で珍しい話がいっぱい。

まず、フローレス島のキリスト教布教史の素描。

16世紀にポルトガルのカトリック、おもにドミニコ会修道士による布教
17世紀VOCによるカトリック布教の禁止。約200年間空白。
1808年、カトリック伝道解禁。イエズス会宣教師が定住開始。
19世紀後半、オランダの修道会「神言会」がイエズス会に代わる。
1910年代、オランダの軍事侵攻、行政の施行にともない、山岳地帯に布教開始。
つまり、20世紀初頭まではキリスト教ともイスラムとも無縁だった地域にカトリックが広まる。
1942年から日本軍政時代は日本人聖職者が配属(!)。
東インドネシア国からインドネシア共和国、1962年に新しい行政区分が導入。

それでは、この地フローレスのカトリックはどういうものか。

神言会は、現地の信仰とカトリックの接点を見出そうとする傾向が強い。
聖書の「神」概念も土地の伝承・創生神話と結びつけられて説明される。
著者が調査したリオ語地域では、イエスの死と復活も死体化生神話に似た作物起源譚によって説明されている。
(以上、こまかい点は略)

フローレス全体の社会の中でのカトリック

海岸部や都市部の華人もカトリックが多数派である。
しかし、彼らは通婚も華人社会内部が多いし、カトリックとして他のグループに親近感を抱くわけではない。
また、華人商店が襲われた事件についても、カトリックがムスリムに襲われた、という見方はしない。怠け者たちが勤勉な者をねたんだ暴動だ、ぐらいの認識である。

一方、エンデ語地域は、海岸部がムスリム、山岳部がカトリック。
山岳部カトリックは、ムスリムとの婚姻もある。
カトリックがムスリムと婚姻すると、ムスリムに改宗するのが一般的、カトリックのほうが経済的に劣位であり、侮蔑の対象にもなる。(交易を通じて外の世界との接触が多い地域がイスラーム、孤立した地域がキリスト教というのは、東南アジアでよくある型である。)
こちらのほうがむしろ、カトリック体ムスリムという反感を「宗教」紛争と意味付ける傾向が強い。(実際は経済格差の問題であることが多い)

高等神学校がマウメレ近くにある。
80年代までは西欧人教員がほとんどであったが、現在は大部分がフローレス生まれの者。
生徒は幼少の頃から寮生活を送り、「故郷」の村の慣習とは違和感を抱きがちで、海外留学など外の世界への道もある。
彼らはカトリックの信仰には醒めた目をもっている。
「カトリックは普遍的な真理ではなく、土着の文化と相互に干渉しあって生まれた文化である」というふうな考えをもっている。

さて、著者が滞在して調査した山岳部の村、約2000人ほどグループである。

この地のひとびとが、「インドネシア」という国家を意識するのは、1965年のインドネシア内乱、共産党撲滅キャンペーンが最初である。
それまで、オランダ政府ともインドネシア共和国とも無縁であった山岳部に、国家内の闘争・内乱が波及する。

ここにおいて、カトリックであること=共産主義者でない=まっとうな国民である、という図式が生まれた。(大雑把なまとめかたなので、各自、自分で読んで点検してください。)

さて、最後に、この村で最後にカトリックに改宗した老人の物語が語られる。
1992年の大地震のあと、改宗した老人の物語。
自然災害のショックによる改宗(これも大雑把な見方なので、各自読んでみてください。)という原始キリスト教的(?)な改宗の経緯が描かれる。

寺田勇文,『東南アジアのキリスト教』,めこん,2002 所収