東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

レオナルド・ブリュッセイ,栗原福也 訳,『おてんばコルネリアの闘い』 その2

2006-07-23 23:00:56 | コスモポリス
前項より続く。

まず、ミステリじゃないから、表面上の結末をばらす。

亡き夫クノルの財産の大部分は、新しい夫ビッターの手にわたりませんでした。
クノルとコルネリアの間に残された息子の子ども、つまりふたりの孫たちに渡った。

ビッターのほうは、その後オランダで法律関係の仕事や市長職をつとめながら、あいかわらず借金や訴訟をくりかえしていたようである。根っからの裁判マニアなのだ。
それにしても、この男、なんに金を使っていたんだろう?
ビッターがなにに金を使ったにせよ、東インドで蓄えられた富は、結局オランダに還流されたようだ。(わたしは、マクロ経済など苦手なので、富が流れるという本当の意味がいまいちよくわからないのだが……)

東インドつまり、バタヴィアでのコルネリアの生活というのは、馬車をあつらえ、何十人もの奴隷を所有する豪勢な生活だった。
この「奴隷」というのは、南北アメリカの奴隷と同じ、東南アジアの慣習法上の奴隷ではなく、近代ヨーロッパ的奴隷である。
コルネリアとビッターが争った財産の中にも奴隷が含まれている。奴隷は、帳簿に記入され、差し押さえや相続の対象となる動産だったのである。

本書のなかにも、コルネリアの夫クノル所有の奴隷のエピソードが記されている。
東南アジアの慣習では、主人の死後、忠実な奴隷は自由民にされることが多かったが、コルネリアは、亡き夫の奴隷を解放しなかった。
その奴隷は逃亡し、盗賊の頭目となり、以後何年も東インド会社を悩ませたそうだ!(スラパティの反乱と呼ばれる盗賊団の首領)

こんな具合に、当時の東南アジアの慣習に異質な制度を貫こうとしたのが、VOCであるわけだ。
そして、その中のオランダ人夫人として、オランダ流法規に挑戦したのがコルネリアという女性である、というわけだ。
従来、「無気力で退廃的、奴隷にかしずかれて怠惰な生活をし、オランダ語も満足に話せない」というように揶揄された混血女性のなかにはコルネリアのような女性もいたのである。
「混血女性」の大部分はインドのマラバールやコロマンデル海岸で生まれたポルトガル人(ポルトガル人というのは、カトリック教徒である、ということ)であったが、チャイニーズや日本人との混血もいたわけである。
本書の主人公コルネリアの場合、とうぜんオランダ語が話せるし、「じゃがたら文」のひらがな文はコルネリアの自筆であるらしい。
プロテスタントのオランダ独立教会に所属し、友人の名づけ親や、葬儀の世話人にもなっている。

本書を読んで、ハンス・ビッターという男の執念深さに辟易するのが、普通の読者だろう。
とにかく、めちゃくちゃな男である。

コルネリアを路上で暴行する。
通りがかりの通行人が止める。
警察が事情を調べる。
それに対し、ビッターは、裁判所判事の地位を利用し、目撃者・通報者を拘束し、牢にとじこめ、証言を撤回させる。

ビッターは、コルネリアがムーア人の黒魔術を使っていると教会に告発する。
そして、証拠の品、呪い用の道具などを集める。
これに関しては、証拠不充分ということになった。

やれやれ、これが、合理的オランダ人といわれたVOC社員、裁判所判事のやることなのだ。

しかし、ひるがえって考えると、このようなしつこさ、執拗ないやがらせ、訴訟マニアこそ、ヨーロッパ人の強さの秘密かもしれない。
こんな連中と300年もつきあったいたインドネシアの人々に同情したくなる。

著者は、当時の裁判制度が「フェア・プレー」とはほどとおい制度だった、と述べている。
しかし、わたしは思うんだが、(フェア・プレーというブリテンや英語圏の用語をオランダ人に適用できるかどうか問題だが)こうした、ビッターのような男の行為こそはフェア・プレー精神というやつではなかろうか。
もし、本書で描かれているような裁判合戦で、コルネリアがあきらめたならば、正々堂々と戦わず、闘いをあきらめたフェアじゃないやつ、と思われただろう。
そういう意味で、コルネリアは、オランダ男と闘ったあっぱれな混血女である。

(ただし、大きい声ではいえないが、こういう男と闘ってきた欧米のフェミニストも、やっぱり恐いんですね、わたしとしては)

レオナルド・ブリュッセイ,栗原福也 訳,『おてんばコルネリアの闘い』,平凡社,1988

2006-07-23 01:33:23 | コスモポリス
副題「17世紀バタヴィアの日蘭混血女性の生涯」
原書;Leonard Blusse, Strange Company: Chinese Settlers, Mestizo Women and the Dutch in VOC Batavia, 1986 の第8論文、"Butterfly or Mantis ? The Life and Times of Cornelia van Nijenroode" を訳したもの。

著者が1973年から75年に日本に留学中、日本人の友人たちと瀬戸内海から九州を旅行する機会があった。
その途中、著者は平戸観光資料館でひとりの女性の書簡を発見する。
1623年から33年まで平戸商館長だったコルネリス・ファン・ネイエンローデの娘が母親にあてた手紙である。
すわ!大発見!と喜んだが、これはすでに日本では有名な「じゃがたら文」、オランダ人と日本女性の間に生まれた娘が、バタヴィアから日本の母に出した手紙である。
研究もすすんでいて、岩生成一,「甲必丹の娘コルネリヤの生涯」、1978.という論文もでた。

それでは、このコルネリアという女性の数奇な生涯とはどんなもんだったのか。

VOCの職員は女性を同伴して現地に勤務することは禁じられていた。
当然、そこで現地妻をつくることになる。
本国オランダに帰るとき、ほとんどの場合は、現地妻と別れる。
しかし、娘・息子は連れ帰ることがもあった。
本書の主人公、コルネリアもそんな混血児のひとりであるが、事情はことに特殊である。
まず、父親のネイエンローデ氏は、日本から出発する直前に死亡。
コルネリアは異母姉妹とともに(現地妻が二人いたのだ)、父親の遺産が積まれたバタヴィア行きの船で日本を離れる。
(以後、幕府の政策により、日本への帰国は不可、また、コルネリアの母は、日本人と再婚したので追放令から除外された。)

当時のVOC社員は、規定の給与のほかに密貿易、個人的投機、賄賂などで、莫大な私財をためこむのが普通であった。
ところが、ネイエンローデの場合、本人が死んでしまったうえ、私財が船の中にきっちり荷造りされている。
さっそく、業務上横領その他の嫌疑がかけられる。
ふたりの娘は、なんとか孤児として無事育てられたようである。(死亡率の高い社会だったのか、孤児の資産を保護する法規もあり、孤児院や後見人の制度もあった。それとともに、日本人コミュニティも健在であった。)
そして、コルネリアは、有能なVOC社員ピーテル・クノルと結婚、10人の子を産み続ける。そのうち成人まで生きのびたのがたったひとり(息子)。
絶え間のない出産、わが子の死、妊娠、の日々であった。
そして42歳ごろ、夫ピーテル・クノル死亡。
上級商務員だったクノルは、莫大な遺産を残して、バタヴィアに骨を埋める。

というのが、コルネリアの生涯の前半。
しかし、これで話はおしまいではない。

著者は、その後のコルネリアの人生を、バタヴィア(現ジャカルタ)からアムステルダム、ハーグの文書館の資料から再現する。

ひとりのオランダ人未亡人の生涯である。
オランダ人?
そう、この場合のオランダ人というのは、髪がオレンジ色とか瞳がグリーンということではなく、オランダ語を話すとか、オランダ生まれということでもない。

オランダと連合東インド会社(VOC)の法律に規制され支配される人間だということだ。(ちなみに、会社に所属しないオランダ人は「自由市民」という身分だった)

なんと、肖像画が存在する。(本書のカバーに使用されている)
所在はアムステルダム国立博物館、ここに収納されたのが1961年。オランダ領バタヴィアで描かれた絵画が、はるばるアムステルダムまでめぐりめぐってたどりついたのである。

さて、それでは、17世紀バタヴィアにおけるオランダ人未亡人はいかなる状況におかれるか?
まず、夫の遺産をがっちり守る。前述のように、死亡した会社員に対しては、横領や私的投資行為に関する疑惑が生じ、財産をねらう敵がうようよいる。
そのため、未亡人は、前夫の人脈や知人を味方にして財産を保全する。
さらに、未亡人には結婚をせまる、求婚者がおしよせる。
なぜならば、当時のオランダの法律では、結婚した女の財産は、夫が管理、運営でき、女性に商取引や契約の自由はなかったからだ。未亡人と結婚し、その財産をねらう若い男が東インドに運をかけておしよせた。

一方、女性のほうでも損得勘定をはたらかせる。
会社員の夫を持てば、商売の便宜があり、投資・投機に有利である。
アンソニー・リード『商業の時代の東南アジア』に描かれているように、当時の東南アジアでは、女性が積極的に投資、商売をおこない、男以上に稼いでいた。
夫の地位を利用してもうけるのはいいが、夫に財産を使い込みされたり規制されてはたまらない。
コルネリアは慎重に考え、オランダ本国からやってきたばかりの裁判所判事、ヨハン・ビッターという男と結婚する。
結婚するにさいして、コルネリアは「夫婦財産契約」という安全保障条項を結び、自分の財産の管理権を保持しょうとした。

ところが、このヨハン・ビッターという男、とんでもない男であったようだ。

裁判所判事ということは、法律の専門家である。
ビッターは契約の抜け穴を探し、訴訟を起こす裁判マニアであり、妻の財産をねらう危険で執拗な意志をもつ男だった。

結婚してほどなく、ビッターは本性をあらわし、妻の財産を横取りしようとし、次々と訴訟を起こしていく。
ここで妻対夫の裁判合戦がはじまる。

著者がここで描いているのは、17世紀バタヴィアの司法・立法・行政の癒着であり、連合東インド会社(VOC)と市参事会、教会、といった権力の頂点にたつ総督と役員会であり、VOCと民間の法律の二重基準、教会と会社役員会の癒着といような、権力、司法の混乱した姿である。
混乱しているようで、結局、会社役員会に権力が集中し、さらに門閥と派閥の争いがあるのである。
以上は、要約不可能なほど入り組んでいる。

さらに、この時代この都市の女性の地位がわかる。
ヨーロッパ全体に共通する、結婚した女性の地位の低さが描写される。

さらにハンス・ビッターという男の行為から、当時の会社員の横領や密輸、それに付随する会社重役会の派閥、バタヴィアの裁判所と本国の裁判所の管轄、といったややこしい事情がわかる。
夫ハンス・ビッター対妻コルネリアの闘いは、一度ハンス・ビッターの密輸発覚、本国召還で、コルネリアの勝利かと思えた。
ところが、ビッターは再び裁判所判事として、バタヴィアにあらわれる。
そして、法律の網の目をかいくぐり、脅しといやがらせを繰り返し、総督や役員会のメンバーをうんざりさせ、オランダ本国での民事裁判開廷を達成する。

つまり、コルネリアはオランダまで出廷しなければならない状況になる。
息子夫婦と船にのり、ケープタウンまで航海したところで、なんと、たよりの息子が死亡、嫁と孫とともにオランダ上陸。
知人の弁護士をたよって裁判にのぞむが、ほぼ、夫ハンス・ビッター側のおもわくどおりの結果となる。
裁判の半年後、コルネリアは死亡。

訳者は、本書をミステリのような筆致でかかれた本と賞賛している。
たしかに、ミステリのようだが、複雑すぎるミステリが、犯人がわかった時最初の事件を忘れているように、本書の結末を知らされても、「はあ?」という感じがしないでもない。

事項で、ほんとうの謎と、わたしの感想とコメントを述べる。

白山眞理・堀宜雄 編,『名取洋之助と日本工房』,岩波書店,2006

2006-07-22 22:55:58 | 20世紀;日本からの人々
まったく知らない。
名取洋之助という人物も日本工房という組織も、ぜんぜん知らなかった。

日本工房とは、1933年7月に創設された、写真家・グラフィックデザイナーの集団。1930から40年代のモダーンなグラフィックス、報道写真、宣伝デザインをリードし、その後の影響も巨大な同人組織である。
1934年10月創刊の季刊『NIPPON』が代表的な仕事。本書の内容も、この雑誌に関する記事・写真がいちばん多い。
創刊時は、鐘紡紡績社長が出費、その後4号から国際文化振興会(KBS 外務省、文部省の管轄下の財団法人)の援助をうける。
英・仏・独・スペイン語の記事で日本を紹介した雑誌。
その後、アジア各国版がつくられ、日本版、日本語版も存在する。全貌は今なお不明、いちおう36号、1944年が最終号と推定される。

ぎょえー!知らない世界があるもんだ。
わたしだって同人に参加した土門拳や木村伊兵衛ぐらいは知っているが、こんな組織があり、こんなデザインや写真が発表され、海外向けの雑誌がつくられていたとは!

本書は、「名取洋之助と日本工房」展という展覧会に付随して出版されたもの。
編者二名はどちらも博物館学芸員。
展覧会が今年2006年、はじめて開催されたほどだから、やはり、忘れられた、いや封印された存在だったのだろうか。
季刊『NIPPON』も現存する実物が希少で、各地から集めた現物から写真がとられたようだ。

ということが、予備知識。
内容はスゴイの一言。
こんなモダンな写真やグラフィックスが存在したのだ。
見ようによっては、「フジヤマ・ゲイシャ・カブキ・ハラキリ」といった、ワンパターンの日本イメージ、観光地絵葉書の元祖かもしれない。

それとともに、すごいのが、(すごいすごいと語彙が貧弱ですいません)、学校、衛生、軍隊といった近代的側面の紹介である。
どれも、デザインがハイカラで、国家的事業を宣伝する暗さがない。明るく健康的な軍事・産業大国が描かれている。
全体的に被写体の日本人が、みごとにいいからだで、とてもこれが一般人とは思えない(モデルを使っているのか?)。表情も明るい。

本書のなかでさらに驚きは、『SHANGHAI』、『KANTON』、『South Chaina Graphic』、『MANCHOUKOU』などの英文・華文グラフ雑誌が発行されていること。
陸軍や南支派遣軍報道部、関東軍報道部の協力・バックで、日本工房が編集・制作している。

タイ語のグラフ雑誌が1941年創刊されている。
『アウパアプ・タワンオーク』という雑誌名で、マレー上陸の一週間前に創刊。
当然、『NIPPON』と同様、日本の伝統美、近代産業を紹介する記事が多いが、それとともに、鬼畜米英の退廃文化(?)みたいな水着写真もあるぞ!

とにかく、こんな雑誌があった、という情報だけでも、本書の価値は重大であるが、ひとつだけ重要な疑問。
ほんとに、読まれていたんでしょうか?

海外に対する影響力は、どうもよくわからない。
ただし、この集団の戦後デザイン・写真への影響は大きかったようだ。
「週刊サンニュース」「岩波写真文庫」などが、この集団のメンバーがかかわった仕事である。
「岩波写真文庫」のなかで印象深いのは、秋田県大曲の農村を描いた1冊であるが、まるでチベットかラオスの山の中の貧しい村の写真である。
『NIPPON』で紹介されたような、明るく健康的な日本とはまるでちがった、暗く・因習的な村の生活が写されているのだ。(チベットやラオスの村がかならずしも悲惨で因習的でないように、秋田県の村もこの写真集から想像されるほど悲惨ではないのだが……。)
う~む。

大橋厚子,「強制栽培制度」,1994

2006-07-18 23:18:21 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
池端雪浦 編,『変わる東南アジア史像』,山川出版社,1994.所収。

オランダ植民地政庁が東インドで1830年(東インド総督ファン・デン・ボスの時代)から実施した耕作制度。
本稿は、制度そのものの解説ではなく、その後の評価をめぐる、ややこしい歴史的変遷を論じる。

戦後(独立後)の評価でおおきな問題提起となったのは、

クリフォード・ギアツ,『農業インボリューション』,1963.
この有名な著作は(もちろんわたしは読んでいない。原書を読んでいる人は、インドネシア研究者以外ほとんどいないが、「インボリューション」という造語は広くいきわたっている。)、ジャワの農村が伝統的農村共同体の特徴を失っているのもかかわらず、階層分化がなく、農民が一様に貧しく、限られた土地に労働力を投入して、内向きのダイナミックスをはたらかせた、ととらえた著作である。
結果的に、ジャワ世界は、人口過剰な狭苦しい農村、儀礼と精緻な敬語が発達した内向きの社会となった、ととらえる。

という、ギアツの論考は有名だが、これに対する反論が、栽培制度を肯定的に評価する論議をうみだしたのだそうだ(このへん、よくわからん。)

栽培制度擁護派が批判する「自由主義」というのは、自由貿易、自由な労働が市場を活性化させ、社会の発展を促進する、という考え方である(なんて、いまさら解説を加えるまでもないか……)
その「自由主義」に対する反論として、栽培制度は、ジャワを近代化するうえで、有効なはたらきをしたし、弊害は一部の地方にみられる一時的なものであった、とする。
「自由主義」が批判した時期、ジャワ島の多くの農民は豊かであり、同時にジャワの農村で商品作物栽培が軌道にのった。

こうした強制栽培は強制じゃない、近代化の一つの道だった、という論議に対し、さらに反論があり、反論の反論の反論があった。ややこしいので詳細略す。

著者の大橋厚子さんが指摘するように、資料の選択と読み方に問題があった。
また、ジャワの地域ごとの違いに無知な論議も多かった。(みなさんも、プカロンガンとプリアンガンの違い、王侯領とパスルアン・プロボリンゴなど東端部の違い、クディリのような石灰岩大地とジュパラのような北海岸の違いくらいは、基礎知識としておぼえておきましょう!)

しかし、結局、この問題は、北アメリカの奴隷制の問題と同じではないか?
奴隷制が産業全体に有利なときは、奴隷制が擁護され、必要でなくなれば、悪とされる。
どっちにしろ、判断するのはヨーロッパ人(白人)であって、ジャワの大多数の農民の現実を理解しようとする姿勢ではない、と、わたしは思うんだが。

以上の本筋とは別に、気になるのは、この栽培制度を擁護・評価した代表として、アルフレッド・ウォーレスの『マレー諸島』があげられることである。
『マレー諸島』を読めばわかるように、ウォーレスはオランダの統治制度全般に肯定的であり、栽培制度に関してはことさら好意的である。

やれやれ、こまったやつだ、このウォーレスという人物、植民地主義オンチなんだなあ……。
というより、ウォーレスはイングランドの労働者階級の悲惨な状況を知っていた男だ。
当時の「自由主義」者なんて、ブリテン島の労働者、ロンドンの貧民の実態など、ほとんど知らなかったのだから。
さらに、ウォーレスは、アマゾン川流域の状況もしっていたはずだから、それとの比較もあっただろう。

それに、なによりもこの『マレー諸島』は、現地の自然も風俗も肯定的にみる態度で書かれた旅行記である。
オランダの栽培制度ばかりでなく、サラワクの白人ラージャ・ブルックス卿の統治も肯定的に評価している。ミナハサの開発も評価している。それに、開発とか栽培そのものが存在しないような南マルクやパプアも肯定的に紹介しているではないか。
ウォーレスに自由主義か独占か、というテーマで、有効な論議を求めるのは筋違いだと思うんですが、いかがでしょうか?

弘末雅士,「インドネシアの民衆宗教と反植民地主義」,1994

2006-07-15 11:18:11 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
池端雪浦 編,『変わる東南アジア史像』,山川出版社,1994.所収。

東南アジアを含め、植民地体制にあった地域の民衆宗教運動は、以下のようにとらえられてきた。
抑圧された民衆が、現実的な政治的組織、運動組織をつくれず、やぶれかぶれの狂信的な行動にでたものである、という具合に。

それに対し、本論は、民衆宗教運動のなかに、新しい外来思想を受け入れ、改変し、試行錯誤を続けるようすをさぐる。

あつかうのは、北スマトラ、バタック族のシ・シンガ・マンガラジャ復活信仰。
19世紀末からのパルマリムという宗教運動。

1821~33年、西スマトラ・ミナンカバウ地区のパドリ運動を制圧したオランダ政府は、この地にコーヒー強制栽培制を導入、さらに北方のバタック居住地、マンダィリン地区・アンコラ地区にも強制栽培をひろめる。
現地の首長をオランダ側にちかづけるため、ドイツのライン伝道協会のキリスト教布教活動を許可、1861年から宣教師が村に駐在する。
シリンドゥンやトバ高原の首長(すでに、オランダ側の利権を得ている)の権限が増大することをおそれた北部の首長たちは、宣教師・オランダ政庁に対抗する。

このときに降臨したのが、神聖王シ・シンガ・マンガラジャ十二世。
シ・シンガ・マンガラジャ十二世は、超能力をもちい、オランダに対抗する。
この「シ・シンガ・マンガラジャ戦争」は、圧倒的な火力をほこるオランダ側が、簡単に制圧する。
神聖王シ・シンガ・マンガラジャは(超能力が通用せず)敗退し、隠遁する。

オランダの武器とキリスト教の強さをしらされた首長たちの中には、キリスト教に改宗するものが多かった。
そんななかで、宣教師の活動、政庁の支配に疑問をもち、素直にキリスト教化しない者もあった。

そのひとりにソマイランという者がいた。
彼は、(奇妙なことに)エホバの神こそがバタック族をオランダ支配から救うものだ、という教義を考えだした。
そして、宣教師は、今はオランダ政庁と妥協しているが、彼らの一人はシ・シンガ・マンガラジャが転生した仮の姿であり、いざという時、真の姿をあらわし、バタック族を救うであろうと考えた。

こうした教義を布教してまわったソマイランは、1892年、労役義務制導入などオランダ統治体制に反抗を開始した。
しかし、(当然ながら)宣教師は真の姿をあらわさず、バタック族に味方することもなかった。

こうしてオランダは支配領域を拡大し、住民の多くはクリスチャンになり、植民地体制化で下級官吏や労働者、商人となり、さまざまな近代的価値観と遭遇していった。

前述のソマイランの逮捕のあと、運動は細々と続いていた。元信者のおおかたは、クリスチャンになっている。元信者のシ・ジャガ・シマトゥバンという男が新しい教義を考えだした。

彼(シ・ジャガ・シマトゥバン)は、オランダの支配は、バタック族のムラジャディ・ナ・ポロン神のバタック族への罰だとかんがえた。
そして、旧約聖書のノアと三人の息子の話から、
セムの子孫はユダヤ人・バタック族、それにマレー人・ジャワ人・日本人・中国人だとし、
ハムの子孫はインド人、
ヤペテの子孫はヨーロッパ人
と、考えた(詳細は略す)(ここで、人種主義のような新しいアイディアが持ち込まれている)。

こうした運動がつづく中、オランダは前述のシ・シンガ・マンガラジャ十二世(山中に隠れて生きていた)を捕らえ、処刑し、死体をさらしものにする。
オランダは、どうだ、おまえらの神なんて、こんなざまだ、とさらしものにしたわけだが、反対の効果を生んだ。
民衆は、シ・シンガ・マンガラジャが、次の人物に再臨するという信仰を強めた。
民衆は、シ・ジャガが再臨したシ・シンガ・マンガラジャととらえる。
新しいシ・シンガ・マンガラジャとされたシ・ジャガはオランダ政庁に逮捕される。
シ・ジャガの逮捕は、民衆に理由なき逮捕である、と見えた。
シ・ジャガが説いたのは、罪深いバタックの「伝統回帰」であり、キリスト教の信仰と矛盾するものでもない(もともと、キリスト教の教義からひねくりだした教義であるから、当然である。貧者を蔑んではならない、などという教義は、バタック族にとって新しく導入された価値なのだ。)

こうして、シ・ジャガの運動は、幼少時からクリスチャンである世代にもアピールし、現状の植民地制度、教会制度に疑問をもつインテリ層や長老層も惹きつける。

という具合にややこしい話である。
20世紀にはいると、外来思想は多種多様になり、それぞれ変形され、「伝統」化される。

ちなみに、キリスト教は、もともと雑多な要素を含み、変形されやすく、「伝統」化されやすいものではないだろうか?
たとえば、教会はバタック族の動物供犠を禁止した。ところが、シ・ジャガに傾倒したある男は、旧約聖書中に動物供犠の記述が多くあることを指摘し、教会の禁止は不公平であると主張した。

このように、新しい思想を伝統保持のために利用したり、反植民地闘争のバックボーンにするのも、民衆の対応である。

インドネシアやスマトラのことを多少知っている人には、無用の説明であるが、バタック族というのは、インドネシアの中でも学者や教育者が多い民族である。
首狩や食人のイメージがあるが、平地の農民よりも、ずっとフレキシブルでインテリジェントな人々である。
と、いうと、では、農民は植民地下で無力に搾取されるだけか?という反論がでてきそうだ。
本書の本稿の次に
伊東利勝,『ビルマ農村の意識変化』という項があり、農民の対応を新しい角度から考察している。

林行夫,「「ラオ」人社会はどこにあるか」,2000

2006-07-12 20:55:52 | フィールド・ワーカーたちの物語
林行夫,『ラオ人社会の宗教と文化変容―東北タイの地域・宗教社会誌』,京都大学学術出版会,2000.の第2章。
書名のとおり、ラオ人の開拓村で宗教全般を見聞調査した学術書であるが、まず第2章の「ラオ人」とは、どういう人々かという部分のみまとめる。

タイ国東北部からラオス、メコン川中流域に住むラオ人。

人類学者、言語学者、民族学者の見解は共通している。
この人々は、タイ・カダイ語族にぞくする南西タイ語の一言語である共通のことばを使用し、モチゴメを好み、上座仏教をいとなむ人々である。

もともと、かれら自身は、自分たちを「タイ」といっていたようだ。
それが、スコータイ、アユタヤ、バンコクなどのタイ中部の王朝からは、「ラオ」と呼ばれていた。
タイ中部の人々は、自分たちのことを「シャム」といっていた。

「タイ」という自称であれ、「ラオ」という他称であれ、中部(チャオプラヤー川流域)のシャムからは区別されていた。

この状況が変わるのは、フランスのメコン川流域進出である。
フランスに対抗する、ラタナコーシン朝シャムは、この地、つまり現在のタイ東北部を自国の領土と明言し、そこに住む人々を同じ国民とする。
一方、メコン川東岸はフランスによって、ラオスと名づけられる。

戦後フランス領インドシナが解体し、ラオス人民共和国になる。
タイ王国のほうは、ラオ人に住む領域を「イサーン」と呼び、おなじ国籍、同じ民族のタイ人とする。
しかし、中部(シャム)からみた、東北部の蔑視は続く。
イサーンは、共産主義者の跋扈する地、停滞した僻地と認識される。
干からびた水田と貧しい農民、バンコクのスラムに流入するイサーンの貧民、というイメージが定着する。
アメリカの援助による道路が建設され(ラオスを爆撃する空軍基地もおかれ)、キャッサバやケナフなどの商品作物が導入されると、イサーンの貧しいイメージは増大する。

一方、アメリカ軍基地からの爆撃で国土を荒らされたラオス人民共和国は、まったく別の意味を「ラオ」に与えた。
ラオス政府によれば、「ラオ」とは、盆地や渓谷に住むラオ・ルム(低地ラオ、言語学者が定義するラオ)、モン=クメール諸語をはなし山腹にすむ人々ラオ・トゥン、高地や稜線に住むメオやシナ・チベット諸語をはなす人々ラオ・スーン(山頂ラオ)、すべてを含むラオス国民である。
ラオスでは、少数民族という語を使わない。ラオス国民は言語が違っていても、みなラオである。
そして、ラオス政府からみれば、タイ東北部のイサーンの連中は、シャムに隷属した祖国をもたない者たちである。

というように、タイ国内のラオ語話者・イサーンの人々は、タイ国民としての意識を持ちはじめ、ラオスのラオとは一体感を持たなくなった。
かといって、完全に中部のタイ人(シャム人)と同属意識をもっているわけではなく、シャムからの差別は続いている。

さらに複雑な要素。
東北タイやラオスにもともと住んでいた人々、スウェイ、カメーン(クメール)、そのほかの少数グループからみると、ラオはよそ者である。
モン・クメール語族の人々は、「タイ人」や「イサーン」ではなく、「ラオ」としてラオ人を認識している。また、ラオ語はスウェイやカメーンにとって、共通語でもある。

そう、ラオ人とは、移動する人々であり、農民兼商人である。
クメール人の家に婿入りし、縁者をよびよせ、村をラオ化してしまう。
追い出された先住民は別の村を作る(結果的に、新しい村に先住民(?)が多く、古い村に、移住してきたラオ人が多い、というややこしい状況がある。)

そして、スウェイやカルーン、ニョー、ヨーイからみれば、ラオは決してあわれな農民ではない。
もともと、商才に長け、「蟻が砂糖にむらがるように儲け仕事に敏い連中」なのだ。
正確な年代は不明だが、19世紀から東北タイに進出し、森を切り拓き、農地を作り、転売する、といった「土地ころがし」で儲ける人々である。
現在でも、この移動は続いている。

日本からみると、これほど土地が余っていたのがふしぎだが、もともと人口希薄な土地だったわけだ。ラオに追い出された先住のクメール系が、さらに新しい村を作る、というのも土地がそれだけ未開拓であったのだ。
(タイ政府による土地占有法ができるのは20世紀(1936年)、その法律が実効力をもつのは、地方によって地域によって異なる。)

現在(著者が調査した1980年代)、ラオ人はイサーンの地で、イサーン人としての自己意識を持ち、学校教育によって、ほぼ全員、中部タイの標準タイ語を理解し、ラジオ・テレビのタイ語を聞き、若い層は読み書きもできる。完全なバイリンガル社会である。

著者が調査した村は、コーンケン県ムアン郡ドンハン行政区のD村。
(参考文献をみれば、この村の名はすぐわかるが、なぜか著者はイニシャルのみであらわしている。)
1850年代に開村した開拓村。
かれらの祖先は、ヴィエンチャンからチャンパーサックに南下し、さらにウボンラーチャタニーからチー川ぞいにローイエットに移動した人々である。

桜井由躬雄,『ハノイの憂鬱』,めこん,1989

2006-07-10 23:39:15 | フィールド・ワーカーたちの物語
書名の憂鬱はボードレーヌ『悪の華』の一編「憂鬱」によるらしい。
ボードレーヌの詩はフランスの冬にふる冷たい雨をつづったもの。
そして、ハノイの含む紅河デルタも東南アジア大陸部では唯一、冬に降雨があるところだ。
幸か不幸かその冬雨は、ぎりぎり稲作を可能にする雨量である。
そこで、夏の雨季に氾濫原となる低地で、冬に稲作がおこなわれる。
しかも、フィリピンのIRRIが開発した高収穫品種IR8,緑の革命といわれるミラクル・ライスを育てる。
このIR8、水と温度がたっぷりあり、化学肥料をぶちこめば、奇跡のような高収穫をもたらす。しかし、低温に弱く、洪水にも病害虫にも弱い。
それでも農民たちは、この品種を選ぶ。不安定を克服し、高収穫を望む。
結果的に、少々の天候不順で収穫が激減する。
政府は、なけなしの外貨で化学肥料を輸入する。

といった、どんづまりの経済、停滞する農業生産、非効率な流通、東南アジアで最低どころかユーラシアの最貧国(統計のある国の中では最低)、1985年1月から1987年1月まで丸二年ハノイに滞在した著者の見聞録。

本書にドイモイという言葉は一度も登場しない。
ドイモイ決議といわれる第6回ベトナム共産党大会、そのとき、著者はハノイにいて、党大会の開催から決議まで見聞している。
それ以前、10年ほどのさまざまな改革が詳しく解説されている。
ともかく農業生産が伸びず、さまざまな統制が裏目にでて、どん底のベトナム、混乱する生活が描かれる。

と、紹介してきたが、本書はベトナムの経済事情の本でも、政治分析の本でもありません。

著者は、ベトナム史の第一人者であり、東南アジア全般の歴史学界のナンバー・ワン、東南アジア各地の実地調査も数多い。
ところが、長年の憧れであるベトナムに行けない。許可がおりない。
そこで、やっと手に入れたのが、本書に記される滞在となる、在ハノイ日本大使館付属調査員の資格である。(大きい声では言えないが、東南アジア研究者にとって、外務省は評判が悪い!)その、外務省の犬になってもベトナムに行きたいという、著者の執念が実っての滞在記、もちろん本格的な調査はできないが、たんなる見聞記ではない、ドイモイ前夜のハノイの風景が描かれる。

序章で、著者とベトナムの出会いが回想されている。
ベトナム戦争の時代、反戦運動華やかな時代、しかし、アメリカ帝国主義に対する英雄的戦いはマス・メディアをにぎわすものの、ベトナム研究はフィールド・ワークもできず、漢籍やフランス語の文献からの研究のみ。
一方で、ほかの東南アジアのフィールドからは、次々と新しい理論、仮説、実地調査から成果がうまれていた。
そんな中でベトナム研究者は取り残される。
まして当のベトナム共和国は、戦争に勝利したあとの対中軍事衝突、カンボジア侵略、経済危機、ボート・ピープルなど、ベトナムの評判を落とす事件ばかりおこる。

こうした背景をもってベトナムを実見した著者の滞在記。
むやみやたらにベトナムを礼賛するのでもなく、統制経済の害をあばくのでもない。(ちなみに、統制経済といっても、成功したものも、失敗したものも、それほど政府の計画どおり進行したわけではなく、結局、天候に左右される部分がひじょうに多いようだ。)

著者の語るホーチミン観も冷静でいい。
運の悪い男レズアン(著者滞在時に死去した共産党書記長)によせる同情もいい。

やはりおもしろいのはハノイの町の見聞、周辺の農村のようす。
ハノイから車で悪路をのりこえ、ディエンビエンフーまでの小旅行がすばらしい。
タイ族の古代神話をまじえ、ダム建設や近代的酪農牧場をめぐり、まわりの焼畑や水田風景、ミャオ(Hmon)族やタイ族の集まる市場を案内する。その風景とともに、ナヴァール率いるフランス軍とボーグエンザップ率いるベトナム人民軍の戦いを描写する。

桜井由躬雄 文,大村次郷 写真,『米に生きる人々 』,集英社,2000
によれば、このディエンビエンフーの地でも、その後、高収穫品種が導入されているということです。

佐々木高明,『照葉樹林文化の道』,日本放送出版協会,1982

2006-07-08 22:45:50 | フィールド・ワーカーたちの物語
照葉樹林文化に関しては、本書の前にも後にも読みきれないほどの本が出版されているが、まず、本書で標準的な知識はでそろった、と考えてよいだろう(よいですね?)。

著者の佐々木高明さんは、これ以後も、日本文化基層の研究を続け、ナラ林文化と照葉樹林文化の対比から考察するなど、広い視野と深い個別事例を総合している。
ただし、日本文化を離れ、照葉樹林全体に注目するならば、本書が一番まとまっていて、これだけでOKだと思うのだが?
というより、やまほどある照葉樹林本を読む気がしない。玉石混交で、くず本もいっぱいあるし、日本文化のルーツを探るという方向に、わたし自身興味がなくなったのだ。

それからもうひとつ。
このテーマの本は、私自身、発行年代ばらばらに断続的に読んでいるので、なにが当時の新発見か、新鮮な知見か、もう判断できない。
というわけで、おぼつかないレヴューを記録しておく。

第一に、照葉樹林帯の生業の基層は採集・狩猟である。
第二に、照葉樹林農耕は、根茎(イモ)と雑穀の焼畑である。
第三に、稲作は、雑穀の一種である稲が特化したもので、稲作が照葉樹林文化の特色ではない。

焼畑をひとつの文化の中枢にすえる、東南アジア山地の農耕の基層とする、日本文化のルーツとするのは、当時とてつもなく大胆新鮮な見解だったようだ。
今でもそうだが、焼畑は、遅れた原始的な農耕とみられていたからである。
そんなもんが日本文化の基層とは!

すでに東南アジアの農耕をしっている現在のわれわれからみると、焼畑はけっして遅れたものではなく、生態に適応した、資源を有効につかう農耕である。
さらに労働効率もよく、おおくの作物を複合させた栽培は、天候の不安定をカバーする安定した農耕である。
稲作中心の農耕観を捨て去ったのは、照葉樹林文化論の大きな成果だとおもう。

そして、モチ種の穀物を好む文化、イモと雑穀の両方を主要作物とする農耕、大豆醗酵食品、蚕から絹糸を紡ぐ技術、漆、茶、麹醗酵酒を照葉樹林の物質文化とした功績はすばらしい。

とくに、チャイナ特産と外部世界からみられた絹と茶を照葉樹林文化の遺産とするのは、ものすごい発見だ。

この点、東南アジア研究者以外、東南アジア史研究者以外、東南アジアファン以外のひとたちは、どう思っているのだろうか?
従来、漢民族の文化とされていた絹と茶が南方の蛮人にルーツをもつものだった。
反論はでてこないのだろうか?

さて、照葉樹林焼畑農耕の上にのっかったのが水田稲作である。

稲作のルーツ探しになると、俄然各国の「最古」争いが始まるようだ。
この「最古」争いがある、という事実こそ、稲作がファッションであり、カッコイイ文化であり、軍事物資である、ということの裏返しだと、わたしは思うんだが。
わが国こそバナナのルーツだ!とか、わが国は世界にさきがけてイモを作ったなんて自慢する政府がないのはなぜだろう?

というわけで、稲作に関しては、べつの本、べつの著者で触れよう。

佐々木高明さんがはじめて西双版納(シーサンパンナ、シップソンパンナー)を訪れたのが1980年。
ハルマヘラやアッサムで調査をした研究者でも雲南が1980年!
照葉樹林帯の焼畑が、はじめて実見できたのだ!
そして現在、この地で、焼畑をふくめ照葉樹林そのものが急速に消えていっている。
もう少し遅ければ、実証不可能な仮説にとどまったかもしれない。そういう意味で、大胆な仮説を唱えた中尾佐助はエライ。その後で、実証的なデータを集めた佐々木高明さんもすごいもんだ。

桃木至朗,「東南アジアの海と陸―チャンパとチャム族のネットワーク」,2001

2006-07-07 11:16:45 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
村井吉敬 ほか編,『島とひとのダイナミズム 海のアジア 3』,岩波書店,2001.所収。

チャム族はあわれな亡国の民か?

この小論は、チャンパの歴史を短くまとめるとともに、その後裔とされるチャム族の姿にまつわるイメージを再考したもの。

まず、東南アジア海域に共通することだが、チャンパは広大な領域をもった国家ではない。
港市国家が連立する、「マンダラ(まんだら)」国家である。
スマトラ東岸の国家とおなじように、河口の港市、狭い内陸平野上の政治拠点、上流の宗教聖地の三点セットを持つ。
クアンナム地方のアマラーヴァティを例にとれば、港市がホイアン、都城がチャーキュウ、聖地ミーソンのセットである。(わかりやすい!)

10世紀末から中心はヴィジャヤ(現在のビンディン省)にうつり、大越やカンボジアと抗争しつつ、交易の主役を固める。
注意したいのは、大越やカンボジアもマンダラ国家であった、ということ。

大越とのパワー・バランスがくずれだすのは、14世紀末から。
1471年、ヴィジャヤ以北が恒久的に占領される。
1697年以降のチャンパは、「順城鎮」というグエン氏の特殊な属国として、ほそぼそと生き残る。
18世紀後半、タイソン反乱によって順城鎮は荒れ、明命(ミンマン)帝の南部鎮圧とともに、チャンパ王権は最終的に滅亡。

それでは、チャンパ人あるいはチャム人とは、どういう人たちであったか?

まず、王族は東南アジア各地の王族と婚姻関係を結んでいた。
カンボジアやマレー世界の各地に、王子や王女が移動した。
また、戦乱で生じた難民は山地や海南島・フィリピン諸島に逃れ、あるいは戦争捕虜として大越に連行された。
「難民」「捕虜」という語を現代的に解釈すると、誤解が生じる。
もともと、マンダラ国家を構成する集団は、多言語・多民族の集まりであり、大越に移動したチャンパ人も、傭兵・開拓民・技芸の使い手として、大越の民、つまりヴェト人(キン族)に同化していった。
別言すれば、あたらしい宗教(イスラーム、儒教など)をうけいれ、生業をかえて生きぬく、フレキシブルな対応があった。
というより、もともとチャム人というのは、水上民、農民など、いろいろな生業の集団を含んでいた。

現在のチャンパの末裔とされる人々は、どこにいるだろうか?

まず、言語的には、チャム語とクメール語は区別がつかない場合がある。
クメール人やほかの山地民と混ざって、あるいはモザイク状にすみわけている場合、チャンパの末裔というのが、どの程度のことをしめすのか、明瞭ではない。
バーンドゥランガ(ニントゥアン、ビントゥアン省)に残ったチャムは乾燥した内陸平野で農業をいとなむ。宗教は、バラモン教と「バニ」という土着化したイスラム教。
カンボジアやメコンデルタ領域にのがれた人々は、漁業、商業をいとなみ、スンニー派ムスリムが多数で、マレー人に親近感をもつ。
タイやマレーに移動したチャム人は土着化。
海南島では「回族」に分類されている。

まとめる。

「チャンパ王国時代」も「滅亡後」も、混成集団である。

近世以降、領土をもたない民族が、国家に組み込まれ、あるいはネットワークを寸断され、消滅していったおおきな流れの一部であること。
ベトナムが中華意識の強い国家であったことから、チャンパの場合、特に明白であった。

ベトナム戦争中、FURLO(FULROの誤記か誤植)という、中部高原産地民の組織がつくられ、南北両政権と対立した。
この組織は、チャンパが近代的国民国家であるような誤解を流布し、社会主義政権下で解体した。
その後、ドイモイ政策のなか、一方的同化政策が批判され、観光資源、研究対象として見直されはじめた。
つまり、プラスのシンボルとなった。

現在、ベトナム政府は、チャンパ・チャム人を「豊富で多様な」ベトナムを証明する要素としてもちあげている。
一方、先進国の研究者は、国家史観を解体する、「海のアジア」の象徴として、チャンパ・チャム人に注目する。

う~む、桃木至朗さん、鋭いですねえ。
本シリーズを喜んで読んでいるわたしのような読者にも警告を発している。

長津一史,「海と国境―移動を生きるサマ人の世界」,2001

2006-07-07 09:50:36 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
村井吉敬 ほか編,『島とひとのダイナミズム 海のアジア 3』,岩波書店,2001. 所収。

力作!!
フィリピン南部スルー(スールー)諸島、マレーシアのサバ州、インドネシア東部スラウェシ島などの沿岸・島嶼にすむサマ人。バジャウ、バジョと他称される人々と国境の関係を論じた小論。

サマ人はスルー系サマ人とスラウェシ系サマ人に分けられる。
ブルネイ近海からオーストラリア北岸まで広く拡散していた。
19世紀前半までまでには、スルー諸島のスルー王国の繁栄にひきつけられ、スルー海域で漁業・交易・海賊をいとなんでいた。
この海域は、植民地勢力の実行支配がとどかない、権力の空白域だったわけだ。

ところが、19世紀末から20世紀にかけて、フィリピンはアメリカ領に、北ボルネオは北ボルネオ会社領になり、オランダもこの地まで勢力を伸ばしてきた。
ここで、サマ人は「都合のよい」場へ移動する。
都合がよいとは、植民地権力の干渉が少なく、海産物の交易に便利で、漁業を生業とする者にとっては海賊がいない、ということだ。
この時期にサマ人にとって重要なことは、アメリカの学校制度から逃れることだった。
サマ人たちは、北ボルネオからアヘン、葉タバコ、衣類などをオランダ領へ密輸出、オランダ領側で、ナマコ、白蝶貝、ツバメの巣、ラタン、ダマール樹脂などと交換された。

さて、この小論の中心は、20世紀半ばのコブラ密貿易である。

この時代以前にも密貿易はおこなわれていたが、コブラの密輸は、サマ人にとって、大儲けの時代だった。(ワクトゥ・スマグリングという)

まず、第二次世界大戦後の政治状況をみてみよう。

1946年、フィリピンは独立。
いっぽう、北ボルネオは、イギリスの直轄植民地(クラウン・コロニー)になる。なんと、このときになって、初めて北ボルネオは正式な(?)植民地になるわけだ。
オランダ領では、インドネシアが独立戦争、最終的にオランダが撤退するのは1950年だ。

この時期はまた、世界的な油脂不足の時代で、コプラからマーガリンを製造する技術が開発された時だった。
ここにサマ人の密輸の条件がそろう。

条件がそろったとは、具体的にどういうことか?

まず、フィリピン。ここは、独立したものの、軽工業製品から贅沢品まで輸入にたよっていた。
いっぽう、インドネシア側ではコプラがとれる。
キーポイントは、北ボルネオのクラウン・コロニーが、元祖自由貿易の国であることだ。北ボルネオにコプラを持ち込むのは違法でもなんでもない、堂々とした自由貿易である。
インドネシア独立後も新政府は、スラウェシなど東インドネシアのコプラを中央でコントロールしようとした。中央の統制をくぐりぬけるのが、サマ人を通じた密輸出である。

こうして、土地勘(というより海勘というべきか)を持ち、人脈を持ち、取締りの情報をいちはやくキャッチし、警察や政治家に賄賂をおくり、サマ人たちは有利な密輸を展開した。

さらに、さまざまな政治的、宗教的背景がある。(まるでスパイ小説のような話だ)
たとえば、アメリカ政府はインドネシアの反政府運動を支援するため、フィリピンのスルーを裏口としていた。アメリカに逆らえないフィリピン政府は、スルーの裏口ルートを黙認していた。
あるいは、南スラウェシにおけるブギス人の反政府闘争。さらに北スラウェシでの反乱が続く。このため、生活物資の流通さえ不都合になり、密輸にたよることになる。
コプラをうけいれる北ボルネオ側は、「ローカルな交易はわが国の法律に従っておこなわれている……交易は水の如し。」という調子である。

密貿易の衰退

1963年、北ボルネオはマレーシア連邦サバ州として独立。
この処置(マレーシア連邦案)に対し、フィリピン・インドネシアは国交断絶。
インドネシア・マレーシア間に軍事衝突。

1965年、国交は回復したが、密貿易は回復しなかった。
インドネシアの強権的政策もある。

しかし、最大の原因は、コプラの需要が低下したことである。
この時期、植物油脂の主流がココヤシからアブラヤシになる。
大規模プランテーションで製造されるアブラヤシは、サマ人の小規模密輸で扱える商品ではなかった。
かくて、コプラ密貿易の黄金時代は終焉する。

以上の話だけでも十分おもしろいが、さらに一言。

サマ人の生活は日本人のロマンティシズムを刺激するらしく、何度もテレビで取材されている。
最初の本格的映像作品は門田修さんたちの作品「光と風と!幻の漂海民―フィリピン・スールー海」(ヴィジュアル・フォークロア制作、TBSテレビ、1987年1月3日放送)だそうだ。
それ以後は、この作品の二番煎じだと著者はいっている。
(わたしは、もちろん、最初の作品も「二番煎じ」もみていない。門田さんには悪いけど、正月の三日にのんきにこんな番組見てる人いるかな?わたしの場合、この当時テレビはもってなかったし、いずれにしろ、TBSは映らない。)

その後のある作品に、著者が知っているサマ人の家族が登場した。
父親がインタヴューに応える。
テロップがでる。
「間にある海はどっちでもない。」と……。
しかし、著者が聞いた言葉は……
「あの島の向こうはサバ領、この珊瑚礁からはフィリピン。向こう側ではパトロールが行われている。」

現代のサマ人も国境を認識して生きる人々なのだ。