前項は前置きである。
実はとうとう、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を読んだのだ。
ひじょうに難解で読みにくいという噂なので、決死の覚悟で望んだが、最初の10ページか20ページをクリアすれば、わりとスラスラ読める。
読んだ方はわかるだろうが、おどろおどろ系の要素もあるが、全体としてユーモアたっぷりのシャーロック・ホームズ物として読める。
もちろん、全編に充満するありとあらゆる書物や図像の薀蓄、ヨーロッパ中世からルネサンスにかけての歴史、神学論争、現代イタリアの政治が隠されている部分、どれをとっても十全に理解するのはたいへんだ。しかし、作者の数パーセントの知識しかない読者でも楽しめるようにできている。
翻訳はすばらしく読みやすい。
それで、同じ訳者・河島英昭の、『大航海時代叢書 第Ⅱ期 1』に収録された、訳者あとがきである。
詳細なテキスト(文体)の分析を全部紹介すると何千字にもなるので略すが、結論だけいうと、本書は著者ピガフェッタと情報提供者ローペツの共同作品ではなく、ローペツの情報が主なのではなく、ピガフェッタ単独の作品として読むべきだ!ということ。
そして、本書「コンゴ王国記」は、ボッカッチョの『デカメロン』の伝統を継ぎ、アリオストの『狂えるオルランド』やタッソの『解放されたエルサレム』の延長にある、ルネサンスを通過した時代の作品として読まれるべきである、とする。
最後に付言しておかなければならないのは、『コンゴ王国記』が近代の諸科学や学問のために書かれた作品ではないこと、また狭い意味での文学作品でもないことである。(中略)それゆえ、本稿の半ばにおいて述べたように、仮にも、私たちは現代の専門分化した、鋭くかつ狭い視野からのみ、このような広義の文学作品に接するようなことがあってはならないであろう。
と、まあ、学問的な訳注・松園万亀雄にけんかを売るようなことを言っている。
人食いの話など、お約束の虚構であって、そんなもの真に受ける読者がいたかもしれないが、多くの読者は虚構として楽しんで読んでいたのである、と。
さて、河島英昭の訳者あとがきに対し、さらに「叢書」編集部が月報の中で言及している。「「叢書」編集部」とあるが、執筆したのは石原保徳氏ではないか?
「忘れられた島々」というタイトルで、カリベ族の食人風習をめぐる記録とジェノサイドについて書かれた短い文章である。
以下、引用するが、強調のための傍点は略す。
そこで、人喰いの虚構を虚構として楽しむ「バロック精神」の持主は、そのとき、かつてカリベ神話を作り出した先人たちの犯罪性と、それによって殺され、苦しんだ人々の心におもい及ぶことはなかったのか、と。
たしかに、いまのところ、私たちはこの二人から(引用者注、ピガフェッタとオビエードのこと)、そしてまたイタリア・人文主義者たちから、こたえを引き出す力はない。しかし、すくなくともピガフェッタの中に、かつて西方の小さな島々でおこった歴史に対する「無知」と「無感覚」をみるのは的はずれなのであろうか。
うーむ。
訳者・訳注者・編集者が三つ巴でけんかしているみたいだな。
わたしとしては、400年前の作品を読む読み方としては、河島英昭氏の立場をとりたいが、これは現在まで続く、現在のほうが深刻な問題でありますね。
50年前の史料なら、いや、100年前の史料でも、虚構を虚構として楽しむというわけにはいかないからなあ。
実はとうとう、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を読んだのだ。
ひじょうに難解で読みにくいという噂なので、決死の覚悟で望んだが、最初の10ページか20ページをクリアすれば、わりとスラスラ読める。
読んだ方はわかるだろうが、おどろおどろ系の要素もあるが、全体としてユーモアたっぷりのシャーロック・ホームズ物として読める。
もちろん、全編に充満するありとあらゆる書物や図像の薀蓄、ヨーロッパ中世からルネサンスにかけての歴史、神学論争、現代イタリアの政治が隠されている部分、どれをとっても十全に理解するのはたいへんだ。しかし、作者の数パーセントの知識しかない読者でも楽しめるようにできている。
翻訳はすばらしく読みやすい。
それで、同じ訳者・河島英昭の、『大航海時代叢書 第Ⅱ期 1』に収録された、訳者あとがきである。
詳細なテキスト(文体)の分析を全部紹介すると何千字にもなるので略すが、結論だけいうと、本書は著者ピガフェッタと情報提供者ローペツの共同作品ではなく、ローペツの情報が主なのではなく、ピガフェッタ単独の作品として読むべきだ!ということ。
そして、本書「コンゴ王国記」は、ボッカッチョの『デカメロン』の伝統を継ぎ、アリオストの『狂えるオルランド』やタッソの『解放されたエルサレム』の延長にある、ルネサンスを通過した時代の作品として読まれるべきである、とする。
最後に付言しておかなければならないのは、『コンゴ王国記』が近代の諸科学や学問のために書かれた作品ではないこと、また狭い意味での文学作品でもないことである。(中略)それゆえ、本稿の半ばにおいて述べたように、仮にも、私たちは現代の専門分化した、鋭くかつ狭い視野からのみ、このような広義の文学作品に接するようなことがあってはならないであろう。
と、まあ、学問的な訳注・松園万亀雄にけんかを売るようなことを言っている。
人食いの話など、お約束の虚構であって、そんなもの真に受ける読者がいたかもしれないが、多くの読者は虚構として楽しんで読んでいたのである、と。
さて、河島英昭の訳者あとがきに対し、さらに「叢書」編集部が月報の中で言及している。「「叢書」編集部」とあるが、執筆したのは石原保徳氏ではないか?
「忘れられた島々」というタイトルで、カリベ族の食人風習をめぐる記録とジェノサイドについて書かれた短い文章である。
以下、引用するが、強調のための傍点は略す。
そこで、人喰いの虚構を虚構として楽しむ「バロック精神」の持主は、そのとき、かつてカリベ神話を作り出した先人たちの犯罪性と、それによって殺され、苦しんだ人々の心におもい及ぶことはなかったのか、と。
たしかに、いまのところ、私たちはこの二人から(引用者注、ピガフェッタとオビエードのこと)、そしてまたイタリア・人文主義者たちから、こたえを引き出す力はない。しかし、すくなくともピガフェッタの中に、かつて西方の小さな島々でおこった歴史に対する「無知」と「無感覚」をみるのは的はずれなのであろうか。
うーむ。
訳者・訳注者・編集者が三つ巴でけんかしているみたいだな。
わたしとしては、400年前の作品を読む読み方としては、河島英昭氏の立場をとりたいが、これは現在まで続く、現在のほうが深刻な問題でありますね。
50年前の史料なら、いや、100年前の史料でも、虚構を虚構として楽しむというわけにはいかないからなあ。