東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

河島英昭,「ピガフェッタ コンゴ王国記」の訳者あとがき

2009-09-22 19:02:08 | 翻訳史料をよむ
前項は前置きである。

実はとうとう、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を読んだのだ。
ひじょうに難解で読みにくいという噂なので、決死の覚悟で望んだが、最初の10ページか20ページをクリアすれば、わりとスラスラ読める。

読んだ方はわかるだろうが、おどろおどろ系の要素もあるが、全体としてユーモアたっぷりのシャーロック・ホームズ物として読める。
もちろん、全編に充満するありとあらゆる書物や図像の薀蓄、ヨーロッパ中世からルネサンスにかけての歴史、神学論争、現代イタリアの政治が隠されている部分、どれをとっても十全に理解するのはたいへんだ。しかし、作者の数パーセントの知識しかない読者でも楽しめるようにできている。
翻訳はすばらしく読みやすい。

それで、同じ訳者・河島英昭の、『大航海時代叢書 第Ⅱ期 1』に収録された、訳者あとがきである。

詳細なテキスト(文体)の分析を全部紹介すると何千字にもなるので略すが、結論だけいうと、本書は著者ピガフェッタと情報提供者ローペツの共同作品ではなく、ローペツの情報が主なのではなく、ピガフェッタ単独の作品として読むべきだ!ということ。

そして、本書「コンゴ王国記」は、ボッカッチョの『デカメロン』の伝統を継ぎ、アリオストの『狂えるオルランド』やタッソの『解放されたエルサレム』の延長にある、ルネサンスを通過した時代の作品として読まれるべきである、とする。

最後に付言しておかなければならないのは、『コンゴ王国記』が近代の諸科学や学問のために書かれた作品ではないこと、また狭い意味での文学作品でもないことである。(中略)それゆえ、本稿の半ばにおいて述べたように、仮にも、私たちは現代の専門分化した、鋭くかつ狭い視野からのみ、このような広義の文学作品に接するようなことがあってはならないであろう。

と、まあ、学問的な訳注・松園万亀雄にけんかを売るようなことを言っている。

人食いの話など、お約束の虚構であって、そんなもの真に受ける読者がいたかもしれないが、多くの読者は虚構として楽しんで読んでいたのである、と。

さて、河島英昭の訳者あとがきに対し、さらに「叢書」編集部が月報の中で言及している。「「叢書」編集部」とあるが、執筆したのは石原保徳氏ではないか?

「忘れられた島々」というタイトルで、カリベ族の食人風習をめぐる記録とジェノサイドについて書かれた短い文章である。
以下、引用するが、強調のための傍点は略す。

そこで、人喰いの虚構を虚構として楽しむ「バロック精神」の持主は、そのとき、かつてカリベ神話を作り出した先人たちの犯罪性と、それによって殺され、苦しんだ人々の心におもい及ぶことはなかったのか、と。

たしかに、いまのところ、私たちはこの二人から(引用者注、ピガフェッタとオビエードのこと)、そしてまたイタリア・人文主義者たちから、こたえを引き出す力はない。しかし、すくなくともピガフェッタの中に、かつて西方の小さな島々でおこった歴史に対する「無知」と「無感覚」をみるのは的はずれなのであろうか。


うーむ。
訳者・訳注者・編集者が三つ巴でけんかしているみたいだな。

わたしとしては、400年前の作品を読む読み方としては、河島英昭氏の立場をとりたいが、これは現在まで続く、現在のほうが深刻な問題でありますね。

50年前の史料なら、いや、100年前の史料でも、虚構を虚構として楽しむというわけにはいかないからなあ。

河島英昭 訳,「ピガフェッタ コンゴ王国記」,1984

2009-09-22 18:57:22 | 翻訳史料をよむ
『大航海時代叢書 第Ⅱ期 1 ヨーロッパと大西洋』,岩波書店,1984.所収。

原書1591年イタリア語。
著者のフィリッポ・ピガフェッタというのは、有名なマガリャンイス隊の記録を残したピガフェッタとは別人であるが、血縁関係があるという説もあり。当時のウマニスタ(人文主義者などと訳される)。
本書出版の年に教皇インノケンティウス九世の侍従、トスカナ公やメディチ家のフェルディナンド一世の顧問にもなっている。本書はサン・マルコの司教アントーニオ・ミリオーレへの報告として執筆されている。

つまり、教皇庁やローマやメディチ家の中枢に近づける人物であったようだ。

そうした人物の著作であるが、本人がコンゴ王国とやらに行ったわけではなく、ポルトガル生まれの新キリスト教徒(ユダヤ教からの改宗者)で、コンゴ王国の国王と親しいオドアルド・ローペツという人物からの情報をまとめたもの。

では、このローペツという人物がどういう男かというと、コンゴ王からスペイン王(当時、ポルトガル王も兼ねるフェリペ二世)への使者だと自称している。スペイン王フェリペ二世やポルトガル副王に相手にされないので、教皇やイタリア諸侯にコネがあるピガフェッタに近づいたようだ。
コンゴ王使者としてローペツは、コンゴをポルトガルの宗主権から教皇庁の直轄地に献呈すると話をもってきたようだ。
もちろんコンゴ王とやらが、そんなことを望んだかどうか確かめようがないが、ローペツ自身がその領地の代理人やら管理者の地位につきたいようだ。当然、最大の利権は奴隷交易である。

そういう怪しい人物の情報をまとめたのが本書「コンゴ王国記」である。

コンゴ地方がポルトガル人と接触したのは、1470年代だが、本格的な交易や布教は1491年から。つまり日本より50年ほど早い。
アジア各地によくあるように、現地の一部勢力との連合、王位継承への介入、周辺部族との戦闘などが描かれる。

しかし、本書の第1部、コンゴ地方の自然・産物・風習・統治制度を描いた部分、周辺の領地や王族間の争いなど、ほとんど信じられない内容である。

鉱物資源が無限にあり、気候が温和で食物が豊富で、珍しい動物がうじゃうじゃいて、エキゾチックな香料や毛皮や織物があり、ヨーロッパ産の野菜や家畜がいて、野蛮人は異教の風習に染まり、食人の風習があり、という具合。
周辺の地理的関係も、プトレマイオス時代の認識が半分、現地の噂が半分というわけで、書いている本人も判っていないのではないかいな。

という内容を、現代の文化人類学や民族学、そのほか自然科学の分野から丁寧に訳注が付けられている。
訳注は松園万亀雄(まつぞの・まきお 後に国立民族学博物館の4代目館長)。

というのが前置き、肝心のことは事項で

田中克彦,『ノモンハン戦争――モンゴルと満洲国』,岩波新書,2009

2009-09-13 22:19:35 | 国家/民族/戦争
ちょっとわき道にそれて、内陸へ。
一気に読んだ。
まあ、細かい部分はすぐに忘れるだろうが、戦争の背景を一般読者にもやさしく説いた新書らしい新書。
戦争の原因をめぐる著者の論旨には、今後異論がでるかもしれないが、少なくとも普通の読者にとってははずせない基礎事項を丹念に書いてくれている。
わたし自身、まったく暗い地域であるので、本書の書き方はありがたい。

地名・地域名・行政組織・人名の表記とその理由、民族や部族の名称とその由来など、まちがいやすいことや誤解されている事項をていねいに解説している。
さすが言語学者でモンゴル学の第一人者である。
これらの基礎事項は、まず異論のないところだろう。というより、モンゴル語各方言とシナ語とロシア語をしっかりできる人など研究者でも少数だろうから、一般人としては信じるほかないですね。(著者はチベット語も知っているし、ドイツ語や英語も堪能である。東南アジア研究者もたいへんだが、この方面の研究者もたいへんだ。)

著者の業績からすれば本書『ノモンハン戦争』は、長い研究生活の一端を一般読者向けに書き改めた程度であろうが、『エスペラント』などと違って、かなりホットな話題、論争を呼びそうなテーマである。
たぶん、政治的な話題が好きな方面から恣意的に引用されたり、あるいは著者の見方を糾弾する批判が出てくるんじゃないだろうか。

そういう意味でも、つまり批判や同調するノイズに惑わされないためにも、すぐに読める本であるから、各自自分で読むべし。
全体の文脈を無視して断片的に引用されそうな部分がたくさんあるので。

わたしはぜんぜん知らなかったが、著者は中華人民共和国政府やロシア政府側からそうとうに評判が悪いそうだ。中国政府など、名指しで批判している。
一方日本国内では、ミギヒダリに分類しないと気がすまない人々からは、完全にヒダリの人間だとみなされているだろう。

「あとがき」を読んで驚いたのは、1972年ごろ司馬遼太郎から取材の依頼があって、代理の取材者が来たので断ったのだそうだ。
著者は別に司馬氏に悪い感情があったわけではないようだが、安易な取材ではノモンハン戦争を理解できないだろうという気分があったらしい。
ふうん。
司馬遼太郎がノモンハンを題材にした小説を書かなかった(書けなかった)というのは、ファンにとって大問題らしいが、1970年代では偏った資料しかアクセスできないので、安易に小説化しないかったのは正解かもしれない。といいつつ、わたしは司馬遼太郎の小説は1編しか読んでいないので、ファンの気持はわからないけれども。
モンゴル語資料やソ連崩壊後に公開された資料なしには、日本軍の駒の動かし方がどうだこうだという話にしかならなかっただろう。
ということも含め、ホットな話題である。

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話がずれるが、岩波新書の言語・ことば関係はハズレがなくおもしろい。
鈴木孝夫はミギ、田中克彦はヒダリなどと政治的スタンスはそれぞれあるようだが、新書の内容はどれも一般読者に向けて冷静に書かれている。
文章も平明でユーモアがある。
トンデモ扱いされる大野晋『日本語の源流を求めて』を最近読んだが、なかなかおもしろかった。
内容の妥当性は?であるが、決してむちゃくちゃな論ではない。