東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

篠永哲(しのなが・さとし),『ハエ』,八坂書房,2004

2006-09-30 08:48:44 | フィールド・ワーカーたちの物語
副題,「人と蠅の関係を追う」

1973年から始まる著者の海外調査・海外滞在研究の思い出。
学術書ではなく概説書でもなく、著者のフィールド調査と旅行の話といってよい。

最初がハワイのビショップ博物館での標本整理。
公用旅券で渡航、健康診断は寄生虫検査も含む、外貨持ち出し限度額が200ドルの時代。
つまり、この時代、この世代の優秀な学者だけが可能な海外渡航なのだ。
優秀な学者と書いたが、自然科学畑の学者は、たいていアメリカ行きで、著者のようなニューギニアとインドネシアが憧れの地、というタイプは非常にすくない。
特に、著者と同じ医学分野では、この方面つまり太平洋から東南アジア、さらに西南アジアまで向かう人はすくない。

というわけで、貴重な医学関係の学者が歩いた南太平洋~東南アジア~西南アジアの記録が本書である。
人間の害虫である、ヒトの生活圏で分布するハエ、農業・牧畜環境に分布するハエの研究が、多くの場合のタテマエ、つまり研究補助金を申請する時の理由らしいのだが、ほんとうは、野生のハエ、つまり自然環境のなかのハエの採取と研究が、著者の関心であるようだ。

だから、海外にでかけ、保健衛生関係の役人と談判し、調査の許可を得、役人から解放され、山や川にでかけるのが、著者のよろこびであるらしい。
そんなめんどくさい手続きと交渉を全部自分でできるのが著者である。だからこそ、70年代から海外調査に行けたわけですね。

ウォーラス線とウェーバー線の交差するインドネシアを中心に、ニューギニア・ソロモン諸島・西サモア・ニューカレドニアと南東方面、フィリピン・タイ・マレー半島・ボルネオと北西方面へでかけ、さらにネパール・インド・パキスタン、ナイジェリア・マダガスカルまででかけている。
ハエ学的におもしろいのは意外にも、小笠原諸島・ハワイ諸島・マダガスカルなど、大陸から離れたところであるようだ。

しかし、う~ん、こういう昆虫学者というのは、常人の見えない世界を見ているもんである。
チョウや甲虫に夢中になる昆虫マニアより、さらに別の世界の住人というかんじ。

小松邦康,『インドネシア全二十七州の旅』,めこん,1995

2006-09-20 20:40:47 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
めこんのサイトでインドネシア事情を公開している小松さんの旅行記。
ジャワ中部地震にしろ、アチェの津波にしろ、はたまた東チモールの事情にしろ、膨大なインターネットのクズ情報をかきわけてたどりつくのは、結局著作を通じて知っている人物による情報なんだなあ……。

本書の内容は、もはや古すぎて使い物にならないが(なにしろ、州の数がこのあとどんどんふえて、今は33くらいある?)、著者の観察眼を知ることができれば、インターネット上の情報も信頼(この場合の、信頼というのは、どういう立場からものを見て、どのように発信する人なのか、こちらにわかっている、ということ)できるものになる、というわけである。

いや、別にどうでもいいのだが、きっと、いまごろ(2006年9月20日)、バンコクの事情について、陳腐な情報がインターネットにあふれているんだろうなあ……、と思って、本書を思いだしたわけです。

上田信,『海と帝国 明清時代』,講談社,2005

2006-09-20 14:59:49 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
「中国の歴史」シリーズ全12巻(そのうち最終巻は「日本にとって中国とは何か」というタイトルのテーマ別エッセイ集なので、通史は全11巻とみてよいでしょう。)の第9巻。
1350年ごろから1850年ごろまでを扱う。

ということは、ですね、日本、ヨーロッパ、ロシア、東南アジア、朝鮮などの場合、近現代以前の歴史が、ほぼこの14世紀半ばから19世紀半ばにおさまるわけであるが、本シリーズ中国の歴史では、なんと!全11冊の通史のなかで、8巻分が、これ以前の歴史なのだ!!
う~む、さすが歴史の国。

と、感心しているようにみせかけ、実は、ばかにしてるんですね、わたしは。
日本だろうと朝鮮だろうと東南アジアだろうとロシアだろうとスペインだろうとメキシコだろうと、歴史の知識は、この1350年あたりからはじめればいいのです。
それ以前は、全部古代史でけっこう、ローマ帝国も三国志も興味ないもんね。

というわけで、全1冊の中国史として読めるのが、本書である。
が、これがなんと、中国を中心にしない、東ユーラシアの歴史なんですね。
見返しの地図が、なんと雲南の昆明を中心とした世界地図。
陸にむかう帝国の統治と、海へむかう移民・開拓のモーメントを対比し、ユーラシアの中の中国を描いていく。
このような本書の見方、上田信さんのとらえかたが標準かというと、おそらく、研究者の間では、もはや標準なのだろう。
わが朝(この場合の「わが朝」というのはチャイニーズ・ダイナスティのこと)を東南アジアやヨーロッパのような歴史の浅い地域と同列に扱っては困る、などといまどき思っている研究者はいないだろうが、一般人では、中国を特殊な文明として捉えるイメージが残っていますからね。

でも、中国ってなんだ?
シナとちがうのか?
漢民族とちがうのか?

う~む、シナともいえるが、微妙にズレる。漢民族ではない。「帝国」も「中華帝国」とはいえない。
なにか、ニュートラルな呼び方があればいいのだが。
ニュートラルな名称が生まれないのも、中国(Chaina)とは、なにか、という共通のイメージ、共通の了解が無いためであろう。

その、イメージを考える、見直すためにも、本書は有効であるとおもわれる。

それにしても、本書からスタートできる若い読者はラッキーである。
過去50年、いやたぶん、啓蒙思想家から江戸時代の漢学者まで、中国のイメージは歪み、その歪みを中国の研究者や政治家が積極的に評価してきたのが、中国史だろう。

家族制度、身分制度、税制、土地制度など、本書からスタートして理解していける(とおもう)。(ただし、研究者にとっての常識は素通りしているので、読み落とす部分も多いかも、わたし自身も、気になる部分はチェックできるが、よくわからない部分は、やっぱりわからない。)

わたし自身が興味もあり、前提知識もある「鄭和の航海」についても、鋭い(あたりまえ?)指摘があった。
やっぱり、あの航海はインパクトが少ない、(つまり、歴史的事件として小さい)できごとだったんだ。
東南アジア側からみると、鈍重な船に腐った宝物をのせてよたよた動く明帝国の勘違い軍隊、というイメージだが、本書でも、あまりちがわないイメージであった。(宮廷の家内事業なんだな)中国史研究者の見方でも、やはり、たいしたことない事件なんだ。

坪内良博 編,『講座東南アジア学3 東南アジアの社会』,弘文堂,1990

2006-09-18 23:58:47 | 多様性 ?
未完成記事であるがアップロード
下書きを書いたことさえ忘れそうなので、いちおう、書いたところまでアップする。以下、未完成です。

坪内良博 編,『講座東南アジア学3 東南アジアの社会』,弘文堂,1990.
坪内良博 著,第1部 伝統社会の構造
北原 淳 著,「開拓社会の成立」
口羽益生 著,「対人社会のダイナミズム」

以上を参考にして、東南アジア社会研究の概観をまとめる。
といっても、ようはこの講座を読んでもらえればわかることだから、わたし自身のための要約である。

「タイ国 ひとつのルースな構造をもつ社会体系」という論文風エッセイが1950年に発表された。
書いたのは、エンブリーというUSAの人類学者で、戦前日本にも滞在したことがある人物である。
そのなかで、エンブリーは日本の村落と比較し、タイの村落社会は、個人の行動のかなりの変異が許される、"ルースな"社会と規定した。
このエッセイは日本の学者の一部にかなりのショックをあたえたらしい。

というのは、それまで日本社会を外国と比較する場合、ブリテン島かフランス、ドイツ、それに漢民族くらいしか日本と比較するものがなかったからである。
今でこそ、日本とタイを比較するのはあたりまえだが、この当時、日本の村落とタイの村落を比較しようという発想がなかったのである。
さらに、個人主義的な自由、集団への帰属意識がうすいこと、共同体的親族集団がない、村にたいする忠誠心がない、同一化がない、という対人関係は、"個人主義的な"ヨーロッパ社会の特質で、アジアとは無縁だと考えられていた。
というより、タイトな家族、村の掟というのは、おくれたアジアの人間関係で、一刻もはやく棄ててしまいたい、と考えられるものだった。

21世紀になってみれば、日本村落社会のタイトな人間関係は、工業化や産業化がすすんでも消えるものではなく、また、けっこうみんな、タイトで同一化の圧力が大きい、忠誠心があつい社会が好きなんだってことが、あきらかになってきた。
それでは、50年以上前の、エンブリーの規定は正しかったのか?
タイの村落はほんとうにルースな社会だったのか?

日本の学者たちが、タイにでかけて調査できるようになると、やはり、ルースな社会という見方に同意した。
そして、さらに、その構造、基盤が模索された。
また、タイ人社会ばかりでなく、マレー人社会もルースで個人的行動が許される度合が大きい社会であり、ジャワも、マレーやタイはほどではないが、ルースな社会であるようだ、ということがわかってきた。

そのなかで日本の学者、水野浩一は、「屋敷地共住集団」という概念を提出した。

W.H.マクニール,佐々木昭夫訳,『疫病と世界史』,新潮社,1985

2006-09-16 23:18:30 | 自然・生態・風土
原書 William H. McNeill, Plagues and People, 1976.

アルフレッド・W.クロスビー, 佐々木 昭夫 訳,『 ヨーロッパ帝国主義の謎―エコロジーから見た10~20世紀 』,岩波書店、1998.
ジャレド・ダイアモンド, 倉骨 彰 訳,『銃・病原菌・鉄〈下巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎』,上下2冊,草思社,2000.

以上も読んでいるが、まず、マクニールの本書からレヴューしよう。クロスビーは最近インフルエンザについての本が翻訳されたし、ダイアモンドのほうは、『文明の崩壊』が訳された。どちらもマクニールに影響を受けたひとたちであろう。(マクニールはクロスビーから未出版のインフルエンザの情報を得ている。)

ヒトが移動すると商品も情報も遺伝子も移動するが、もっと速く移動するのがヒトに寄生する微生物だ。
本書は伝染病が人類におよぼした影響を軸に、歴史をとらえなおした画期的一冊である。

まず、熱帯アフリカ。ここは類人猿の時代から微生物・ウィルスが人類とともに進化した地域である。そのため、人類はこれら病原体と共生する進化をたどった。

その後人類はユーラシアの乾燥地帯に進出する。この時点で、ヒトは強力な狩猟動物として、防御を進化させなかったユーラシアの大型動物を絶滅させ、その結果、農耕・牧畜に依存する文化をあみだす。
この農耕・牧畜文化がある種の病原体にとって、あたらしいニッチ、繁殖に好都合な環境をもたらす。ちょうど、雑草にとって耕地がかっこうの繁殖地になったように、農耕・牧畜、ヒトの集団は、寄生動物・微生物の繁殖地になる。

マクニールはうまいたとえを使っているが、マクロ寄生とミクロ寄生という言葉だ。
マクロ寄生が官僚・軍隊による農民の生産物への寄生、ミクロ寄生というのは微生物による農民のからだへの寄生である。
マクロ寄生とミクロ寄生、両方の寄生がほどほどであった地域、なんとかつりあいがとれていた地域が文明の地となったのである。

BC500年からAD1200年まで。
この段階で、ユーラシアの乾燥地帯・サバンナに文明が成立し、文明間の交流がはじまる。
ここでの病気は、天然痘とはしか。
代表的なこどもの病気であるが、初期には成人男女が罹患し、生命をうしなう病気だった。それが、AD1000ごろには、ユーラシアの大部分で、病気に対する免疫と遺伝的進化が完了する。
といっても、病原菌を絶滅させるわけではなく、感受性のあるこどもだけが死んでいく、という形でヒトと寄生生物が共生していく。
天然痘とはしかに対する対応が旧世界で一番おそかったのが日本とブリテン島だそうだ。

本書は病原体・寄生生物を歴史を動かす動因ととらえて歴史を描いたものであるが、もうひとつ、著者の主張でおもしろいのは、疫病が宗教を規定した、ということ。
第一段階の文明の交流による疫病がうみだしたのが、キリスト教、仏教である、というのだ。
ふ~む。
宗教=疫病という考え方もあるが、疫病が宗教を生みだすのか……。
著者のインド文明についての考え(カースト制と疫病予防、統一国家が脆弱なこと、常に北西から侵略者がはいること、など)あるいはシナ文明についての考え(とくに儒教を国家宗教として捉えること、農民支配がうまく機能したこと、統一した国家が地球上で最長・最高度に続いたこと、など)、ほんとに、こんなに大雑把でいいんだろうか?という疑問も、当然おきてくる。
しかし、こまかいことをいってもつまらない。こういう本は、えい!と言い切ってしまうところがおもしろいのだ。
次の段階はますますおもしろくなる。

AD1200~1500
モンゴル帝国の勃興による疫病バランスの激変

ここで、ちょっと無駄話。
東アジア、東南アジアのくにぐには、モンゴル帝国の来襲にさまざまな対応をした。
日本は自然の恩恵でモンゴル軍(実は華南と朝鮮の軍?)を撃退、ひたすらラッキーな結果であった。
朝鮮は自国を占領されたうえに、遠征に駆りだされた。
ジャワはモンゴルの使者に刺青をほっておっぱらう。大軍がきたときは、「あれは前の王様がやったことで……」とごまかす。
ベトナムはひたすら軍事力で対抗する。そして、ほんとに勝ってしまった。
さて、雲南の地はどうであったか。
ここはモンゴル軍に制圧され、モンゴルが撤退した後も漢民族の領域になってしまう。そして、ここがユーラシアを席捲した黒死病の原生地らしいのだ(厳密には特定不可能だが、ほぼ確実らしい)。
わお!やったぞ、雲南、みごとユーラシア全域に、すばらしい寄生物を輸出したわけだ。
それまで人口が希薄で、散在する民族がそれぞれ土着の対応(迷信とかタブーとか呼ばれることもある)で黒死病とおりあっていたのが、ワールドワイドな交易に組みこまれて風土病を世界的な疫病にしたわけだ。

この、エーヤワディー川の西側、ビルマ・雲南・チベットが交差する地域が、ペストの輸出元とされるのは、20世紀初頭の流行の時、近代医学者の調査の結果に基づく。
20世紀の流行は、汽船航路の発達にともない、香港を皮切りに、ボンベイ・シドニー・ブエノスアイレス・サンフランシスコなどに疫病を伝播させた。
清朝の軍隊が雲南の反乱鎮圧の際、この地の環境や慣習をかきみだし、全世界に菌を運ぶ役割を担ったらしい。
20世紀の流行の調査の結果、モンゴル時代の流行の起源地も、この雲南と仮定されるようになった。

黒死病の流行により、ヨーロッパや西アジアは、人口を低くおさえていたわけだが、いろんな生態的要素により、ヨーロッパは一足早く黒死病を克服した。
これが、ヨーロッパの人口圧を強め、海外進出の原因ともなる。

新大陸到着~ユーラシアの疫病の伝播~新大陸住民人口の激減、については、クロスビーやダイアモンドの本にも詳しいので省略。

次に1700年代からの、ヨーロッパの医療と疾病対策と、新しい疫病環境について述べよう。

*******

以上、途中までで、とりあえずアップ、続きを書こうとおもっているうちに、内容を忘れてしまった。

プラヤー・アヌマーンラーチャトン,『回想のタイ 回想の生涯』,全3巻

2006-09-15 21:44:41 | コスモポリス
未完成だがアップロード
書いたことも読んだことも忘れそうなので、とりあえず、アップ。
なお、第1巻は本当に未読です。

著者は1888年バンコク市郊外生まれ。1969年没。
1905~33、税関職員。
その後、芸術局、タイ国正史編集委員会委員長、タイ国百科辞典編さん委員会委員長、タイ国地理辞典作成委員,そのほか役職を歴任。

先生、あのう、もうすこし話を整理して、順序よく話してもらえませんか?といいたくなる、あっちへふらふら、こっちへふらふら、横道にそれ、戻ってきたと思ったらまた脱線する、融通無碍な語り口である。

しかし、こちらの要求は、むりな注文というべきだろう。
こんな語り口の人物であるからこそ、あらゆる事柄の枝葉末節に関心をもち、読者に伝えることができるわけで、構成を整え、時間軸にそって叙述する人だったら、ここに書かれている事柄にはじめから興味をもたないであろう。
そういうわけで、読者も覚悟をきめて、まわりくどい老人の思い出話に耳をかたむけようではないか。

書名が示すとおり著者の回想であるが、同時に19世紀末からのクルン・テープ、つまりバンコクの昔話でもある。けっしてタイ国全体の話ではないので、その点は注意しておこう。
古き良き時代のバンコクの思い出、といいたいが、予想されるようなのんきな時代ではない。
ミッション・スクール、英語の勉強、印刷と出版、ホテル(オリエンタル・ホテル)勤務、関税局勤務といった目次からもわかるように、激動の近代化の時代、多国籍の住民、新技術と新思想がなだれこんだ時代、そんな時代を語った回想である。
もっとも、目次はほとんど意味をなさないくらいの脱線ぶりで、話題は、バンコクのあらゆる地域のエピソードがもりこまれている。
そんなわけで、要約は無意味で不可能。

ダンカン,デイヴィッド・E.著 松浦俊輔 訳,『暦をつくった人々 』,河出書房新社,1998.

2006-09-14 23:47:55 | 基礎知識とバックグラウンド
ダンカン,デイヴィッド・E.著 松浦 俊輔訳,『暦をつくった人々―人類は正確な一年をどう決めてきたか 』,河出書房新社,1998.
Duncan, David EwingCalendar ,"Humanity's Epic Struggle to Determine a True and Accurate Year".

未完成だがアップロードする。

グレゴリウス暦成立までのながいながい歴史をつづった本である。

なんだ。アジアの暦は無視か。
と思ったかた、まちがっていますよ。
わたしもイスラーム暦や漢民族の暦についておもしろい本があれば読みたいとおもうが、てきとうなもんがみつからない。
まず、この西洋の暦の歴史を読んでみようではないか。

本書でのべられるのはまず天文学の基礎。「回帰年」と「恒星年」のちがい、「朔望月」(さくぼうげつ、とよむ。新月から次の新月までの間、陰暦の一ヶ月、29日12時間44分2.9秒)。回帰年の長さが一日の整数倍にならないこと(約365日5時間48分45秒)といった基礎をおぼえよう。

つぎにユリウス暦の成立。

ローマ帝国コンスタンティヌス帝によるニカエア宗教会議(325年)。

ローマ帝国の混乱時代、ディオニュシウスによるanno domini(A.D.)という紀年法の発案(う~む、残念なことに、この人、ゼロの概念がなかったため、A.D.0年をさだめる発想がなかった、これが後々やっかいなことになる。わたしも、19世紀が1800年代というのがいつまでたっても理解できない。紀元0年と0世紀というのがあればいいのだ。)それから、このディオニュシウスの計算したイエス・キリストの誕生年もまちがっていたため、キリストがキリスト紀元前4ないし5年に生まれたという、へんなことになってしまった。)

8世紀末から9世紀初のシャルルマーニュの時代。
この時代やっと、月の中の日を数字で順番に示す方法が確立する。1日、2日、3日、4日……30日と続くやりかたである。

こんな具合に紹介していくと、えらくヨーロッパ中心のふるくさい歴史観の本にみえるだろうが、次からインドの数学、アラビアの科学の話になる。
順当な論である。

******
以上、途中まで

山川暁,『満洲に消えた分村』,草思社,1995 その2

2006-09-13 00:19:59 | 20世紀;日本からの人々
本書のおおきなテーマである残留孤児・残留婦人の問題について。

とにもかくにも日本に引揚げた開拓団の人々にとって、途中で死なせなければならなかった家族と後に残した家族のことは、他人が想像できない、軽々しく口をはさむことができない心の重荷になっていた。
それが、日中国交回復にともない、にわかに、亡霊のように現れてきた。
この時期の、元開拓団の人々の心中は、あまりにも複雑で、他人がとやかくいえない問題であろう。

ところが外部は遠慮なく騒ぎ立てる。

まず、中国政府の公式見解は、「中国人民も日本人民も、ともに日本帝国主義の犠牲者である。云々」というもの。
たしかに、そういいきってしまえば、簡単だ。

一方、日本政府は、口先ではいいこというが、本音は、
「ええい、めんどうなことを持ち出しやがって、これでまた中国に恩を着せられるじゃあねえか。文化大革命の時、みんな殺されていりゃよかったのに。」
というようなもんだろう。

当の開拓団内部でも、さまざまな声がでる。
まず、肉親に会いたい、という強烈な希望。
過去、こどもを捨てたという負い目がよみがえる混乱。
開拓団内部のトラブルの再燃。

たとえば、本書の谷川村開拓団団長の堀口という人物。
この男は、まったく国策に疑問をいだかず、村民が犠牲になったことも、天災のようにとらえ、戦後、残留孤児探しの事業に協力するわけだが、他の村民のうらみ・反発など、まったく理解していない。家族をさまざまな経緯で失った村人のこころも、まったく理解していないようだ。

一方で、元青年団長の宮崎という人物。
彼は、国策を推進した堀口らに、完全に対立している。
堀口ほど単純でない宮崎は、被害者意識もあるが、同時に村民を悲惨な運命にまきこんでしまったリーダーとしての負い目はある。
その宮崎リーダーも、「残留孤児」には理解と同情をしめすが、身を売った「残留婦人」に関してはまったく冷淡である。

おそらく、開拓団当事者以外の日本人のなかには(当事者にも)、以下のように考える方がいるだろう。

つまり、「残留孤児」や「残留婦人」が命が助かったといって、しょせん「人買い」じゃないか。そんなことで、中国政府に恩を着せられちゃあたまんないぜ、という見方だ。

あるいはまた、残留孤児・婦人の援助や人権擁護にたずさわっている方々の中にも、ああした非常事態のことであり、現在の倫理で裁くべきではないし、理由はどうあれ、結果的に命が助かったのではないか、という意見もあるだろう。

******
以上、未完成、途中でやめる。

山川暁,『満洲に消えた分村』,草思社,1995

2006-09-12 00:18:31 | 20世紀;日本からの人々
やまかわ・あきら 副題「秩父・中川村開拓団顛末記」

草稿状態だが、アップロードする。(書いたこと自体忘れそうなので)

三江省・樺川県・小八浪(シャオパラン)に入植した谷川村分村開拓団の運命を当時の記録、戦後の回想、著者によるインタヴューから構成したノンフィクション。
谷川村開拓団のほか、隣接地に入植した長野県・木曽郡・読書(よみかき)村開拓団、長野県・泰阜(やすおか)開拓団、などの資料、証言も照合している。

残留孤児・残留婦人をめぐる現在の状況から過去へとさかのぼって取材した記録であるが、そのメイン・テーマはおいておく。

開拓社会、フロンティアに生きた人々の記録として読むことにする。

そこで、やはり金のことを一番の問題としよう。
開拓民には一戸あたり千円の政府補助金があった。
しかし、当然不足するので、満拓(満洲拓殖公社)から融資をうける。
中川村開拓団の場合、入植から1942年3月までの借入金83万強。
読書村は78万、泰阜村は90万。
この借入金はどうなったのだろう?

多くの人が悲惨な境遇で死亡、行方不明になったのに、金のことにこだわるのは不謹慎だとおもわれるかもしれない。
しかし、わたしはこだわる。
満洲開拓を推進した政府や団体も、豊かな大地、開拓地を宣伝したのであり、関東軍・協和会・満洲拓殖公社もカネのためでしょ?
開拓民は満洲にいけばタダで土地がもらえると信じていたのに(契約書とかあったのか?)、膨大な借金がついていたのである。(土地ころがしでもうけたのが満洲開拓公社)
もし、将来、開拓が軌道にのったらば、開拓民は公社から土地を買い取ることになっていたらしい。
結局、この公社側からみた融資金は、焦付きというかたちになったのだろうか?

本書の中心人物、宮崎由雄(農事指導員の肩書きで入植団幹部、もと青年団団長)はなかなか経営感覚のある人物であったようで、満洲開拓公社のやっている小作制を、自分たちの開拓村でやる。(当然、満拓とは衝突するがおしきる。)
あるいは地元の有力者と合弁事業を起こし、醸造や搾油の工場をつくる。
あるいは、満拓のすすめる北海道式農法を拒否し、在地の(つまり、それまで漢族や朝鮮族がやっていた方法)を踏襲して収穫をあげる。
(ちなみに、この地で用いられていた犂は、日本内地の犂とは違うし、北海道の洋式プラウとも違う。内地からの農民は、もともと犂をつかったことがない者が多かったし、馬を扱えない者も多かった。)

以上のことだけでも、満蒙開拓団のことすらよくしらない人には、なんのことかよくわからないだろう。

入植者の生活、農産物の販売経路、生活必需品の入手(塩など)、戸籍、紙幣、送金や預金、郵便事情、交通、出産、葬儀など全般をわかりやすく書いた『満洲生活ガイドブック』みたいな本がほしいですね。
Googleで "旧満洲" "公社" "職員" で検索すると恩給、退職金の法規がいっぱいでてきた!

野村進,『日本領サイパン島の一万日』,岩波書店,2005

2006-09-06 20:45:16 | 20世紀;日本からの人々
著者(のむら・すすむ)の1987年の著作『海の果ての祖国』,時事通信社.を大幅に改稿・追加したもの。
力作にして傑作。
山形県から移住したふたつの家族を中心にすえ、サイパン島・テニアン島の30年の歴史を描いたノンフィクション。

中心となるのは次の二家族。

1879年東村山郡天童町に生まれた山口百次郎、その妻タマ、娘清子。
百次郎は、放浪癖があり、山っ気があるギャンブラー・タイプ。
南洋群島が国際連盟信託統治領として日本統治領となる直前に、百次郎はマリアナ諸島に漂着し、移住を計画する。
家族とともに、旅館、料亭を経営し、移民社会の古顔となる。

百次郎の移民募集に応じた移民第一世代の石山万太郎・妻さめ・息子正太郎と正次、末っ子みゑ。
こちらは農業移民であり、コプラ、サトウキビ、野菜と、開拓と農業にはげむ。

わたしのブログで5月16日に紹介した、シドニー・ミンツ,『甘さと権力』に描かれるように、また訳者の川北稔さんの著作にあるように、砂糖は18・19世紀の世界商品、植民地主義の王者である。
鶴見良行の『ナマコの眼』は、そんな王者・メインストリームからわき道にそれ、ナマコやシロチョウガイ、ベッコウや珍奇な鳥の羽に注目した作品である。
『ナマコの眼』は、見過ごされてきた「小さな民」の流れを追った傑作である。
であるが、では、メインストリームの王者である砂糖、サトウキビのことがよく知られているか、というと、そういうわけでもない。

キューバやジャマイカ、マルティニック、あるいはモーリシャスでもネグロス島でもいいが、サトウキビ生産の中心となった地域の生活や移民の実態を想像しようとしても、なかなか日本に暮らすわたしのような者には、遠いくにの話である。
そういう意味で、本書は、山形県人の目をとおして見た砂糖の島の歴史として、じつに貴重であり、当時の移民の感情・視点を再現した著者の筆力がみごとである。

特に、新しく書き加えられた第5章がみごと。
サイパンの中心街ガラパンの商店街を再現し、どんな店があるか、どんな商品が流通しているか、どこから移住してきたか(あるいは元からいた人々か)を鮮やかに描く。

歴史的バックグラウンドを少々。
第一次世界大戦中に日本が占領するまでドイツ領だったわけだが、ベルサイユ条約(1919)で正式に日本統治領になるまで、開発の試みはほとんど失敗している。
住民はカナカ人とチャモロ人。ヨーロッパ人はカトリック宣教師、尼僧ほか少々。
日本人はドイツ領時代から少々住んでいた。
正式に日本の委任統治になると、守備隊は撤収し、民政になる。

サイパンに南洋庁サイパン支庁が置かれ、テニアン・ロタ・パガンなどマリアナ諸島を管轄した。(すぐ近くのグアム島はアメリカ領である。)

日本領になって、南洋興発株式会社を中心に、サトウキビ栽培・製糖業を基幹産業として開発が計画された。詳細は、琉球大学のサイト
http://www.lib.u-ryukyu.ac.jp/digia/tenji/yanai/h7360.html
参照のこと。
『ナマコの眼』をはじめ、南洋開発の話にかならずでてくる「南興」がサイパン島でどのような力をもっていたか、本書では移民の目から描かれる。

移民の結果として、サイパン島(および隣のテニアン島)の住民構成は、
カナカ人、チャモロ人は少数派になる。
南洋支庁や南洋興発の幹部はエリート転勤族。
当初(おそらく日本の国際連盟脱退まで)、軍の施設はない。(徴兵検査は本土の本籍地まで帰って受ける)
農業移民(あるいは短期間雇用労働者)の日本人には、
朝鮮人・沖縄人・本土人がいるが、本土人は九州、福島のほか、本書の主人公たち山形県民が多い。
漁業移民はイトマンチュー(糸満漁民)が主体。本書では、詳しい描写はない。
少数(10人前後)のヨーロッパ人。
華人(中華民国や香港からの移住者)は、ほとんどいない。

このように、現地のチャモロ・カナカを労働力として期待しない、移民労働による開拓社会である。
注意したいのは、これら移民のよる開拓は、少なくとも1930年代10年間ぐらいは、南洋興発に莫大な利益をもたらした、ということだ。
そんなの、あたりまえでしょ、と思うかたもいらっしゃるだろうが、このタイプの農業開発は、しばしば失敗していて、開発公社・株式会社の損失になっている場合がある。
利益の全部がサトウキビ・製糖業ではないので(漁業や肥料生産、キャッサバ生産もあった)、完全なモノカルチャーを想像するのは間違いだが(実際、さまざまな生業が本書でも描かれているが)、少なくとも、サイパン・テニアンでは、利益の大部分が製糖業であり、労働者の賃金も、株式配当も、さまざまな商店やサービスを通じてカネが動くのも、サトウキビによるものと考えてよいだろう。

そんななかで、農業移民の一家がどのように苦労し、どのように生活をたてていったか、育児、学校、結婚、病気が描かれる。
また、山っ気のある百次郎が、どのように商店を経営し、失敗し、再建し、家族を集め、従業員を集め、事業を拡大していったかが描かれる。

ジャマイカの奴隷とか、砂糖貴族の話を読んでもピンとこないが、スイカを10銭で売るとか、1920年度サイパンへの移入品40万円のうち、23000円が百次郎が輸入する酒と飲料品だった、という具体的な話を読むと、開拓社会のようすが伝わってくる。
調査可能なかぎり、ガラパン商店街の家族構成、なにを売っていたかが記されている。
あるいは、サイパン神社、ひとのみち教団、カトリック教会といった宗教組織、売春宿とその料金のこともわかる。

以上がおおよそ、1937、8年まで、昭和10年ごろまでのことと、思っていいだろう。
これから、サイパン島は全島が軍島となり、太平洋方面の生命線とされる。
1944年6月のアメリカ軍上陸戦も描かれる。
しかし、本書がすごいのは、その後の収容所生活、日本への引揚げまでを、当時の人々の視点で、当時の見方を再現して描いたことであろう。
必ず日本艦隊がやってきて、日本が勝つと信じていた(信じるというより、あたりまえのように思っていた)人々の生活が描かれる。

つまり、俗にいう「サイパン玉砕」を独立してとりあげるのではなく、30年間の人々の生活のなかの事件として、その前とその後も連続して描く。
これが、著者の視点であり、本書が力作となった理由でありましょう。