東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

鶴見俊輔 上坂冬子,『対論 異色昭和史』,PHP新書,2009

2009-05-21 21:36:34 | 国家/民族/戦争
べ平連のサイトに引用があっておもしろそうなので読んでみた。

www.jca.apc.org/beheiren/saikin152Tsurumi+Kamisaka-taidan.htm

ボケ(鶴見)とツッコミ(上坂)の漫才みたいな対談である。
しばらく前から鶴見俊輔は同じようなことをくりかえして言っているが、死ぬ前にどんどん若い人が話をきいて記録を残してほしい、とわたしは思っている。
ところが、本書を読んだあとにウェブで知ったのだが、上坂冬子のほうが本書発売前に死去していたのだ。

うーん。とすれば、これは死ぬ前に上坂冬子が言いたいことをを鶴見俊輔に聞かせた記録か。鶴見がワキで、上坂・後シテの怨念の聞き役になったわけだな。

上坂冬子としては、上野千鶴子や小熊英ニなんかワカッチャいない、わかってたまるか、わたしこそは鶴見兄貴の言葉を残せる人だ、という憤懣と自信があったのだろう。
それに対し鶴見俊輔のほうは、もし上坂冬子の死を予想していたなら、上坂の気持ちをうけとめてやりたいという、義務、というより仁義があったのだろう。
ともかく、死ぬ前に鶴見俊輔に話をきいてもらって胸がはれた。これが、魂鎮めってことだな。

上記べ平連のサイトはじめ、ウェブ上にずいぶん引用があるので、詳しい内容は略す。
かくべつ鶴見俊輔ファンではないわたしでも、以前に読んだ話が多い。一番おもしろいのは、上記のべ平連についてのCIAのとんちんかんな分析。

鶴見俊輔や『思想の科学』を知らない人が本書を手にとるとは思えないので、よけいな解説は不要だろう。もし説明しようとすれば、何千字にもなってしまう。ただ、靖国神社と従軍慰安婦問題にしか関心がない〈右翼〉〈左翼〉分類好きの若い連中にはとてもじゃないがつうじない内容だ。その点では上坂冬子の無念は晴れないかもしれない。とほほ。

***********

知っている人は知っているのだろうが、わたしが知らなかったことは、思想の科学社が有限会社になる際の資金を提供したのが井村寿二だったという話。東南アジアブックスなどのシリーズを発行していた井村文化事業社の井村寿二です。大丸(というのは昔の屋号で、全国チェーンの大丸とは別。現在〈大和〉という屋号であるようだ)という百貨店チェーンを経営していた人物であり、勁草書房の経営者でもあったそうだ。
だから、東南アジアブックスの書目選定に鶴見良行(俊輔のいとこ、べ平連の中心人物)がかかわっていたのは当然なのか。

よけいな心配だが、『思想の科学』という雑誌は、その新興宗教もどきの誌名もあり、そうとう誤解されているようだ。
本書にあるように、鶴見俊輔の秀才嫌い・学校嫌いとはうらはらに、インテリが集まってつくった雑誌である。
その初期に、この上坂冬子や佐藤忠男のような市井の庶民の(←イヤな言葉だな)書き手もデビューした。

だから、初期の同人のインテリと、いかにも庶民です、という書き手が集まった生真面目な雑誌と思われるかもしれない。さらに、廃刊時まで編集をしていた加藤典洋が「敗戦後論」を出すような、論壇雑誌的雰囲気もあったから、インテリや市民運動家の巣窟と思われてもしょうがないのだが。

でも80年代になると、それこそ、セックス・ナチュラル・ロックンロール!ポップ・カルチャーとフェミニズムの雑誌であったのだよ。
戸田杏子,『 世界一の日常食―タイ料理 歩く食べる作る』が連載されるような雑誌、といえば雰囲気がつかめるかな。(でも、前川健一さんなんかから見ると、くそお、オレが歩いて食ったのは、こんなもんじゃねえぜ、という対抗心もあったかな。ちなみに、わたしが雑誌『旅行人』を知ったのも『思想の科学』の雑誌特集を通じてだ。)
ちょうど『ガロ』が初期のころは白土三平やつげ義春のような地味で前衛的な漫画雑誌だったのが、後期にはポップとエログロのコミック雑誌になったようなもんだ。こう説明すると、ますます混乱をまねくだろうが。

このブログ内で、『思想の科学』関係の記事をリンク。

長谷川英紀,「ジャパン・アズ・オタック・No.1」
blog.goo.ne.jp/y-akita-japan/e/9c3032bf37567f70175d760c5aa1713f

蛭子能収,『くにとのつきあいかた』
blog.goo.ne.jp/y-akita-japan/e/f0b0266e8ebf04f45555f40e72743b41

上田信,「体臭のある音 アジア感の転機点」
blog.goo.ne.jp/y-akita-japan/e/9c3032bf37567f70175d760c5aa1713f/prev

中根千枝,『未開の顔 文明の顔』,中央公論社,1959

2009-05-19 21:27:27 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
これは意識的に避けていた本。安易な日本人論がはやった時期に『タテ社会の人間関係』など発表していた方なので避けていた。
ただ、戦後日本人として初めてマニプールに入った人物であるようで、そのマニプール(ウクルルまで行っている)を含めた見聞録。

まあ、読む前から内容が想像つくのだが、その想像どおりのことが書いてあるのだ。
この種の滞在記、インドとヨーロッパと日本の比較、現地日本人社会や政府官僚との付き合い、などなど、ある種のパターンの原型といえるだろう。
1953年から3年ほどインドに留学し、留学というけれど現在の言葉でいえばフィールド調査でしょうが、その後ヨーロッパにも滞在した人物である。

インド滞在中はアッサム州でガロ族のフィールド調査。家族組織や婚姻をおもな研究対象とする社会調査である。今日の水準からみて、どうのこうのと言ってもしょうがないが、せっかくナガ族の踊りを見ているのに、音階のこともリズムのこともなんにも書いてないのがツライ。ちなみに小泉文夫(1957年インド留学)よりも早くインドに滞在した貴重な調査であったわけだが。
佐々木高明や石毛直道は、悔しくてうらやましくて歯ぎしりしたであろう。中尾佐助がブータンやシッキム、アッサムに行く5年以上前だ。同じころ(1956年)堀田善衛がインドで考えているが、つきあったのはインテリだけである。

日本軍の話を聞くという、後のフィールド研究者がたびたび遭遇する、微妙な感情を記録したもっとも初期の記録である。さいわい当地では日本軍は勇敢で規律正しかったようだ。よかったよかった。

シッキムがまだインドの州になる前の時代のガントック。
ここでは、シッキム王第一王女ククラ姫とおついきあいする。姫に、ブーティア族の調査だったら、ラチェンやラチュン(シッキム)へ行けばよいとすすめられる。しかし、外国人の入域はインド政府から厳禁されている。
さらに、「ごいっしょにラッサにいらっしゃらないこと。私たちと同じ顔をしていらっしゃるんですもの、チベット服を召したら絶対にわからないことよ。ラッサはそれはすばらしいの。」とお誘いを受ける。おお!

後半は、ストックホルムとイギリスでの短期滞在、帰途のギリシャの旅も記されている。

……と読んでいって、これ、以前に読んでいたと気づいた。
最初に意識的に避けていた、と書いたのはウソです。中公文庫のこの種の紀行はずいぶん読んでいるから、本書も読んでいたのだ。記憶がどんどん薄くなっている。まあ、まったく内容を忘れてしまっているよりはマシか。

〈読む前から内容が想像つくのだが、その想像どおりのことが書いてあるのだ。〉と書いたが、以前読んでいたから当然だ。

一海知義 校訂,鶴見祐輔 『<決定版>正伝 後藤新平』,藤原書店,2005

2009-05-18 21:50:35 | 20世紀;日本からの人々
アンチョコも書評も読まず、まず第3分冊、台湾時代 を図書館から借りる。

どんな読者を対象としているのだ??
表記は新字・常用字体、現代かなづかい。漢文読み下し調の引用文は現代語訳(釈文)付き。ここまでやらないと、読む人がいないのだろうか。
かくいうわたしも、振り仮名はありがたい。もっとルビを多くしてもよかったと思う。
しかし、難解語句の註釈、こんなもの必要ですかね。それよりも、突然出てくる人名や地名を注記してもらいたかった。うるさい注文ですが。

内容はともかく、造本と版組はグッド。手に持って読めるし、文字のサイズも適切。通読可能である。
原本(底本?)は全4巻で後藤新平伯傳記編纂會, 1937.4-1938.7
勁草書房から再刊(国会図書館のサイトによれば復刻)全4冊, 1965-1967

毎日出版文化賞受賞だが、そんなに興味を持つ人多いのか。まさか、嫌中派が本書をひもとくとは思えないし、ビジネスに応用しようというオッサンが読むとはおもえないし、研究者は以前の版で充分だろうし。
ただ、わたしのような読者がぺらぺらめくるには、ありがたい。
本書は身内の側から後藤伯爵を顕彰するために編まれたものだから、事実としての信頼度は高くないだろうが、発行当時のフィーリングをつかむには最適。ばりばりの当事者側からの視点というのは、意外とアクセスがむずかしい。

*****

以下、第一章 台湾民政長官 1898~1906 の4までのメモ。

全体として、ひとりの人物・後藤新平に的をしぼっているので、流れをつかみやすい。
当時の政党、議会、軍部など、概論的なものを読んでもすっきりしないが、本書のような書きかたは、人脈もわかるし、登場人物も活き活きしていて、するする読める。

ただ、どうも話がうますぎる、という疑いも濃くのこる。

土匪招降策・台湾事業公債・三大事業と三大専売事業、こんなにうまくいったはずないのだが。
ほんとに、台湾経営が黒字になったのか。この点、本書だけで判断するのは危険と思われる。

とくに驚いたのは、簡単にかかれている土地調査(p302-11、たったの10ページ)
これは、島内の完全測量、土地台帳の整備、地租改正のことなのである。
ヒデヨシから明治政府まで、面積が違うとはいえ、日本で何百年もかかったことですよね。それが、こうも簡単に解決して、反乱も抗議も起こらなかったとは信じられない。

そのほか、幣制の整備、アヘン専売、タバコ専売、など、こんなに簡単にできたのか??

*****

もうひとつ、重要な点は(少なくとも読んだ限りでは)、日本内地からの農業移民はまったく考えられていないこと。
最初から住民がシナ人であり、彼らが生活し生産し、内地人が統治する、という前提になっていたようだ。

なお、土匪討伐の経緯でも描かれているとおり、この場合の土匪とは、すべて華人である。〈土人〉というのは、華人住民であることに注意。
まだ、オーストロネシア語系の原住民(当時の言いかたで、生蕃)のことはまったく考慮の外。

前嶋信次,「雲南の塩井と西南夷」,1931

2009-05-15 22:20:17 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
杉田英明 編,『〈華麗島〉台湾からの眺望 前嶋信次著作集3』,平凡社東洋文庫,2000 収録。
著者28歳、台湾時代の研究論文。

1941年満鉄東亜経済調査局にスカウトされる前は、本書に収録されているような、シナ文化、台湾関係の随筆・研究が多い。
満鉄東亜経済調査局時代(38歳から)にはいり、イスラム・アラブ関係が増える。そして、戦後になると(43歳以後)、大部分がイスラム・アラブ・中東それにアラビアン・ナイト関係の著作や研究になる。

本書に杉田英明による著作目録が載っているが、死去する1982年78歳まで、あるゆる媒体にイスラム・アラブ関係の著作を発表している。
『史学雑誌』『史学』『日本オリエント学会月報』などの学術誌の論文。
『世界歴史事典』『新潮世界文学事典』などの事典項目執筆。
世界探検紀行全集(河出書房)、世界ノンフィクション全集、世界文化地理大系その他、あらゆるシリーズの解説執筆。
文部省検定教科書、学習研究社など児童向けのシリーズ監修、こども向けの本の監修などなど。
一般の新聞・雑誌にも随筆を多数寄稿している。

つまり、イスラムとアラブと中東といえば、この人、という存在。
その間、慶応大学教授であり、アラビアンナイト原典完訳をめざしていたわけである。

まとまった一冊の著作は意外と少ないのですね。
『アラビア史』(修道社)、『玄奘三蔵 史実西遊記』(岩波新書)、『アラビアの医術』(中公新書)、『イスラム世界』(河出書房「世界の歴史8」)、『アラビアンナイトの世界』(講談社現代新書)、『東西文化交流の諸相』(4分冊で誠文堂新光社)、『イスラムの蔭に』(河出、「生活の世界歴史7」)、『イスラムの時代』(講談社「世界の歴史10)、『アラビア学への途 わが人生のシルクロード』(NHKブックス)ぐらい。
見たことないが『シルクロードの秘密国 ブハラ』(芙蓉書房)、『草原に輝く星』(NHKブックス・ジュニア)。
シリーズ物の一冊が多い。

それでこの「雲南の塩井と西南夷」であるが、完全に学術論文、漢文史料とヨーロッパの学者の研究からの文献研究。
雲南の塩田地帯をめぐる中国と吐蕃・南紹等の諸勢力の政治外交関係を辿り、塩井を担っていた〈モソ族〉に関する民族学的成果を紹介したもの。

といっても難しすぎる。通典(つてん)や唐書南蛮伝などが原文で(訓点付きだが)引用されていて読めない。
ようするに、吐蕃と唐の二大勢力の間にあり、塩田という資源があったことにより、双方に敵対したり服属したり、独立したり両属していたようだ。

と、ながながと書いてきたが、何をいいたいかというと、たぶんこんな論文は日本軍の参謀たちは知らなかっただろうな、ということ。
これを書いた前嶋信次本人もまさかこの地が日本軍対国民党軍の戦場になるとは予想しなかっただろう。
こういう一見浮世離れした研究も戦略や戦闘の際に参考になる場合もあるのだ。
だからこそ満鉄東亜経済調査局も彼をスカウトしたわけだろうが、ほとんど軍部には利用されなかっただろう。

本書には戦後に書かれたサツマイモの伝播に関する随筆、媽祖祭の思い出など軽い作品も収録。

あと、ちょっと前にこのブログで、wikipediaに鄭芝龍がクリスチャンだという記載があるが、根拠が不明だと書いた。本書収録の「鄭芝龍招安の事情について」(1964年発表の論文)によれば、10個の文献を挙げて疑う根拠のないものだ、としているので疑いのないものだろう。
この鄭芝龍に関することがらにしても、この論文は戦後の著作であるが、1940年代の戦場を知るのに有益な情報だったはず。

丸山静雄,『インパール作戦従軍記』,岩波新書,1984

2009-05-15 22:13:18 | 20世紀;日本からの人々
著者は1944年7月20日から退却行を開始する。すでに7月3日に作戦中止命令が大本営からだされ、7月10日から撤退を開始していたのだが、連絡がとどかなかったようだ。

チャモール→シボン鉄橋→モレー→カボウ谷地(チンドウィン河西岸)→クンタン→モレーへ引き返す→モレー渡河点→ヘシン渡河点→ヤナン渡河点→シッタン(チンドウィン河の渡河点)
と、著者は一命をとりとめる。
この部分を読んだかぎりでは、とても記録をつける余裕もなく、ほとんど記憶で書いているようだ。
退却した兵士も同様であって、後世の記録にはほとんど残っていない。一番難局を体験した記録は残らないのである。ともかく、前線にいた兵士の大部分は死亡したようだ。正確な死者数は不明だが、そのうちの大部分はマラリヤや赤痢、栄養失調などの病死である。

悪名高い牟田口中将第十五軍司令官の無謀な作戦といわれる。が、この段階の補給・兵站・航空戦力を考えると、誰がやっても同じような結果であったろう。かといって、兵隊を遊ばせておくわけにもいかず、ようするに、これだけ根性を出しましたという言い訳にするための作戦であったようだ。

特定の個人が無能だったとか、作戦計画がまずかった、といっても始まらない。ようするに、兵器と糧食と移動手段が優れているほうが勝つのである。それでも英印軍の損耗も死者一万五千、傷者二万五千であるそうだから、ようするに、こういうところで雨季に戦闘をやれば、これぐらいの死傷者が出るということなのだろう。
幸か不幸か作戦地域は、ほとんど住民がいない森林地帯であった。だから、略奪も強姦もおこらず、食料の自活もできず、兵士はどんどん衰弱して死んでいったのである。

こうした日本軍のありさまを見て、ビルマ軍将軍アウンサンは1945年3月27日(「盤作戦」イラワジ会戦のあと)、日本軍の指揮系統を離れる。
つまり、牟田口司令官らの作戦がビルマ独立に貢献したともいえるわけだな。

******

順序が前後したが、著者が取材した経緯について。
このインパール作戦では、各新聞社は各作戦部隊に割り当てられていた。

弓兵団(第三十三師団)は毎日新聞
祭兵団(第十五師団)は読売新聞
烈兵団(第三十一師団)は同盟通信

朝日新聞は第十八師団のフーコン作戦を割り当てられていて身動きがとれず、インパール作戦の割り当てはなかった。そこで、大阪本社・社会部の著者が、朝日だけ除外されるのは納得できない、と取材を申し込んだ。
しかし、現地ではじゃまもの扱いされ、取材や記事通信はほとんどできなかったようだ。(つまり、著者はウソ記事を配信しなかったわけで、そのことが、戦後にこのような著作を書く自信につながっているのだろう。他の作戦では、けっこうウソ記事も配信したと述べている。)

1944年3月にラングーン到着、その後本書のインパール作戦終了後、メイミョウで休息し、断作戦を取材するが、記事はほとんど発信せず。
仏印にいってからの「明号作戦」に関しても、もはや記事を載せる余裕が本土の本社にない状況になっていた。

ともかく、40年以上たってから、他の資料や著作を参考したうえでの著作であるから、当時の1944年の記録ではない。

たとえば、p53-64 に書かれているような、ナガ族(タイ語族を話す民族)についても、1944年当時に見聞したこともあるだろうが、その後の知識も加えられているだろう。当時の記者がこのような観察をしたのは貴重だが、本書の内容が実際の当時の観察だったかどうかは疑問。

というわけで、誰が書いても正確な記録とはならなかったろう。
ただ、全体としてインパール作戦とその前後を知ることができるコンパクトな内容である。

丸山静雄,『写真集 東南アジア』,修道社,1961

2009-05-05 21:31:58 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
定価800円の豪華写真集。週刊誌20冊分。封切映画4回分。

豪華といってもほとんどモノクロで260ページほど。修道社という社名に似あわず、紀行書や旅行本を出していた出版社らしい。巻末ちかくにパンナムの広告あり。

著者がニューデリーやバンコクの特派員時代にとった写真であろうが、沖縄からアフガニスタンまで含む。
しかし、豪華写真集にしては、紙がもったいないと思うような無意味な写真が多い。
ダムや工場の写真はまだしも、議事堂や舗装道路の写真なんて、当時の読者でも興味ないだろう。遺跡や寺院の写真も絵葉書のように外側から撮ったものが多く、おもしろくもなんともない。

全体として、通行人も車も自転車も住民も少ないという印象。実際、都市の人口がまだ少なかったのだろう。東南アジア=過密・混雑、というイメージはまだなかったのだ。過密の代表としてシンガポールの裏通りが載っているが、二階建の住宅から洗濯物がのびている程度であるから。
東南アジアに比べ、インドのほうが活気があり、近代化されているように見える。プルトニウム抽出工場だの原子力研究所まであるのだから。

貴重な記録といえないこともない写真もあることはある。
平和なプノンペンやカブール、ほとんど人気がないクアラルン・プールやシンガポール、アメリカの援助でできたコンポンソム道路、サラブリからラオス方面への友情道路、などなど。ただし、写真のキャプションがないと、どこが写っているのかわからないけれども。その写真の説明も、ちょっと問題ありの部分があるのだが、まあ、時代の気分ということでよいだろう。

ということで、わざわざ捜すほどではないが、図書館などで偶然みつけたら見ておくように。

丸山静雄,『インドシナ物語』,講談社,1981

2009-05-04 21:32:23 | 国家/民族/戦争
ベトナム戦争関係の著作をたくさん出している方だが、はじめて著作を手にとってみる。別に意識的に避けていたわけではない。ベトナム戦争関係で本を書いている人は何百人もいるから、たまたま読んでいないだけである。
朝日新聞の論説委員でもあったから、教条的なものの言いかたをする方ではないか、と思っていたが、わりとニュートラルである。いや、ニュートラルというより、あらゆる方面に興味があって、さまざまな現場を見てきた人物であるようだ。

順を追って説明する。

まず、1909年(明治42年)生まれ。つい最近までご存命であった。

大東亜戦争前に二度召集されている。
岩波新書『インパール作戦従軍記』(1984)にあるように、朝日新聞大阪支社の記者としてインパール作戦取材。これについて詳しいことは別項で。

その後、〈明号作戦〉1945年3月当時はフエに滞在。敗戦時はサイゴン。

戦後すぐのことは不明だが、1950年代後半はニュー・デリー支局員。
バンコク支局開設とともに、一年あまりバンコク滞在。つまり、初代の朝日新聞バンコク特派員といえる。
その後、朝日新聞外報部次長など経て論説委員になった。退社後は大学教授。

それで本書であるが、著者・丸山静雄すでに70歳をこえている。ひじょうにエネルギッシュな方であるようで、ニ段組400ページ近くの厚さに、あらゆることを盛りこんでいる。なお、本書でのインドシナとは、タイやビルマも含めた大陸部東南アジアのこと。

このころ1981年あたりが東南アジア情報の転換期かなあ、というのがざっと見た感想。
まず、歴史・考古学分野については古すぎる。このあと、東南アジア史に関して、どんどん新しいみかたが生まれ、一般読者向けの本が出る。
少数民族関係はひじょうにこまかいことまで書いているが、未整理で雑然としていて、読者には伝わらないだろう。
日本と東南アジアの関係については、戦時中から前線を体験した人であるので詳しいが、今の読者には伝わりにくいかもしれない。
ベトナム戦争とその後の経過、カンボジア問題、難民問題はこの頃進行中で、ひじょうに詳しい。ちなみに、本書刊行当時でも国連の代表はポル・ポト派である。
ベトナムの〈社会主義国家建設〉については、数々の矛盾や問題が生じていたことを書いている。
冷戦や大国間の外交・政治、民族主義と社会主義についても詳しい。

というように、政治と外交問題に重点がおかれている。というより、東南アジアといえば、政治を抜きにして本を書こうなどと考えられなかった時代であろう。

現在読んで、ははあ、と思うのは、環境問題がほとんど書かれていないこと。メコン川開発計画なども、実に楽観的であるなあ。

染田秀藤 訳,セプールベダ,『征服戦争は是か非か』,岩波書店,1992

2009-05-03 19:03:15 | 翻訳史料をよむ
ラス・カサス関係続き

いわゆるバヤドリード論争、新世界における対インディオ戦争と征服は是か非かをめぐる代表的な著作。征服戦争を是とみる側の代表人物セプールベダの見解をしめす。
「アポロギア」(1550)と「第ニのデモクラテス もしくはインディオに対する戦争の正当原因についての対話」(未公刊、アポロギアの前の作品)の2編の翻訳である。
ふたつとも原文はラテン語、本書はスペイン語版から訳し、ラテン語版を参照する。
「アポロギア」は、「第二のデモクラテス」の刊行許可がおりないことへの抗議文。「第二のデモクラテス」の趣旨が簡潔に述べられている。

ということで征服戦争賛成派の論じるところを読んでみよう。

ところが、論敵であるはずのラス・カサスやフランシスコ・デ・ビトリアの名はまったく出てこない。ラス・カサスをほのめかす部分も一か所もない。そんなどこの馬の骨かわからん修道士など眼中にないかのように、優雅な対話が続く。
うーむ。論戦をするときの手法の一種といえようか。当の論敵など存在しないかのように、相手にする価値がないかのようにふるまう。なかなか賢いやつだなあ。でも、よい子はマネをしないように。

わたしは本文だけ読んでもわからなかったが、解説・翻訳の染田秀藤によれば、「第二のデモクラテス」の対話の相手・レオポルドというのは、当時のルター派に染まりかけた勢力を想定しているそうだ。
つまり、ルター派を論破するような体裁の著作であるが、実質はラス・カサスら新世界のインディオ擁護派への攻撃なのである。
そして、読者に対しては、あのインディオ擁護派というものは、恐ろしい異端のルター派と相通じるものであるのだよ、とほのめかしているのである。

「第二のデモクラテス」を読んでいくと、実に余裕しゃくしゃくと、古代の哲人やアウグスティヌス、トマス・アクィナスなどを引用し、一見論理的に対話が続く。
インディアスにおける征服など、まったく当然であり、わざわざ論じるまでもないじゃありませんか。しかし、あえて論証せよと申されるならば、これこれの聖人の著作があり、すでに論証済みなのですよ。と、対話が続く。

とまあ、実に論理的、冷静であるのだが、解説の染田秀藤によれば、実はそれほど余裕があったわけではないようだ。
このセプルーベダという人物は、ローマ滞在中に神聖ローマ帝国カール五世の軍による「ローマ劫掠」の遭遇し、ローマ脱出。その後、戦乱がおさまった教皇庁に仕えた。のち、スペイン宮廷に仕える。
つまり、戦乱の中、教皇庁を危機を体験し、さらにスペイン宮廷に仕えて、財政危機のスペインのまっただなかで人生を送った人物である。

そのなかで、キリスト教会の危機を実感し、スペイン国王とスペイン国こそがキリスト教世界を守る勢力だと確信する。となると、インディオ擁護派の宣教師や修道士どもは、スペイン国家の安定をゆさぶる異端の輩ということになり、論破せざるをえない仇敵なのである。

ここに、スペイン国家をキリスト教世界の代表とみる、後のナショナリズムに通じる思想がめばえる、というのが解説・染田秀藤の分析である。
たしかに、このセプールベダの論調、ことば使いには、ナショナリストに通じるものがある。

さらに、わたしが気がつかなかった鋭い指摘がある。

この「第二のデモクラテス」は、インディオの残虐性、不信仰、無知を当然の前提とし、〈自然法〉に背くものと断定している。
そして、議論の焦点は、スペイン人による征服戦争が是であり、戦争にともなう殺戮はやむをえない、いや、むしろ当然のことだ、という方向ですすむ。

しかし、解説・染田秀藤の指摘なのだが、このセプールベダがさらに当然の前提としているのは、戦争においてスペイン側が勝つということなのだ。
つまり、負けることを予想していない。

ああ!そうか!

ヨーロッパの中での戦乱、教皇庁の内部での意見の不一致、宮廷の財政難、いろいろ問題はあるが、新世界のインディオ征服戦争は、スペイン人が間違いなく勝利すると確信しているのだ。
この根拠のない自信が、スペインを黄金時代から停滞の時代に導く一因であったのかもしれない。

猪俣良樹,『パリ ヴェトナム 漂流のエロス』,めこん,2000

2009-05-03 18:59:10 | コスモポリス
題名から何の本かわからないが、『日本占領下・インドネシア旅芸人の記録』,めこん,1996に続く、ボードヴィルやステージ・ショー、ポップ・ミュージックに関する著作の第二弾である。
ベトナムの長編抒情詩『金雲翹(キム・ヴァン・キェウ)』のキェウを演じた幻の歌姫を捜す旅の記録。

取材日時が明記されていない、小説のような語り方である。香港返還直前というから、1997年頃の取材だろう。最初のサイゴン行きで、著者は通訳の〈マダム〉と知り合い、彼女とともにサイゴン周辺の南部を取材する。そして、最終的にキェウの生まれ変わりのようなマダムと著者の関係はまるで物語のように進むのだが……。

サイゴン、ハノイ、パリ、ロサンゼルス、と幻の歌姫を捜す旅が語られる。実は、本書に登場するのはほとんどが旧南ベトナムの人々。サイゴン解放によって国外に逃亡した人々、あるいは対米戦争後にサイゴンで苦しい生活をおくる人々なのである。戦争に負けた側の心情とでも言おうか。
そしてまた、著者の捜す歌姫は、時代遅れの〈封建的〉な女性像であり、廃れゆくステージ・ショーの残骸でもある。

このように複雑な構成であり、小説なのかルポルタージュなのかわからない語り方であるが、キェウが運命に翻弄される主人公であるように、ポピュラー・カルチャーやステージ・アートも、政治的正しさやイデオロギーに翻弄されながらも、政治や支配イデオロギーを超えた存在である、と読者にうったえる一冊。
このようにまとめてしまうと、本書の持つ微妙な陰影が伝わらない。誤解されそうだ。つまり、植民地化の屈辱や退廃、前近代的な女性観など、一見ネガティヴな要素を超えた魅力が大衆文化にあるってことだ。
うーん、こう言ってしまうとさらに誤って伝えてしまうな。

出版社めこんの本の中では、目立たないものですが(著者のウェブ・サイトによれば、日本一売れない作家であるそうだ)、ご一読を!