東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

高梨健吉 訳,チェンバレン『日本事物誌』〔全2冊〕,平凡社,1969

2009-11-18 22:32:32 | 翻訳史料をよむ
原書第六版1939(昭和14年)の全訳。
原書の初版は1890年(明治23年)。

第六版の大きな追加項目は
「武士道――新宗教の発明」である。この項目は全体を通しても重要な項目であり、戦前の日本国内では削除されていた部分。

ええと、削除されていたといっても英語版が削除されて販売されていたのであって、日本語訳は本書までない。つまり、海外版を入手する以外は削除部分を読むことはできなかったわけである。
ほかに削除されていたのは、〈退位〉〈歴史と神話〉〈帝(みかど)〉。
第六版で追加された項目は、ほかに〈ラフカディオ・ハーン〉〈国歌〉〈大本教〉であるそうだ。ちなみに、〈国歌〉などの皮肉な記述は削除されなかったというわけだ。〈大本教〉の記述はつまんない。

百科事典的な構成で、日本のことを何にも知らないガイジンに向けて、一見親切そうに解説している本であるが、そうとうに皮肉で辛辣な文章である。

皮肉で辛辣な舌鋒は、日本人にも向けられるし、日本を神秘の国と憧れる外来者にも向けられている。

最初にあげた〈武士道〉の項目も、日本人を皮肉るというよりも、なんにも知らない外来者に対して、そんなもん、日本人だって知らなかったし、知っていても信じているわけではないですよ、と言っているわけである。
もちろん、〈新宗教〉を国民に吹き込もうとする政府にとっても都合の悪い記述ではあるのだが。

ほかに皮肉な項目としては、

日本語化された英語~よくあるヘンテコ英語看板や案内書き
世界漫遊家~在留者にとってやっかいな同郷からの旅行者
食物~イギリス人からみた日本の食事、それに洋食と称するもの
礼儀~現在まで続く、うんざりするワンパターン質問とおせっかい。

ややマジメな項目で、外国からみた日本文化として参考になるのは、

歴史と神話
日本関係書
文学(古典から当時の小説まで、翻訳など)
伝道(キリスト教の)
名前

日本文字(漢字と仮名、両方について)

たぶん、当時の旅行者や一時滞在者にとって関心の的であったと思われる、芸者・人力車・入浴・針治療・モグサ・刺青……などは、あんまりおもしろくない。同じような話は飽きるほど喧伝しているから。

永見文雄 訳,シャップ『シベリア旅行記』,岩波書店,1991

2009-11-04 22:52:54 | 翻訳史料をよむ
『17・18世紀大旅行記叢書』第9巻。原書1768年。1761年の旅行。
全体のコメント、紹介は後にして

第7章 ロシアにおける学問、芸術の進歩について、国民の天才と教育について

ここは、なぜロシアではピョートル一世の政策にもかかわらず、学問や芸術が進歩しないかという考察。

p-234

 以上に述べられたことから容易に次のように結論できる。すなわち、ロシア人は働きも活動もない粗雑な神経液を持っているに違いなく、それは天才的な人間よりはむしろ逞しい体質を形成するのに適している、ということである。彼らの内部諸器官は弾力も振動も持つことはできない。彼らが風呂のなかでたえず行うマッサージ療法とそこで感ずる熱は、外部諸器官のすべての感受性を破壊してしまう。神経叢はもはや外部印象(アンプレッション)を受け入れることができないので、それを内部諸器官に伝えることはもはやできない。そこでモンテスキュー氏は、ロシア人に感情を与えるにはその皮を剥がねばならないと指摘している(『法の精神』第14篇、第2章)。ロシア人における天才の欠如は、従って、土壌と風土の結果のように思われる。

この部分だけ引用すると、判りにくいでしょうが、10ページ以上にわたる論議を正確にまとめることは不可能なので我慢してくれ。

本訳書では、渡辺博氏によって、当時の科学分野についての親切な解説と注が付されている。

それによれば、当時は、古代のガレノス以来の体液説と、デカルトやボレリによって展開された機械論的生理学が折衷されていた時代であったそうだ。

 宇宙流体、すなわちこの宇宙精気は、それゆえわれわれの生物体の液体と流体と流体の運動の直接原因であり、そしてこれらの体液(リキッド)が人間において管、神経の弾力と振動、そして動物機械全体の働きを産み出すのである。

こうした奇妙に科学的な知識をもとに、ロシアの気候条件を組み込み、ロシア人の気質を分析する。
いわく、ロシア人は陽気で社交好きで器用に真似ができる一方で、個人の創造意欲を欠いていて、専制主義のもとで才能を枯渇させられている。

まあ、よくある話である。
これは、モンテスキュー『法の精神』第14篇第2章(岩波文庫版(中)p27-31)にある、モンテスキュー自ら行ったと称する、皮膚組織や舌の乳首状突起に関する観察記録をさらに発展させたものである。
やはり、モンテスキュー、影響力が大きい人物なのだ。

なお、この部分を含め、ロシアの女帝エカチェリーナから本書への猛烈な反論があったそうだ。反論は当初匿名で出版されたので、著者が誰か論争の的になったそうだが、現在ではエカチェリーナ直々の著作だと認められている。

まあ、これだけ勝手なことを書かれたんじゃ、黙っていられないな。

**********

さて、本書『シベリア旅行記』の著者ジャン = バチスト・シャップ・ドートロッシュ
について、訳者・永見文雄の解説をもとにまとめておく。

この『17・18世紀大旅行記叢書』第1期のなかで、もっとも無名な人物であろう。
ベルニエやヴーガンヴィルのような社交界や宮廷関係の人ではなく、クックのような軍人でもなく、シャルダンのような商人でもない。

現代風の肩書きを付けるとすれば、天文学者である。

本書のシベリアへの旅行も、金星の太陽面通過の観察が主目的。
金星の太陽面通過というのは、渡辺博氏の解説に詳しいが、地球から見て、内惑星が太陽面を横切る時点に(本書の1761年6月)、地球各地からその視差を測定する。そのことから、地球から太陽までの距離を知る、という地球規模の観察である。
彗星な名がついているエドマンド・ハリーが予測した天文現象で、ハリーの死後にその遺志を継いで各地へ観測隊が送られた。

有名なタヒチのヴィーナス湾というのも、1769年に金星(ヴィーナス)を観測するための湾ということで名づけられたのは知ってますね。裸のお姉ちゃんが出迎える湾という意味ではありません。

さて、この1761年の観測は各地で充分な成果が得られなかった。次の太陽面通過が1769年で、この時シャップはカリフォルニアのサンルカス岬へ向かう。そこで、流行病にかかり客死。

本書は、国王の命令により科学アカデミーのシャップが行った旅行、国王お墨付きの記録である。

それでは本書は自然科学的な記録が多いかというと、最初にあげたロシア人の気質をめぐる考察にみられるように、あらゆることがらを盛りこんだ内容である。
ロシアの風土、産業、宗教、風俗、政治、裁判、軍事組織など、いわゆるフランス百科全書派的な著作になっている。

本書は省略のない全訳で、原注も挿図もすべて収録されている。

第6章 トボリスクの町案内
は、民族学的な観察記録。かなり偏向した記録であるが。

第9章 ロシアの人口、通商、海運、財政、軍隊について
は、CIAかジェトロの調査報告みたいな詳細な記録。軍港ごとの軍艦一覧表や一連隊の軍支出金額表まで載っている。

そんななか、第10章がとりわけ異様である。
別項で。

2009年11月16日追記

別項で第10章について書くつもりだったが、チベット仏教のタンカについて調べているうちに、いきづまって中断。そのうち書くでしょう。

モンテスキュー,『法の精神』(中),岩波文庫,1989

2009-11-03 21:50:59 | 翻訳史料をよむ
前項のシャルダンのペルシャ旅行記など、17世紀18世紀の旅行記を幅広く参照・引用している著作だと聞いているので、手にとってみる。
例によって、わたしは読んだことない。サルだな、まったく。

おもしろいのは、この中巻に収録された第3部・第4部だと聞いているので、この部分のみ流し読み。

いやはやおもしろい逸話や伝聞がてんこもりですね。
この著作を、三権分立論の嚆矢としてマジメに読む人たちは、この部分をどのように読むのだろう?

シモネタばかり強調するようで、下品だが、訳者の方々も苦労したらしい部分について。

トルコ、ペルシャ、ムガール、中国、日本で女性の貞節が守られていることに比べ、インドでは正反対だと例を挙げた部分。なお、インドというのは、この場合、現在の東南アジア一帯のことである。

p-94

第3部 第16編
第10章 東方の道徳原理

ここでこそ、人は、風土の難点を全く放置した場合、どの程度まで無秩序状態をもたらすかを見ることができる。ここでこそ、自然は理解しがたい力をもち、羞恥心は理解しがたいほど弱いのである。パタヌでは、女性の淫奔さは極めてはなはだしく、そのため男たちは女性の誘惑から身を守るためある種の保身具を用意することをよぎなくされている。

女性の淫奔さの例として、パタヌ(マレー半島のパタニ)があげられて、東南アジアの歴史を知っている人は、あははと笑いたくなるが、訳者の方々、この〈ある種の保身具〉の理解に苦しんだようだ。

ネタ元は
『東インド会社関係旅行記集』第2巻第2部196ページとある。
何度も引用されるこの『東インド会社関係旅行記集』、最初に登場するのは、上巻第1部 第5編 第14章 バンタムに関する記述である。

 p-143の原注で、
"Recueil des voyages qui ont servi a l'etablissement de la Compagnie des Indes"
という何巻にもなるシリーズであるようだ。が、その正体がわからない。

日本、台湾、東インドなどに言及されたときに引用されているので、これはオランダ東インド会社関係の旅行記をまとめたものと思われる。モンテスキューの時代にフランス語に翻訳されていたのか、それともオランダ語で読んで書名だけをフランス語に訳したのか不明。

で、いきなり憶測から危うい結論になるが、上記のネタ元は、

"Journaal van Jacob van Neck" in De vierde schipvaart der Nerderlanders naar Oost-Indie onder Jacob Wilkens en Jacob van Neck (1599-1604).

なんじゃないか?

アンソニー・リードの『交易の時代の東南アジア』のVol.1
で引用されている文献。
"Southeast Asia in the Age of Commerce"(ペイパーバック版、p-150)
邦訳『大航海時代の東南アジア(1) 1450-1680年 貿易風の下で』,法政大学出版会,新装版2002

やっと、〈ある種の保身具〉の正体を説明できる。

アンソニー・リードの本を読んだことがある人はすでにお判りだろうが(図も掲載されているし)、これは、女性の快楽を強めるため、男性のちんぽの先に埋め込む装身具、身体改造行為のことですね。
女をたっぷり満足させるために、男は苦痛に耐えてちんぽの先に、ビーズや真珠を埋め込むのである。

ええ?ほんとかよ、と疑う方も多いだろうが、たくさんの文献で言及されているので、本当らしい。

もちろん、アンソニー・リードが引用しているのは、モンテスキューの言う〈女性の淫奔さは極めてはなはだしい〉ことの例としてではない。そうではなく、家族関係や対人関係における女性の自立の例として挙げている。(しかし、ほんとに、こんなことが、実証的な例になるのか……という気もするが。)

以上、わたしの憶測と予断ですので、フランス語とオランダ語が読める方は、ちゃんと自分で調べてください。くれぐれも、このブログの文をみだりに信用しないように。

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モンテスキュー『法の精神』にもどると、この書物では、『17・18世紀大旅行記叢書』に収録された、ダンピア、シャルダン、ベルニエなどのアジア情報が頻繁に引用されている。
日本と中国の情報はイエズス会士報告書からが多い。また、ケンペル『日本誌』が引用されているように、オランダ東インド会社の雇用者としてアジアを見聞した記録も多い。

ようするに、モンテスキューとしては、世界中から集められた奇談を自著に散りばめたわけである。
そして、ヨーロッパの自由、アジアの専制、怠惰、淫奔を比較していくわけである。

ただし、モンテスキューによって引用された旅行記や布教記録を残した人々が、こんなヘンテコで奇抜なことばかり記録していたわけではない。(いや、たまにヘンテコな見聞があって、その部分も楽しいのですが)

シャルダンにしてもベルニエにしてもダンピアにしても宣教師にしても、自然環境から交易、生活習慣など、かなり冷静に記録している。

それなのに、本書に登場する東アジア・東南アジア・インド・中東は、専制支配に喘ぎ、怠惰で淫乱な住民が蠢く地として描かれている。
つまり、『法の精神』は、ルネサンス以前の無知や迷信から、啓蒙の時代の偏見と差別へ転換する時期の書物なのであろう。
こう決めつけると、まじめに研究している人たちから顰蹙を買いそうだが。

佐々木康之・佐々木澄子 訳,『ペルシア紀行』,岩波書店,1993

2009-10-29 22:34:43 | 翻訳史料をよむ
ジャン・シャルダン著で、原書1811年。底本は、

Jean Chardin, Voyage de Paris a Ispahan, notes et bibliographie de Stephane Yerasimos, 2 vols. La Decouverte 64-65, Paris, Maspero, 1983.
の抄訳。
「17・18世紀大旅行記叢書」 6
解説は、訳者の佐々木康之と羽田正。

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一応通読したので、ランダムにコメント

パリ生まれの宝石商人シャルダンが、宝石類商売のためにでかけた二度目の東方旅行。

1671年から1973の旅の記録。旅はこの後も続き、ムガール帝国のインドやゴルコンダ王国まで足をのばしたようだが、シャルダン自身による記録は残されていない。

サファヴィー朝ペルシアのアッバース二世(1666年死去)より委託された宝石その他の商品を無事イスファハーンまで運び、売却して利益を得るのが目的である。

「17・18世紀大旅行記叢書」のなかでは、もっとも読みやすい作品だろう。とくに本訳では小見出しが付けられ、索引も完備しているので、登場人物も追っかけられるし、事件の前後関係もわかりやすい。

ただし、p172-187 のグルジア王国内のミングレリア大公国・イミレット国・グリエル国の抗争関係はややこしくて飛ばし読みした。ようするに、小さい公国の貴族や王族の抗争にオスマン帝国の勢力がからんだり、グルジア正教会がからむ抗争だったようで、これにシャルダン一行が巻き込まれ旅程が滞った。


読みやすいというのは、

作者シャルダンの目的地と旅行の目的が明白。つまり、無事宝石類をイスファハーンまで運び売りさばくこと。

時系列、行程にそった叙述で、今どこにいるのか、どこへ行こうとしているのかはっきりしている。(他の旅行記では、これが混乱して、どこをどう通っているのか読んでいるうちに混乱してしまう場合が多々ある。)

作者シャルダンの文章がわかりやすい。客観的な描写の中に主観的な心情を吐露し、その場面場面での作者の気持ちがわかる。

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『ペルシア紀行』という表題であるが、

「1 パリからコンスタンティノープルへ」は、出発の経緯と、当時のフランス・オスマン帝国をめぐる国際情勢の解説で、序説といってよい。

「2 コンスタンティノープルからティフリス」「3 ティフリスからタブリーズ」の300ページほどが、現在のグルジア・アルメニア・イラン北部の旅行。
この部分がもっとも旅行記らしい部分で、現在まで戦乱が続くカフカスの風土や風習が描かれ、旅の困難が描かれる。

「4 タブリーズからイスファハーンへ」が、無事イスファハーンへ到着後の商戦。サファヴィー朝の朝貢貿易とでもいえる国王への贈物や謁見、賄賂や値引交渉が詳細に語られる。
シャルダンはいわば独立商人であるが、当地イスファハーンには、イギリス・オランダ・フランスの東インド会社が勢力を伸ばしつつある。その中で、フランスは情報収集力も軍事力もない弱小勢力で、国王側に軽くあしらわれている。

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葡萄酒と豚肉と美男美女の産地であるグルジア王国は、オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアに挟まれた混乱の地である。
一方、世界の半分の大都市イスファハーン、サファヴィー朝の勢力圏から太守が伺候し、ヨーロッパの東インド会社が陳情・抗議に来訪し、キリスト教各派の教会がある。

対照的に描かれる辺境とメトロポリスが本旅行記の目玉だろう。

21世紀の現在も紛争や内乱の絶えないカフカスは、当時もやはり旅に難儀する地域であったようだ。

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珍しい風俗や産物、歴史的な証言が記されているが、わたしにとって、どうにも謎であるのが、作者シャルダンの商売である宝石である。
いったいぜんたい、この宝石がなぜかくも高額で取引されるのだ?

イスファハーンの壮麗な建築や庭園、豪華な宴会が描かれているが、このへんは読んでいて納得できる。
しかし、宝石というものが、なぜこれほど貴顕連中が欲しがるのか、いまいち納得いかないのだ。

p559-560に、
王室に買い上げられた宝石類は鑑定され、記帳され、宝物庫に保管されると記されている。そして、そこで死蔵されるとシャルダンは書いているのだ。

これって、ヘンな話だと思うのだが。
王室が買い取った宝物は、家臣に下賜されたり売却されて移動する、つまり王室の宝物購入や贈物は、一種の交易だとわたしは理解していたのだが……。

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あと、キャラバン・サライの描写など詳しいので、ハンマームをシャルダン自身が体験した見聞がないかと期待して読んでいったのだが、なし。残念。

河島英昭,「ピガフェッタ コンゴ王国記」の訳者あとがき

2009-09-22 19:02:08 | 翻訳史料をよむ
前項は前置きである。

実はとうとう、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を読んだのだ。
ひじょうに難解で読みにくいという噂なので、決死の覚悟で望んだが、最初の10ページか20ページをクリアすれば、わりとスラスラ読める。

読んだ方はわかるだろうが、おどろおどろ系の要素もあるが、全体としてユーモアたっぷりのシャーロック・ホームズ物として読める。
もちろん、全編に充満するありとあらゆる書物や図像の薀蓄、ヨーロッパ中世からルネサンスにかけての歴史、神学論争、現代イタリアの政治が隠されている部分、どれをとっても十全に理解するのはたいへんだ。しかし、作者の数パーセントの知識しかない読者でも楽しめるようにできている。
翻訳はすばらしく読みやすい。

それで、同じ訳者・河島英昭の、『大航海時代叢書 第Ⅱ期 1』に収録された、訳者あとがきである。

詳細なテキスト(文体)の分析を全部紹介すると何千字にもなるので略すが、結論だけいうと、本書は著者ピガフェッタと情報提供者ローペツの共同作品ではなく、ローペツの情報が主なのではなく、ピガフェッタ単独の作品として読むべきだ!ということ。

そして、本書「コンゴ王国記」は、ボッカッチョの『デカメロン』の伝統を継ぎ、アリオストの『狂えるオルランド』やタッソの『解放されたエルサレム』の延長にある、ルネサンスを通過した時代の作品として読まれるべきである、とする。

最後に付言しておかなければならないのは、『コンゴ王国記』が近代の諸科学や学問のために書かれた作品ではないこと、また狭い意味での文学作品でもないことである。(中略)それゆえ、本稿の半ばにおいて述べたように、仮にも、私たちは現代の専門分化した、鋭くかつ狭い視野からのみ、このような広義の文学作品に接するようなことがあってはならないであろう。

と、まあ、学問的な訳注・松園万亀雄にけんかを売るようなことを言っている。

人食いの話など、お約束の虚構であって、そんなもの真に受ける読者がいたかもしれないが、多くの読者は虚構として楽しんで読んでいたのである、と。

さて、河島英昭の訳者あとがきに対し、さらに「叢書」編集部が月報の中で言及している。「「叢書」編集部」とあるが、執筆したのは石原保徳氏ではないか?

「忘れられた島々」というタイトルで、カリベ族の食人風習をめぐる記録とジェノサイドについて書かれた短い文章である。
以下、引用するが、強調のための傍点は略す。

そこで、人喰いの虚構を虚構として楽しむ「バロック精神」の持主は、そのとき、かつてカリベ神話を作り出した先人たちの犯罪性と、それによって殺され、苦しんだ人々の心におもい及ぶことはなかったのか、と。

たしかに、いまのところ、私たちはこの二人から(引用者注、ピガフェッタとオビエードのこと)、そしてまたイタリア・人文主義者たちから、こたえを引き出す力はない。しかし、すくなくともピガフェッタの中に、かつて西方の小さな島々でおこった歴史に対する「無知」と「無感覚」をみるのは的はずれなのであろうか。


うーむ。
訳者・訳注者・編集者が三つ巴でけんかしているみたいだな。

わたしとしては、400年前の作品を読む読み方としては、河島英昭氏の立場をとりたいが、これは現在まで続く、現在のほうが深刻な問題でありますね。

50年前の史料なら、いや、100年前の史料でも、虚構を虚構として楽しむというわけにはいかないからなあ。

河島英昭 訳,「ピガフェッタ コンゴ王国記」,1984

2009-09-22 18:57:22 | 翻訳史料をよむ
『大航海時代叢書 第Ⅱ期 1 ヨーロッパと大西洋』,岩波書店,1984.所収。

原書1591年イタリア語。
著者のフィリッポ・ピガフェッタというのは、有名なマガリャンイス隊の記録を残したピガフェッタとは別人であるが、血縁関係があるという説もあり。当時のウマニスタ(人文主義者などと訳される)。
本書出版の年に教皇インノケンティウス九世の侍従、トスカナ公やメディチ家のフェルディナンド一世の顧問にもなっている。本書はサン・マルコの司教アントーニオ・ミリオーレへの報告として執筆されている。

つまり、教皇庁やローマやメディチ家の中枢に近づける人物であったようだ。

そうした人物の著作であるが、本人がコンゴ王国とやらに行ったわけではなく、ポルトガル生まれの新キリスト教徒(ユダヤ教からの改宗者)で、コンゴ王国の国王と親しいオドアルド・ローペツという人物からの情報をまとめたもの。

では、このローペツという人物がどういう男かというと、コンゴ王からスペイン王(当時、ポルトガル王も兼ねるフェリペ二世)への使者だと自称している。スペイン王フェリペ二世やポルトガル副王に相手にされないので、教皇やイタリア諸侯にコネがあるピガフェッタに近づいたようだ。
コンゴ王使者としてローペツは、コンゴをポルトガルの宗主権から教皇庁の直轄地に献呈すると話をもってきたようだ。
もちろんコンゴ王とやらが、そんなことを望んだかどうか確かめようがないが、ローペツ自身がその領地の代理人やら管理者の地位につきたいようだ。当然、最大の利権は奴隷交易である。

そういう怪しい人物の情報をまとめたのが本書「コンゴ王国記」である。

コンゴ地方がポルトガル人と接触したのは、1470年代だが、本格的な交易や布教は1491年から。つまり日本より50年ほど早い。
アジア各地によくあるように、現地の一部勢力との連合、王位継承への介入、周辺部族との戦闘などが描かれる。

しかし、本書の第1部、コンゴ地方の自然・産物・風習・統治制度を描いた部分、周辺の領地や王族間の争いなど、ほとんど信じられない内容である。

鉱物資源が無限にあり、気候が温和で食物が豊富で、珍しい動物がうじゃうじゃいて、エキゾチックな香料や毛皮や織物があり、ヨーロッパ産の野菜や家畜がいて、野蛮人は異教の風習に染まり、食人の風習があり、という具合。
周辺の地理的関係も、プトレマイオス時代の認識が半分、現地の噂が半分というわけで、書いている本人も判っていないのではないかいな。

という内容を、現代の文化人類学や民族学、そのほか自然科学の分野から丁寧に訳注が付けられている。
訳注は松園万亀雄(まつぞの・まきお 後に国立民族学博物館の4代目館長)。

というのが前置き、肝心のことは事項で

神吉敬三・箭内健次 訳,『モルガ フィリピン諸島誌』,岩波書店,1966

2009-08-04 21:28:37 | 翻訳史料をよむ
1594年ごろのお話。(p73-82)
めんどくさい方はとばして後の部分へ行ってください。

ブラス・ルイス某というカスティリャ人がカンボジア王ランガラの元、プノンペンに滞在していた。
そのころ、プノンペンにシャム軍の侵攻があり、ランガラ王はラオス王国へ逃れる。
ブラス・ルイス某らはシャム軍に捕らえられ、水路でシャムに送られることになった。
海上でブラス・ルイスらはシナ人(水夫)と共にシャム人を殺し、船を奪取する。
しかし、エスパニャ人とシナ人が分捕り品をめぐって争いになり、エスパニャ人が勝ち、船と積荷をマニラまで持って来る。

一方そのころ、シャムの王は積荷と船を待っていたが、到着が遅れている。シャム軍がカンボジアから連れて帰った捕虜にディエゴ・ベリョソというポルトガル人がいた。
このディエゴ・ベリョソという男は、カンボジア王の使者としてマニラに来たことがある。エスパニアからの援助を求めるカンボジア王の要請は、マニラ総督から良い返事が得られなかった。
ディエゴ・ベリョソは、今度はシャム王の使者として、船と積荷の消息をたずね、エスパニアと友好関係を結ぶためマニラに向かう。

エスパニア王への贈り物を積み込んだ船で、ディエゴ・ベリョソはシャム人臣下と共に出発するが、嵐に遭い、マラッカに到着する。(方向がぜんぜん違うような気がするが……)
そのマラッカで、使者ディエゴは、シャム王の船がエスパニア人に奪取され、マニラにあるという情報を得る。

シャム王の臣下たちはマニラへ行くのはやめようと言い出すが、ディエゴはシャム人たちを無視し、贈り物の象を含む積荷を確保してマニラへ向かう。
ディエゴはマニラで総督に会見し、同行したシャム人が積荷を売ることも可能になったようだ。

そこで、先にカンボジアから船と積荷を分捕って来たブラス・ルイスと会い、協力して、今度は元カンボジア王ランガラを助け、カンボジアに足場を築こうではないか、という話になる。
ドミニコ会修道士の協力も得、総督も了承し、120人ほどの日本人やインディオ(フィリピン諸島の住民のこと)を含む乗組員を組織する。
総督代理(本書の著者モルガ)や陸軍司令官の反対があったが、強引に押し切り、遠征隊は出発する。

1596年初頭である。

この遠征隊も嵐に遭い、シンガポール海峡あたりまで流されるが、ベリョソとブラス・ルイスの船はともかくプノンペンに到着した。
到着してみると、カンボジアではシャム人が追い出され、官人のひとりのアナカパランという者が王の称号を僭称していた。

彼らエスパニア勢の滞在中にシナ人の船がプノンペンに着いた。エスパニア勢は、シナ人勢が気に食わず、シナ人を殺し、船を分捕る。
いろいろな悶着があり、彼らエスパニア人はシナ人勢に協力的なカンボジア僭称王の暴君アナカパランを殺して立ち去る。
暴君が死んだあと、カンボジア人たちは元の王に従うだろうと考え、ラオス王国にいるはずの元カンボジア王の王子を復権させようと企む。(あくまで、エスパニア人から見た記録ですので、実情はどうかわからない。)

ところが、そこで総指揮官とブラス・ルイスらの間で意見の食い違いが生じる。
総指揮官は分捕り品を取り上げ、マニラへ寄港しようとする。
そこで、いろいろ悶着があり、いったんコーチシナまで行くように総指揮官を説得する。

コーチシナの湾に入り(どこだ?順化フエか?)、総指揮官が別件で交渉中にブラス・ルイスとベリョソはトゥンキンの王(広南グエン朝のグエン・ホアンか?)の息子(フクグエン?)を訪問し、ラオス王国へ向かうため道中の庇護を求める。
道中の庇護ともてなしを得た二人はルアン・プラバンへ着く。
そこでラオス王からもてなしを得る。
目当てのカンボジア王の長子・長女はすでに死亡していたが、別の息子のプラウンカルと彼の継母・祖母・伯母たちが生存していた。
ちょうどそのとき、カンボジアの高官連が、新しい王を迎えにラオスに到着した。(話がうますぎる……)

ブラス・ルイスとベリョソは高官らと共に、プラウンカルや一族の女を連れて、カンボジアへ向かって流れる川を下った。(この川がメコン川なら、途中でコーンの滝があって舟行は不可能なはずだが)

……以下略。

**********

以上のような話がえんえんと続く。(地名などは現代風に改めた。)
『フィリピン諸島誌』なのに、カンボジアやシャム、ラオスの話ばかり続くと不審に思われるだろうが、当時のエスパニア人の関心地域には、日本やカンボジアが重要な位置を占めていた。フィリピンだから、ミンダナオのモロ勢力とばかりケンカしていたわけではないのだ。

ともかく、フェリペ二世の時代のエスパニア人から見ると、こんな事件があったのだ。

本書が記すフィリピン諸島の情勢の中で、もっとも気がかりな外部勢力は、北の太閤様(豊臣秀吉)、その後は南からの新参者オランダ人に移る。
つまり、日本の幕府とVOC幕府に挟まれた未開の地に裏街道(太平洋航路)からやってきたイスパニア人の記録である。上記の時点では、まだVOCは存在しないし、VOCが誕生したころには太閤様の時代は終わる。

裏街道だからこそ、日本人のプレゼンスが目立つのであり、表街道のほうでは、マレー人、シャム人、ジャワ人のプレゼンスが大きく、ポルトガル人も新規参入プレイヤーの一個である。
同様にカンボジアも裏街道というか弱小勢力であったようだ。だからこそ、エスパニア人やポルトガル人が介入する余地があったわけで、アンナンやシャムになると、アドヴァイザーや廷臣という地位になれても大勢を左右する力はまだない。

アユタヤがビルマの一地方政権であった時代(マハータンマラーチャー王1569-90)、カンボジアは計6回アヨードヤの領域に侵攻する。
しかし、ナレースエンがビルマのくびきを脱した後期アユッタヤー(1593-)になると逆にカンボジアへの侵攻を開始した。

というような各地域の王国・王朝もそれぞれ重要ではあるが、イスパニア唯一の拠点マニラにとって最大の懸念は福建商人の存在である。
福建商人がマニラに滞在するからこそ、明の産物をヌエバ・エスパーニャに運ぶガレオン貿易が可能であるのだが、しばしばマニラ政庁にとってやっかいな問題を起す。

そして、その問題処理に関して頭を悩ませたモルガが著したのが本書『フィリピン諸島誌』である。

記述の内容を全面的に信じるわけにはいかないし、他の史料との照合などわたしの手に余るが、ともかくアジアにやってきたイスパニア人の初期の状況を知るには最適である。
トメ・ピレスほど資料的価値は高くないようだが、時系列のストーリーはおもしろい。
聖職者ではなく行政官が実際に見聞した記録としても例外的である。

染田秀藤 訳,セプールベダ,『征服戦争は是か非か』,岩波書店,1992

2009-05-03 19:03:15 | 翻訳史料をよむ
ラス・カサス関係続き

いわゆるバヤドリード論争、新世界における対インディオ戦争と征服は是か非かをめぐる代表的な著作。征服戦争を是とみる側の代表人物セプールベダの見解をしめす。
「アポロギア」(1550)と「第ニのデモクラテス もしくはインディオに対する戦争の正当原因についての対話」(未公刊、アポロギアの前の作品)の2編の翻訳である。
ふたつとも原文はラテン語、本書はスペイン語版から訳し、ラテン語版を参照する。
「アポロギア」は、「第二のデモクラテス」の刊行許可がおりないことへの抗議文。「第二のデモクラテス」の趣旨が簡潔に述べられている。

ということで征服戦争賛成派の論じるところを読んでみよう。

ところが、論敵であるはずのラス・カサスやフランシスコ・デ・ビトリアの名はまったく出てこない。ラス・カサスをほのめかす部分も一か所もない。そんなどこの馬の骨かわからん修道士など眼中にないかのように、優雅な対話が続く。
うーむ。論戦をするときの手法の一種といえようか。当の論敵など存在しないかのように、相手にする価値がないかのようにふるまう。なかなか賢いやつだなあ。でも、よい子はマネをしないように。

わたしは本文だけ読んでもわからなかったが、解説・翻訳の染田秀藤によれば、「第二のデモクラテス」の対話の相手・レオポルドというのは、当時のルター派に染まりかけた勢力を想定しているそうだ。
つまり、ルター派を論破するような体裁の著作であるが、実質はラス・カサスら新世界のインディオ擁護派への攻撃なのである。
そして、読者に対しては、あのインディオ擁護派というものは、恐ろしい異端のルター派と相通じるものであるのだよ、とほのめかしているのである。

「第二のデモクラテス」を読んでいくと、実に余裕しゃくしゃくと、古代の哲人やアウグスティヌス、トマス・アクィナスなどを引用し、一見論理的に対話が続く。
インディアスにおける征服など、まったく当然であり、わざわざ論じるまでもないじゃありませんか。しかし、あえて論証せよと申されるならば、これこれの聖人の著作があり、すでに論証済みなのですよ。と、対話が続く。

とまあ、実に論理的、冷静であるのだが、解説の染田秀藤によれば、実はそれほど余裕があったわけではないようだ。
このセプルーベダという人物は、ローマ滞在中に神聖ローマ帝国カール五世の軍による「ローマ劫掠」の遭遇し、ローマ脱出。その後、戦乱がおさまった教皇庁に仕えた。のち、スペイン宮廷に仕える。
つまり、戦乱の中、教皇庁を危機を体験し、さらにスペイン宮廷に仕えて、財政危機のスペインのまっただなかで人生を送った人物である。

そのなかで、キリスト教会の危機を実感し、スペイン国王とスペイン国こそがキリスト教世界を守る勢力だと確信する。となると、インディオ擁護派の宣教師や修道士どもは、スペイン国家の安定をゆさぶる異端の輩ということになり、論破せざるをえない仇敵なのである。

ここに、スペイン国家をキリスト教世界の代表とみる、後のナショナリズムに通じる思想がめばえる、というのが解説・染田秀藤の分析である。
たしかに、このセプールベダの論調、ことば使いには、ナショナリストに通じるものがある。

さらに、わたしが気がつかなかった鋭い指摘がある。

この「第二のデモクラテス」は、インディオの残虐性、不信仰、無知を当然の前提とし、〈自然法〉に背くものと断定している。
そして、議論の焦点は、スペイン人による征服戦争が是であり、戦争にともなう殺戮はやむをえない、いや、むしろ当然のことだ、という方向ですすむ。

しかし、解説・染田秀藤の指摘なのだが、このセプールベダがさらに当然の前提としているのは、戦争においてスペイン側が勝つということなのだ。
つまり、負けることを予想していない。

ああ!そうか!

ヨーロッパの中での戦乱、教皇庁の内部での意見の不一致、宮廷の財政難、いろいろ問題はあるが、新世界のインディオ征服戦争は、スペイン人が間違いなく勝利すると確信しているのだ。
この根拠のない自信が、スペインを黄金時代から停滞の時代に導く一因であったのかもしれない。

長南実 訳,『ラス・カサス インディアス史 1』,岩波書店,1981

2009-03-07 20:07:52 | 翻訳史料をよむ
増田義郎 注・解説、「大航海時代叢書 第二期 21
近く(2009年3月)文庫になるようなので、読んでいないがコメント
最初に引用

その原則とはすなわち、われわれ自身が他の人たちからしてもらいたいと望むとおりのことを、われわれは彼ら未信者たちに対してなすべきであり、またわれわれはいかなる所へ入って行くにせよ、まず最初にこちらから示すべき態度は、言葉と行為による平和であらねばならぬ、ということなのである。この点については、相手がインディオであろうと異教徒であろうと、ギリシア人であろうと異邦人であろうと、なんらの差別もあってはならない。なぜならば、ただ御一人の主だけが人間全体の主であられ、人間全体のために区別なく死に給うたのだからである。

おお、まともなこと言ってるじゃないか。しかし……

この文章が出てくるのが、本書・大航海時代叢書版で183ページ。たいていの読者は、ここまで辿りつくまでに、へたばっている。
その前まで延々と、フラヴィウス・ヨセフスから始まって、アリストテレスだのプトレマイオスだの、ローマのアウグスティヌスだのキケロだの、アヴィケンナ(イブン・シーナー)だのを引用して、インディアスを、つまりスペイン人たちが新たに到着した地について、過去の哲人たちがどう考察しているか、人間が住んでいるか、人間が住めるか、などという話題を続ける。

現代人にはとうていはかりがたい世界観が示され、著者ラス・カサスの博識が誇示される。
この後、本巻の主題であるコロン(コロンブス)のインディアス到達の過程が記されるわけだが、最初の壁にぶつかって、後の叙述までついていけない。
だいたい、この第1巻だけで680ページ。注は最小限なので、ほとんど本文と思ってよい。翻訳では、最初の予定の全4巻が最終的に全5巻となる。よくまあ、こんな長いものを書けたもんである。

この最初の150ページほどの部分が、当時のスペイン人、キリスト教徒の世界観の代表であろうし、山本義隆『十六世紀文化革命』などの視点から歴史を見たい方には、格好の材料である。(と、思う、読んでないので自信がないが)

大航海時代叢書のほかの巻を開いてみた方はごぞんじだろうが、この種のながったらしい叙述、創世記から始まったり、ギリシアの時代から始まるのは、ある種のハッタリだと思ってよい。
特に本書はラス・カサスが論陣をはって、敵を説き伏せる目的があるのだから、ハッタリも大きくなくてはならない。

最初に引用したように、インディオも人間であり、保護しなくてはならない、という強烈な使命感にささえられており、コロンの航海の記録もその傍証として描かれるわけである。
しかし長い。この巻だけで、コロンの航海の説明に終わっている。

ラス・カサスの執筆は1526年から25年間もかけたそうだ。その間、インディアスの破壊はすすみ、インディオはほぼ無抵抗で倒れていく。

しかし、大航海時代叢書全体からみると、ここに描かれるように、弱く、善良で、自然の中で平和に暮らし、スペイン人征服者になすすべもなく死んでいくインディオ、というのは、ここアメリカ大陸だけであった。
目をインド洋・アジア方面に向けると、とうてい善良で無垢のインディオとはいいがたい、こずるい商人だの、暴虐なスルタンだの、融通のきかない官僚だの、理屈をこねるボーズだの、凶暴な海賊だのがあふれていて、とても悠長に論じてはいられなかった。

彼らヨーロッパのキリスト教徒が遭遇したのは、西ではバタバタと死んでいく無垢のインディオであり、東では逆に、無知蒙昧なキリスト教徒には想像もできない多様な文化と高度の生産力と強力な武力を持ったアジアの人間であった。

本書インディアス史は、ヨーロッパ人の思考の転換を見るには最適かもしれないが、地球全体がこのラス・カサスの考えるほど、ヨーロッパ人の思うようにはならなかった、ということに留意すべし。
つまり、暴虐な征服者になすすべもなく殺されていっただけではないし、また、その反対に慈悲深い布教者に保護されるだけの弱者でもなかった。と、いうこと。

あと、これは、日本人読者にはあまりいないと思うが、本書を読んで、スペイン人は残虐で無慈悲で無計画であったが、スペイン人に対抗したオランダ人やブリテン人は、合理的で道義的で、奴隷制も廃止したんだぞー、という読み方をする人がいるらしい。
まさか日本人でこんなふうにかんちがいする人はいないと思うが、英語圏ではけっこう多いらしいので注意。

染田秀藤 訳,ラス・カサス 『インディオは人間か』,岩波書店,1995

2009-03-07 20:00:53 | 翻訳史料をよむ
いろいろな意味でやっかいな本。まず、訳者のあとがきから、

これまで本アンソロジーを読み進んでこられた方なら、クロニカと総称されるインディアス関係の記録文書の多くが、「読者を楽しませ、満足させるために、話すに値すること、記憶されるべきこと、書き残す価値があること」を選りすぐってテキスト化されたものであるのを知っておられるはずである。しかし、ラス・カサス自らが『文明史』冒頭に付した「梗概」に見るように、彼の目的は決して、「読者を楽しませ、満足させる」ことではなく、神を畏れぬ一部の人たちの謂れなき誹謗・中傷に晒されたインディアスの住民、つまりインディオたちの「尊厳と名誉」を守ることだった。したがって、『文明史』は、ペドロ・マルティルの『十巻の書』、オビエードの『インディアスの博物誌ならびに征服史』、シエサ・デ・レオンの『ペルー誌』やアコスタの『新大陸自然文化史』などと異なり、当時の旧世界を覆っていたインディオやその文明に対する無知蒙昧な認識に挑戦する「論争の書」として構想されたのである。

と訳者・染田秀藤は述べる。

ふーん。
ラス・カサスという人物は、カトリック・キリスト教世界(以下めんどくさいから、ヨーロッパとする)の認識を覆した人物、インディオも人間である、と宣言し、論争し、証明しようとした人物である。
こんにちの比較民族学の先駆者、解放の神学派の元祖、とも称えられる。

一方で、単なる誇大妄想、キ印、とも評価され、激しく罵倒されてもいる、そうだ。

批判・罵倒されるのは、スペイン政府そのほかヨーロッパからの征服者・聖職者を非難した、という当時の理由ばかりではない。
アフリカ人を新大陸に奴隷として移入するきっかけを作ったという批判もあるが、今はこの点にこだわらない。
以上の理由もあるだろうが、もっと本質的な理由もあるようだ。

まず、本質的な理由とはいえないが、文章が退屈で、もったいぶっているし、繰りかえしが多く、読むのがつらい。
事実、本書の底本になっている『インディアス文明史』は、ほとんど読まれていない書物であるそうで、20世紀にはいって何度か再評価があったものの、少数の研究者のあいだで評価されているようだ。

ページを開いてみると、理由がわかる。

彼、ラス・カサスの論理は以下のようなものだ。

インディオはけっして野蛮でもないし、理性のない動物でもない。
なぜなら、彼らの慣習や儀式は、古代ギリシャ・ローマ・ユダヤにもあったもので、理性のある人間であるのはヨーロッパ人とかわらない。
だから、彼らインディオも立派なクリスチャンになるはずだ。

大雑把にまとめると、こんな具合である。

そして、ラス・カサスが論議の根拠とするのは、アリストテレス、トマス・アクィナスなど古代・中世の哲人・神学者、古代ユダヤやローマの歴史である。
インディオの習俗や儀礼が一見、野蛮で残酷におもえようとも、それは古代ローマやギリシャ、あるいはユダヤの儀礼に比べ、無知や残虐性によるものではない。

と言われても、うれしくないよな。

たしかに、インディオも人間であると宣言した点は画期的であったかもしれないが、同時に後々まで尾を引く錯誤や差別の出発点にもなった、としか読めない。

もちろんラス・カサスは歴史的に重要な人物であり、著作は重要な書物である。現在の視点、現在の常識で判断しても意味ない。現在の常識で判断してはいけないのは当然だ。
そのラス・カサスと同じく、450年もたってみれば、ラス・カサスの論敵であった征服者やクロニスタも同様に歴史的資料として価値があるのではないか。
また征服者やクロニスタと同様に、ラス・カサスにも妄想一直線の気性があるのではないか。

はっきりいって、本書に書かれている内容は、現在なら、妄想と錯誤、狭い視野と貧しい知識の産物、偏見と差別の温床と読まれてもしょうがないのではないか。
だから、影響の大きさを無視するべきではないが、良いとか悪いとか判断するのはむだだろう。

しかし!

どうも、この〈アンソロジー 新世界の挑戦〉の編集者であり企画者である石原保徳は、ラス・カサスの主張と背景を忠実に追うことをめざしているようだ。

このアンソロジーは、ラス・カサスの主著『インディアス史』の抄訳を2冊、本書『インディオは人間か』は『インディアス文明史』の抄訳、計3冊のラス・カサスの間に、彼の論敵ある戦士、クロニスタ(歴史家)、ウマニスタ(哲学者)の論を7冊配置したもの。←まちがい、10冊+ラス・カサス3冊で、計13冊
たしかに、ラス・カサスを中心とする論争の背景を知るには適切ではある。
適切ではあるが、編者のリードどおりの読解を読者におしつける、はなはだ狭い読書を要求するアンソロジーになってしまったのではないか。

石原保徳氏は、「大航海時代叢書」の編集者であり、ラス・カサス論の著作もあり、さらに、最近は「シリーズ 世界周航記」全9巻の企画も担当している。
たいへんありがたい。
なんせこちらは、これらのシリーズで訳出されているものは、翻訳がないとまったく読めないのだから。

しかし、わからんのは、すでに増田義郎訳があるのに原田範行の新訳、フォルスターはドイツ語からの訳があるのに英語版からの新訳を出すなど、ただでさえ読者・購入者が限られているのに、ましておなじ岩波書店から出しているのに、なんでダブってシリーズに含めるのか、意図がいまひとつわからない。

ひょっとして、ほかの翻訳者と仲が悪いのか?

*****

本シリーズも長南実、清水憲男、そして本書の染田秀藤など、優秀な方々が長期間かけて訳した労作なのに、読者に狭い読み方を強いているように思われるのだが。

ちなみに個人的な思い出として、清水憲男先生はラジオのスペイン語講座を聞いていて知っていたが、陽気なセニョリータを相手していた清水先生が、こんな重厚なものを訳す方だとは、ぜんぜん知らなかった。失礼。

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書き忘れたが、底本はエドムンド・オゴルマンが編集し、メキシコで1967年に発行された2巻本。