東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

映画『敵中横断三百里』,1957大映

2008-03-29 19:16:00 | フィクション・ファンタジー
映画の話ではなく、第二言語学習の話のつづき。第二言語学習に映画を活用しよう!という主張ではなく、わからないこともあるのだ、という例である。

たとえば、『ターミネーター』(第1作1984)で最初に標的であるサラが狙われるシーンを思いだしてほしい。(以下、未見の方には少々のネタバレが含まれますが、超有名な作品だからいいだろう。)
サラが正体不明の追っ手からのがれてナイトクラブにはいる。(うーん、この「ナイトクラブ」も和製英語化して元の意味からズレているが。)
そこで、他の客や従業員がなんかがやがやしゃべっているのだが、これはほとんど無意味。というより、危機迫る標的であるサラにはぜんぜん聞こえない発話であるはずだ。
一方、殺人機械ターミネーターにとっても、店内の会話などまったく処理する必要がないノイズである。(まあ、厳密に考えれば、並行処理できる高性能マシーンであるだろうけれど)

つまり、映画をみる観客としても、この店内のざわざわは、聞き取る必要がないのだ。
それが吹き替え版で、いちいち翻訳される。ひじょうに耳障りである。
映画のセリフは、演劇と違い、すべてのセリフを観客がキャッチするようにはつくられていない。
それをいちいち、不自然な日本語に訳されたセリフで理解するのは、おかしい。

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で、この『敵中横断三百里』である。
黒沢明と小国英雄が脚本。
セリフまわしが不自然だが、まあ黒沢・小国コンビだからしょうがない。
つまりだ、映画のセリフってものは、けっこう不自然なものなのだ。特に黒沢明の脚本は、セリフがぎごちない。この人が日本以外で評価が高いのは、この不自然なセリフが気にならない人たちの評価じゃないか?

しかし、この映画でみごとなのは、ロシア語や中国語で話される内容が、隊長(彼だけが、ロシア語と中国語が理解できる。)がキャッチした部分だけ字幕がはいるってこと。
あとは、観客も、偵察隊の隊員も理解できない。斥候隊が向かう土地の住民は当然ながら中国語(マンダリン)を話している。敵兵はロシア語を話している。それにほとんど字幕がつかないのだ。隊長以外は敵のことばがわからないという設定。
テツロク(鉄嶺)の駅のシーンなどたいへんスリルがある。
この設定はいい。

つまりだ。映画のセリフってのは、状況によって、登場人物だって理解していない場合があるってことだ。
それを、不自然な吹き替えでしゃべられと、その部分だけ際立ってしまうのだ。

というわけで、吹き替えの映画を見るのは止めるように。
理解できない聞き取れない音が発せられている、ということを知るべし。

わたしの若いことは吹き替えの映画なんてものは、幼児向け以外に存在しなかったのだ。
テレビで吹き替え映画が放映されるようになって、あの不自然でヒステリックなセリフがひろまり、当然のように捉える観客も増えていったってことでしょうね。つまり、おおげさに言えば、異文化に接する機会が減ったということだ。

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なお、この映画そのものは……

モノクロで野外シーンは遠景が多い。この当時に海外ロケができるわけないから、北海道あたりで撮影したのだろうか。
騎馬シーンは、俳優たちがぎごちないが(スタントも使っているだろう)、まあ日本人の騎馬だと思えばかえってリアリティがある。

ストーリーの説明は略すが、今風のアクション映画を期待すると、完全に肩すかしになる。はでな撃ちあいや残酷シーンはまったくない。
ハリウッド式の、最後に山場があって主人公はみごと危機を脱出、という構成ではないのだ。

雪と寒さの描写は、やっぱりしょぼい。
監督・森一生、原作もちろん山中峯太郎。主要登場人物ばかりでなく、地元住民にもまったく女がいない、全員男だけの世界です。

小林標,『ラテン語の世界』,中公新書,2006

2008-03-28 21:57:28 | 基礎知識とバックグラウンド
ラテン語について、歴史から修辞まであらゆることをもりこんだ一冊。
興味のない部分はとばしても一読をおすすめする。

で、本書全体の論旨とは関係ないのだけれど(すいません!)、ラテン語その他なんでもいいが、言語に関する本を読んで思うのは、英語と漢語(中文・中国語・漢文)の共通性である。

おおかたの日本語話者にとって一番身近な第二言語は、漢文と英語であるため、ついつい、この二つの言語に共通することを、世界中の言語に適応できるものと誤るが、この二つは、はっきりいって異常である。

まず、文字と綴りのこと。

文字ってものは、本来しゃべることばの音を形であらわそうとするものである。
しかし、この漢語と英語だけは、綴りや文字から音を再現するのが、ひじょうに困難なのだ。
日本語話者が学習するのは、この二つが多いため、形と音が一致しないことは普通と思いがちだが、とんでもないことである。
世界中のほとんどの文字体系は、音を文字をあらわすさい、なるべく簡単に、なるべく例外を少なくする体系になっている。
英語だけが、むちゃくちゃに変則的な綴りを無原則に採用しているのだ。
はいはい、語源やラテン語を知れば、法則がわかります。それはわかっているが、初学者が、2000種も3000種も語根や接頭辞をおぼえられません。それより、2000語をむりやりおぼえるほうがはやい。Wednesday などの曜日、three five six といった数、これはもうひたすら慣れるしかない。
つまり、日本の小学校で習う漢字と同じくらいの数のスペルの種類をおぼえなくてはならないってこと。
これは異常ですよ。

次にもっと重要なことは、単語の形から、名詞・形容詞・動詞・副詞などの区別がつかないこと。
日本語で〈白〉〈白い〉〈白く〉といったら、名詞か連体形か連用形かわかるでしょう。わかるのがあたりまえなのだ。
ところが、英語は、-tion がつけば名詞、なんてわかりやすいものもあるが、基本的な語彙はまったく法則がなく、ともかくやみくもに500ぐらいの単語をおばえるしかない。
そして、名詞形と形容詞形は同じ、動詞形と名詞形が同じ、といったさまざまな例外があり、個別におぼえるしかない。

さらに大きな第三の問題は語順だ。

基本的な主語・動詞・目的語のあいだに、さまざまな修飾語がはさまれることはわかっているね。
ところが、そのあいだにゴチャゴチャはさまっているのが、名詞を修飾するのか動詞を修飾するのか、わからない。
この点が高校生から上の段階で一番悩むところでしょう。

実は、こういう語順の言語、動詞と目的語のあいだにわけのわからない単語がつまっていて、形のうえから判断がつかない言語は、主要な言語の中で(各国の国語に指定されているような言語では)、英語と漢語だけのようだ。

つまり、第二の問題とあわせると、文の中のすべての語がわからないと、どれが主語でどれが目的語かわからない。動詞が区別できないと、完全にアウト。まったく初学者にとってやっかいな言語である。

もちろん、いろいろな小技があって、助動詞の次は動詞、三単現の s がつけば動詞、とかいろいろなヒントがあるけれど、過去分詞と過去形が同じ、現在進行形と動名詞(あるいは形容詞形)が同じといった、まぎらわしいこともある。
ほんとにやっかいだ。

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ラテン語に関する本を読めばわかるように、英語学者が論じてきた〈英語文法〉というのは、ラテン語文典をむりやり英語に適用させようとしたもので、そうとうにムリがあり、英語の初学者を悩ませるものが多い。
もちろん、近年の言語学者は、英語自体の法則をみつけようとしており、従来の文法ではわからなかった法則も発見されているのだが、これは、英語を第二言語として学ぶ入門者には、ほとんど無縁の世界である。

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本書に話題にもどる。(ながながと関係ないことを書いて著者にもうしわけない。)

いかなる偶然か、音に関するかぎり、ラテン語と日本語はひじょうによく似ている。
母音が五つで短母音と長母音の区別がある!!!
さらに、ヨーロッパの論者のあいだでは意見がわかれているそうだが、ストレスが強弱ではなく、日本語と同じ高低アクセントである!と、著者は主張している。
ふーん。

第二言語として日本語を学習する人の最初の壁が、この短母音と長母音の区別であるようだ。
日本語は子音も母音も、たいていのユーラシアの言語からみて単純であるが、この短母音と長母音の区別は多くの学習者が悩むらしい。
漢語にもヨーロッパの大部分の言語にもオーストロネシア系の言語にも存在しない区別である。(タイ語やギリシャ語には区別がある。)(さらに、どうでもいいことだが、いまだに英語に長母音と短母音の(フォネミックな)区別があるような表現をしている人がいるが、いいかげんにやめてくれないかねえ。)

さらに上級の日本語学習者にとってむずかしいのが、高低アクセントであるようで、これをマスターすれば、母語話者と同様に話せるというわけ。(ところが、日本語母語話者のアクセントがむちゃくちゃに変化して……?)

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本書は、ラテン語の文化・歴史背景が主な話題で、その部分がおもしろいのだが、ひとつだけ、実用的な知識を得たいと思って読んだ。
その実用的知識とは、〈英語話者が、英語文の中にラテン語が含まれている場合、どのように読む(発音する)のか?〉という疑問の答がないか、ということだ。

答はなかった。
英語話者のあいだでも、ラテン語の知識があるかどうか、その単語がナマのラテン語か英語化した単語かによって、発音は異なるようだ。
さらに、イタリア人、ドイツ人、フランス人、と各自かってに読んでいるようだ。

つまり、日本語母語の読者としては、特に英語化した単語は別として、日本語ローマ字読みですませてよいようだ。ci はキ、ce はケ、という例外だけおぼえればよい。
〈Cicero〉は〈キケロ〉でよいということ、たとえ英語話者がˈsi-sə-ˌrō、(ササローに近い)というにしても。もちろん、〈ネイティヴと同じようにしゃべりたい〉という人は〈ササロー〉といってもよい、ということ。