あらゆる文字改革はユートピア論になる。
ユートピア論になってもトンデモ論にはならないのは、さすが梅棹忠夫。
本書は、日本語うんぬんをこえた、世界をとらえる方法を論じた、別世界を夢見る書である。
書誌的事項
『日本語と文明』「梅棹忠夫著作集」第18巻,1992 のあとに発表された、日本語にかんする対談や提言、日本語ローマ字化にかんする小文をあつめたもの。
サブタイトル「ローマ字表記で国際化を」というのは、編集部がつけたものだあろうか?著者は「国際化」なんて下品なことばは使わないとおもうが。
まず、極端にいえば、著者の主張は、情報として整理できないもの、検索できないものは、この世に存在しないものにひとしい、というリアリスティックな思想である。
おお、まるで、グーグルみたい。
だからこそ、ローマ字がスタンダードになっているこの地球上で、日本語もローマ字にすべきである。というのが、著者の戦略的なローマ字論だ。
ローマ字論はひとまずおいといて、この、情報として整理できないものは価値がない、という、一見独裁者のようなかんがえは、わたしは一応、支持する。
整理できるように、検索と参照ができるような文章をつくる。そのために、アタマのほうを変えるべし。と、梅棹は書いてないが、文章をかえる、というのは、つまり、アタマを変えるということだ。
『知的生産の技術』というのは、実用書ではなく、ユートピア哲学の本だったのだ。
そこからこぼれおちるものもあるでしょう、というのが凡人の反論だろう。
しかし、著者の主張の根底にあるのは、そこからこぼれおちるものは意味がない、ということだ。
もし、はみだすもの、こぼれるものがあるとすれば、それは、知的生産ではなく、ほかの手段によって解決すべきものなり。
それでは、それを実現させるためのローマ字化は?
著者のもくろむのは、シナ文明の呪縛をとき、USAの支配からも自由になること、漢字からものがれ、英語の覇権からも自由なユートピアである。(おお、まるで、USAの存在しない世界で、シナ文明と日本列島をきりはなした『文明の生態史観』ではないか!!)
しかし、ほとんどの人は、そんな壮大な夢はみない。
なんとかつじつまをあわせ、そこそこの現状で満足するのだ。
梅棹忠夫の提言は、はっきりいって、永遠に実現されないだろう。そして、日本語の書記方法がかわらなければ、日本文明は21世紀に滅びるとまでいうのだが、そうだとすれば、たぶん日本文明は滅びるだろう。
それは著者の死後だから、まあ気にしないでください。
*****
以上、本書の大テーマからはずれるが、重要なトピックとして、漢字の制限・廃止について。
わたしのブログでたびたび書いているが、わたしはよめない漢字がおおい。
本書によれば、ほとんどの日本人がまちがって(かってに)よんでいるそうだ。
だから、わたしがまちがってよんでいるのも、日本人の平均的な文章読解力であるわけだ。
むずかしい漢字をつかいたがる人を著者は批判しているが、これはもう、歯止めがきかないだろう。
著者のような(わたしのような、とはいえないな……)かなり高度な読解力と文章制作能力のある人(著者は視力をうしなっているから、あった、と過去形にするべきか)ならば、漢字がよめないと正直にいえるが、大多数のひとは、漢字をよめないことに不安をいだいている。
だからこそ、それにつけこんだ詐欺まがいのテストが跳梁跋扈してるわけだ。
これは、劣等感の問題、低収入の問題で、日本語うんぬんで解決できることではないですね。
同様に、英語のようなカタカナことばの氾濫も、肉体的劣等感をもつものや経済的劣位にあるもののマジナイ、呪文であって、これも言語がどうのこうので、解決でいる問題ではないですね。
もっとも、わたしは日本語の将来なんてどうなってもいいと思っているから、漢字でもカタカナ語でも無頓着につかうことがおおいなあ。ははは。
ユートピア論になってもトンデモ論にはならないのは、さすが梅棹忠夫。
本書は、日本語うんぬんをこえた、世界をとらえる方法を論じた、別世界を夢見る書である。
書誌的事項
『日本語と文明』「梅棹忠夫著作集」第18巻,1992 のあとに発表された、日本語にかんする対談や提言、日本語ローマ字化にかんする小文をあつめたもの。
サブタイトル「ローマ字表記で国際化を」というのは、編集部がつけたものだあろうか?著者は「国際化」なんて下品なことばは使わないとおもうが。
まず、極端にいえば、著者の主張は、情報として整理できないもの、検索できないものは、この世に存在しないものにひとしい、というリアリスティックな思想である。
おお、まるで、グーグルみたい。
だからこそ、ローマ字がスタンダードになっているこの地球上で、日本語もローマ字にすべきである。というのが、著者の戦略的なローマ字論だ。
ローマ字論はひとまずおいといて、この、情報として整理できないものは価値がない、という、一見独裁者のようなかんがえは、わたしは一応、支持する。
整理できるように、検索と参照ができるような文章をつくる。そのために、アタマのほうを変えるべし。と、梅棹は書いてないが、文章をかえる、というのは、つまり、アタマを変えるということだ。
『知的生産の技術』というのは、実用書ではなく、ユートピア哲学の本だったのだ。
そこからこぼれおちるものもあるでしょう、というのが凡人の反論だろう。
しかし、著者の主張の根底にあるのは、そこからこぼれおちるものは意味がない、ということだ。
もし、はみだすもの、こぼれるものがあるとすれば、それは、知的生産ではなく、ほかの手段によって解決すべきものなり。
それでは、それを実現させるためのローマ字化は?
著者のもくろむのは、シナ文明の呪縛をとき、USAの支配からも自由になること、漢字からものがれ、英語の覇権からも自由なユートピアである。(おお、まるで、USAの存在しない世界で、シナ文明と日本列島をきりはなした『文明の生態史観』ではないか!!)
しかし、ほとんどの人は、そんな壮大な夢はみない。
なんとかつじつまをあわせ、そこそこの現状で満足するのだ。
梅棹忠夫の提言は、はっきりいって、永遠に実現されないだろう。そして、日本語の書記方法がかわらなければ、日本文明は21世紀に滅びるとまでいうのだが、そうだとすれば、たぶん日本文明は滅びるだろう。
それは著者の死後だから、まあ気にしないでください。
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以上、本書の大テーマからはずれるが、重要なトピックとして、漢字の制限・廃止について。
わたしのブログでたびたび書いているが、わたしはよめない漢字がおおい。
本書によれば、ほとんどの日本人がまちがって(かってに)よんでいるそうだ。
だから、わたしがまちがってよんでいるのも、日本人の平均的な文章読解力であるわけだ。
むずかしい漢字をつかいたがる人を著者は批判しているが、これはもう、歯止めがきかないだろう。
著者のような(わたしのような、とはいえないな……)かなり高度な読解力と文章制作能力のある人(著者は視力をうしなっているから、あった、と過去形にするべきか)ならば、漢字がよめないと正直にいえるが、大多数のひとは、漢字をよめないことに不安をいだいている。
だからこそ、それにつけこんだ詐欺まがいのテストが跳梁跋扈してるわけだ。
これは、劣等感の問題、低収入の問題で、日本語うんぬんで解決できることではないですね。
同様に、英語のようなカタカナことばの氾濫も、肉体的劣等感をもつものや経済的劣位にあるもののマジナイ、呪文であって、これも言語がどうのこうので、解決でいる問題ではないですね。
もっとも、わたしは日本語の将来なんてどうなってもいいと思っているから、漢字でもカタカナ語でも無頓着につかうことがおおいなあ。ははは。