東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

梅棹忠夫,『日本語の将来』,日本放送協会出版,2004

2007-08-28 19:36:33 | 国家/民族/戦争
あらゆる文字改革はユートピア論になる。
ユートピア論になってもトンデモ論にはならないのは、さすが梅棹忠夫。
本書は、日本語うんぬんをこえた、世界をとらえる方法を論じた、別世界を夢見る書である。

書誌的事項
『日本語と文明』「梅棹忠夫著作集」第18巻,1992 のあとに発表された、日本語にかんする対談や提言、日本語ローマ字化にかんする小文をあつめたもの。
サブタイトル「ローマ字表記で国際化を」というのは、編集部がつけたものだあろうか?著者は「国際化」なんて下品なことばは使わないとおもうが。

まず、極端にいえば、著者の主張は、情報として整理できないもの、検索できないものは、この世に存在しないものにひとしい、というリアリスティックな思想である。

おお、まるで、グーグルみたい。
だからこそ、ローマ字がスタンダードになっているこの地球上で、日本語もローマ字にすべきである。というのが、著者の戦略的なローマ字論だ。

ローマ字論はひとまずおいといて、この、情報として整理できないものは価値がない、という、一見独裁者のようなかんがえは、わたしは一応、支持する。
整理できるように、検索と参照ができるような文章をつくる。そのために、アタマのほうを変えるべし。と、梅棹は書いてないが、文章をかえる、というのは、つまり、アタマを変えるということだ。

『知的生産の技術』というのは、実用書ではなく、ユートピア哲学の本だったのだ。

そこからこぼれおちるものもあるでしょう、というのが凡人の反論だろう。
しかし、著者の主張の根底にあるのは、そこからこぼれおちるものは意味がない、ということだ。
もし、はみだすもの、こぼれるものがあるとすれば、それは、知的生産ではなく、ほかの手段によって解決すべきものなり。

それでは、それを実現させるためのローマ字化は?

著者のもくろむのは、シナ文明の呪縛をとき、USAの支配からも自由になること、漢字からものがれ、英語の覇権からも自由なユートピアである。(おお、まるで、USAの存在しない世界で、シナ文明と日本列島をきりはなした『文明の生態史観』ではないか!!)
しかし、ほとんどの人は、そんな壮大な夢はみない。
なんとかつじつまをあわせ、そこそこの現状で満足するのだ。

梅棹忠夫の提言は、はっきりいって、永遠に実現されないだろう。そして、日本語の書記方法がかわらなければ、日本文明は21世紀に滅びるとまでいうのだが、そうだとすれば、たぶん日本文明は滅びるだろう。
それは著者の死後だから、まあ気にしないでください。

*****

以上、本書の大テーマからはずれるが、重要なトピックとして、漢字の制限・廃止について。

わたしのブログでたびたび書いているが、わたしはよめない漢字がおおい。
本書によれば、ほとんどの日本人がまちがって(かってに)よんでいるそうだ。
だから、わたしがまちがってよんでいるのも、日本人の平均的な文章読解力であるわけだ。

むずかしい漢字をつかいたがる人を著者は批判しているが、これはもう、歯止めがきかないだろう。
著者のような(わたしのような、とはいえないな……)かなり高度な読解力と文章制作能力のある人(著者は視力をうしなっているから、あった、と過去形にするべきか)ならば、漢字がよめないと正直にいえるが、大多数のひとは、漢字をよめないことに不安をいだいている。
だからこそ、それにつけこんだ詐欺まがいのテストが跳梁跋扈してるわけだ。
これは、劣等感の問題、低収入の問題で、日本語うんぬんで解決できることではないですね。

同様に、英語のようなカタカナことばの氾濫も、肉体的劣等感をもつものや経済的劣位にあるもののマジナイ、呪文であって、これも言語がどうのこうので、解決でいる問題ではないですね。

もっとも、わたしは日本語の将来なんてどうなってもいいと思っているから、漢字でもカタカナ語でも無頓着につかうことがおおいなあ。ははは。

矢野暢,「「山田長政」神話の虚妄」,1991

2007-08-24 17:10:00 | フィクション・ファンタジー
矢野暢(やの・とおる)編,『講座東南アジア学 10 東南アジアと日本』,弘文堂,1991.所収。

題名どおり、「山田長政」という架空の人物が造形される過程を論じたもの。
史料の問題は、あとにまとめて書く。

論考の重点は、明治時代の海外雄飛の夢、空想的な南進論の中から「山田長政」という人物の伝説が生まれ、それが大正・昭和時代の国策としての南進論のなかで、強化された、ということ。
最初は、静岡県の反中央政府運動、自由民権のシンボル創りからはじまったこと。
さらに後年、ファンタジーとしての「山田長政」小説や歌、伝記が数多く出版されること。

日本語史料は次の1点のみ。

京都・南禅寺金字院所蔵『異国日記』。
ここに山田仁左衛門長正という人物から、老中本多正純に届いた書簡の記録がある。シャムに、この名の人物がいて、鮫本と塩硝二百斤を進上する、という内容。
この記録のほかには、御朱印状台帳にも記載なし。

江戸時代の文献で、「山田長政」に言及したものは、
智原五郎八『暹羅国山田氏興亡記』、『暹羅国風土軍記』
記述は見てきたように詳細だが、伝聞のさらに聞き書き。なまえは「山田仁左衛門」である。

もうひとつ
天竺宗心『天竺徳兵衛物語』
「天竺に山田仁左衛門と申仁有之、シャム一国の王なり」という記載あり。
この山田仁左衛門という人物の記載はたったの6行。
しかも、作者96歳(!)の作(?)

近藤重蔵『外蕃通書』
智原五郎八の著作を「冗長ナリ」とする。新井白石と北島見信に準拠するが、結局、確実な史料としては、最初にあげた『異国日記』しかない、ということになる。

もうひとつ、こまったものが
平田篤胤『講本気吹颫(いぶきおろし、おお、IMEパッドにあった!)』,文化5年(1808)
「大日本魂の人の、外国に渡りたる時の、手本ともすべきこと」として「尾張人山田仁左衛門」を海外雄飛のモデルとしたもの。
この作品、もちろん完全にファンタジーだが、これが「山田長政」イメージの原型となる。
やれやれ、ここでも平田篤胤かい。この人を祀った神社がうちから歩いて10分ほどのところにあり、生誕碑もさらに5分ほどのところにあって、いわば郷土の偉人であるが、イナカ者の妄想一直線のような人物だなあ、ははは。

しかし、ここまでは「山田長正」という空想上の人物のおはなしである。(平田篤胤に罪はない、イナカ者のファンタジーとして大目に見てくれ)
それが、「山田長政」(以下めんどくさいのでカッコをはずす。)という実在の人物になるのが、明治時代である。

まず、静岡県で、郷土の英雄として、山田長政の碑を建立する計画がもちあがる。自由民権運動、反中央の運動のイメージ・キャラクターとして山田長政をもちあげたイベントだが、そこで小冊子、
関口隆正,『山田長政傳』,明治25年
が刊行される。
この山田長政=静岡出身の英雄というイメージつくりには、清水次郎長や新村出も関与していたようだし、京大教授・内田銀蔵も協力する。

(山田長政・静岡県出身という根拠についての長い長い注があるが、省略する。ウソっぽい肖像画や「日本義勇軍行列」という画像史料についての注もあり。)

さて、台北帝大系の学者も、山田長政イメージつくりに協力したのだが、同時に実証的研究もすすむ。
そのなかで、岩生成一がオランダ語文献から御朱印船時代の南洋日本町の研究が高名。
その『南洋日本町の研究』,1940.で、ファン・フリートの手記中の「オークヤーセーナーピムク」という日本の武将が山田長政らしい、という推測がのべられる。

ファン・フリートの手記の信憑性をおいておくにしても、この手記の中には、ヤマダナガマサという日本名はない。(他の日本人は日本名とタイの官職名が記載されているのに)
つまり、たまたま、日本名の記されていない謎の人物がいたから、山田長政と結びつけた、といってよい。

ちなみに、タイ語史料には、まったく現れない。(信用できない人は自分で研究してみよう!)

岩生成一の研究は、別に山田長政の研究ではなく、膨大な史料を渉猟したうえでの、東南アジア全体の日本人の活動の記録であるが、その中の、ほんの少々の記述が、山田長政伝説を補強する結果になる。

矢野暢は、岩生教授の史料分析が、少々不注意だと指摘している。

(また、1911年シャムに渡り、タイ宮内省の工芸技師としてはたらいた三木栄という人物が、岩生教授にオークヤーセーナーピムク=山田長政説を教えたという推測も述べられている。)

しかし、もう大正・昭和になると、山田長政の実在化には歯止めがきかない。
なんと、大正天皇即位大礼を記念して「山田長政」が従四位を追贈されたそうだ。つまり、死後、朝廷の臣下に任命された、ということ。もちろん、実在の人物としてだ。
そして、国定教科書に登場し、軍歌がつくられ、伝記が書かれる。

*****

本書の責任編集者であり、シリーズ全体の企画・編集代表の矢野暢は、京都大学東南アジア研究センター在籍時、スキャンダルを起して有罪、辞職(だったと思う、どうでもいい。)。
そのためか、この人の過去の著作は再版されないし、業績も忘れられようとしている。
しかし、この一編だけでもわかるように、重要なトピックを扱った研究者だ。
まあ、いろいろ問題発言もあったようだが、それと本業の業績は別だし、事件が有罪か無罪か冤罪か、というのも直接関係ないことでありましょう。

ただ、このトラブルのため、心労で土屋健治が体調を悪くしたのではないでしょうね?高谷好一などがセンターを離れたのは、この事件のせいでしょうか?

*****

ここまで書いてウェブをサーチしたら、山田長政伝説、非実在に関するページはたくさんあるんですね。
もっとも、実在を疑わないむじゃきなページやコメントもいっぱいありますが。

小泉文夫 その3

2007-08-20 08:55:42 | フィールド・ワーカーたちの物語
前項のような「未開」の地での調査も学術的に価値が高いが、やはり、われわれ普通のものに楽しめたのは、音楽文化が豊かな地域からの音であった。

南インド・北インド・ベンガル・ジャワ・バリ島・イラン・トルコ・ルーマニア・ブルガリア、といったユーラシア大陸の東西南北。
乾燥地帯の民族、南の海岸にそった民族、インドの各地、これらの地域の芸術家、専門家、あるいは観客や見物人に見せることを前提にした芸能が、やはり聴いていておもしろい。
これらは、もうCDやウェブでどんどん聴けるようになったので、ここでは省く。

そんななか、小泉文夫自身だったら楽しめたろうな、と思うのが「高砂族の歌」、台湾原住民の歌である。
キングレコード GXC-5002 『高砂族の歌』 として市販。
録音は1973年、CDや50枚組セットに収録されているのと、同じ録音だと思う。

10の部族すべてを収録だから、各部族の収録数も時間も少い。
しかし、解説を読めば、ひじょうに多様で、自由リズムの独唱から拍節的な独唱、拍節的合唱、自由リズムの合唱があり、合唱もユニゾンから平行オルガヌムやドローンを加えたもの、カノン形式などポリフォニー、あるいはハーモニーを持つものがある。

と、書いていくと、ちょっとちょっと、台湾の歌を、そんな西洋の基準でとらえるのか、と疑問・批判がわきそうだ。

しかし、この場合、これでいいのだ。

小泉文夫という人は西洋音楽の基準・美学の圏外にあるさまざまな音を紹介した人であるが、同時に西洋的な科学的論理的基礎もしっかりできていた人だと思う。
むこうの国の偉い人や官僚が嫌うような僻地にでかけ、原住民の村の長老に挨拶し、どっかと上座にすわり、(というようなイメージを平岡正明が書いていたっけ)無心で楽しめる人徳も持っていた。
わたしなんかは、この録音された歌をとても楽しめないが、小泉文夫自身はなんの違和感もなく楽しんだのではなかろうか。
それに、なにより、西洋西洋というが、ポリフォニーの伝統を維持したゲルマン民族も焼畑農耕民ですからね。

というような融通無碍な人が小泉文夫であった。
が、それがちょっと困る部分もあったな。

よい例が、この『高砂族の歌』というタイトルだ。
台湾のオーストロネシア語族の人々は、「山地民」「山胞」「先住民」という呼称を嫌っている(「熟蕃」だの「生蕃」という用語は論外!)。同様に「高砂族」という呼称も迷惑な呼び方である。
それを堂々とつかうのは、ちょっと無神経ではなかろうか。
客人に対して、礼をつくす人たちが、そんなこまかいことを気にしないにしても。

あるいは、たとえば、「ガムラン」というカタカナ書き。
小泉文夫自身が「ガメラン」のほうが現地の音に近いと知っていながら、語感が悪いといって「ガムラン」という表記を続けた(と、本人が書いている)。
そのため、「ガムラン」という表記が定着してしまったではないか。今打っているIMEスタンダードも「ガムラン」は一発でカタカナ変換になるのに、「ガメラン」はへんな文字に変換される時がある。
まったく困った人だ。

死後、評価が高まるとともに、限界も指摘された。
ポピュラー音楽に関心がなかった、という問題など重要だが、今はおいておく。
上記の困った点は、彼の人徳のうち、笑って許そう。

しかし、彼の晩年、といっても50代前半であるが、しだいにある種の壁ができていたようにおもえる。
以下、故人に対していささか礼を逸するが、書く。

マス・メディアを通じた小泉文夫の活動で、われわれは異郷の未知の文化に遭遇できたわけだが、一方で小泉文夫自身は、さまざまな会議・組織・イベントに参加し、猛烈に忙しくなった。
その中で、彼は、音やパフォーマンスばかりでなく、現地の気温や湿度を肌で感じながら音楽・芸能を観るイベントをつくりたいと言っていた(不正確な引用ですみません。ラジオの放送だったか。)。
しかし、これは、無理な方向ではなかろうか。
そして、わたしは、彼が病床に伏してからの苦しみ、手帳の予定に次々と横線が引かれていく、という苦しみを思う。
びっしりと予定が書きこまれた予定が、自分が関与しないまま過ぎていく苦しみ。

しかし、この点こそ、彼が病魔を招きよせた元凶ではないか。

彼が紹介したさまざまな驚異、華麗な響き、朗々とした歌声は、なにもすることがない、という退屈な日常から生まれたものではないのだろうか。
温度や湿度を同じにしても、共有できないものがある。

小泉文夫という人物は、貧富の差、世界中を移動できる者と一生うまれた地を離れられない者の差、膨大な教養を持った者と生活技術だけを持つ者の差、こんなさまざまな地球上の不均衡をのりこえて、いっしょに歌や踊りを楽しめる才をもった人物であった。

しかし、越えられないのは、時間の差、忙しくはたらく者と暇で暇でうんざりしている者の溝ではなかったろうか。

*****

小泉文夫が死去した1983年の12月、NHK-FM の「世界の民族音楽」で、追悼特集があった。
それをカセット・テープに録音したのをまだ持っている。
以上の内容は、この放送内容も参考にした。

他に、
岡田真紀,『世界を聴いた男・小泉文夫と民族音楽』,平凡社,1995
を参照。

小泉文夫 その2

2007-08-19 16:44:27 | フィールド・ワーカーたちの物語
<生前の学術書は『日本伝統音楽の研究 1』,音楽乃友社,1958 のみ。

これは、日本音楽の音階を4種のテトラコルドに分けたもの。
わたし自身は他人に説明不能なので、ウェブで調べてくれ。

最初の「基音」ということろで、どうやって基音を定めるのかよくわからず、結論を読んだくらいだが、ともかくもう、修正の余地のない決定的な音階分析。
沖縄音階を日本音楽の構造の中にしっかりと収め、「ヨナ抜き音階」「都ぶし」などと称されていた音階の構造を解き明かし、雅楽の音階も含めて、「4種のテトラコルド」として捉えたもの、という具合でいいかな。

実際に執筆・発表(N響の機関紙に発表)し、修士論文にしたのが29歳ころ。
普通なら、これだけで一生食っていける?
その後すぐにインド政府給費留学生として南インドのマドラスと北インドのラクナウで学ぶ。

その後、籍のあった平凡社を退社し、東京芸大へ。
ここから、一連の海外調査と日本国内のフィールド調査がはじまる。

国際会議出席のついでの録音だったり、学生を指揮した演習としての国内調査で、まとまった著作として発表されていないが、この時期のエッセイとラジオ放送がわれわれ一般人にとどいたのが、1960年後半から1970年代だろう。

一例をあげると、わらべうた。

これは、いわゆる形骸化したわらべうたではなく、自然発生の遊び歌、替え歌、言葉遊び歌を調査したもの。
わらべうたは、「素朴な農村」にではなく、むしろ大都市の過密なところで多様である。という衝撃的事実を発表する。
もっとも、昔はよかった風のムード的日本情緒をたれながす人には、彼の論旨は届かなかったようだ。
そればかりでなく、彼が学校教育に提言したものは、ほとんど相手にされなかった。
これにはがっくりしたようで、以後、活動の方向は、マスメディアと学術団体、企業協賛のイベントへむかう。

もうひとつ例をあげると「エスキモーの歌」

学術的成果も調査方法も衝撃的。

生業・環境・制度の異なる、クジラ漁のエスキモーとカリブー狩のエスキモーと比較したもの。
ここで、世界の多様な民族には、どこにもすばらしい音楽伝統があるわけでは、ない!という苦い事実がしめされる。
もちろん西洋音楽を基準にした比較ではない。
そうではなく、歌、とか音楽という文化がひじょうに薄い、というか、文化全体の中にしめる位置がほとんどない民族もいる、ということだ。

そして自前の歌や音楽の伝統がないカリブー狩エスキモーのこどもたちが、学校の音楽授業を受けるようすが録音されている。
これが、すごい。
今だったら(学校側から圧力や苦情がきて)とても発表できないんでは?
当時はソニーのテープレコーダーをかついだヘンな日本人がやってきた、ぐらいにしか思われなかったのだろう。(たしか、零下何十度の厳寒で、二、三百メートルの距離で遭難しそうになった、というのがこの時の調査だったと思う。)

教室の先生がけんめいに生徒に歌わせようとするが、こどもたちは先生の弾くピアノの音階をまったく受けつけない。
何度やっても歌になっていかない。
とうとう教師があきれて「やれやれ……」と言うような嘆きが録音されている。
こどもたちの戸惑い、「先生はなぜ怒っているんだろう?」という表情が目に浮かぶ。

日常の楽しみでもなく、祭りや儀礼でもなく、プロの芸術家でもなく、公共教育の教室の中で、人類にとって音楽とは、という問題の一端があらわれた録音である。(同時に政府による教育の一面も暴露されている。)

小泉文夫 その1

2007-08-19 16:20:13 | フィールド・ワーカーたちの物語
1983年8月20日、56歳で死去。もう24年前だ。

著作その他いっさい手元にないので、小泉文夫記念資料室
www.geidai.ac.jp/labs/koizumi/
を参考に、あとはすべて記憶で書く。

青土社からエッセイ集はたしか全冊ほぼ刊行時に読んでいたとおもう。
その他学術書にも目をとおし(読んだと断言できないのがツライ)、対談や軽い啓蒙書も読んでいた。
フィールド録音から起したLPレコードも20枚持っていたはずだ。

小泉文夫のインパクトは、現在からみると、ファンや関係者以外から見ると、過大評価されているようにみえるかもしれない。
しかし、すごかった。

わたし自身はFM放送の『世界の民族音楽』の忠実なファンではなく、時々きいていたにすぎないが、(日曜の早朝だったっけ。放送時間に関しては、ウェブで調べよ。)それでも、あの話しぶり(江戸弁まじりの講談調)、うらやましくなるフットワークの軽さ、信じられないようなヘンテコな体験、新鮮で楽しかった。

なんといっても、異国で録音した奇妙な音のざわめきが衝撃的。
当時は実際の海外旅行が困難なことはもちろん、写真もモノクロのぼけた印刷、文章による秘境の紹介は、うすっぺらなものか、その反対に学術的なものばかりで、ほんとに衝撃的なものは届いてこなかった。(もちろん、一般人からみてですが。)

食物や建築など、その場に行かなければ体験できないことはもちろん、映画も音楽も一部のヨーロッパ圏からしか届かない。翻訳文学もほとんどなし。
硬い学術書か統計資料しかない世界が世界地図の真ん中にあった。

そこに、録音とはいえナマの異世界を持ってきた男、電波にのせて日本全国のFMラジオの前の少年少女に開陳した男、それが小泉文夫だった。
そのナマの音とは、ドジンがタイコをドンドンといった偏見を助長するものではなく、「ああ、人類というのは、こんなヘンテコなことをやりだすものか」という驚き、「人間にこんなことが可能なのか」という肉体の限界を超えたような技巧、そんなダイレクトな「海外」や「異国」だった。

(死後、まわりの人々の回想や思い出から知ったことだが)少年時代から乗馬、水泳、ヴァイオリンに親しみ、女性にかわいがられ、百科事典の編集にたずさわり、学生結婚をして、30歳でインド留学、31歳で空前絶後の『日本伝統音楽の研究1』を発行、あるゆる言語を現場で習得し、テープレコーダーを持って世界をかけめぐった男。

かっこいい!
前項でとりあげた三島なんかがウジウジなやんでいたことを軽くクリアして、日本文化の精髄を、科学的にあきらかにするとともに、世界に開かれていることを示した男。

三島由紀夫,『天人五衰』,新潮社,1971

2007-08-17 14:27:32 | フィクション・ファンタジー
文庫は新潮文庫,1977.改版2002で読む。

『暁の寺』が破綻した小説なので、読むのが億劫だったが、これは、『春の雪』の裏バージョンいや反『春の雪』とでもいうべき作品だった。

以下、断片的なコメント。

『春の雪』の紹介の中で、風景描写を「ガイジンがオー・ビューティフルと喜ぶような」と軽薄に書いたが、われながら重要な指摘だったと思う。えっへん。

三島由紀夫という人は、終生、肉体美の欠如、運動能力の欠如を自覚し、それを公言し、自嘲的に、パロディ的にボディ・ビルや剣道にはげみ、世間に半分自嘲的に自らの肉体を曝していた人物だ。

しかし、この四部作『豊穣の海』を読んでいる中で、しょっちゅうわたしが感じたのは、皮膚感覚、味覚の欠如だ。
たしかに、若い透の肉体に弾けるシャワーの冷水や、ジンジャンが片方の靴を脱いでふくらはぎを掻く描写があるが(これは見事!同じように、タイ女性が人前で優雅に靴を脱ぐ、というシーンは梅棹忠夫もチェックしてるんだよ)、主人公・本多の肉体についての描写は、不如意な身体をもてあます老いた姿ばかりだ。

執拗な風景描写は、皮膚感覚の欠如を隠すための方策のように思えてくる。

食物や飲食の描写はさらに貧弱で、『春の雪』など松枝家の晩餐のメニューだけなんですよ(気づいた?)。
若い肉体ががつがつ食い物を貪る景色など、作者三島由紀夫が忌み嫌った光景であろう。血気さかんな若者たちを描いた『奔馬』の中でも、実際の飲食シーンの描写はほとんどないしね。

第3部・第4部で本多が自覚しているように、世界と自己意識の間の膜、壁のようなものを終生感じていたのが、三島由紀夫であろう。

しかし、どーんと飛躍するが、これは、植民地状態におかれた原住民が持つ、肉体感の欠如、身体に対する自信の欠如ではないのか?
全四部作はすべて上流階級の優雅でしゃちこばった生活の中で進行するが、この無理に繕った西洋風の身体感覚が三島由紀夫の悲劇であったような気がする。
このテーマは『フランケンシュタイン』に通底する問題であり、近代的自我と身体感覚の問題、風景を見る視線の誕生という『カルティニの風景』に関連する問題だから、もし忘れずにいたら、後に考察するかもしれない。

わたしは、若い頃、こんな上流階級の生活が実際に存在するのか、という畏れとおののきを感じていたが、現在では、そんなもんはうそっぱちで、せいぜい単なる職業上のスキルである、というのがわかる。

第4部『天人五衰』になると、時代が現代になってよくわかるのだが、(なんせ中心人物・透は、わたしと同じ学年だ!)老いさらばえた主人公・本多の感じる違和感、不満は、たんに時代が変わったのに生きながらえている老人のたわごとですよ。
女中の言葉使いにいらつく本多が描かれるが、そんなもん、明治大正の時代から綿々と続いてきた言語の変化であって、こんなことに腹を立てる人物を描写するなんて、大作家・三島由紀夫らしくもない。

*****

さて、『天人五衰』の中で、もっとも重要な人物、「醜い狂女」と規定される絹江である。
この、無条件に醜いとされる女、『春の雪』の聡子の反・バージョンではないか。
反・聡子である絹江は、反・清顕である透と結ばれるのだが、『春の雪』こそ、この醜い女と矮小な男の結びつきであったかもしれない。
本多の記憶の中の聡子と清顕の恋は、絶世の美女と美少年の恋物語であったが、『天人五衰』の透・絹江の恋物語も、打算も越え、世間体も超えた恋ではないか。

しかし、三島由紀夫はこの第4部の恋物語を「醜い狂女」と「卑俗な小悪党」の恋として描かざるをえない。
美少年・美少女の恋は、幻想の明治の君主制のもとでしか成立しないのか。

作者・三島由紀夫が『暁の寺』の中でばっさりと省いたあの戦争は、こんな男女の仲を実現させるためだった。そのことを三島由紀夫は知っていたんでしょ?
だらしなく女のような格好をした若い男たち(けっ、よけいなおせわだぜ!)や太い足の若い女たち(わるかったわね!)、そんな現代日本のワカモノでは幻想を紡ぎ出せないので、「タイの王女さま」という虚構を導入したんでしょうが……

*****

全四部かなりおもしろく読めたが、これで三島由紀夫に開眼、という方向にはいきそうもない。
おそらく今後この作家の作品を読む機会はないだろう。
今まで避けていたのも正解だった、若いときは読めなかっただろう。
こんな自分のことばかり書いている作品・書物はうんざりするのだ。

おそらく、このわたしのブログでとりあげている本の著者たちも、三島由紀夫などという人物が日本を代表する作家として持上げられるのに、ひじょうな不満を持っている、持っていたのではないだろうか。(みなさん、そんな了見の狭いことを口に出したりしないけれど。)
わたしが理解・共感できる澁澤龍彦や中井英夫がこの三島由紀夫と生涯親しくしていた、というのがふしぎである。

三島由紀夫,『暁の寺』,新潮社,1970

2007-08-15 13:40:33 | フィクション・ファンタジー
文庫は新潮文庫、1977.改版2002で読む。

なんじゃこれは!
小説としてめちゃくちゃではないか。
前半のタイとインドへの旅、輪廻転生をめぐる思索というより妄想。
後半の戦後風俗、主人公(といっていいですね)本多の精神的変化。
これがぜんぜんつながっていないのではないですか。

タイ・インドの描写は、作者の体験がナマで出すぎている。
今こんな描写をしたら、噴飯物だろう。
一方、戦後の本多をめぐる人物たちは俗物ばかりで、このような人物を配置しないと、そして本多を億万長者に設定しないと、物語は進行できないのですか。
第1部の重要人物・蓼科、1部2部通じての重要な人物・飯沼の落ちぶれた姿がほんの少し登場するが、こんなことをいちいち物語中に組み込む必要があるのか。

本多のジンジャンに対する思いも、老いの妄執、と一言で片付けられるようなもので、この主人公・本多の年齢・体力の衰えを実感できるわたしにでさえ、まったく感情移入できない。
感情移入など必要ない小説ならそれでいいのだが、そんな話ではないでしょ。
『春の雪』『奔馬』の人工的設定は効果的だったが、この第3部『暁の寺』になると、リアリティのなさが欠点になって、文学作品として楽しめない。

*****

以下、内容に関する重要なネタバレがあるので、未読の方は注意

*****

内容を論じるといっても、別に深い感想はない。
ウェブで検索したら、登場人物の俗物文士のモデルが澁澤龍彦だという情報があったがホントですかね。わたしは、てっきり沼正三だと思って読んでいたのだが。
まあどうでもいい。こんなどうでもいいことにこだわりたくなるような設定。

あと、現在の若い読者に理解できないでしょうが、同性愛にひじょうな禁忌があって、同性愛者は異性愛を持たないという迷信がはびこっていたのだ。
この俗信をわかっていないと、本多の妻・梨枝が隣室の光景をみて安心した根拠がわからないでしょ。

そして、最後にジンジャンに双子の姉がいた、という事実が、その姉の口から伝えられる。
まだ第4部を読んでいないので、このことが(現世的な意味で)事実なのかどうか不明。
シャム双生児のミステリか?

しかし!南方から来た双子の美少女といったら、こりゃモスラだ!
先日(8月1日)レビューした『モスラの精神史』でも触れてないな。

『暁の寺』がタイを舞台にした小説だとうわさに聞いていたから読んでみたわけだが、ほとんどタイの情景はないではないか。
日本軍コタバル上陸直前に主人公本多は日本に帰り、のんきにインド思想だの輪廻転生の本ばかり読んでいたわけだが、それでいいのか。ジンジャンの住む薔薇宮(ちなみに、このふりがなのない固有名詞はなんとよめばいいのだ?)が爆撃されているかもしれないぞ。

三島由紀夫,『奔馬』,新潮社,1969

2007-08-13 10:06:56 | フィクション・ファンタジー
文庫は新潮文庫,1977。改版2002で読む。

こんな小説とは予想もせず。

もっと緻密で観念的な、読むのに難儀する小説と思っていたが、卑近な俗物の登場人物たちの日常的な話だった。
その中でただひとり、非現実の世界を夢見る中心人物・勲(いさお)、であるが、彼の言うこと、生活、行動は、まわりの人間と同じような俗っぽい、現代の(物語の時代の)思潮や流行に支配された、若いもんの妄想にすぎないと思うんだが。

劇中の架空の書物(というより薄いパンフレットのようなもの)「神風連史話」であるが、これが、ちょっとおかしい。
というのは、文体が作者・三島由紀夫の文体と、ほとんど区別できないのだ。
読む人が読めば、三島由紀夫の文体と、「神風連史話」の文体の違いがわかるのだろうか。
架空の著者・山尾綱紀が、三島由紀夫のような文章を書けるという設定にムリがある。この点が、わたしがおかしいと感じる点だ。
(ただ、ひょっとして、「神風連史話」には、普通の読者には気づかない、文章の誤りや文字の間違いがちりばめてあるんだろうか?判断不能)

「神風連史話」の内容は、筒井康隆が書きそうなドタバタ劇である。それを、まじめくさった三島由紀夫風文章で描いている。作者・三島由紀夫は、この書「神風連史話」を読む読者(小説全体の読者)に、「あっはっは、ばっかみたい!」と思わせる効果をねらっていたんだろうか。
この点に関しても、わたしは判断不能だ。
読む人が読めば、あきらかな爆笑スラップスティックに読みとれるのかもしれない。

中心人物・勲は、このドタバタ喜劇を本気にしてしまう男である。
やれやれ、おやじとおふくろの住む家でパラサイト童貞の生活をしていて、妄想にカブレるなんてのは、現代のワカモンにそっくりだなあ、あはは。(と、他人事のように、書いているが、わたしも同じようなもんだった……とほほ)

小説の構造として、第1部『春の雪』が没落貴族と老側女の掌の上であがく男女を描いたのと平行するように、第2部では、世知たけた大人にかこまれてドタバタを演じる少年(といっても20歳だ)を描いたと、捉えてよいだろう。
ただ、この第2部、第1部の緊張感がなく、ずるずると破滅する若者を描いているだけと、読みとれるのだが。それが作者・三島のねらいなのか??
もっとも第1部も、深く読めば、たんなる若気のいたり、汚濁した現世にもがく人間の有様ということになるのか?

三島由紀夫,『春の雪』,新潮社,1969

2007-08-13 09:59:12 | フィクション・ファンタジー
三島由紀夫,『春の雪』,新潮社,1969

文庫は新潮文庫1977、改版2002。

1969年か。
三島由紀夫という作家は、強烈なファンが存在する一方、それ以外の者には、ああ、有名な作品をいっぱい書いた人ね、で、すまされる人物である。
かくいうわたしは、『金閣寺』以外読んだことなし。

巻頭から結語まで、ぎっしりと技巧をこらした文章が続き、まるで塚本邦雄(あ、失礼、新字体ですます。ちなみに、この文庫も新字新カナで、ふりがながいっぱいあってようやくよめる。)みたいだ。
この、登場人物の心理の襞を執拗に書きこむ文体、流麗な自然描写(ガイジンがオー、ビューティフルと喜ぶような描写)をうるさいなあ、と感じたら、もう読めないな。

そんな文体を、作者とファンに失礼だが、気軽に無視してよみすすむ。
さすが、と今さら言うのもはばかられるが、たいしたストーリーもなく、人物の行動も予想がつく小説なのに、読みすすめられる筆力がすごい。

中心人物、松枝清顕(まつがえ・きよあき)と本多繁邦(ほんだ・しげくに)、松枝侯爵家・綾倉伯爵家のひとびと以外にタイ王国の王子ふたりに留学生が登場する。
このタイの王子様ふたりは、第二巻以降の伏線かもしれないが、この第一巻の中だけでみると、仏法を無邪気に崇拝し、故国に残した「月光姫」を無条件に愛する異国の若者として描かれる。
それに対し、主人公・清顕は、技巧をこらして、綾倉聡子という幼なじみの女性を自分の幻想の中で恋愛関係をつくろうとする人物である。(ああ、こんな大雑把な要約をして、怒らないでください。)

以下、ストーリーをばらすので、未読の方は注意。
といっても、これほどの名作であるから、読む人はもう読んでるでしょうね。

綾倉家の老女・蓼科と綾倉伯爵が過去に交わした密約、というより、閨の密話が明かされる。(文庫本p374 の前後)
その中で、聡子は、婚姻前に処女を失うように創造された乙女で、相手の男に、その非処女性をきづかれないように育てられることになる。(こういう、要約のしかたも、不愉快に思われるかたがおられようが、まあ、我慢してくれ、わたしの語彙が貧困なのだ。)
これらはすべて、新興階層の松枝侯爵に対するあてつけ、聡子の婚姻に口を出すと予想された松枝侯爵の傍若無人さに対する旧貴族の、復讐である。
うーむ。処女性にこだわるという、奔放な貴族らしからぬ、けつの穴の小さい陰謀だが、まあ、その点は目をつぶろう。

ということはだ、主人公・清顕は、落ちぶれた貴族と老女のつくりだした、人工処女に、恋をしてしまうのである。
陰謀をたくらんだ伯爵もまさか宮家への出嫁が決まるとは想像できず、また、側女の老女・蓼科も、聡子がほんとうに恋に狂うとは思わなかったであろう。

過去の暗い陰謀が、自分の娘、あるいは蓼科にとってはお屋敷の姫に、罠となって襲いかかるのである。
しかし、若いふたりにとって、それは真実の熱情であり、恋である。

と、ここから少々飛躍するが、そうするとですね、清顕の幼いころの思い出(といっても13歳になった男ですが、設定にムリがあるような……)、宮中の新年賀会で春日宮のお裾持をつとめた時、清顕にさしむけられた(ように感じた)微笑、この記憶に残る、后様も、同様に、創造された、人工のもの、明治の時代、清顕の祖父たちが創りあげた幻想ではないでしょうか。

ということは、物語中の現在の若者たち、清顕や聡子も、陰謀に加担する(物語の想像に加わる)つもりならば、トラブルをなんの支障もなく乗り越えられたはずである。(それから、作者がほのめかしているが、清顕が綾倉家で育てられた幼年時代、すでに清顕と聡子に肉体関係はなかったんでしょうか?)

物語としての悲劇は、ふたりが、創造された虚構ではなく、真実(のようなもの)を求めはじめてしまい、虚構のレールを外れたことに始まる。
と、書いてくると、タイ王国の王子たちは、いかにもナイーヴで、「熱帯の無邪気さ」として扱われているのが、どうもひっかかりますね。
タイ王国も大日本帝国も同じように、19世紀に創造されたもんでしょ。

と、まあ、先走った感想です。全四部を読まなきゃわからないのかもしれない。

白石隆,『海の帝国』,中公新書,2000

2007-08-03 11:04:39 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
東南アジア・東アジアの政治・外交を200年の単位で論じたもの。
ブリティッシュ・ヘゲモニー、つまり大英帝国のアジア全域支配の完成した時代から、20世紀末までを視野にいれる。

というと、もう山ほどある歴史関係著作の中に埋もれるような退屈な本のように思われるだろうが、違う。

まず、この期間の歴史をまとめた本というのは、ひじょうに少ない。
とくに日本人の著者による、短くまとまった本がない。

理由は、まず、著者が指摘するように、歴史学者はもっと長い時間スケールでものを考えるということ、政治学者や経済学者は、もっと短い20世紀後半に焦点をあてるためである。
また、ブリティッシュ・ヘモゲニーの時代は、ヨーロッパ史の一環として、あるいは中華文明の危機、日本の明治維新、といった方面に目がいき、東南アジアはその他支配された国としてひとまとめに捉えられがちであるためだ。

さらにおおきな理由、この時代を扱った本が少ないのは、東南アジア史を支配と抵抗の歴史とみる従来の史観から自由になろうという、歴史学界の傾向がある。
また、独立・内乱・独裁・経済成長などを論じるものは、どうしても一国の政治・外交を中心にしてしまう。

あるいは、著者が在籍したコーネル大学の重鎮ベネディクト・アンダーソンのように、「国家なんてもんは幻想である。」といった大上段の見方をして、個別の事情を無視してしまう史観もある。
東西冷戦の終結で、旧ソ連・イスラームの問題が世界の焦点になると、東南アジア研究なんかに誰も資金を援助しなくなり、アメリカ合衆国内の東南アジア研究は、予算的にも方法論的にも打撃を受けた。と、著者が回想している。

こういう時代に、著者は、東南アジアの国家形成、外交、アメリカ合衆国の覇権を軸に21世紀の東南アジアを捉える視点を模索する。

*****

ラッフルズの登場から、ブギス人と華人の関係、オランダ東インド会社の変貌、複合社会の形成、植民地世界の形成など、ひじょうにわかりやすく説かれている。

さらに、20世紀後半の国民国家の建設も各国の困難な事情を、簡潔に論じる。

そして、日本の立場として……
著者は冷静というか、客観的というか、次のようにはっきり規定している。
日本はアメリカ合衆国のジュニア・パートナー、アジアの兵站基地、アメリカの覇権の下のナンバー・2である。
アメリカの覇権から独立し、新秩序を作るなどということは、およそ現実的ではない。

アメリカの覇権に異議を唱えることができる国家は中華人民共和国だけである。

最終章の今後の展望は、現在の秩序を安定させること、インドネシアなど問題の多い国家を市場経済・民主主義の枠の中に落ち着かせること。
あるいは、(本書での記述は少ないが)ベトナムやミャンマーを暴走させずに市場経済圏に落ち着かせること。
以上のような平凡で現実的な選択である。(平凡で現実的なことが、必ずしも実現しやすい、とは限らないが。)

というわけで、ASEANなどの国境をこえた合意組織、多国籍企業の覇権があるとはいえ、現在の世界は、個別の国家の存在なしにはすすまない。当分、現在のような、アメリカ合衆国の覇権の下で、東アジア・東南アジアの各国が、安定して経済成長するように考えるしかない。

というような、夢も希望もない(?)結論。

このようにまとめると、ひじょうに退屈な本である印象を与えるが、結論部分を無視すれば、200年の東南アジア世界の構造を知る、抜群におもしろく、読みやすい一冊。

なにより、「まんだら」「朝貢貿易システム」「複合社会」「文明化」「華人」「マレー人」「リヴァイアサン」「国民国家」といった、近代東南アジア史を理解するのに必要なテーマの説明がわかりやすい。
著者は鶴見良行『マラッカ物語』に批判的。ベネディクト・アンダーソンの考えを了承したうえで批判的。濱下武志(朝貢システム、東アジア交易)・原洋之介(東南アジア経済)・末廣昭(工業化・日本との関係)・坪内良博(人口論)・立元成文(マレー世界・ブギス人)・土屋健治(文明化)などなどを参照・引用している。
上記の著者たちが詳しく説明してくれない基本を知るためにも最適。

8月1日にアップした『モスラの精神史』を考察するためにも、すぐ読めるのでおすすめ。