東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

田(高田)洋子,『メコンデルタ フランス植民地時代の記憶』,新宿書房,2009

2009-06-28 20:30:02 | フィールド・ワーカーたちの物語
ありそうでなかったメコンデルタ開発史。農村の聞き取り調査。

メコンデルタもひじょうに誤解されやすい地域である。
鮮やかな果物と野菜の山、豊富な鮮魚、ベトナム全土の米の30%を産出するという統計数字、緑の稲田と青い空白い雲……日本人のイメージする豊かな農村にぴったりの風景だ。

事実豊かな地域であるのだが、ここメコンデルタ西部=ミエンタイ、ティエンザン(ティエン川)より南西部の開拓が始まるのは19世紀にはいってから、本格的な開発は19世紀後半である。
それ以前は人口希薄で農耕を拒む地であった。農耕ができないどころか、雨季は人が住む地面もない、乾季は飲み水もない、という自然条件が支配する。
現在でも、排水ができない〈閉ざされた氾濫原〉~チャウドックあたりからホーチミンまで広がる地域、ウーミンの森といわれる酸性土壌の低湿地など、農業不適地がある。

植生を無視した地図でみると、この広いデルタ全体に水田が広がっているように誤解してしまうが、ティエンザン(ティエン川)とバサック川(ハウザン)の自然堤防と後背湿地が主な農地である。
大規模開拓時代以前の小規模移住も、この自然堤防・後背湿地と、海岸部の微高地であった。

また、二期作・三期作がひろく行われていると紹介されることが多いが、二期作が可能になったのは、1975年以後、一般的には1980年代である。
それ以前は、二回移植作つまり苗床を二段階に作り二度田植えをする方式、雨季のみの浮稲作、感潮河川水(塩水)の流入を防いで雨水のみで育てる方式、などなど年一回の作付けのみ可能であった。

それ以前に、わたしの基礎知識がないせいか、どうにもわからないことがある。
以前の大地主が無くなったのはいつのことなのか?
抗仏戦争の間、カントーやヴィンロンその他の町に避難していたと語る農民が多いが、その間どうやって食っていたのか、どこから食糧が来たのか、よくわからない

というわけで、本書の著者・高田洋子を中心に編集された

『東南アジア研究』 第39巻1号 
(特集)20世紀メコン・デルタの開拓
www.cseas.kyoto-u.ac.jp/seas/39/1/index.htm

ウェブ上でpdfファイルで読めるのを見てみる。
こちらのほうが、学術論文であるのに、基本的なことがわかる。

なお、1975年の調査に基づく論文も
『東南アジア研究』第13巻1、2、3、あたりに掲載されている。

フランス人大地主が稲作プランテーションから締め出されたのは、ゴ・ディン・ジェム政権の1956年法令から。
フランス人地主に賠償金を支払って稲作から撤退させ、北部からの難民を入植させた。(なお、ゴム栽培大会社は、この後も1975年まで存続する。)

調査地となったトイライ村は、フランス時代から続く米作中心地であったために、その後もべトミン解放軍と南ベトナム政府軍の両方が支配(=税金を徴収する)を争う地になったわけである。

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本書の内容にもどる。

この地域をフランス人大地主が開拓し、ベトナム人農民が入植し、現在見られる景観が作られていった歴史を、農民のインタビューを通じて描く。

調査地は、
第一章
旧カントー省オーモン県トイライ村
 氾濫原に開拓された運河沿いの14集落からなる。現在二期作・三期作が可能で全国有数の穀倉地。

第二章
チャヴィン省チャヴィン市ホアトゥアン村
 海岸平野の砂丘と低地。

写真も豊富で、インタビューに応じてくれた農民のスナップもすべて掲載されている。

中央政府の許可をとり、省→県→村の人民委員会に挨拶し、すべての許可をクリアし、やっと集落(アップ)のレベルまで辿りつくという調査であるので、なにかと障害も多い。著者らがインタビューしている間、公安員が別の部屋で記録をとっている。
であるから、解放後の政策に関する批判はご法度だろう。民族的な対立も触れてはならない話題のようだ。

著者たちの調査の目的は農業。
つまり、実際の農作業のやりかた、収穫量、土地の所有関係、地代や小作料、父母・祖父母の時代の移住や結婚、現在の暮らし向きを知りたい。

しかし、役所や公安はそれ以外のことにも首をつっこむだろうと用心する。
それもそのはず、著者たちが選んだ調査地チャヴィン市は、カンボジアの首相もつとめたソン・ゴック・タン(『ナガラ・ワット』誌の創刊者、日本に亡命したのち、1945年からの短期の独立政権首相)の生家があり、近くにはポル・ポト派として有名になるイエン・サリの生家もあった。キュー・サン・パンもこのへんの生まれらしい。

つまり、海岸の微高地はクメール人の暮らす地であり、運河造成や農業開発は進んでいなかった。
しかし、なぜかクメール人の大土地所有制が進行した。その後、キン族の入植がすすみ、現在はキン族のほうが人口が多い。この過程で、この地のクメール人が現在のカンボジア方面へ移住するという動きもあった。

なお、インタビューに応じた老人の中には、ベトナム語が話せないクメール人も多い。読み書きは、男性はベトナム語かクメール語どちらかができる者が多いが、女性ではまったく読み書きを習わなかった者もいる。
まったく使用しないフランス語を習った人も多い。(フランス人を実際に見たことがない人も多い。)

一方、19世紀から20世紀に運河が開発された氾濫原は、フランス人大地主の所有する土地をベトナム人(キン族)が耕作し、クメール人農民は少ない。1950年代に大地主制が廃止され、自営農民や新たな入植者が到来した。

両方の調査地とも、伝統的な共同体、まとまった村とか集落とはいえないようだ。
インタビューされた人々は、宗教に関しては気軽に答えているようだが、ベトナム風仏教(祖先供養を重んじる)とクメール人上座仏教が同じ村の中にあった。
ホアハオ教がデルタで勢力をもったのも、1930年代恐慌時の農村疲弊を背景とするが、そのホアハオ教やカオダイ教の寺院もある。
カトリック教会もある。(カトリック教会は、元地主でもあり、開拓民を導入することもあった。)
しかし、集落全体の祭や儀礼はない。かっちりとまとまった農村ではなく、開拓地にやってきた余所者の集合なのだ。

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いろいろゴチャゴチャ書いたが、不正確にまとめると、

メコンデルタ河岸段丘~氾濫原は19世紀後半からフランス人大地主のプランテーションとして開拓された。

華人は籾米流通を支配する。クメール人ベトナム人との通婚もあり。
インド人チェディ(金貸し)が土地所有に食い込むこともあった。
クメール人は農業労働者ではなく、19世紀以前から先住し、プランテーションでは自警団として雇用されるなど、キン族農民とは別の身分。

運河は当初は灌漑用としてではなく、流通つまり舟による運送と、治水機能のため。
1975年以降、新運河の掘削によって耕地と灌漑田の拡大が図られる。
多収穫品種の導入で、二期作・三期作も可能になる。

抗仏戦争の時代、政府軍対べトミンの時代、ふたつの勢力が衝突する地になった。
結果として、独立軍に加わる者、フランス軍に従軍する者、べトミンに協力する者、南ベトナム政府軍兵士になる者など、その後の運命を変える結果になる。
クメール人で、ベトナム軍兵士として対カンボジア戦に従軍した者もいる。

土地所有、農地改革に関しても、自分の土地を奪われた者、小作地を所有できた者、所有があいまいなままだった者など、いろいろ公言できない不満や屈託があるようだ。

現在、稲作不適地は果樹栽培、野菜栽培、養魚などに活用されている。

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ちなみに、マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』で有名であるが、映画のロケに使われた昔の邸(ユェン家御殿)も残っていて、本書でも紹介されている。
開拓時代の大地主というのは一国の領主のような存在であったらしい。


2 コメント

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感謝 (ひよこ)
2009-09-10 05:23:50
本名でなくて、すみません。
詳しい内容の紹介、関連する本の紹介、ありがとうございました。

昨年末、ハノイとフエに旅行。
今年は、ホーチミン(サイゴンの方がなじみがある)に行く予定。
デュラスの本、『戦争の悲しみ』『ホーチミンルート従軍記』などは、既読。
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コメントありがとうございます (y-akita-japan)
2009-09-13 21:55:18
ホーチミンに行かれる予定ですか。お仕事ではなく、バカンスなら、うらやましい!
『ホーチミンルート従軍記』は読みたいと思っています。日記体の文で、かなりページ数も多そうですが。
なお、コメントには、当然ながら、本名は要りません。
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