前項の小田実の著作にもあるように、1960年代のUSAでは政府やナントカ財団が補助金をだして、やっきになって東南アジア・東アジアの研究者を育成していた。当然ながら、ひも付き研究に縛られ、糞論文を量産しているだけの研究者もいたわけだ。
同じく小田実の本にある例。普通の人間が教師としてふるまい、生徒の能率をあげさせる、という実験をイェール大学でやった。実は人間が(戦場で大義名分があれば)どれだけ残酷になれるかという実験なのだが、そんな心理学の実験に援助金がでていたわけである。
一方で、小田実の友人のような反体制派の学者も、ワイフがパートで稼いでる間に亭主が博士論文制作をして、MDだのPh.Dを得るというパターンがあったそうだ。電話帳のような本をひたすら大量に読んで、論文をでかすのである。
政府や軍部やナントカ財団の欲しい結果というのは、ぶっちゃけて言えば次のようなことである。
あの残忍で不合理な日本人でさえ、われわれが教えてやった民主主義を覚えて、立派に経済成長をなしとげているではないか。
それなのに、ベトナム人はなぜ、あのような無駄な抵抗をするのだ。やつらは、どういう背景があって、あのように無意味で不合理な戦争を続けるのだ?
あるいは、インドネシア人は、なぜああも、非能率で非合理な社会を持つにいたったのか。どうすれば、あんな迷信じみた遅れた社会を改良できるのだ。
誰か教えてくれよ。若いやつらを研究者に育てあげろ。
マニュアルどおり調査すれば、結果がどんどん生まれる体制を作れ。
というわけで、哲学と文学をいなかの大学で学んだクリフォード・ギアツも、マーガレット・ミードにほとんど命令されて人類学の道にすすんだそうだ。
しかし、ギアツという人物は、ミードやベイトソンのようなアメリカ人類学界の主流にはならなかった。そして、東南アジア研究の分野でも主流からはずれていた。
第2章に本人が書いているところによれば、アメリカではコーネル大学だけが突出していて、ほかのミシガン大学やウィスコンシン大学には、対抗できるプログラムがない状況であるそうだ。
*****
難解なことで有名なクリフォード・ギアツであるそうだが、本書は、編訳者・小泉潤二の解説にも助けられ、原文が講演記録であるということもあり、まあ、理解できないこともない。
少なくとも、農業インボリューションをめぐる論争に関してはわかった。
ギアツは自分の論文はの批判にはほとんど応えない人であるそうだが、農業インボリューション論争についてはめずらしく反論を書いた。
つまりだ、
論争参加者のほとんどは、ギアツの論文を以下のように捉えた。
ジャワ島は地球上まれにみる人口稠密な農村である。耕地が細分化され、資本主義の発達に必要とされる農村内での資本蓄積が生じなかった。そのため、市場経済にテイク・オフできない。どこまでも貧しさを微調整するだけの、内向きの発達(インボリューション、本書の訳語では〈内旋〉とする)が進行した。
これは、近代的な市場経済へすすむ障害である。
いや、ジャワ島でも農村の資本蓄積はすすんだ。階級分化もあった。
これは19世紀に起こった、オランダの政策が悪い。いや、それ以前からだ。
以上のような論争に対し、ギアツの異議申し立ては、次のようなものだ。
しろうとの読者からみてわかりにくいのが、ギアツの、つまり本書の中の〈脱経済主義〉という用語。
経済主義というのは、経済を大きな文化というか、社会全体のいとなみの外側に置く分析方法である。つまり、社会全体、文化全体を規定する変数として、経済というものがある。
ギアツが反論するのは、そのように経済を文化全体、社会から切り離した要素として説明してはダメだということ。「経済行為」とみられるもの、研究者が分析するものも、文化全体の中で他から分離できないものである、ということ。
つまり、ジャワが近代的市場経済に(日本のように)テイク・オフできない、しないことの説明として、経済行為だけを切り離して、変数として、要素として、分析しても意味ない、とギアツはいいたいわけだ。
もっとつっこんだ論議として、マックス・ウェーバーやカール・ポランニーらの理論の影響を受けているようだが、詳しくはわからん。ここでストップ。
*****
『ヌガラ ━ 十九世紀バリの劇場国家』はさらに問題が複雑。おちらは、経済を外在化する方法への批判ではなく、文化を外在化する方法を批判しているようだ。
ギアツの問題提起まではわかる。
国家が行う儀礼については、(編訳者、小泉のサマリーによって)、以下のような分析、理由付けがある。
1.「大野獣敵国家観」においては、儀礼とは民衆に暴力装置を誇示し、威嚇するためにある。まあ、軍隊のパレードのようなもの。
2. その反対に「大欺瞞的国家観」、国家は民衆を搾取する政治イデオロギー装置であると捉える視点。その国家観では、儀礼は支配者による民衆の搾取を隠蔽するための装置として捉えられる。
3.ポピュリズム的国家観では、儀式は民衆の意思の崇高さを賛美する道具となる。
4.政府とは、あらかじめ決められた合法的なゲームの規則によって、限界効用的利益を追求するものと捉える国家観(多元的国家観)においては、儀礼はゲームの規則を既定であるかのように見せかける役割をおう。
以上、4つの国家観のどれもが文化を外在化して捉えている。しかし、ギアツの主張するところによれば、このような見方ではヌガラ国家(=バリの国家)のもっとも興味深いところをわれわれの視野の外に逃すことになってしまう。
では、どういう見方をすればいいのかは『ヌガラ バリの劇場国家』を読まなくてはわからないだろうが、本稿でだいたいの方向はわかった。
同じく小田実の本にある例。普通の人間が教師としてふるまい、生徒の能率をあげさせる、という実験をイェール大学でやった。実は人間が(戦場で大義名分があれば)どれだけ残酷になれるかという実験なのだが、そんな心理学の実験に援助金がでていたわけである。
一方で、小田実の友人のような反体制派の学者も、ワイフがパートで稼いでる間に亭主が博士論文制作をして、MDだのPh.Dを得るというパターンがあったそうだ。電話帳のような本をひたすら大量に読んで、論文をでかすのである。
政府や軍部やナントカ財団の欲しい結果というのは、ぶっちゃけて言えば次のようなことである。
あの残忍で不合理な日本人でさえ、われわれが教えてやった民主主義を覚えて、立派に経済成長をなしとげているではないか。
それなのに、ベトナム人はなぜ、あのような無駄な抵抗をするのだ。やつらは、どういう背景があって、あのように無意味で不合理な戦争を続けるのだ?
あるいは、インドネシア人は、なぜああも、非能率で非合理な社会を持つにいたったのか。どうすれば、あんな迷信じみた遅れた社会を改良できるのだ。
誰か教えてくれよ。若いやつらを研究者に育てあげろ。
マニュアルどおり調査すれば、結果がどんどん生まれる体制を作れ。
というわけで、哲学と文学をいなかの大学で学んだクリフォード・ギアツも、マーガレット・ミードにほとんど命令されて人類学の道にすすんだそうだ。
しかし、ギアツという人物は、ミードやベイトソンのようなアメリカ人類学界の主流にはならなかった。そして、東南アジア研究の分野でも主流からはずれていた。
第2章に本人が書いているところによれば、アメリカではコーネル大学だけが突出していて、ほかのミシガン大学やウィスコンシン大学には、対抗できるプログラムがない状況であるそうだ。
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難解なことで有名なクリフォード・ギアツであるそうだが、本書は、編訳者・小泉潤二の解説にも助けられ、原文が講演記録であるということもあり、まあ、理解できないこともない。
少なくとも、農業インボリューションをめぐる論争に関してはわかった。
ギアツは自分の論文はの批判にはほとんど応えない人であるそうだが、農業インボリューション論争についてはめずらしく反論を書いた。
つまりだ、
論争参加者のほとんどは、ギアツの論文を以下のように捉えた。
ジャワ島は地球上まれにみる人口稠密な農村である。耕地が細分化され、資本主義の発達に必要とされる農村内での資本蓄積が生じなかった。そのため、市場経済にテイク・オフできない。どこまでも貧しさを微調整するだけの、内向きの発達(インボリューション、本書の訳語では〈内旋〉とする)が進行した。
これは、近代的な市場経済へすすむ障害である。
いや、ジャワ島でも農村の資本蓄積はすすんだ。階級分化もあった。
これは19世紀に起こった、オランダの政策が悪い。いや、それ以前からだ。
以上のような論争に対し、ギアツの異議申し立ては、次のようなものだ。
しろうとの読者からみてわかりにくいのが、ギアツの、つまり本書の中の〈脱経済主義〉という用語。
経済主義というのは、経済を大きな文化というか、社会全体のいとなみの外側に置く分析方法である。つまり、社会全体、文化全体を規定する変数として、経済というものがある。
ギアツが反論するのは、そのように経済を文化全体、社会から切り離した要素として説明してはダメだということ。「経済行為」とみられるもの、研究者が分析するものも、文化全体の中で他から分離できないものである、ということ。
つまり、ジャワが近代的市場経済に(日本のように)テイク・オフできない、しないことの説明として、経済行為だけを切り離して、変数として、要素として、分析しても意味ない、とギアツはいいたいわけだ。
もっとつっこんだ論議として、マックス・ウェーバーやカール・ポランニーらの理論の影響を受けているようだが、詳しくはわからん。ここでストップ。
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『ヌガラ ━ 十九世紀バリの劇場国家』はさらに問題が複雑。おちらは、経済を外在化する方法への批判ではなく、文化を外在化する方法を批判しているようだ。
ギアツの問題提起まではわかる。
国家が行う儀礼については、(編訳者、小泉のサマリーによって)、以下のような分析、理由付けがある。
1.「大野獣敵国家観」においては、儀礼とは民衆に暴力装置を誇示し、威嚇するためにある。まあ、軍隊のパレードのようなもの。
2. その反対に「大欺瞞的国家観」、国家は民衆を搾取する政治イデオロギー装置であると捉える視点。その国家観では、儀礼は支配者による民衆の搾取を隠蔽するための装置として捉えられる。
3.ポピュリズム的国家観では、儀式は民衆の意思の崇高さを賛美する道具となる。
4.政府とは、あらかじめ決められた合法的なゲームの規則によって、限界効用的利益を追求するものと捉える国家観(多元的国家観)においては、儀礼はゲームの規則を既定であるかのように見せかける役割をおう。
以上、4つの国家観のどれもが文化を外在化して捉えている。しかし、ギアツの主張するところによれば、このような見方ではヌガラ国家(=バリの国家)のもっとも興味深いところをわれわれの視野の外に逃すことになってしまう。
では、どういう見方をすればいいのかは『ヌガラ バリの劇場国家』を読まなくてはわからないだろうが、本稿でだいたいの方向はわかった。
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