風太郎氏、胸奥を晒す<o:p></o:p>
また思う。西欧の中世期、日本の応仁乱時、学問の灯は僧院或いは五山の門中に微けくも油つがれき。今かくのごときもの日本のいずこにある。宗教滅びて年久しく、学校、芸術、すでにことごとく壊滅し終わる。いな日本のみにあらず、美しき人間の智恵の営み、尊く涼しき学問の殿堂を以って自他ともにゆるす国家、地球上のいずこにありやと。
余は文芸言論の力を必要以上に蔑視しありたり。しょせんは曳かれ者の小唄に過ぎずと思いたり。平和有閑のときは知らず、死か生いずれを選ぶかの切迫時に、かくのごときものほとんど何らの効なしと思いいたり。余は文学を以って男児のなすべき雄偉の事業なりと考えざりき。この点に於いては二葉亭とひとし。しかるにかかわらず、余がつねにこれに眼を注ぎあるは、余が信ずる男児有為の事業に、余自身力不足なりと知るゆえのみ。もとより文学上、余輩の及ぶべからざる偉人無数なるは熟知す。ただ文学にもピンからキリまであり、余はまたこの点に於いても力不足を知るゆえに、このキリ近きところを眺め、ただおのれの情を愉しませありしに過ぎざるのみ。
然れども今思うに、言論の力はさほど軽蔑すべきものにあらず。見ずや同一の事件を報道せるものなりといえども、新聞の論調により、吾人の心に明暗二つの情感現るるを。
わが軍全滅を記して沈痛悲壮のものあり、吾らまた暗澹絶望の念に沈淪せざるを得ず。また同一を録してその将兵の勇戦を讃美し、愛国の情歌うがごとく、吾らをして祖国のために死するを恐れざらしむるものあり。いずれが正しきかは知らず、新聞のごときは杜撰なる論にして、読者の心胸に与うる影響かくの如し。(各新聞の論調や言論機関、または文筆家の戦意高揚の報道を指すのでしょう。それを是とするか非とするか?)考うれば、実に死は恐るべきものなり、生は讃うべきものなり、また考うれば生それほど魅力あるものにあらず、而も自ら死を欲せざるを知る。この深刻なる本能を自覚するとき、死はさらに恐るべきものとなる。
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