一幕 一場のニ
たえ あっ沢さん、もう今夜はお見えにならないのかと、嬉しい…
沢 いやあ、野暮用があって他で一杯やってきたんだ、遅いんでもう終(しま)いじゃないかと心配しいしいきたんだが、やはり遅かったようだね。
たえ なにおっしゃるんです、ちょうど区切りがついたもんで暖簾を下げただけなの、さあっ、(たえ、沢の手をとる)沢さんならいくら遅くたってかまわない‥今夜は他の客はお断り。ゆっくりしてって下さいな、すぐに一本おつけしますから。
たえ、さりげなく入り口にしんばりをし、灯りをひとつおとす。
沢 世辞でもそう言われると、足を延ばした甲斐があるってもんだねおかみ。
たえ 世辞だなんて、やたらと嬉しいの、ほんとですよ(沢の両手をとり引き寄せ、胸に持っていく)ねえっ、こんこんて音たててるでしょう、嬉しい嬉しいって悲鳴をあげてるんですよ。
沢 (たえの腰を片手で抱き胸を反らし)あたしには迷惑迷惑って聞こえるぜ。
たえ まあ憎らしい、(腰に廻した沢の手をつねる)
沢 (大仰に)痛いっ!
たえ いつからそんなにお口がお悪くなったんです…今夜はどこやらのお奇麗なお人としっぽりと…
沢 そんな、仲間の寄り合いで、ただ、酒を口に運んでいただけよ、早く切り上げおかみの酌で一杯やろうと飛んできたんだ。
たえ いいの、嘘でもこうして…
沢 まだそんなこと言ってる、嘘なもんかね。仲間は皆連れ立って吉原(なか)へ繰り込んだんだ、誘いを蹴るのにずいぶんと冷汗かいたんだよ。
たえ わかってます、有り難く思います。ただ今夜は無性に沢さんに絡みたいの、嗤ってやって…
沢 どうしたんだいおかみ、(たえの肩に手をかけ)今夜のおまえさんどうかしてるよ、酔ってるんだね。
たえ 酔ってなんかいません、でも飲んでも飲まなくてもいい加減おかしくなります。二人っきりでこうしていると。
沢 それはあたしも同じだ。
たえ 同じなもんですか、ねぇ、さっきまで神谷さんたち見えてたんですよ。
沢 ああ、お役人の?
たえ さんざんあたしと沢さんのこと勘ぐって冷かすのよ。二人は出来てんじゃないかとかどうとか。
沢 それで?
たえ それでって、それきりですよ。これが沢さんと割りない仲になってんでしたら、どんなに嬉しいか、それが、悔しいやら情けないやら、あたし…
沢 なんだいそんなことかい。
たえ そんなことって、憎い人…
沢 憎いなんてそれはない、あたしはね、おかみに惚れたあげくの逢いたさ見たさに通ってきてるんだよ。
たえ ええっ、まあっ、本気で受けていいんですか。
沢 あたりまえだ。
たえ 本気なんですね、ねえっ、あたし躱がかあって熱くなっちまいましたよ、ほら…(沢の手をとり胸へ誘う)
沢 おっと、胸元がきつくってまだるっこいね。
たえ あら、すいません。でも沢さんなら、(たえ、背を沢の胸にもたれさす)どっからお手がすんなり入るか先刻ご承知よね、二人きりの今夜存分になすって…
沢、たえの背後から身八つ口に手を忍ばせようとする。
沢 いや、楽しみは後に残そう、だがそれよりおかみ、この齡で改まって女に惚れたなんて口にすんのは、いささか気恥ずかしいね。
たえ (躱をくねらし)そんなあっ、あたしだって同じ。惚れてます…
沢 なんだい、ばかに話がとんとんと、まさか夢じゃあ…
たえ 止して下さいな夢だなんて、あたしはいつこんな嬉しい言葉がきけるかと、それを毎日…思い切って想いを打ち明け、もし素(す)気(げ)ないあしらいうけたらと…それが怖かった。女の口から男さんを口説くなんて、なんて慎重(はした)ないんだと蔑すまれはしないかと、勇気がいったんですよ。それがこうして、あたしのほうこそ夢どころか天にも昇る気持ちです。
沢 大袈裟な、それに天に昇るにゃまだ早い。
たえ いや、そんな冗談を、恥ずかしい。
沢 ははははっ、照れてんだよ、年甲斐もなく…
たえ なにおっしゃるの、色恋にそんなの邪魔なだけ。
沢 違いない、おまえさんの言うとおりかも。
たえ そうですよ、あたしだって若くない、惚れたはれましたに齡なんて無縁のこと、棚の上に乗せちまいましょう。
沢 しかし悔やまれるよ、すんなりこんな成り行きになるんだったら、なぜもっとまえに…
たえ それはあたしだって、冗談はよしなって、笑いとばされたときの情けない、自分の惨めな有様が哀れにおもえて…
沢 もういい、なにも言いなさんな。
たえ ありがとうあなた…あなたって言わせてくださいな、あたしには心底あなたって言えるお人がいなかったんですよう…
沢 おっと待ちなさい、おまえさんにはれっきとしたご亭主がいるじゃないかい、あたしはね、それを承知で通ってきてるんだよ。そして今口説きもし、口説かれもしてるんだよ。そうそう無理しなくたっていい、あたしはたったの今阿呆になろうとしてるんだ、お前さんと深間に落ちることが、どんなにえらい騒動の火種になってもと、腹をくくったんだ…
たえ 止めて頂戴亭主の話は……それよりそんなお気使いは無用です。あなたのお宅に、これっぽっちも波風を起こそうなんて思っちゃいません。心底惚れただけ、亭主にいじめられ通しの女が一人いて、ただ縋っているだけです…
沢 (神妙に頷きながら)ご亭主かい…苦労してるんだね。
たえ 沢さんとは生まれも育ちもべつ。
沢 べつって?
たえ いえっ止しましょう、昔は振り返らないの、ねえ、そうしましょうよ。こうして二人きりでいて、じんわり躱が汗ばむほど疼いているのに、話せば冷汗に変わる、耐えられない…
沢 そう言ったって惚れた女のことは、洗いざらい知りたいもんだ男は。そしてなにかと力になろうってのがあたり前じゃないのかい。
たえ わあっ、凄いこと言ってくれますね、それであたしは十分、ねえ飲みましょう、せっかくの今夜のお酒、まずくなるわ。
沢 それもそうだ、まあ、とわずがたりの成り行きといくか、じっくり飲もう。
たえ ほんと、離さないから今夜は。
沢 ははっ、あんまり嬉しがらしちゃいけない、あたしはこれで初心(うぶ)なんだよ、案外商売っ気がらみだったりしたら、血迷ってなにしでかすやら、危ないぜ。
たえ なにおっしゃるの、あたしがそんな女でしたらどうぞ迷わずに、突くなり刺すなり思う存分気を晴らして下さいな。
沢 冗談だよ、そう目を剥くな。例えそうでもできやしない勿体なくて…
たえ またそんな。
沢 はははっ、まあまあ。
たえ からかわないで、悪い人…でもねえ、あたしの方こそほんとは悪い女かもしれなくてよ。
沢 えっ、またいきなりなんてえことを。
たえ そうですよ、いくらひどい亭主だって亭主持ちにはかわりない、それが一途にあなたに想いをぶつけるなんて…亭主持ちだってことは世間には内緒、あなただけには洗いざらいこうして…
沢 待ちなさい、それは言いっこなしだ、あたしはどうなんだそいじゃ。いまそれを言ってなんになる。手練手管とは裏腹の、さっきまでのいい様はどうしたんだ、男冥利につきる口説きと、ほどほど感じいってるんだよ。
たえ あなた…
沢 なあ、良い悪いならお互い五十歩百歩、男と女の仲は善悪の尺度じゃ計れやしない、そんなこたあ忘れて寄り掛かってきたらどうだ。
たえ やさしいこといってくれるのね、わかりました性根を据えます…こんだ無体な仕打ちにあっても引き下がらない、名ばっかりの夫婦なんて御免よ、あたしたちずっと前から他人なんです。
沢 まあそれはどうでもいい、一つ屋根の下の男と女、他人のあたしがどうこう気い廻すこっちゃない。
たえ まあ他人だなんて、ちくりと本音を言うんですね。嬉しがらせたり、あたしが悲しむこと平気でおっしゃる、そうよね、土台あたしの想いなんて贅沢なんだわ。
沢 なにを言いだす、話が振り出しにもどっちゃうじゃないか。
たえ あなたがいけないんです、そんな厭味をいうから。
沢 厭味じゃないよ、本当の話だ。お前さんの、むっちりとした色気の溢れる躱を前にして、だれが指をくわえてほっとくものかね。一つ屋根の下、亭主と名がつきゃあできる芸当じゃない。おかしな心地だ、ご亭主に妬けてくるよ。
たえ 信じてくれないのね、後藤とずっと他人なのが…(たえ哭きだす)
沢 (驚愕し、たえの肩を抱く)わかった、泣くな…はつきり言わせて貰おう、ご亭主がいようがいまいが、あたしはあんたにぞっこん惚れたんだ。
たえ あんただなんて、お前って言って頂戴、ね、それにいま言ったこと…嘘は言いっこなしですよ。すげない言葉でも、たったの今ならあたしの高望みと諦めて、引きさがりもできましょう。でももうあたしは命懸け、この先冷たい態度(しうち)に様変わりされたら恨みますよ。
沢 なに言ってるんだ、いい齡こいて若い女の色香に迷い、のぼせ上がったあげくの果てに、三下り半なんて様にあっちゃあ、あたしのほうこそ恨みだ。お前の胸中(むねっち)を見極めての口説き三味、もう後へは引かない、あたしを三枚目にしたら承知しないよ。
たえ あなた…(たえ、沢にすがりつく)もう二人にあれこれ口説はいらない、抱いてえ、だめ、なにも言わないで、(たえ、沢の口を袂でふさぎ座敷に誘い倒れ込む)
暗転
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