フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 




 早稲田大学教授の石原千秋さんから『謎解き村上春樹』(光文社新書、882円)という本をいただきました。
 まずは「あとがき」のこと。石原さんが勤務先大学の会議で、「文学で人が呼べる時代は終わった」と同僚から言われたことを書いています。そして石原さんが「文学で人を呼べる」かどうかを検証するため、村上春樹を論じて一般教育科目の講義を担当したということです。
 ここで言われている「文学で人が呼べる時代は終わった」という言葉は、形を変えていろいろな場面で出てきている気がします。ですから、他人事ではありません。だからこそ、石原さんの講義がが毎年500人ほどの学生を集めて、大盛況だったことにある種の爽快感を覚え、石原さんに喝采をしたい気持ちです。
          
 しかし、その一方で、「文学で人を呼べるか」という問いかけは自分に返ってきます。つまり、石原さんだから人を集められ、「石原で人が呼べた」のではないか、「文学で人が呼べた」のではないのではないか、自分なら文学で人を呼べるか、といった問いが浮かんできます。また、他の専門を学んでいる大学生が卒業単位という枠の中で「文学」の授業を選択する(つまり何を取っても卒業単位になるなら取る)としても、「文学」を学びに授業料を払う学生がどれだけ集まるか、という意味で「文学で人が呼べる」かと考えると、またすいぶん厳しくなってくるような気がします。そういう意味で、石原さんが「文学で人が呼べるか」という困難な問いかけに応えようと試みたことに心から敬意を表したいと思いました。
 ところで、このところの私の授業などでも、「村上春樹は重要な作家だ。しかし、〈謎解き〉本が続けざまに出ているが、もう〈謎解き〉はたくさんだ。もうそろそろ村上春樹を研究論文の対象として扱う時期が来ている。」といった内容のことを喋っていました。もちろん、ここでは「謎解き本」と「研究論文」を対比的に言っているわけですから、それではなぜ「謎解き本」は研究論文ではないのか、という説明が必要でしょう。村上春樹の小説は謎解き本を誘発する性格をもともと持っているので、ある意味何とでも言える。それを好きなように書いて謎を解いたように自負している本はもううんざりだ、というのが私の気持ちでした。
 石原さんはそれを十分に承知の上で、前書きにもあるように、「謎解き」が「研究」になるにはどうするかを試みたのが本書だと感じました。実際に石原さんの読みの鋭さは本書の随所にあらわれていて、村上春樹作品は全部読んでいるはずなのに、石原さんの読み方を追いかけながら、自分が作品から読み落としているところや、重視しなかったところが背景から前景に浮かび上がってくるのを感じました。
          
 ただ、その一方で、石原さんが前書きで言っている「読者にこの読み方しかないという「錯覚」を起きこさせるくらいでなければ、「謎解き」が十分に成功したとは言えない」という感覚を持てるかどうかは、読者によってかなり分かれるように思いました。私は、石原さんの読みの鋭さに感嘆する一方で、たとえば『羊をめぐる冒険』を読んだときに感じたこの作品の荒唐無稽さや、『ノルウェイの森』の緑が持っている重要性などが、石原さんの読み方では逆に抜け落ちるような気もしました。
 でもそれは無い物ねだりなのかもしれません。「謎解き」でないならどうするか、というのは自分の問題になるので、これは自分の研究で答えを出すより仕方がないように感じました。
 それから、この本は講義の記録(録音テープを原稿化したもの)に石原さんが手を入れる形でまとめられたそうです。講義録そのままよりもまとまりがよく、論文の形で書くよりも親しみやすいので、新書の性格にはおそらくちょうどよかったのではないでしょうか。文章の中で少し脱線気味に他の作品や思想のことなどが出てくるのは、おそらく講義の時に話した流れが残っているのかと思いました。ですから、これはこれで石原さんの講義を体験するような感覚も持てて楽しく拝読しました。
 私もこれから村上春樹論を書くつもりがあるので、石原さんのこの本を十分に参考にさせていただきたいと思っています。
          



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