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◎「定常型社会」についてのメモ(引用)

2012-03-04 14:13:11 | ◎想
このところ、広井良典の『定常型社会 新しい「豊かさ」の構想』(岩波新書)や『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)を、ことあるごとに精読している。わたしが言うまでもなく、なにかの重大なヒントが(というか「解」)がここにはあるのだろう。以下は、『定常型社会』というコンセプトのダイジェストを引用でまとめたメモ。
『定常型社会』の第4章「新たな「豊かさ」のかたちを求めて」では、その多くが「時間観」に費やされている。ここは少し予想外だったのだが、定常型社会とは時間観を転換することなのだ。


■[引用1]:『定常型社会』P160

「(定常型社会への)反転の契機は、次に述べるような意味で、これまでの市場/経済の進化、あるいはその基盤をなす人間の欲求ないし消費構造の進化の方向のそれ自体の中に含まれているのである。
すなわちそれは、その初発的なステップとしては、「物質・エネルギーの消費」→「情報の消費」ということを通しての、消費の脱物質化(マテリアルな消費の成熟化ないし定常化)という方向である(第一の意味の「定常型社会」)。このことは、物質・エネルギーの消費量そのものはすでに定常化しつつあるという事実を含めて、すでに先進諸国においては進行中の事態である。
さらにこうしたベクトルが、一方で「時間の消費」という方向に転換し、経済の量的な拡大(あるいは「/t」の極大化[※1])それ事態を目標としない「豊かさ」の可能性をひらくとともに(第二の意味での「定常型社会」)、他方で「根源的な時間の発見[※2]」という、市場経済の外部ないし根底(コミュニティや自然)へのつながりを見出していく(第三の意味での「定常型社会」)
これらの全体的なプロセスの自然な帰結として「定常型社会」は開けてくることになる。


■[引用2]:『定常型社会』P161

◎定常型社会の第一の意味:
マテリアルな(物質・エネルギーの)商品が一定となる社会(=脱物質化)
←情報化(情報の消費)や「環境効率性」の追求を通じて

◎定常型社会の第二の意味:
(経済の)量的拡大を基本的な価値ないし目標としない社会(=脱量的拡大)
←「時間の消費」を通じて

◎定常型社会の第三の意味:
〈変化しないもの〉にも価値を置くことができる社会
←「根源的な時間の発見(※1)」を通じて


■[引用3]:『定常型社会』P147‐148

[※1]「/t」の極大化:
市場経済の「離陸」の過程に一貫していたのは、時間という視点に即してみるならば、いわば“「/t」(スラッシュt)の極大化”という方向であったと言える。つまり「単位時間あたりの何か(生産、消費等)」を極大化させるという方向づけであり、それが「豊かさ」の指標でもあった。もちろん、その場合の「t」とは、(新古典派の創始者たちが古典力学をモデルとしたように)ニュートン的な「絶対時間」つまり直線的で均質な時間のことである。そして実際、たとえばGDPやその成長率といった例のように、様々な経済指標は、当然のことのように、「単位時間(期間)あたり」ということを基本につくられている。
ところで、「単位時間あたり」の消費量が豊かさを示すというのは、人々の消費が「物質・エネルギー」の消費という範囲にとどまっている限りは、それなりの合理性をもちえていた。(……)したがって生物としてのエネルギー摂取や新陳代謝ということを考慮うすると、「単位時間あたり消費量」ということはそれなりの意味をもつ。(……)
ところが経済活動がある段階以上に進むと、商品とそうした生物学的なニーズとは直接的のつながりをもたなくなってくる。逆に言えば、「情報の消費」ということに即して述べた点であるが、ファッションやモードがそうであるように、そこでは「時間的なスピードの速さ」あるいは「変化」それ自体が消費の対象となる。(……)こうして「時間」の速度ないしスピードそのものが主観的な消費や取引の対象に繰り込まれ、それが競争の中で増幅されていく中で、経済活動は「生物的時間」からどんどん乖離していく。


■[引用4]:『定常型社会』P157‐158

[※2]根源的な時間の発見:
私たちの生きる世界は「A個人→ B共同体→ C自然」という三層構造をもった世界として理解することができる。そして(……)Aに対応する「市場/経済」の領域が、BやCの次元から次々と離陸してきたのがこれまでの歩みであった。このA、B、Cの各レベルでは、それぞれ異なる「時間」が流れている、と考えることができるのではないだろうか。(……)
私たちがふだん意識している「直線的な時間(“カレンダー的な時間”)」はいわばもっとも表層の「個人の時間」であり、同時にそれは「経済/市場の時間」でもある(……それは“ニュートン的な時間”ということでもある)。とすると、その底にはいわば「共同体(コミュニティ)の時間」とも呼べるような層があり、さらにその底には「自然の時間」という層があると考えられるのではないか。このうち「経済/市場の時間」はもっとも速く流れる。そして、そうした時間よりも「コミュニティの時間」のほうが、またさらに「自然の時間」のほうが、ゆっくりと流れている、と考えてみるのである。それはまた、後のものになるほどより「永続的」であるということでもある。
ここで「根源的な時間の発見」と呼んでいるのは、そうした経済/市場の時間の底にある「時間」の層の発見ということに成る。よりゆっくりと流れる時間、より永続的な時間の層とのつながりをもつことであり、それはまた〈変化しないもの〉に価値を置くことができる感覚ということでもある。人間にはそうした時間のつながりが必要であり、またそれらに対する根源的な欲求をもっているのではないか。

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