(円泰寺)
関市本郷町の円泰寺に竹腰正旧(たけのこしまさもと)の墓がある。
円泰寺
清涼院殿正堂宗舊大居士(竹腰正旧)墓
竹腰正旧は嘉永三年(1850)、尾張藩付庸兵部少輔竹腰正美の孫養子の家系に生まれ、文久三年(1863)祖父正美の後を継いで三万石を領した。明治元年(1868)、尾張藩付属犬山城主成瀬正肥とともに藩屛に列し、従五位下伊予守に任じられた。成瀬が勤王派を代表するのに反して、佐幕の故をもって謹慎を命じられた。同年、尾張藩主徳川義直から加増された一万石を徳川家へ還付した、明治三年(1870)、財政の窮乏甚だしく、雇卒の整理を主とする藩政改革を行った。また旧支配地一万石の復旧を請願し、太政官達をもって許された。明治四十三年(1910)、年六十一で没。
関市本郷町の円泰寺に竹腰正旧(たけのこしまさもと)の墓がある。
円泰寺
清涼院殿正堂宗舊大居士(竹腰正旧)墓
竹腰正旧は嘉永三年(1850)、尾張藩付庸兵部少輔竹腰正美の孫養子の家系に生まれ、文久三年(1863)祖父正美の後を継いで三万石を領した。明治元年(1868)、尾張藩付属犬山城主成瀬正肥とともに藩屛に列し、従五位下伊予守に任じられた。成瀬が勤王派を代表するのに反して、佐幕の故をもって謹慎を命じられた。同年、尾張藩主徳川義直から加増された一万石を徳川家へ還付した、明治三年(1870)、財政の窮乏甚だしく、雇卒の整理を主とする藩政改革を行った。また旧支配地一万石の復旧を請願し、太政官達をもって許された。明治四十三年(1910)、年六十一で没。
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