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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

高山 Ⅱ

2021年09月11日 | 岐阜県

(飛騨護国神社)

 実に十五年振りの高山となった。前回は鉄道を使ったが、今回は自家用車での訪問となった。以前の職場に高山出身の女性がいて、彼女によれば家族で帰省する際にはいつも松本から国道158号線を使っていると聞いていたので、迷わずこのルートを採用した。松本市街地を出て二時間足らずで高山に到着した。

 高山では市内の観光駐車場で夜を明かした。その駐車場から近い場所に飛騨護国神社がある。夜明けとともに、十五年前に見落とした梅村速水遺愛碑を訪ねた。岩倉具視の篆額。

 

飛騨護国神社

 

梅村速水遺愛碑

 

(北ヶ洞墓地)

 左京町の北ヶ洞墓地は古い墓石が並ぶ墓地である。雑草が生い茂り、お世辞にも手入れが行き届いているとはいえない。そこに「無名氏之墓」と刻まれた小さな墓石がある。

 

無名氏之墓

 

 この墓は慶應四年(1868)閏四月、新町川原に薦に包まれた女児の遺体が捨てられていた。当時、飛騨は明治新政府の支配下になっており、梅村速水が県知事として着任していた。速水は悲惨な死者が出るのは政治を与る自分の責任であるとして、葬式を行い子の墓を建てた。正面には「無名氏之墓」と彫り、他の三面には建碑の由来を記した碑文を刻み、「罪人 梅村速水」と結んでいる。

 梅村速水といえば性急な改革で人々の反感を買い、梅村騒動の原因となった人であるが、この碑は速水の別の一面を物語っている。

 

(飛騨国分寺)

 飛騨国分寺の歴史は、奈良時代まで遡る。さすがに奈良時代の建物は残っていないが、境内には七重塔の心礎や、金堂の礎石などが残っている。ほかには元文四年(1739)建造の表門や推定樹齢千二百年という大イチョウなど、歴史を感じることができる。

 

飛騨国分寺

 

大イチョウ

 

白真弓肥太右衛門之墓

 

 白真弓肥太右衛門(しらまゆみひだえもん)は、飛騨国白川郷木谷の出身の幕末の力士である。二十五歳のとき、江戸相模の浦風部屋に入門した。嘉永七年(1854)、アメリカのペリー提督が二度目に横浜に来航した折に、力士たちが薪水米穀の供給運搬奉仕をしたが、白真弓は背に米四俵、胸に二俵、両手に一俵づつ、合計八俵を運び、アメリカ人を驚かせた。身長は六尺八寸六分(二〇八センチ)、体重は四十貫五百匁(一五二キロ)の堂々とした体格で、また怪力の持ち主だったといわれる。最高は西前頭筆頭。引退後は浦風部屋を継いだ。明治元年(1868)十一月、没。享年四十一。

 

押上家先祖代々之霊位(押上美喬墓)

 

 押上美喬(おしあげよしたか)は、文化十三年(1816)、飛騨高山に生まれた。明治元年(1868)正月、三郡村々の名主と協議して新見内膳逃亡後の混乱をよく防いだ。民情の嫌う郡上藩の飛騨国取締を拝し、鎮撫使竹沢寛三郎による天朝支配を請願して許された。間もなく竹沢に代わって梅村速水が高山県知事として入国し、翌二年(1869)、梅村知事の施政に反対する農民一揆が起きると、その鎮静に努める一方、京へ代表を派遣して梅村拝訴を具申し、新たに宮原積知事を迎えることに成功した。明治二年(1869)六月、年五十四で没。

 

(上岡本町)

 

節斎富田禮彦之墓

 

 富田礼彦(いやひこ)は文化八年(1811)の生まれ。天保十三年(1842)、高山代官所地役人頭取となり、時の郡代に奨めて備荒の穀倉を建て、安政五年(1858)の大地震には多くの窮民を救った。国学を田中大秀に、漢学を赤田章斎に学び、敬神尊王の志厚く、明治元年(1868)には高山建判事に任命された。翌年梅村騒動の責を負い、乱民の助命を願って割腹したが一命をとりとめた。門人も多く、飛騨郡代小野朝右衛門高福の五男、のちの山岡鉄舟も門下で学んだ。明治十年(1877)、年六十七で没。墓標は長三洲の筆。

 

(江名子)

 

田中大秀之奥城

 

 田中大秀(おおひで)は、安永六年(1777)の生まれ。兄の夭折によって家業薬種商を継ぎ、享和元年(1801)、京都に学んでいたとき大秀と改めた。寛政九年(1797)、熱田の社司栗田知周の門に入り歌道を学んだ。のち伴高蹊に師事し、本居大平を伊勢松阪に訪ね、さらに上洛して本居宣長の門に入り、親しくその教えを受け、宣長学風の真諦を会得し、彼の学風を樹立した。宣長没後は大平と親交し、松坂に三か月在留して宣長の遺著の筆写に従事した。文化十四年(1817)、隠居して荏名神社の神官となり、専ら国学の研究に従事した。多くの著書があり、敬神尊王の精神を鼓吹し、幕末飛騨国の精神的支柱として多くの子弟を育成した。彼の文庫を荏野文庫と称する。高山郷土館に保存されている。弘化四年(1847)、年七十一にて没。

 

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