(都築家)
都築家
下呂市は下呂温泉で全国的な知名度を誇るが、実は上呂、中呂という場所もある。上呂に近い下呂市萩原町羽根に天正年間に建築されたという都築家住宅がある。
奥座敷は明治元年(1868)の梅村騒動で梅村速水高山県知事が投宿したことでも知られる。
(はぎわら ふれあい通り)
ファンシーショップ「陣屋」
ファンシーショップ「陣屋」店内には、梅村騒動で打ち壊しの群集が刀傷を付けた陣屋の柱が残っているという。例によって、私がこの場所を訪ねたのは、午前七時前だったため店内を見ることはできなかった。
(玉龍寺)
玉龍寺
玉龍寺には、万延元年(1860)の遣米使節団に賄方として参加した加藤素毛(そもう)雅英の墓がある。八人の連名墓であるが、一番右に素毛の法名「霊芝庵鳳山素毛居士」が刻まれている。
霊芝庵鳳山素毛居士(加藤素毛の墓)
(下原小学校)
現在、下原小学校のある場所に、天正年間に飛騨を平定した金森長近が中山七里の道路を改修した後、陣屋を建設した。長近は国内の各地に陣屋を築いたが、下原旅館は飛騨の玄関口として重要な役割を果たした。堀を巡らし、米蔵や武器蔵を備えた旅館の館主には山下市正氏政(道安)があたり、金森氏が京都、大阪、伏見などへの参勤の行き来の宿泊に使われていた。正門脇に下原旅館(陣屋)跡を示す標柱が建てられている。
下原小学校
下原旅館(陣屋)跡
下原小学校には加藤素毛の句碑がある。素毛は早くから文雅の道に造詣が深く、ことに俳諧を好んだ。ほかにも和歌や絵画にも素養があった。
(加藤素毛記念館)
加藤素毛記念館(霊芝庵)
加藤素毛の生家に記念館が開設されている。素毛の雅号に因んで霊芝庵と称されている。素毛は紫色角形の霊芝(サルスベリ科の万年茸)を珍蔵し、常に携帯していたという。
霊芝庵は、朝十時の開館。普段は無人だが、電話をすれば開けてくれる。私がここを訪れたのは朝八時だったので拝観することはできなかったが、素毛の遺品を展示している。
加藤素毛は、文政八年(1825)の生まれ。嘉永年間、高山に出て飛騨郡代小野朝右衛門の公用人となり、朝右衛門の長男鉄太郎(のちの山岡鉄舟)とも交わりを結んだ。俳諧を能くし、豪家の二男という恵まれた身の上の加え、終生妻を娶らなかった身軽さから、嘉永五年(1852)二月、郷里を立って筑紫巡りの旅に出て、安政元年(1854)正月帰郷した。筑紫旅行後、米国渡航の人選が決まる安政六年(1859)の行動は明らかではない。安政六年(1859)の日米修好通商条約の本書批准交換のために遣米使節の派遣が決まるや、素毛は外国方御用達伊勢屋平作の手代として使節の一行に加えられ、翌万延元年(1860)正月、米艦ポーハタン号に乗って品川沖を出帆して米国に渡航し、世界一周して九月帰朝した。帰国後は、各地で洋行談を試み、文久元年(1861)八月、高山から美濃の上有知を経て名古屋に至った。ここでの洋行談が水野正信(尾張藩重臣大道寺家の家臣)記した「二夜語」である。その後の行動は不明であるが、明治二年(1869)四月、実家の加藤家は高山県知事梅村速水に与するものと睨まれ、一揆暴徒の襲撃を受けた。明治五年(1872)の夏、伊勢の国学者佐々木弘綱が高山の富田礼彦の招きに応じて飛騨に来たとき、素毛はその講筵に列して深い感銘を受けたという。明治十二年(1879)、年五十五で没。
(下原八幡神社)
加藤素毛は常に諸国を吟遊した。嘉永五年(1852)の関西九州一周の旅はことに有名である。素毛はこの大旅行を記念して、下原八幡神社に丸い懸額の絵馬を奉納した。
また米国から帰朝後、持ち帰ったアメリカの国旗(星条旗)を八幡神社に奉納した。
下原八幡神社
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