(治水神社)
治水神社
治水神社社名碑
油島の治水神社は、平田靱負を祭神として昭和十三年(1938)に創建された神社である。門前の社名碑は、東郷平八郎の筆によるもの。
薩摩義士之像
内藤十左衛門顕彰碑
境内には、内藤十左衛門の顕彰碑がある。宝暦治水工事の際、亡くなったのは薩摩藩士だけではない。薩摩藩の犠牲者八十四人に対し、それ以外の犠牲者は四人である。うち自害切腹が二人、病死一人、人柱一人となっている。
内藤十左衛門は旗本で、水行奉行高木新兵衛の家来であった。宝暦四年(1754)春の工事において薩摩方でも二名の自害切腹者が出ており、わずかにその八日後に十左衛門も自刃している。工事の進捗に問題があり、それを江戸から来た役人に注意された。このことで主人高木新兵衛の立場が悪くなることを恐れて自ら責任をとったものと推定されている。薩摩藩の二名も同じような事情で自刃したのであろう。
(今尾神社)
今尾神社
吉田松陰先生参拝碑
今尾神社の鳥居の側に吉田松陰がこの地を訪れたことを記念する石碑がある。
松陰がこの地を訪れたのは、嘉永六年(1853)五月、伊勢参宮を終えて、桑名の同志とともに夜船で揖斐川を遡り、牧田川と大榑川の合流する当神社下に上陸した。船中夜を徹して豪談酒盃を交わし、「朝来起って蓬窓を掲げて見れば、觀は故まらん。青山三五の巓」と詠じて「陸路大垣より中山道を経て江戸に赴く」と記されている。
全国の吉田松陰関係の史跡を網羅している「松陰の歩いた道」(海原徹著 ミネルヴァ書房)は、感心するほど津々浦々の松陰の歩いた道を紹介した本であるが、何故だか今尾神社は掲載されていない。
(今尾小学校)
今尾小学校のある場所は、文明年間(1469~1487)以降、今尾城があった。元和五年(1619)、尾張藩付家老竹腰山城守正信の居城となり明治維新まで続いた。竹腰氏は、犬山城主成瀬氏と並ぶ尾張藩の重臣で、所領は美濃・尾張に合計三万石を与えられていた。江戸と尾張を行き来して代々の尾張藩主を補佐した。慶應四年(1868)、尾張藩の成瀬氏、水戸の中山氏、紀伊の安藤氏、水野氏とともに立藩を許されたが、三年足らずで廃藩を迎え、当地の敷地と建物の一部は今尾小学校に払い下げられた。
今尾小学校
史蹟 今尾城阯
(西願寺)
西願寺山門
西願寺の山門は、今尾城の城門の一つが移されたものである。今尾城には天守閣はなく、周囲を堀や藪で囲み、その建物が堀から浮かび上がるように建っていた。御城屋敷、書院屋敷および役屋敷の三構えに別れ、内郭には濡門と外郭には辰巳門と呼ばれる門があり、藩士といえどもこの門を通るにはそれぞれ厳しい掟があった。維新後、城郭が解体され、今尾城も一般に売り出されたが、明治七年(1874)、西願寺が譲り受け、寺の山門として移築した。
(常栄寺)
常栄寺は、今尾城主竹腰氏の菩提寺で、竹腰氏の墓地のほか、宝暦治水の薩摩義士の墓や、竹腰氏が関ヶ原の戦没者のために建てた慰霊塔などがある。
常栄寺
薩摩工事義没者墓
常栄寺には宝暦治水工事で犠牲となった薩摩藩士黒田唯右衛門の墓がある。黒田唯右衛門は平田靱負の家人で、大巻役館において事務方手伝いをしていたと推定されている。宝暦四年(1754)七月七日、死亡。「宝暦治水」によれば、切腹とされている。この時期、同年九月から始まる工事に必要な資材(石材や丸太)を調達するための期間であったが、必要な量を予算内で調達することが困難であった。自害切腹の理由はそこにあるのではないかと推定されている。
華族 正五位竹腰正美公之墓
幕末の今尾城主竹腰正美(正富)は、尾張藩内が佐幕と尊王に揺れた際、佐幕派を支持して一時失脚して、養子正旧に家督を譲った。慶應四年(1868)四月には新政府から蟄居を命じられた。明治二年(1869)、赦されたが、二度と藩政に参画することはなかった。明治十七年(1884)死去。
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