史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

五日市

2017年12月02日 | 東京都
(五日市会館)
 五日市は、かつて五日市町として独立した自治体であったが、秋川市と合併してあきるの市の一部となった。昔の五日市町役場(現・あきの市役所出張所)、五日市会館の前(五日市中学敷地内)に五日市憲法草案之碑が建てられている(あきる野市五日市409‐2)。


五日市憲法草案之碑

 五日市憲法草案というのは、明治十四年(1881)に深沢権八を中心とする五日市学芸講談会の有志と、宮城県栗原郡白幡村(現・栗原市志波姫)に生まれ、五日市勧能学校の教師としてこの地を訪れていた千葉卓三郎が中心となって起草した私擬憲法草案のことである。昭和四十三年(1968)、当時東京経済大学教授であった色川大吉氏らによって、近くの深沢家の土蔵から発見された。この草案が起草されたのは、大日本帝国憲法制定の約十年も前のことであるが、司法・立法、行政の三権分立が明確に規定され、国民の権利に多くの条文がさかれているなど、自由民権思想に影響を受けた民主的な内容となっている。
 この石碑は、先人の偉業を顕彰し、後世の人々に知ってもらうため、昭和五十四年(1979)に建立されたものである。同主旨のものが、千葉卓三郎の生地と墓所(仙台市)の三ヶ所に同時に建てられたという。

(まいまい坂)


まいまい坂

 五日市から青梅に通じる古道を青梅道という。まいまい坂は、小机平から急坂を下り、三内川に至る坂道のことで、かたつむり(まいまい)の殻に似て、曲がりくねっていることからまいまい坂と名付けられたと伝えられる(あきる野市三内329付近)。
 慶応二年(1866)六月、名栗村(現・埼玉県)正覚寺で蜂起した十数万人の世直し一揆の一部隊は、この坂を経由し五日市を目指した。五日市側では、まいまい坂を防衛線として鉄砲と竹槍で武装した約九百の農兵隊を小倉台地上に配置し、一揆勢を待ち受けた。六月十七日未明、ほら貝を吹き鳴らして突入する一揆勢に対し、農兵隊は鉄砲の一斉射撃と竹槍部隊により反撃し、二時間に及ぶ攻防の結果、一揆勢は死者二名、怪我人二十一人、召捕り二十一人を出して敗退した。

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