史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

美濃

2017年10月06日 | 岐阜県
(円通寺)
 美濃市の円通寺は市街地にあって、門前は狭いが、境内に入ると裏山に広い墓地を有する。墓地には村瀬藤城、同姓太乙、秋水の墓がある。


円通寺


村瀬藤城墓

 村瀬藤城は、寛政四年(1792)、上有知に生まれた。父は村瀬重為。幼時は村の善応寺禅智和尚に経学詩文を学んだ。文化八年(1811)春、大阪に遊び、高岡静古、篠崎小竹、頼山陽に会い、山陽の弟子となった。のち山陽は京に、藤城は郷里に帰り、お互いに文通した。文化十年(1813)晩秋、山陽は美濃に来遊し、上有知に藤城を訪ねしばらく藤城邸に寓し、郡上にも遊んだ。山陽の門下俊才中、藤城は最も山陽に敬愛され、史学・文章をもって塾中に有名であった。山陽の「日本外史」を首として諸史を編述するに当たっては、常に藤城が参与していた。山陽は藤城を尋常の弟子として扱わず、山陽の経済窮乏の際には藤城がよくこれを救った。文政八年(1825)、郷里の上有知の藤城山に私塾を開き、藤城山居と称し、また梅花三〇〇〇を植え、茅舎を梅花村舎とも呼んで人を集めて教授した。天保末年、郡上藩に招かれ藩校潜竜館で経史を講じ、天保十一年(1828)には犬山城主成瀬正住が敬堂館を新設すると、ここでも藤城は経史を講じ、門人は美濃各地から集まった。また政治的手腕も発揮し、旧尾州領内五十三ヵ村の総庄屋として村治にも業績があった。嘉永三年(1850)八月、牧谷地方の洪水の折、農民八百余人が蜂起したが、藤城が諭し、また官に請うて倉粟を発して窮民を賑恤した。嘉永六年(1853)、但馬の城崎温泉に遊び、そこで病を得て死去した。年六十二。郷里に送る櫃には頼三樹三郎が従った。


村瀬太乙墓

 村瀬太乙(たいつ)は村瀬藤城と同族。文化元年(1804)に生まれた。長じて笈(おい)を背負って京都に出て頼山陽に学んだ。塾にいること三年。山陽の没に遭い帰郷。名古屋に出て長島町で子弟を教導。天保末年、犬山城主成瀬正住が藤城を招こうとしたが固辞し、代わりに太乙を薦めたため、招かた。弘化元年(1845)、犬山版名古屋藩邸の学舎にて教授。明治三年(1870)、犬山に移り、前の如く学を督した。太乙は経史、詩文を説くにあたって字句に拘泥せず、大義を通じ、活眼を開くことを常とし、しばしば俚言諧謔を交えて、文墨を弄び、後進を誘導した。その書は頗る特徴があり、巧みであった。明治十四年(1881)、年七十八で没。


村瀬秋水墓

 村瀬秋水は、幕末維新期に活躍した書画家。村瀬藤城の弟。張月樵、野呂介石にまなび、郷里で書画に専心した。明治九年(1876)、死去。八十三歳。

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