史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

唐津 Ⅱ

2015年08月14日 | 佐賀県
(近松寺)


近松寺

 近松(きんしょう)寺は、寺沢広高によって再建された寺で、山門は名護屋城の門を移築したものと伝えられる。境内には近松門左衛門や小笠原長和の墓や曽呂利新左衛門の作と伝えられる庭園「舞鶴園」、小笠原家関係の資料を展示する小笠原記念館など見どころが多い。


近松寺山門

 本堂の裏には、小笠原家の墓所がある。ここに箱館で戦死した小笠原胖之助(三好胖)や小笠原家の家令をつとめた前場行景(旧名・小五郎)らが眠る。


小笠原胖之助(三好胖)墓

 小笠原胖之助は、嘉永五年(1852)、唐津藩主小笠原長泰の四男として、江戸の藩邸で生まれた。三好胖(ゆたか)とは会津入国後に用いた変名である。慶応四年(1868)二月末、旗本の有志が彰義隊を結成して上野寛永寺に立て籠もると、同調する幕臣や諸藩士が続々と参集した。小笠原胖之助は、栗原仙之助ら九人の唐津藩士を引き連れて、純中隊に加わった。しかし、五月十五日の上野戦争で、彰義隊は一日で敗れ、小笠原胖之助一行は江戸市中に潜み、同月二十四日、輪王寺宮とともに幕府軍艦「長鯨」で平潟へ脱走した。この時同行した唐津藩士は十八人であった。一行は輪王寺宮を護衛しつつ六月上旬に会津に入り、ここで小笠原長行らと再会する。輪王寺宮を迎えた奥羽越列藩同盟は元老中の板倉勝静と小笠原長行を参謀とすることを申し合わせた。八月二十一日、母成峠の戦闘で旧幕府軍脱走兵と会津藩兵は惨敗を喫した。この戦闘で唐津藩士は六名が戦死している。生き残った藩士は、小笠原胖之助一行に合流し、上山、福島、白石と辿って、九月に仙台に入った。仙台で唐津藩士二十三名は、桑名藩士や備中松山藩士と同様に新選組に加入して蝦夷に渡ることを決めた。このとき加入した中に小笠原胖之助がいる。十月二十一日、旧幕軍は蝦夷の鷲ノ木から上陸を始めた。同月二十四日、七重で官軍と交戦し、小笠原胖之助は戦死を遂げた。この時、従者小久保清吉も同様に胸を撃たれて戦死した。小笠原胖之助、享年十六歳。二人の遺体は唐津藩士の手により七重の宝琳庵に葬られた。小笠原胖之助は、「眉目秀麗で、丈高く、豪胆、隊中になった」(子母澤寛「幕末の群像」)と伝えられる。


前場行景翁(小五郎)墓

 前場小五郎は、天保十二年(1841)の生まれ。唐津藩家老前場幸右衛門の子。万延元年(1860)に家督を継いで、御近習、家老(五百石)となった。小笠原長行の身を案じた前場小五郎は、小笠原胖之助に同行して各地を転戦し、六月六日、会津で小笠原長行と出会う。前場小五郎も新選組の一員として蝦夷に渡ったが、結果的に在隊期間は約二か月に過ぎない。明治二年(1869)一月四日に新選組を離れ、ほかの随行者二名(米渓彦作、尾崎和一郎)とともに小笠原長行に仕え、身の世話をした。小笠原長行は、箱館近郊の亀田村に住んでいた。当初、箱館政府の榎本総裁は、三候(松平定敬、小笠原長行、板倉勝静)の箱館退去に難色を示したが、四月初めに官軍の蝦夷地上陸が現実のものになる前に脱出することを勧めた。小笠原長行は四月二十三日、外国船で箱館を脱出。前場小五郎もこれに従った。東京湯島界隈に潜伏し。明治五年(1872)七月、自首したが、終戦から三年が経過しており、翌月には赦免された。前場小五郎は、小笠原家の家令となった後、一時官に出仕するが、以後東京や唐津の小学校で教壇に立った。明治三十八年(1905)、没。六十四歳。


小笠原記念館 奥村五百子の書

 小笠原記念館には、旧藩主小笠原家の関係資料のほか、唐津の生んだ女傑奥村五百子の書や遺品などが展示されている。

(大乗寺)


大乗寺

 近松寺に近い大乗寺は、加藤清正を開基とする寺で、本堂前には加藤清正公像が置かれている。墓地には新選組に加入した唐津藩士高須熊雄の墓がある。


高須家之(熊雄)墓

 高須熊雄は、天保十四年(1843)の生まれ、明治元年(1868)九月、仙台で新選組に入隊。明治二年(1868)、五月十五日、弁天台場にて降伏した。その後、旧藩に引き渡され、明治三年(1870)一月に放免された。その後の消息は不明であるが、傍らの墓碑によれば大正四年(1915)三月、没。享年七十三。法名は「剣心院清道日勇居士」。

(浄泰寺)
 浄泰寺は、寺沢広高が両親のために開いた寺である。やはり新選組に加入して活躍した山際平三郎の墓がある。


浄泰寺


山際平三郎墓

 山際平三郎は、弘化三年(1846)、唐津藩士山際平吉の子として江戸に生まれた。当時、江戸藩邸にいた山際平三郎は、小笠原長行の身を案じて胖之助に同行して会津へ向い、そこで長行と会う。八月、胖之助とともに会津を脱し、九月、蝦夷地に渡るために新選組に加入した。明治二年(1869)五月十五日の降伏まで戦ったが、戦後謹慎を経て旧藩に引き渡され、明治三年(1870)一月、赦免された。明治二十七年(1894)、四十九歳で死没。

(満島共同墓地)


西脇家之(源六郎)墓

 東唐津には、延々五キロメートルに渡って幅一キロメートルの松原が続く。「虹の松原」と呼ばれ、松の本数は約百万本という。初代藩主寺沢広高が、防風・防潮のために植林したのが、その始まりという。「三保の松原」(静岡)「気比の松原」(敦賀)と並ぶ三大松原の一つに数えられている。

 虹の松原の一画に満島共同墓地がある。入口を右手に進むと、西脇家の墓がある。ここに西脇源六郎が眠る。
 西脇源六郎は、文政十一年(1828)の生まれ。他の唐津藩士と同様に仙台で新選組に加入。蝦夷渡航直後の明治元年(1868)十月二十四日、七重における戦闘で股を負傷し入院。回復後、戦線に復帰するが、弁天台場で終戦を迎えた。戦後、旧藩に渡され、明治三年(1870)一月に放免。以後の消息は不明とされるが、明治十五年(1882)、五十五歳で没した。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 唐津 Ⅰ | トップ | 小城 Ⅰ »

コメントを投稿

佐賀県」カテゴリの最新記事