史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

仙台 Ⅹ

2019年09月07日 | 宮城県

(光明寺)

 仙台出張の空き時間に、レンタサイクルを調達して、市内の寺院を回った。仙台市内にはDATE BIKEという貸自転車がある。前もって会員登録をした上で予約しておくと、パスコードが付与されて、その番号で解錠できるという仕組みである。NTT docomoと提携しており、東京都内にも同じようなシステムが展開されている。こういう便利なシステムは、もっと全国各地に拡がって行くと有り難い。

 最初の目的地は、北仙台駅に近い光明寺である。

 

光明寺     

 

本郷文大夫源時保墓

 

 本郷文大夫は銃士。山家正蔵隊。慶応四年(1868)六月二十九日、磐城小名浜にて戦死。五十一歳。光明寺(「幕末維新全殉難者名鑑」では紹明寺となっているが、光明寺の誤りであろう)に遺髪が収められた。

 

(秀林寺)

 

秀林寺 

 

 

大槻家歴代之墓(大槻安広の墓)

 

 大槻定之進安広は、天保八年(1837)、仙台藩士大槻安貞の分家に生まれた。戊辰戦争には軍目付として白河口に出陣。官軍の参謀世良修蔵を藩士田辺覧吉、小栗大三郎とともに処刑した。田辺は自刃、小栗は失踪したのに対し、安広は検司という立場から捕縛され糾問を受けたが、申し立てが明確であったため赦され、仙台へ帰った。明治二年(1869)、芋沢村(現・仙台市青葉区芋沢)に転居。以後、殖産に力を注ぎ、開墾や植林事業に従事した。明治十七年(1884)、宮城県郷六村外六ヶ村の戸長に推され、植林事業の奨励に努め、後に県会議員に選出された。県より桑苗の無償交付を受けて各村毎戸への配植や養蚕講師の招聘を行ったほか、長男広人を東京西ヶ原の蚕業講習所に入所させ、卒業後は養蚕飼育事業を担当させた。明治三十一年(1898)死去。六十二歳。

 

 

荒井家之墓(荒井宣行の墓)

 

 荒井宣行は、天保三年(1832)の生まれ。星恂太郎率いる額兵隊に入隊して頭取・裁判役などを務めて戊辰戦争を戦い、仙台藩恭順後は榎本武揚らと旧幕府軍と行動をともにして蝦夷地に渡った。蝦夷地上陸時には、土方歳三の配下に入って松前攻略に活躍。蝦夷地平定後は、大野村を守備した。新政府軍と旧幕軍が明治二年(1869)四月より決戦を開始すると、木古内口に出兵して抗戦を続けた。箱館総攻撃では千代ヶ岡陣屋に出陣したが敗退。五月十八日、降伏を迎えた。箱館称名寺、弁天台場で謹慎した後、明治三年(1870)四月、赦免。仙台藩は脱藩士の帰藩を認めない姿勢をとっていたが、七月帰国を赦された。その後は郵便局長などを務めた。俳諧を好んだという。明治三十九年(1906)、死去。七十五歳。墓石側面には千歳園一叟という雅号と、行年七十七と刻まれている。

 

(永昌寺)

 

永昌寺 

 

有路家之墓(有路徳治墓)

 

 有路徳治は銃士。慶応四年(1868)五月一日、白河にて戦死。墓石には、「實覺悟心信士」という法名と諱「正常」が刻まれている。二十二歳。

 

 

鈴木家之墓(鈴木市郎左衛門墓)

 

 鈴木市郎左衛門(または一郎左衛門)は、茂庭周防家老。志田郡松山住。隊長。慶応四年(1868)八月二十日、磐城旗巻にて戦死。墓石側面には、行年五十一歳と記録されている。

 

 

従七位松倉恂墓

 

 松倉恂(まこと)は文政十年(1827)の生まれ。小姓として藩主伊達慶邦に仕え、進んで公議使出入司となり、戊辰戦争時の困難な藩財政を主務した。兵器・軍艦奉行として横浜外国商社と交渉、また勝海舟らに出入りし、戊辰戦争の運命について勝の語るところを聞いて悟るところがあったという。戦後、家跡没収閉門に処せられ、大童信太夫らと潜伏の生活を送ったことがあったが、のち愛媛、岩手各県に出仕。勧業に能吏の才をふるった。仙台区長、伊達市家令を経て隠棲、詩酒に余生を送り、明治三十七年(1904)、年七十三で没。

 

(荘厳寺)

 

荘厳寺

 

 

倉兼小兵衛貞秀之墓

 

 倉兼小兵衛は銃士。七番大隊。慶応四年(1868)七月十一日、羽前金山にて戦死。

 

 

忠兵義了信士(進藤小四郎墓)

 

 進藤小四郎は茂庭周防家来。慶応四年(1868)七月、磐城口にて戦死。

 

(江巌寺)

 

江巌寺

 

 

顯□義遼居士(若生善四郎の墓)

 

 若生善四郎は慶應四年(1868)七月十八日岩代本宮にて戦死。五十三歳。「幕末維新全殉難者名鑑」には記載がない。

 

(林宅寺)

 

林宅寺 

 

 

飯澤左久馬源頼進之墓

 

 飯澤左久馬は銃士。慶応四年(1868)五月一日、白河にて戦死。遺髪が林宅寺に葬られた。

 

(青葉城つづき)

  青葉城の大手門跡近くに若生文十郎の顕彰碑が建てられている。

 若生文十郎は、天保十三年(1842)の生まれ。雅号は楽斎、天逸、仏山。慶応四年(1868)三月、会津征討に当たって近習となり、会津に副使となって派遣され、謝罪賞典の方針を生みだした。奥羽列藩同盟の成立にも与り、五月軍務局詰、七月郡奉行に任じられ、急遽農民隊の徴募・結成に当たった。八月、番頭格軍事参謀となり、白石本陣にあって戊辰戦争に奮戦した。明治二年(1869)郡奉行兼応接掛として活躍中、政府の鎮撫使に捕えられ、家跡没収の上、切腹を命じられた。年二十八。弟精一郎は、自由党結成に参加。宮城県下の民権運動の草分けとなった。

 

                       

天逸若生君碑銘

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2 コメント

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仙台 Ⅹ (仙台はてな)
2022-10-10 11:30:13
仙台X 2019年09月07日 | 宮城県の記事を読ませて頂きました。

秀林寺の場所に、大槻定之進安広に関する以下の文章が有ります。
『大槻定之進安広は、天保八年(1837)、仙台藩士大槻安貞の分家に生まれた。戊辰戦争には軍目付として白河口に出陣。官軍の参謀世良修蔵を藩士田辺覧吉、小栗大三郎とともに処刑した。田辺は自刃……』

仙台藩戊辰史(下飯坂秀治著)によれば、明治元年10月12日総督府参謀より、以下の達を受けています。
伊達陸奥家来
但木土佐
坂 英力
瀬上主膳
田邊蘭吉(らんきち)
赤坂幸太夫(こうだゆう)
右の者は取り調べする必要があり、東京へ指し出す間逃げられない様にして大洲(おおず)藩【現愛媛県大洲市】へ引き渡しする様にとの命令が有った。


以上の様に、田邊蘭吉(資料により、田辺覧吉と記載しているものも有ります)は、仙台において明治元年10月に、総督府の取り調べを受けています。引き続き、明治2年9月に東京にて取り調べを受けており、自刃はしておりません。

ご確認頂ければ幸いです。
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仙台はてな様 (Unknown)
2022-10-14 22:17:33
大変申し訳ないですが、2カ月前から海外赴任しており、手元に資料も書籍もなく、現在調査のしようがありません。ご容赦ください。
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