(中島三郎助最期之地碑)
中島三郎助父子最後之地碑
明治二年(1868)五月十六日、千代ヶ岡陣屋を守る中島三郎助が、二人の息子とともに戦死した。中島三郎助は元浦賀奉行所与力で、ペリー艦隊が浦賀沖に出現したときに対応したことでも知られる。つまり幕末という時代の幕開けと終幕に立ち会ったという稀有な存在でもある。
中島三郎助は、戦死に先立つ二か月も前の三月三日、妻子に向けて遺書と思しき手紙を書いている。千代ヶ岡陣屋陥落前夜には榎本武揚から五稜郭内への避難を勧められたが、断っている。中島三郎助にとって覚悟の上の戦死だったのだろう。中島三郎助父子が戦死した翌日、旧幕軍は降伏して、箱館戦争は終結した。
この付近は中島三郎助父子に因んで中島町と命名されている。
函館市内には、中島町のほか榎本武揚に因む榎本町や梁川町(梁川は榎本武揚の号)もあり、この地で蝦夷地開拓を夢みた旧幕軍への市民の思い入れを感じることができる。
中島三郎助父子最後之地碑
明治二年(1868)五月十六日、千代ヶ岡陣屋を守る中島三郎助が、二人の息子とともに戦死した。中島三郎助は元浦賀奉行所与力で、ペリー艦隊が浦賀沖に出現したときに対応したことでも知られる。つまり幕末という時代の幕開けと終幕に立ち会ったという稀有な存在でもある。
中島三郎助は、戦死に先立つ二か月も前の三月三日、妻子に向けて遺書と思しき手紙を書いている。千代ヶ岡陣屋陥落前夜には榎本武揚から五稜郭内への避難を勧められたが、断っている。中島三郎助にとって覚悟の上の戦死だったのだろう。中島三郎助父子が戦死した翌日、旧幕軍は降伏して、箱館戦争は終結した。
この付近は中島三郎助父子に因んで中島町と命名されている。
函館市内には、中島町のほか榎本武揚に因む榎本町や梁川町(梁川は榎本武揚の号)もあり、この地で蝦夷地開拓を夢みた旧幕軍への市民の思い入れを感じることができる。
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