史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

名古屋 Ⅱ

2014年01月12日 | 愛知県
(名城病院)


名城病院

 名古屋城の南、名城病院は尾張藩家老成瀬隼人正の屋敷があった場所である。その東側、現在愛知県警のある辺りが、もう一人の尾張藩家老竹腰兵部の屋敷があった場所と推定されている。

(明和高校)


明倫堂

 尾張藩の藩校明倫堂が開かれたのは、天明三年(1783)、九代藩主徳川宗睦のときである。明治三十二年(1899)、この地に明倫中学が開かれ、昭和二十三年(1948)、明倫中学校と県立第一高女が統合されて、愛知県立明和高校となった。この石碑は、明倫堂開学二百年を記念して、昭和五十八年(1983)に建立されたもの。「明倫堂」の文字は、尾張藩八代藩主徳川宗勝の書である。

(堀川東岸)


愛知病院外科手術の図

 名古屋駅から徒歩で二十分ほど。市内を南北に縦断する堀川東岸の駐車場に面して「愛知病院外科手術の図」が掲示されている。この場所は、明治四年(1871)に開設された名古屋藩仮病院を起源とする愛知医学校・愛知病院(のちの名古屋大学医学部の前身)跡地である。現地に新築移転されたのは明治十年(1877)のことであった。
 愛知病院ではお雇い医師ローレツの指導のもと、西洋医学が広められることになった。大正三年(1914)、現在名古屋大学医学部のある鶴舞に移転するまでの三十七年間、この地域の医学教育と医療活動の拠点として輝かしい足跡を残した。
 この図は、ローレツの依頼を受けた愛知県出身の画家、柴田芳州の手によるもので、左手の眼鏡をかけた老人がオーストリア出身のアルブレヒト・フォン・ローレツである。ローレツはウィーン大学医学部を卒業後、明治九年(1876)から四年間を愛知医学校教頭として、先進的講義と医療を行った。その後、金沢や山形にも招かれた。
 右手手前で患者の腕を抑えているのが、司馬凌海(島倉伊之助)。その左で執刀しているのが後藤新平である。後藤新平(のちの台湾総督府民政長官、満鉄総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣)はローレツの離任後、二十四歳の若さで校長兼病院長に就任した。

(平和公園)
 今般、城山三郎の「冬の派閥」(新潮文庫)を読破したことに加え、夏休みに北海道八雲町を旅した体験から、改めて幕末の尾張藩で起きた青松葉事件に興味を持った。青松葉事件で斬首されたのは十四名。まずは彼らの墓から探訪することとしたい。これまで七卿落ちの公卿七名や桜田烈士十八名の墓を掃苔した私にとって、名古屋市とその周辺に点在していると思われる青松葉事件の犠牲者十四人の墓を巡ることは、さほど難しいことのように思えなかった。しかし、実際調べてみるとなかなか大変な事業のようである。
 まず東山動物園のそばにある千草図書館に行って「郷土資料コーナー」で書籍を漁ってみる。意外なことに青松葉事件を取り扱った書籍はほとんど見当たらず、地元であっても半ば忘れ去られた事件となっているようである。しつこく書棚を探しているうちに「名古屋名家墓地録(全)」(日比野猛著)という書籍を発見した。名古屋に所縁の人物の墓や法名を網羅的に紹介したもので、恐らく自費出版に近い形で世に出たものであろう。ここに青松葉事件で処刑された人たちは全員名前が掲載されていたので、まずはこの記述を頼りに墓を訪ねることとしたい。
 図書館を出た正面が、平和公園入口という交差点である。「入口」といいながら、この場所から平和公園まで徒歩で二十分くらいかかる。
 平和公園は、名古屋市が昭和二十二年(1947)に開設した公営墓地で、市内の二百七十余りの寺院の墓地をこの場所に集約したものである。公園の広さは百四十七㌶といい、東京の青山霊園の五倍以上の広さである。私の知る限り、霊園としては国内随一の広さである。見渡す限り墓が続く光景にしばし呆然とした。公園は寺院ごとに割り振られているので、まずこの中から該当する寺の墓地を探さなくてはならない。これが一苦労である。


岳丈(渡辺新左衛門在綱)之墓

 守鋼寺墓地にある渡辺新左衛門在綱の墓である。渡辺新左衛門在綱は、佐幕派の筆頭と目されていた。渡辺家は二千五百石の家老格の家である。尾張藩には同姓の家が多いため、「青松葉家」と呼ばれていた。この由来は、鉄砲の鋳造をする火を起こすのに青松葉を用いたとか、知行地から受け取る年貢に青松葉を指して数えたためとも言われる。


光勝寺墓地 伊藤圭介碑

 伊藤圭介は、享和三年(1803)尾張名古屋の生まれ。始めは町医として開業したが、文政四年(1821)、十八歳のとき京都に出て蘭学を学んだ。その後、長崎に留学してシーボルトに学んだ。文久元年(1861)には、幕府の蕃所調所物産所出役に登用され、維新後も東京に居住した。明治十四年(1881)には東京大学教授に任じられ、のちに我が国初の理学博士の学位を受けた。明治三十四年(1901)、九十八歳にて永眠。


興徳院殿高節英嶽大居士(成瀬正肥)墓

 白林寺墓地に成瀬家の墓域がある。成瀬家は代々尾張藩の附家老を務める家柄であったが、維新後ようやく独立した藩主として認められることとなり、その藩主に就いたのが成瀬正肥(まさみつ)である。尾張藩では勤王(金鉄党)対佐幕(ふいご党)の根深い対立が存在していたが、附家老である成瀬正肥も金鉄党に担がれ、一方の竹腰兵部少輔はふいご党側に立ち、両者は反目していた。


淳教院殿一貫以道大居士

 正肥の墓の傍らには、成瀬家八代当主の成瀬正住の墓がある。正住は天保九年(1838)に家督を継いで以降、歴代の尾張藩主に仕えたが、安政四年(1857)四十六歳で死去した。成瀬家は丹波篠山藩の青山家から養子として入った正肥が継ぐことになった。


元亨院利資銘興居士(武野新左衛門墓)

 武野新左衛門は、やはり青松葉事件で斬首に処された一人。成瀬家墓地のある白林寺墓地にある。「名古屋名家墓地録(全)」によれば、同じ墓地には、同じく青松葉事件で処刑された成瀬加兵衛や馬場市右衛門の墓もあるはずだが、発見できず。


塚田愿士愨墓(塚田殻四郎墓)

 大光院墓地にある塚田殻四郎の墓である。塚田も青松葉事件で処刑された人物である。


天龍院法船乗得居士(沢井小左衛門墓)

 万松寺墓地の沢井小左衛門の墓である。沢井も青松葉事件で斬首されている。


万国戦没者墓地

 平和公園バス停のすぐ横に万国戦没者墓地がある。名称のとおり、日本人だけでなく外国籍の戦没者の墓もある。その一角に無数の長方形の墓が並ぶが、どうやら西南戦争戦死者は含まず、明治十一年(1878)以降、名古屋鎮台などで戦病死した兵士の墓が集められている。傍らには大きなドングリの木があって、墓の周りはドングリだらけである。

 年末に大阪に帰省する途中、名古屋で途中下車する。「名古屋名家墓地録(全)」を著者日比野猛氏より入手したので、満を持して名古屋市内の墓を回る。地下鉄の券売機で一日乗車券を購入し、市内を精力的に巡った。しかし、圓頓寺、大光院、白林寺、宝琳寺などは、ことごとく墓地が無くなっており(基本的には平和公園に集約されている)、ほとんど「空振り」であった。これほど時間をかけて、目当ての墓に出会わなかったのは初めてであった。
 以下、平和霊園の墓を二つ。いずれも青松葉事件で斬首された安井秀親と横井時保である。


秀孝院徹叟義忠居士(安井秀親の墓)

 陽泉寺墓地は広大な平和公園の中でも、一番端っこに位置している。この中に安井秀親の墓がある。


捐館霊雲院吟松龍岡居士(横井時保の墓)

 横井時保の墓は、泰林寺墓地にある。この墓を訪ねたとき、激しい降雪となった。

(大光院)


大光院

 大光院の墓地も平和公園に集約されている。前回、平和公園の大光院墓地で塚田殻四郎は発見したものの、石川内蔵允照英の墓は見つけられなかったので、「もしかしたら」という思いで、市内の大須観音近くの大光院を訪ねてみた。しかし、やはり墓は残っておらず、残念ながら石川内蔵允の墓は現存していないと断定せざるを得ない。


橘井四時香(司馬凌海碑)

 今回の名古屋探訪は空振り続きであったが、思わぬ収穫もあった。偶然、大光院の境内に司馬凌海の碑を発見した。書は松本良順。司馬凌海こと島倉伊之助は、名古屋に居住していた間、この付近に住んでいたらしい。

(養林寺)


養林寺

 養林寺も名古屋市内にある寺であるが、墓地はそのまま境内に残されている。墓地はさして広くない。「名古屋名家墓地録(全)」によれば、青松葉事件で処刑された榊原勘解由正帰、寺尾竹四郎基之、林紋三郎信政という三名の墓があるという。隈なく探した結果、榊原勘解由の供養塔に遭遇。しかし、寺尾竹四郎と林紋三郎の墓は発見できなかった。寺尾家や林家の墓は、複数存在しているのだが…。墓地の奥には無数の無縁墓が積み上げられている。彼らの墓もこの中に埋もれているのかもしれない。


名古屋城青松葉事件
榊原勘解由(正帰)一類供養塔

 この供養塔は、平成四年(1992)に榊原勘解由のご子孫の手によって建立されたものである。

(徳林寺)


徳林寺


桂園田宮先生之墓

 徳林寺に田宮如雲の墓がある。田宮如雲は、文化五年(1808)生まれ。天保十年(1839)田安斉荘が尾張藩主を継ぐことに反対して金鉄党が結成されると、以後金鉄党の首領として活躍した。幕末には城代家老、明倫堂総裁など重用された。維新後は名古屋藩大参事。明治四年(1871)、六十四歳で死去。


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