夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

地方の集大成「大学」

2013-04-11 07:01:26 | つれづれなるままに
 大学生活で「孤独」な日々がしばらく続き、校内には立看があちこち並んでいて、「ベトナム戦争反対」から「「沖縄返還闘争」に変わりつつあった。

 私のクラスは日本文学科なので、女性のほうが多かった。自分の好きな学科は、心理学と中国語だった。そしてクラスの中に何人か友人ができて、少しずつお互いの下宿を訪問するまでになっていった。一人は盛島といって書道に集中している男で、出身は九州だった。もう一人は永田というやつで、こいつも九州の長崎だった。九州の人の言葉の特徴は、「せんぱい」が「しぇんぱい」「せんせい」が「しぇんしぇい」という。何かを聞くときは、「田舎へ帰っと?」は「田舎に帰るのか?」などと言っていたように思う。北海道、青森、岩手、宮城、関西など自分の新潟を加えれば、ほんとうに万国博覧会のようだった。

 私のアルバイト生活も次第に夜型が定着して、ガードマンが学生生活にはすごくありがたい職業であった。夜から朝方まで働き、途中仮眠時間もあったからだ。なんとかそれで、東京生活は安定し始めて、兄とは別の下宿に移り住んだ。当然大学の沿線の駅なので、月に1回会う程度になっていった。東武東上線は下町といった風情で、食べ物も着るものも安くて、生活しやすいと思った。〇〇銀座街なんていうアーケード街にかなりお世話になった。

チャンスの後に

2013-04-11 06:44:53 | つれづれなるままに


 人生はどうしてこうも起伏があるのだろう。「盤石」という言葉と「脆弱」という言葉がまるで反対であるように、大きな違いがそこにある。石橋を叩いて橋を渡ろうとしてはいても、結果的に橋脚が傷んでいる場合だってあるのだから。

 起伏や穴ぼこがあるのが人生なんだって思えば、怖いものなどないのかもしれない。それにしても、スタートラインを走りだして、最初に靴紐を踏んづけて自分で転んでしまうようでは、事前準備が十分とはいえないのだろう。

 写真は十和田市立美術館の屋外展示場の「蟻」で、巨大な赤蟻である。

 蟻のようにチームがそれぞれの役割を認識しながら、てきぱきとこなしていくことができたらどんなにいいだろうとふと思ったりする。蟻は新任者研修なんてやらないのに、どうしてお互いのやるべきことを認識し、連携できるのか。DNAのなかに精密な設計図があるのだという。このDNAをすべての動植物が持っているのだということを考えれば、私たち人間のDNAは少し欠陥が多過ぎやしないかとふと思う。

 蟻の世界に反逆者が出た、などという話は聞いたことがない。

おら東京さ行くだ

2013-04-10 06:35:49 | つれづれなるままに
 1970年(S45年)、私は花の東京を目指した。この年にビートルズが解散。

 何も知らないオノボリサン状態で、私は先輩である兄と幼馴染の優子ちゃんの出迎えを受けて、東京のレストランでステーキなどをこちそうになって汗をかいていた。
 何しろレストランなんて行ったことなかったし、ナイフだフォークだスプーンだ、それも何種類もあって、何がなんだかわからずに、兄からいささかの手ほどきを受けては見たが、せっかくのステーキが美味かったかどうかすら覚えていない。

 兄は私より2学年先輩で、渋谷の大学に通っていた。私は板橋に本部のある大学で、2年生までは東松山の大学に通うことになっていた。

 兄が実はその2年前に国立一期の大阪外語大学を受験し、合格していたら私は大学受験は許されなかっただろう。親父は私立大学など全く信用しておらず、と言うよりも私立大学に出すほど経済的なゆとりがなかったといったほうが良かったのかもしれない。
 
 当時は兄は新宿下落合の下宿にいて、私もその下宿に身を寄せた。何しろ6畳間にふたりで1万円は格安で、ただし飯は自分で外食するしかなかった。
 当時の学生は仕送りの平均が3万円で、私達兄弟はその半分ずつを仕送りを受けていたことになる。当然、生活費は足らず、定期代や食費、下宿代などを稼がなくてはならず、これも先行していた兄の助けを受けて、夜中のアルバイトを一緒に行った。三田というところにある凸版印刷で、夜7時30分から朝7時30分までの間仮眠もなく働いたのだ。

 当然朝の飯はインスタントラーメンで、当時は今のようなカップ麺は珍しく、電気湯沸し器の中にラーメンを放り込んで、二人で食べた。
 栄養など微塵もなく、それを補うためには、近所にあった学徒援護会という早稲田大学の学生寮の入っているビルに出かけて、夕飯を中心に頂いた。何しろA定食からC定食まであって、A定食は120円で肉もついた。どういうわけか兄と一緒に行くと、その食堂で働いている女性がC定食を頼んでも、A定食を出してくれたのが不思議だった。
 この援護会の開館には銭湯や床屋、それにハローワークのようなアルバイトを紹介する窓口もあって、私はどれほどこの会館の機能に助けられたかわからない。

 私たちの下宿には、兄と同じ大学や法政大学、早稲田大学の学生たち5人ほどが二階に住んでおり、階下は大家さん家族である。
 朝は8時を過ぎないと玄関が開かないために、山手線を時間調整と寝床として利用していた。時々寝過ごして大崎駅まで乗り過ごし、車庫に行く所で起こされるということもあった。
 それでも東京は私にとっては、自由で背中に翼が生えたような、この上のない開放感に満ち溢れていたのだった。

一度っきりの人生だ

2013-04-09 06:46:08 | 創作(etude)
幼い頃
そう
田舎の小学校から
町場の小学校に
転校してきた時
それは
小学校三年の頃だった

自分はなんで
生まれてきたんだろうと
そう思うと
涙がとめどなく
流れたことがあった
人はなんで
死んでいくんだろうと

何故そう思ったのかは
いまはわからない

その問いは
いまも
同じ問いとして
残っているのだ
生まれてきた意味
死んでいく意味
人生とは何か

正解は
ないのだろう
正解は
一人ひとりのみの
答えなのだから

それは私が
生かされていることを知り
自分は一人だけで
生きてこれたのではないと
実感しているのだから
仕合せという
お互いの関係性の中に生まれた
希望だったかもしれない

寿命という
めでたいことばがある
遣わされたいのち
それを使い果して
天に召される時
生まれてきた意味が
そこに問われる
そこにこそ
答えが残る

祝福しよう
すべての命の
生誕を
祝福しよう
すべての命の
燃えつきる時を
祝福しよう
一人のいのちの
歩んできた
尊い軌跡を




地下水/川崎 洋

2013-04-08 16:21:43 | サイクリング
地下水

 チーズと発音すれば
 笑い顔をつくる事ができます
 でも ほほえみはつくれません
 ほほえみは気持の奥から
 自然に湧(わ)いてくる泉ですから
 その地下水の水脈を持っているかどうか
 なのですから

 めったに笑わない顔があります
 でも
 澄んだきれいな眼をしています
 いつも
 遠くをみつめていて
 なんだか怒っているような表情です
 しかし彼は怒っているのではありません
 地下水の水脈に水を溜(た)めている最中なのです

 水が満たされて
 彼がほほえむのはいつの事?
 誰に対して?
 たぶん そのために 明日があります


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 めったに笑わない顔は
 自分のことのように思える詩でした。

「養之如春」

2013-04-08 07:15:04 | こころに残る言葉
「養之如春」(これをやしなうはるのごとし)

 何事であれ、物事を為すには、春の陽光が植物を育てるように為すべきだという意味。

 子どもを育てることも、愛情を育てることも、仕事を完成させることも、確かにあせらずゆっくりと時間をかけて、春の陽光が植物を育てるように時間をかけて育てる、そのような育て方に学ぶべきだ。

土帰月戻

2013-04-08 06:28:14 | つれづれなるままに


 娘たちが土曜日になると帰宅する。家内が言っていたが、「娘たちが居ないと家族がバラバラ・・・。会話も少ない。」

 娘たちの日常生活のケアは手が掛かるが、それは関わりという点では雲泥の差でもある。人が人と関わりあって暮らすこと。それは子どもが家庭にいるかいないかということと、大きく異るような気がする。

 我が娘たちは37歳と35歳ではあるが、とにかく全生活に手をかけてあげないと生きていけない。しかしその反面では懸命に生きていることがどういうことなのかを、私達家族としても感じ取り、嬉しくもさせてくれる。
 「ああ今日も彼女たちが元気で楽しく過ごせてる」という実感が、私達家族にとっても幸せなことなんだ。生かされているのはむしろこちらかもしれないと、そう感じさせられる。
 長女はこの所ケアホームでも、自室への移動を自分でしてしまうらしい。そのことは昨日の彼女の行動を見ていてもうなずける。ゆうに10メートルの距離のある廊下を、キーボードのある客間まで両上腕だけで到達し、お腹が空けばお昼も夕食も、居間まで声を出しながらやって来る。廊下の床はつるつる滑るフローリングなので、冬場は長袖で、摩擦が少なくなり力が入りにくいのだ。
 それでも彼女のえらいところは、諦めないことだ。そして辛うじて肌の剥きだしている両手首の部分を床に設置させて、前に進むことが効果的であることを身につけたのだ。

 私達家族が教えたわけではなく、彼女が生み出した前進法である。仮に私達がうつ伏せになって、彼女と同じ方法のみで進もうとしても、相当な努力無しでは前進は難しいのである。

 彼女の「日常生活の楽しみ」というツールがあるからこそ、彼女の行動は広がるのである。過剰な介護は、人を進歩させないということだ。

 冷たいようではあるが、大切なことは人が日々の生活を楽しいと感じられるものを手にできるかどうか、それが問題なのだと思う。

 次女も同じで、ケアホームの生活では近隣住宅への配慮もあって、電気のピアノで音量を制約されるため、彼女本来の楽しみが少し少ない。その分帰宅すると、電気ピアノを思いっきり週日鳴らし続け、そして飽きたら、姉のいる客間まで歩いて移動し、そこで音楽鑑賞をするのだ。落ち着ける場所を彼女たちが持っていられるということはまた、それはそれで幸せなことだと思う。
 きょうはまた通所して、夕方はケアホームに戻って行く。

 我が家の主役二人が居ないと、音の少ない生活がまたやって来るのだ。
 それは主人のいなくなった、番犬のような気分でもあることがわかった。
 

 

花は自分で咲く

2013-04-07 14:34:57 | 福祉について
 重度の知的障害と自閉症を併せ持ったA君。小学校3年生の頃から関わりを持っている。彼の今は昔のひ弱さも微塵もなく、すっかり成長した体躯に変わっている。
 彼は言葉が言えないことと、そのためか以前から自分の体を傷つけるという行爲「自傷」が時々見られた。自分の頬を叩いたり、自分の体をつねってあちこちが傷だらけになっていた。人の多いところが比較的苦手で、静かな場所を好む。体調が悪いとか、睡眠不足とか、服薬をしなかったりすると、この自傷行為が見られた。

 今日はご機嫌かどうかは笑顔の多さでもわかるが、自傷行為の頻度でもうかがい知れた。3月に入ってその彼が今までは見せなかったスタッフや利用者に噛みつくようになった。安全のために母親に通院を促した。
 利用者の安全を確保するために、彼にスタッフ一人がついて個室で過ごすようになった。一週間ほど経過しているが、その間の彼は心理的に安定して生活した。
 何よりもスタッフ全員が感じているのが、彼のそれまでの日常と違って、失禁することなく自分でトイレに往復し、ビーズ通しなどを短時間ではあるがやる気を見せるようになったことである。
 それまでは彼の関心は、感覚的な遊びや水を飲んでは衣服を汚して、着替えを幾度もするという行動傾向があった。

 その彼が今は別人のごとく、噛み付いたり自傷行為もしない、感覚的遊びも少ないとなれば、今までの集団生活が彼にとって如何にストレスになっていたのかということになるのではないか。 

 空間の設定のあり方は、広汎性発達障害の彼らには大きな意味を持っているようだ。今回の彼の他害行動と、服薬の継続化は少なくとも彼に大きな改善につながったように思う。言葉にならない抗議行動が、他害行動として現れていたように思う。
 今後の彼の支援方法をスタッフたちがどのようにしようとするのか、その方向性が問われている。
 

春のいきいきファーム

2013-04-06 12:37:36 | いきいきファーム
4月6日(土)
 きょうはとても気温が高くて、最高気温が15℃だそうです。この写真はもちろん岩木山ですが、この場所は「ブルーベリー畑」です。雪は殆ど消えかかっていましたが、ブルーベリーも豪雪で、かなり枝折れがありました。
 

 枝には今年の新芽がついていて、これからすこしずつ膨らんでくるような予感があります。

 日当たりの良い場所には、津軽弁で「バッケ」(ふきのとう)が出ていました。
  

今夜から明日にかけて天候が急変し、大荒れになるなんて雰囲気じゃないのですが・・・。

松井秀喜38歳の真実

2013-04-06 07:16:41 | サイクリング
 私はあまり野球には興味がない・・というのか、あまり見る気がしなくなっている。というのも、最近のテレビ番組の偏りはどうだろうか。吉本系のお笑いタレントの、自分たちだけで笑っている番組を見ていても少しも面白いと思わないのはどうしたことだろう。

 そういうわけで出来るだけNHKとかBSの登山番組や旅の番組などが多い。このところパソコンに向き合っての仕事が増えているせいか、夕食を済ませると布団に体を横たえていることが多い。本を読もうとスタンドの灯りで読書・・・と思いきやすっかり眠ってしまっている。

 そんな中、昨夜は10時頃目覚めて、起きて行くと台所に洗い物がたくさん残っている。このままでは明日の朝大変だろうと、食器洗いをする。
 そしてついでにニュースでも見よううとテレビにスイッチをつけると、BSに松井秀喜が映っていた。
 一つ目の番組は途中からだったが、松井が大リーグで、評価されるまでの苦闘が描かれていた。
 二つ目は小説家の伊集院静が見る松井秀喜、という感じで番組が構成されていた。

 ニューヨークヤンキースの松井秀喜。トーリ監督に信頼され、いい時も悪い時も外さないで使ってくれたという。
 いつも笑顔の松井は、打席に入っても審判や対戦相手の捕手とも、にこやかな挨拶があったという。写真でその3人が、笑顔で写っている一葉の写真が、それを表していて印象深い。「礼節」をいつも身に着けていた彼が、多くのチームメートに信頼されるのはそういうところにもあるのだろう。
 松井の人柄を表すエピソードで、ニューヨークの野球ファンには、松井を好きな子どもたちが圧倒的に多いということだ。そしてナイーブな子どもたちが、松井の笑顔に惹かれるのだという。それは松井の子どもたちへの視線の向け方にあるのだろう。自分が幼い頃から夢見た野球に、成長してプロ野球選手となった最初の言葉が「子どもたちに夢を与えられる選手になりたい」と語った言葉からも伺える。その当時の監督が長嶋茂雄だったのだ。

 もう一つの松井のエピソード。それは、「間」の取り方についてである。両膝を故障した彼は、膝の手術を受けて足には金具が入っている。ひどい痛みの時には杖をついて歩いていた松井。
 スポーツ選手に怪我はつきものだというが、大リーガーなのだから相当なプレッシャーを受けながらの日々ではないだろうか。
 その彼が、バッティングの究極の「間」の取り方に着目したのだ。神様と言われた川上哲治はボールが留まって見えたというエピソードを持つが、松井はボールを打つタイミングに「間」という瞬間を表現している。

 私はこの「間」という意識は、「あ・うん」のバランスにあるのではないかと思っている。いつも緊張していては、疲れるだけだし、緩んでいてばかりでは力も出ない。その適切なバランスこそが「阿吽」の境地ではないだろうか。

 書字をする時も、若いころは力を入れすぎた字を書いていた。しかし年をとってきたこの頃は、むしろ脱力して書いたほうが、良い字が書ける気がしてきた。何故これがわからなかったのだろうなんて思う。

 38歳という若さの彼に、日本の「武士道」のような生き方を見たひとときだった。