大学生活で「孤独」な日々がしばらく続き、校内には立看があちこち並んでいて、「ベトナム戦争反対」から「「沖縄返還闘争」に変わりつつあった。
私のクラスは日本文学科なので、女性のほうが多かった。自分の好きな学科は、心理学と中国語だった。そしてクラスの中に何人か友人ができて、少しずつお互いの下宿を訪問するまでになっていった。一人は盛島といって書道に集中している男で、出身は九州だった。もう一人は永田というやつで、こいつも九州の長崎だった。九州の人の言葉の特徴は、「せんぱい」が「しぇんぱい」「せんせい」が「しぇんしぇい」という。何かを聞くときは、「田舎へ帰っと?」は「田舎に帰るのか?」などと言っていたように思う。北海道、青森、岩手、宮城、関西など自分の新潟を加えれば、ほんとうに万国博覧会のようだった。
私のアルバイト生活も次第に夜型が定着して、ガードマンが学生生活にはすごくありがたい職業であった。夜から朝方まで働き、途中仮眠時間もあったからだ。なんとかそれで、東京生活は安定し始めて、兄とは別の下宿に移り住んだ。当然大学の沿線の駅なので、月に1回会う程度になっていった。東武東上線は下町といった風情で、食べ物も着るものも安くて、生活しやすいと思った。〇〇銀座街なんていうアーケード街にかなりお世話になった。
私のクラスは日本文学科なので、女性のほうが多かった。自分の好きな学科は、心理学と中国語だった。そしてクラスの中に何人か友人ができて、少しずつお互いの下宿を訪問するまでになっていった。一人は盛島といって書道に集中している男で、出身は九州だった。もう一人は永田というやつで、こいつも九州の長崎だった。九州の人の言葉の特徴は、「せんぱい」が「しぇんぱい」「せんせい」が「しぇんしぇい」という。何かを聞くときは、「田舎へ帰っと?」は「田舎に帰るのか?」などと言っていたように思う。北海道、青森、岩手、宮城、関西など自分の新潟を加えれば、ほんとうに万国博覧会のようだった。
私のアルバイト生活も次第に夜型が定着して、ガードマンが学生生活にはすごくありがたい職業であった。夜から朝方まで働き、途中仮眠時間もあったからだ。なんとかそれで、東京生活は安定し始めて、兄とは別の下宿に移り住んだ。当然大学の沿線の駅なので、月に1回会う程度になっていった。東武東上線は下町といった風情で、食べ物も着るものも安くて、生活しやすいと思った。〇〇銀座街なんていうアーケード街にかなりお世話になった。
行ったばかりの時は言葉がまるで
外国語のように聞こえたそうです。
私も結構広島の友人が多いです。学生時代に2度ほど遊びに行きましたが、それほどわたしは聞きづらいと思えませんでした。
一番は奄美大島の人が家族と電話している時で、全くわかりませんでした。