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「禅僧が女を抱いて川を渡る時」柳田 邦男

2013-04-29 06:21:11 | 私の本棚
 柳田邦男氏は私の心の水平器だ。心が揺れ動く時に読むと、なんだかもう一度バランスが良くなるのだ。
 
 文藝春秋社の「人生読本」を読んでいたら、「禅僧が女を抱いて川を渡る時」というテーマで彼の文章があった。

 『初めに「こだわる」ことの心理について。こだわるとは、漢字では「拘る」。「常用字解」(白川静・平凡社)によれば、「ほう」という外側の包み込む字は、「身を曲げた死者を横から見た形」で、「人を執(とら)えて、身を屈するようにおさえるのを「拘」という。つまり、「拘」は「とらえる、おさえる、かがむ」の意味を持つようになったという。

 「拘束「拘泥」「拘留」という言葉の意味がリアリティを持って迫る。

 普通の人々の中にも自分の生き方や周囲の人々との関係で、「こだわり」が高じて抜け出せずに苦しんでいる人が多いのではないだろうか。「もっと淡々としていられたら」とか「天衣無縫の心境になれたら」と願う人が多い。

 略

 臨床心理学者の河合隼雄(かわいはやお)先生が「こだわりの克服」ということをアメリカの講演記録の中で「ユング心理学と仏教」に述べられている。

 以下要約文

 二人の禅僧が川を歩いて渡ろうとしているところに、美しい女性が来て川に入るのをためらっている。一人の僧はすぐに、彼女を抱いて川を渡り切ると、女性を下ろして淡々と別れた。二人の僧はしばらく黙々と歩いていたが、女性を助けなかった僧が口を開いた。
 「お前は僧としてあの若い女性を抱いて良かったのかと、俺は考え続けてきた。あの女性が助けを必要としていたのは明らかにしてもだ」すると、もう一人の僧が答えた。
「確かに俺はあの女を抱いて川を渡った。しかし、川を渡った後で、彼女をそこに置いてきた。しかし、お前は、まだあの女を抱いているのか」と。
 

 このパラドキシカルなエピソードについて、河合先生はこう語るのだ。
「女性に触れてはならぬという戒めを守ることに心を使った僧は、女性に対するエロチックな感情につかまってしまっています。実に自由だったもう一人の僧は、私に風のイメージを思い起こさせる」

 「風のイメージ」いいな、と思う、形に拘らず、相手の形に応じて変幻自在、どのようにでも自らの形を変え、相手にサラリと触れるけれど、飄々と去っていく。

 略

 バッハはこう弾かねばならぬ、こういう職業の人はこうあらねばならぬ、こういう社会規範がある以上は絶対守らねばならぬ、世の中はこうなっているのだから従わねばならぬ・・・・そんな「ねばならぬ」への「こだわり」で、人はなんと悩み苦しんでいることか。
 私は余りにも多くのそういう人々を見てきた。そして私自身もしばしばそういう「拘泥」の泥沼に浸かってきた。
 だが、何のこだわりもなく女を抱いて川を渡った禅僧のことを学んでからは、私は何かの「こだわり」に捕まるたびに、その禅僧のイメージを頭のなかに思い描くようにしている。自分の全身に染み付いた規範を修正するには、長い長い歳月を必要とするから、そう易々とは「こだわり」の癖を克服することは出来ない。しかし、長期にわたるカウンセリングのクライエントになったつもりで、繰り返し繰り返し禅僧のイメージを想起するようにしていれば、いつかは自分を修復できるのではないかと思っている。』

 私が「こだわり」について思い起こすのは、「名探偵モンク」というBS番組だった。
 モンクは潔癖症というこだわりがある。そしてそれは「広汎性発達障害」という枠組みの中で考えられる特性を持っている。普通の人が見ようとしない「視点」がそれだ。そして事件の解決に、それは役立っていた。しかし、人間関係を取り持つ力は不足していて、相棒の女性や友人の警部にいつも理解と協力がなければ探偵社としての経済的な自立は出来なかったであろう。
 そして定期的な精神科医からのカウンセリングを受けること。
 愛妻を追い求めている彼は、もう戻ってこないはずの愛妻をいつも思い続けている。「帰ってこない」といわれる声を頑として拒んで暮らしていた。

 心が何かによって拘泥されている状況は悩みや苦しみとしても捉えられるかもしれないが、、しかし拘泥する自分が《自分らしさを守ること》として考える時、それはまた拘泥していたい自分でもあるようにも思えるがどうだろうか。