いよいよ弘前城の桜が開花に向けて動き出した。外堀の桜の蕾は赤みを増して、その時を待っている。北国に住んで本当に良かったと思う季節。それは春であり、明確な四季の美しさにある。そこには時という循環が、気候を通じて私たち人間に突きつける明確な距離であり、究極の愛でもある。輪廻転生ということばのように、春夏秋冬それぞれが美しくまたそれぞれに険しい。しかしこの四季はつながっていることは確かで、決して死に絶えているわけではない。輝いているようにも見えるが、刻一刻生者必滅へと歩を進めてもいる。それはまるで人間の一生にも似ている。
桜だけが春の代表ではない。山々に降り積もった雪が今ようやく一滴の雫となり溶け出し、その合流したものが川を形成する。この時期、川という川すべてがゴーゴーと音を立てて、あふれんばかりの水を海に押し出す。そしてまた緩やかな水勢に戻る頃、灼熱の夏が君臨するのだ。そんな時ふと、こんな歌を思い出す。
野坂昭如の歌
春は夏に犯されて/夏は秋に殺される/秋は一人で老いぼれて/ああ冬がみんなを埋める/桜の木の下に/桜の木の下に
2年間の空白を埋めるかのように、昨日心の友が私を訪ねてきた。遠い下北の地に彼は30年ぶりに帰って、再起を発念している。思えば2001年にあうんがスタートして、その年の6月の第一回目のコンサートが彼のコンサートであった。そして7年間僕も彼もこの絆が切れるなどとは夢にも思わなかったはずだった。しかし、人生の神は絶頂期に向かう寸前で、その絆を断ち切ったのだ。
誰が悪いのでもないのかもしれない。それはすべてのものに責任があり、すべてのものに責任はない。それがそのときに必要だったかどうかもわからない、変更不可能な雪代なのだ。すべてはどの雪の一滴の始まりだったのかなど、意味がない。あるのは厳然たる別離なのだ。
男が男に惚れるということを、その悲しい別離の中で知ることになった。しかしその別離の涙の一滴こそ、この雪代のように彼を悲しみという力で大海に押し出したのではないだろうか。
陸封型の山女や岩魚は大きくなれないという。大海に出てまた戻って来る彼らは、2尺(60センチ)以上に成長して生まれた川に回帰するのだ。
再生するとはまさに孤独であり、冒険であり、苦難であるだろう。でも、これは神の啓示だと思えばよいのではないだろうか。自分という魂をもう一度しっかり持ち直して、その発露の方法を見出すのだ。
頑張れ(けっぱれ)友よ!君の手には愛するギターと、君の唇には歌があるじゃないか。あうんの子らが、君をあんなに待ち焦がれていたじゃないか。大興奮させることのできた言霊(ことだま)なのだから、その伝えようとするものの側にあるべき魂(SOLE)が大切なんだろうと思う。氾濫すべきパワーがあるからこそ、新たな再生力もまた大きいのだと思う。どうかもう一度一滴から歩みだしてほしいと強く願う。そんなうれしい再会が昨日あった。