夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

画廊「ゆいまある」

2008-12-13 16:34:58 | つれづれなるままに
 パン工房「ゆいまある」は嵐のような12月になっている。それは立地条件がよいのもあるが、お客の目にとまりやすい場所でもあって連日売り切れ状態である。このことではスタッフも悩み始めている。どんなにがんばってもこれ以上の生産量を超えることはむずかしいらしい。というのも以前の店では、店頭販売は2割で、残りはすべて注文による配達であったからだ。これが今は逆転し、以前の一番生産していた土曜日が約400コだが、今は毎日500コを生産してもなお売り切れなのだ。注文配達を辞めれば店頭のお客様に迷惑をかけることは少なくともなくなるらしいが、今まで温情にすがって注文を受けてきたのである。はいそれじゃという形で注文配達をしていたおなじみさんにどのような顔でお断りできるのだろうか・・・。きょうもある保護者からクレームの手紙である。せっかくお客を紹介しても、商品がないようじゃお客が寄りつかなくなる」というのだ。そうはいっても、ない袖は振れないのである。昨日ゆいまあるの通所者には、2ヶ月分の賞与が支給されている。なんと言ってもこの店は、彼らの店でもあるのだ。気持ちよく働ける店でなければならない。おそらく来年は目標の月給が今の3倍に増額は間違いないだろう。しかしこの店はしょうがいしゃの店とは謳っていないのである。手作りのパンの店なのだ。
 パン工房の隣にあるスペースは喫茶可能なスペースと、今ははせくらみゆきさんの絵画展を開催中である。そして、メインの壁には横浜市のすずき画伯の「こころ合う日」がお客様をお迎えしている。画廊「ゆいまある」としての機能もみなさんに味わって欲しいものである。

帰郷の準備

2008-12-13 07:09:20 | つれづれなるままに
 外気温がほとんど上がらず、最高気温が5℃の予報が出ていた。でももっと寒い感じがした昨日、夕方には雪が舞っていた。新潟の母が29日には地元の病院に転院するという、兄の知らせがメールで届いた。思いの外回復の具合がよいのだろうか。滋賀に嫁いだ妹が今は18日まで付き添ってくれている。やはりこう云うときに活躍するのは、妹だ。昔から彼女はお茶目ではあったが人の世話が好きで、自分が入院したときにすら同室の患者さんの世話をしていたという。母は少しうるさいという思いもあるようだが、一番気持ちを許せるのは妹しかいないだろうと思う。私も年末には家内と二人で見舞いに行こうと話しており、昨日旅行社と連絡を取り28日(日)に飛行機で羽田へ向かい、新幹線で長岡入りすることにした。二人の娘は短期入所であうんへ依頼することにしている。それにしても、しょうがいのある娘をふたり誰かに依頼して旅をするなどということはこれまでの30数年の人生の中で、今年の6月の京都行以来だから、思えばようやくこういうことができることを喜ばなくてはいけないことなのだ。私の娘を誰かに依頼することは、そこに相当の信頼感を置かなければ決して預ける気にはならない。たとえば排せつ、食事、入浴、日中の過ごし方、彼女たちの生活上の楽しみの支援、寝方、薬の管理・・・。どれも欠落してはならない項目である。これをクリアできるようになったのは、あうんがそれを可能にしたからだろう。あうんのスタッフは良く娘たちのことを理解し、そして親の期待にこたえてくれていると思う。ありがたいと思うし、これは決して私たち両親だけではなくすべての保護者にも通じる信頼感だと思う。昨日の夜も重度のしょうがいのあるAさんが、短期入所で宿泊するという。しかし夕方から微熱が出てきて、てんかん発作の不随運動がみられるようになった。母親はパートの夜の仕事で、8時過ぎにならないと帰れないと云う。発作を抑制する座薬を挿入して、それでもだめなら迎えに来るという。そんな状態でも依頼したい場所があるというのは、本当にありがたいことなのだろう。母親も疲労感の中にあるのだから・・・。
 新潟行きのチケットは確保できたが東京からの新幹線は満員で、グリーン車しか空いていなかった。結婚してから二人だけの旅は二度目なのだからとか、12月は結婚記念月なのだからとか理由付けをしてそれを利用することにした。思えば今月は彼女のパン工房の開店で、ほとんど休みらしい休みもなかったのだ。昨日も今朝も朝5時には起床し出かけている。こんな時くらい少し楽をしても許されるだろうと、ふと思っていた。彼女は二人の娘をまた見るために30日には弘前に戻ることにしている。私はそのまま実家に残って、兄夫婦や妹と母の今後のケアについて相談することにしている。そして少しでも手伝えることをしようという気になっている。何年ぶりの実家での年越しだろうか。こういうことにならないと、里帰りが難しくなっていること自体なんだか寂しい気がしている。母の気持ちを考えれば、少しでも希望の湧く環境を作って上げたいと思っているところである。

のれそれ雪とろけ隊結団式

2008-12-12 08:26:06 | 福祉について
 昨夜6時30分から、町中央公民館で恒例の「のれそれ雪とろけ隊結団式」が開催された。民生児童委員ほか約40名ほどであった。いつもと違うのは、昨年から隊長が私ではなく後輩のTさんになったことだろう。彼は私の前の職場の後輩で12歳年下である。私は平成8年から10年間、のれそれの隊長を努めた。「のれそれ」は津軽弁で「目一杯」、「とろける」は「片づける」と言う意味である。
 11月にふれあいボランティア会が主催した高齢者の生活福祉意向調査の結果がまとまった。その結果は冬を前にしたこともあるのだろうが、雪の問題が多かった。「屋根の雪下ろしができない」「除雪車両の残していった玄関先の雪が重たくて、片づけられない」
今まで屋根の雪下ろしを中心に進めてきたこの隊の活動内容を、玄関先の雪片づけにシフト変換が必要になって来ている。果たして今年は雪はどの程度の量になるのだろうか。岩木山の山麓には必ず雪は降り積もるのだから、私たちの活動がなくなることはないのだ。みんなで怪我に注意をして頑張ろうという乾杯の言葉が耳に残った。

初冬の水田で

2008-12-12 07:06:54 | つれづれなるままに
 岩木山の姿のまるで見えない朝だ。空には厚い雲がかかって、コーコーと低空を6羽の白鳥が鳴きながら旋回して飛んでいく。水田には水稲の落ち穂が、思ったよりもたくさん散らばっていることに気付いた。白鳥や鼠たちの食料になるのだろう。
 午前中の晴れ間を利用してあうんの3人で水田に積まれている藁を回収して、トラックでブルーベリー畑へと運んだ。来年以降の有機たい肥を作ることが目的である。1時間もすると次第に雨が降り始め、やがてみぞれに変わった。水田はぬかるみ、次第に体力との勝負を感じ始めた。雨水でぬれた身体が更に寒気で冷えはじめ、足が重たく感じられる。軍手も濡れてもう手がしびれ始めている。水をたっぷり含んだ藁の束を、トラックに積み込む。次第に3人は口数が少なくなり、疲労の極は近づいていた。ようやく2枚目の水田に移動して稲藁を運んでいると、その藁の中で越冬しようとしていたのか2匹の小鼠が不意をつかれて水田の水たまりを走った。せっかく巣を作って冬を越せるとでも思っていたのか、また次の稲藁の中に身を隠していた。いずれその稲藁も、トラックに積み込まれてしまう運命なのだ。
 次第に雨足も強まり、我々の作業も限界点に達していた。最後の稲藁を畑に運んで、昼食の待つ施設に戻ることにした。後1日分の稲藁が、まだ水田に残されていた。先ほど来の小降りが今度は土砂降りとなり、どんよりした北国の低く垂れた雲から稲妻が走っている。雪が岩木山に降っていることだろうと思う。もう間違いのない冬の到来なのだ。

日めくり暦のように

2008-12-11 08:24:22 | つれづれなるままに
 日めくりの暦がはぎ取られるかのように、私の残された日々がどんどん消えていくような気がしている。本当はもっと残されて行くものなのだろうけれども、この空虚感は何だろうか。そしてもう一方の焦燥感は、やり残したことのあまりにも多いことの念慮だろうか。
 もう一度ミヒャエルエンデの「モモ」を思い起こそう。街路掃除のベッポ爺さんだ。「あんまり先を見ては行けないよ。石畳1枚掃いたら空を見上げて、ふーっと深呼吸するんじゃ。そうしてまた一枚・・・」楽しみながら仕事をすれば、あっという間に片づいていることの不思議さ。もう一度ゆっくりズムの亀サンになろうと思っている自分です。

POEM 永遠のもの

2008-12-11 06:36:14 | 創作(etude)
ぼくが
 ぼくでなくて
 だれが
 ぼくになれるだろう

 ぼくであることが
 ぼくの歴史の始まり
 ぼくが
 引き受けるすべて

 ぼくの
 歩みを
 ぼくが
 運ぶ

 神から
 授けられた
 ひとつの
 ミッション

 ぼくの
 目の前に
 立ちふさがる
 試練

 失敗とか
 成功とか
 挫折とかは
 最初(はな)からなくて

 ぼくが
 どのように
 対峙したのかが
 問いとなるだけ

 ぼくの
 限られた時間
 その空間での
 唯一のもの

 躰は
 朽ち果てるだろう
 しかし
 永遠なる魂

 いつも
 見果てぬ夢
 ぼくの
 魂の旅
 
 

はせくらみゆきアートワークショップ&講演

2008-12-08 11:25:12 | 私と福祉とであいの旅
 12月7日(日)雪が降って翌日は、何とか岩木山も8割程度は姿を見せてくれた。そしていくらかは晴れ間が広がった。雪ははせくらさんへのプレゼントかも知れない。
 朝10時30分から12:00までの90分間、親子のふれあいを元に、天使の粘土を使ってクリスマスの世界をそれぞれが表現活動を行った。はせくらさんの説明に従って、白い紙粘土に水彩絵の具を思い思いに混ぜ込む。そして宇宙の星の世界と、火星人などのイメージを表現する子ども。クリスマスツリーや茸の家など、様々なイメージ遊びを行って、愉しいひとときが流れた。午後ははせくらさんの講演である暮らしはすてきな贈り物」~かろやかに愉しく生きるコツを話された。こころと身体の健康作りをわかりやすく説明してくれた。スピリチュアルなお話しもあったが、本当にそうだなと思ったのは健康への感謝である。そしてもっと細かく考えると私たちはあまり身体の細胞や臓器などへの感謝は、日常的にしていないことに気づかされた。食生活のあり方では、「ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こと」という日本の古い数の数え方を食生活の考え方に見立てて説明があった。なるほどと思わされる事柄でもあった。ひ・ふ・み・よについては、ひは日と陽を指し、ふは風、みは水を、よは大地(土)を表すこと。いは草(野菜)、むは虫(微生物)、なはゴマ、やは動物の肉、ことは人間である。人間から一番遠い順に食べると健康によいと言われているとのお話しであった。なるほどと感心してしまう。
 こうして2日間のはせくらさんとの交流活動は終了し、また薄暗くなった夕方に青森空港へと向かったのである。12年間もおつきあいをしていただいているんだと言うことが今回の来訪で、再確認できたこともまた私たちの法人関係者にとって収穫といえるだろう。
 

再会そして新たな出会い ①

2008-12-08 07:32:46 | 私と福祉とであいの旅
 青森空港にアーティストであり、エッセイストのはせくらみゆきさんを出迎えに車を走らせた。はせくらさんとは12年前に知り合って以来法人が認可され、現在に至るまでずっとカレンダーを作成していただくという形でのご支援を戴いている。そのことももちろん主要な縁ではあるが、6年前の2002年に弘前にご家族を招き完成した施設を見ていただいたことがあった。そしてアートワークショップをあうんを会場として、弘前市内の親子の参加で開催した。そしてご主人とお子さま3人を案内して「三内丸山遺跡」を見学、そして岩木山周辺の林檎園でりんごもぎの体験、そして嶽温泉での宿泊をしていただいたのである。
 3年前には沖縄に転居していたはせくらさんの招きで、作品展を開催するために法人関係者とあうんのメンバーで文化交流の旅をした。この時は11月中旬だったのだが、青森空港は大雪で40㎝も積雪があった。おかげで沖縄便が大幅に遅れて、到着時刻も夜の7時を回っていた。そうしてはせくらさんのお友達との交流会が、にぎやかに開催されたのだ。やっぱり私の企画する行事には、雨や雪がつきまとうのだ。
 そんな日々となんだかだぶって見える空港への白い雪の道を、再会の熱い思いを持ち空港構内に車をつけた。
 予定通りに大阪からの便が着き、少しスリムになったはせくらさんと再会の握手を交わした。はせくらさんを弘前へ迎えた理由は、弘前市岩木文化センターの自主事業の「アートワークショップと講演」であった。それは表向きで、私自身にとってはパン工房ゆいまあるのお店を見ていただくことが一番大きい理由でもあった。なぜならば今度のゆいまあるには、お店のシンボルマークのゆいちゃんとまある君のデザインを彼女にお願いしそれを見ていただくことでもある。そしてもう一つはこのお店に、はせくらさんの作品やグッズコーナーを設けたことでもある。はせくらさんに売り切れ寸前の「バジルパン」と「ノア」を試食していただいた。「これはおいしい」と彼女にも絶賛していただき、自宅に送って欲しいと依頼を受けた。これもうれしいことであった。
 この夜にはせくらさんの「歓迎交流会」が開催された。法人関係者が30人ほど集まり、はせくらさんを温かく迎えて再会の喜びを交わし合った。最初はミニコンサートで、「ドス・ソレス」(二つの太陽)というユニットを結成した岩川光さんのケーナ、そして池田宏里さんの8弦ギターでの演奏を聴いた。ゆいまあるでの2度目のコンサートであった。その後2階の24畳の和室での交流会は、とても温かくそしてとても美味しいひとときでもあった。これからこの2階の和室は、新たな「出会いの間」として活躍してくれるに違いない。そんな思いをほろ酔いの中で感じながら、会場を後にしていた。
 
 

「はせくらみゆきさん」がやって来る

2008-12-06 07:11:26 | つれづれなるままに
 昨日は一日雨がちの一日だった。パン工房「ゆいまある」のお客の出足も順調で、相変わらず品切れ状態は続いている。それでもお客様は「今度こそ」という思いを持って帰って行かれるのだ。だから私たちも誠意を込めて、「申し訳ありません。ありがとうございました」と感謝の言葉でお見送りをしている。
 「やっぱり手作りパンは美味しい!」なんて言われるとそれこそ嬉しいものですね!玉田酒造店が無料開放している井戸水で、タンクに水を汲みに行くのが私の今の役割でしょうか。
 新たな店で新たなお客様をお迎えするのは、私たち店のスタッフだけではない。一つはすずきゆきおさんの「こころ合う日」の50号の素敵な油絵であり、もう一つは看板のキャラクターを書いてくれた「はせくらみゆきさん」の「ゆいちゃん」と「まある君」というシーサーをアレンジした可愛い絵である。はせくらさんのコーナーが店の中にあって、書籍やはせくらさん関連の座敷わらしの「わらびーちゃん」人形、「長面毛布」など並べられているところです。
 そしていよいよきょうご本人が青森空港に降り立ち、明日の粘土のワークショップと講演会が待っています。そしてきょうは夜6時30分からの歓迎交流会をゆいまあるで行います。その中にはミニコンサートが予定されていて「岩川光さん」のケーナ、サンポーニャ演奏と池田宏里さんの8弦ギターで楽しませてくれる予定です。そしてその後は、はせくらさんを囲んでの交流会。社会福祉法人 抱民舎のいわば忘年会も兼ねています。
 明日は10時から午後3時までのワークショップと講演会があり、はせくらさんはまた午後6時の飛行機で帰ることになっています。せっかくおいでになると言うのに、きょうは大荒れの雪模様です。どうなりますことやら・・・。人生はいろんな出来事が待っていますから、何とか無事にすんで欲しいと思います。
 一応彼女には天気と温度を伝えておきましたが、彼女も「あ、そうだ。私も北海道育ちだったんだわ・・・」という思いがけないずっこけで、二人で電話越しに笑っていました。6年ぶりの青森の旅が良い思い出になればと思います。てなことで昨日は文化センターあそべーるの会場で、会場のステージづくりやプロジェクターセットなどをして遅く帰宅しました。さあ、もう少しだぞ!!楽しもう!!
 

やさしき医師

2008-12-05 07:10:22 | つれづれなるままに
 昨日は娘たちの薬をもらいに病院に出かけた。家内がパン屋の開店のために身動きが取れず、私が行くことになった。娘たちは向てんかん剤を服用して30年、今はほとんど発作で騒ぐこともなくなった。たまにではあるが、長女の上腕や手掌の不随運動(ピクピク)が見られる程度である。そういう意味では、あの生後間もない時期の意味のわからない夜泣きや、死ぬのではないかと思えるような強い引きつけは親の胸を痛くした。記憶に残る発作では、たいてい夜になってからの発熱であり、日曜日や祝日の発作が多かった。大学病院のある弘前市に移転してからは、発作があっても20分程度で小児科の先生に処置の点滴を打っていただくことができて、それは治まるので安心だった。次女の引きつけ回数は少なかったが、いざ引きつけるとなればかなり強い継続的なもので、唇がチアノーゼになり呼吸しづらくなるほどで見ていて辛かった。
 1996年に青森県重症心身障害児(者)を守る会を設立して、その頃から国立X病院K医師とのつきあいが始まった。彼は私と同年であり、趣味が渓流釣りというのも身近な存在に思えた。何よりも歯に衣を着せない物言いは気になったが、ほとんどが子どもたちの側に身を置いた発言や視点なのではっとさせられることが多かった。そして彼の専門であるてんかん研究は、県内のみならず東北のてんかん疾患を持つ人々にとって頼りになる存在であった。彼とともに6年間、県内の僻地を中心に重症心身障害児の巡回療育相談会を継続した。本当に頼れる存在であった。
 彼の所属する病院は柔軟性に乏しかったが、彼はいつも状態が悪くなったらいつでも電話しろと携帯電話番号も親たちに知らせて、どんな非常時でも駆けつけ診察処置をしてくれた。そんな頼りがいのある医師が、突然病院長とのけんかで退職した。頼りになっていた医師K先生がいなくなる際に、私たちは先生から次に頼るべき医師へ紹介状を書いていただいた。それがY先生だ。私たちの施設が嘱託医を決める際に、Y先生を頼って快く引き受けていただいた。解説から以来8年目になるが、Y医師は嘱託報酬を全て私の法人に寄付してくださっている。それは在宅の障害者福祉ことに、小児科医である彼女はほとんどの障害児を担当している。このことでその障害児の頼るべき港を私どもの法人に見て下さっているからである。
 昨日も私はY医師の所属するQ病院の男親のいない,ましてや若い母親と幼子のみの場違いな雰囲気の小児科待合室で、Y医師の診察風景を見ていた。小児科は平日ではあるが朝から混雑していた。しかし、Y医師の問診時間は概して長く確保されていて、親の立場で話を良く聞こうとしている姿が近年の医療現場には見られない姿勢に見えて好ましかった。医療現場では心細い親子が医師の態度ひとつで、安心もし逆に断崖絶壁にも立つことがあることを思えば、Y医師やK医師の姿勢を身近にすることができた私は幸せだと思っている。