夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

やさしき医師

2008-12-05 07:10:22 | つれづれなるままに
 昨日は娘たちの薬をもらいに病院に出かけた。家内がパン屋の開店のために身動きが取れず、私が行くことになった。娘たちは向てんかん剤を服用して30年、今はほとんど発作で騒ぐこともなくなった。たまにではあるが、長女の上腕や手掌の不随運動(ピクピク)が見られる程度である。そういう意味では、あの生後間もない時期の意味のわからない夜泣きや、死ぬのではないかと思えるような強い引きつけは親の胸を痛くした。記憶に残る発作では、たいてい夜になってからの発熱であり、日曜日や祝日の発作が多かった。大学病院のある弘前市に移転してからは、発作があっても20分程度で小児科の先生に処置の点滴を打っていただくことができて、それは治まるので安心だった。次女の引きつけ回数は少なかったが、いざ引きつけるとなればかなり強い継続的なもので、唇がチアノーゼになり呼吸しづらくなるほどで見ていて辛かった。
 1996年に青森県重症心身障害児(者)を守る会を設立して、その頃から国立X病院K医師とのつきあいが始まった。彼は私と同年であり、趣味が渓流釣りというのも身近な存在に思えた。何よりも歯に衣を着せない物言いは気になったが、ほとんどが子どもたちの側に身を置いた発言や視点なのではっとさせられることが多かった。そして彼の専門であるてんかん研究は、県内のみならず東北のてんかん疾患を持つ人々にとって頼りになる存在であった。彼とともに6年間、県内の僻地を中心に重症心身障害児の巡回療育相談会を継続した。本当に頼れる存在であった。
 彼の所属する病院は柔軟性に乏しかったが、彼はいつも状態が悪くなったらいつでも電話しろと携帯電話番号も親たちに知らせて、どんな非常時でも駆けつけ診察処置をしてくれた。そんな頼りがいのある医師が、突然病院長とのけんかで退職した。頼りになっていた医師K先生がいなくなる際に、私たちは先生から次に頼るべき医師へ紹介状を書いていただいた。それがY先生だ。私たちの施設が嘱託医を決める際に、Y先生を頼って快く引き受けていただいた。解説から以来8年目になるが、Y医師は嘱託報酬を全て私の法人に寄付してくださっている。それは在宅の障害者福祉ことに、小児科医である彼女はほとんどの障害児を担当している。このことでその障害児の頼るべき港を私どもの法人に見て下さっているからである。
 昨日も私はY医師の所属するQ病院の男親のいない,ましてや若い母親と幼子のみの場違いな雰囲気の小児科待合室で、Y医師の診察風景を見ていた。小児科は平日ではあるが朝から混雑していた。しかし、Y医師の問診時間は概して長く確保されていて、親の立場で話を良く聞こうとしている姿が近年の医療現場には見られない姿勢に見えて好ましかった。医療現場では心細い親子が医師の態度ひとつで、安心もし逆に断崖絶壁にも立つことがあることを思えば、Y医師やK医師の姿勢を身近にすることができた私は幸せだと思っている。