「興福寺創建1300年記念・国宝阿修羅展」が上野で開催されており、妹の夫君からそのチケットをいただいた。家内と二人それを見るために、上野公園を目指した。日曜日のこの日雨が私たちを出迎え、想像以上に上野公園には、阿修羅展やルノワール展などさまざまなイベントを開催する会場を目指して、人々があふれていた。私たちも阿修羅展の長い行列の中に身を置いて、会場の入り口を目指していた。インフルエンザが大流行の兆しを見せる中、行列の人々の特異なマスク姿も目立っていた。約30分間進んでは止められを繰り返して、ようやく阿修羅展会場内に足を運んだ。第1会場、第2会場は、一目阿修羅像を見たいという熱気で、人があふれ返っていた。
和銅3年(710)の平城遷都にともない、藤原鎌足の子不比等は春日山のふもとに興福寺を創建した。この興福寺の創建にかかわる遺物として、中金堂鎮壇具が知られている。興福寺の中金堂は、平安時代以降7回焼失、再建を繰り返したという。享保2年(1717)の火災後は、仮の金堂が建てられ現在に至るという。
2015年に興福寺が再建されるという。そのバーチャル映像なども見ることができた。運慶の作とされる像を目の前に、青森県にもこの運慶が足を運んで仏像を製作していたことを想起していた。
「八部衆」「十大弟子」像は圧巻だった。なんといっても人々が熱いまなざしで取り巻いていたのは、最後の会場出口付近の「阿修羅立像」(写真右壁面ポスター)であった。
旅の最後に、心のリフレッシュとしての阿修羅展は、我々夫婦の命の洗濯にもなったような気がする。
和銅3年(710)の平城遷都にともない、藤原鎌足の子不比等は春日山のふもとに興福寺を創建した。この興福寺の創建にかかわる遺物として、中金堂鎮壇具が知られている。興福寺の中金堂は、平安時代以降7回焼失、再建を繰り返したという。享保2年(1717)の火災後は、仮の金堂が建てられ現在に至るという。
2015年に興福寺が再建されるという。そのバーチャル映像なども見ることができた。運慶の作とされる像を目の前に、青森県にもこの運慶が足を運んで仏像を製作していたことを想起していた。
「八部衆」「十大弟子」像は圧巻だった。なんといっても人々が熱いまなざしで取り巻いていたのは、最後の会場出口付近の「阿修羅立像」(写真右壁面ポスター)であった。
旅の最後に、心のリフレッシュとしての阿修羅展は、我々夫婦の命の洗濯にもなったような気がする。