夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

上野 国立博物館・平成館にて阿修羅展鑑賞

2009-05-18 07:21:55 | つれづれなるままに
 「興福寺創建1300年記念・国宝阿修羅展」が上野で開催されており、妹の夫君からそのチケットをいただいた。家内と二人それを見るために、上野公園を目指した。日曜日のこの日雨が私たちを出迎え、想像以上に上野公園には、阿修羅展やルノワール展などさまざまなイベントを開催する会場を目指して、人々があふれていた。私たちも阿修羅展の長い行列の中に身を置いて、会場の入り口を目指していた。インフルエンザが大流行の兆しを見せる中、行列の人々の特異なマスク姿も目立っていた。約30分間進んでは止められを繰り返して、ようやく阿修羅展会場内に足を運んだ。第1会場、第2会場は、一目阿修羅像を見たいという熱気で、人があふれ返っていた。
 和銅3年(710)の平城遷都にともない、藤原鎌足の子不比等は春日山のふもとに興福寺を創建した。この興福寺の創建にかかわる遺物として、中金堂鎮壇具が知られている。興福寺の中金堂は、平安時代以降7回焼失、再建を繰り返したという。享保2年(1717)の火災後は、仮の金堂が建てられ現在に至るという。
 2015年に興福寺が再建されるという。そのバーチャル映像なども見ることができた。運慶の作とされる像を目の前に、青森県にもこの運慶が足を運んで仏像を製作していたことを想起していた。
 「八部衆」「十大弟子」像は圧巻だった。なんといっても人々が熱いまなざしで取り巻いていたのは、最後の会場出口付近の「阿修羅立像」(写真右壁面ポスター)であった。
 旅の最後に、心のリフレッシュとしての阿修羅展は、我々夫婦の命の洗濯にもなったような気がする。
 

結婚式は青山・表参道のフレンチレストランで

2009-05-18 06:53:55 | つれづれなるままに
 5月16日(土)午後3時45分に、青山表参道沿いにあるフレンチレストラン「ミュージアム1999・ラブロッシュ」で、親族が集合した。大正時代に男爵が息子の結婚式を記念して建てたというクラシックな建物である。
 はじめに両家の親族が一堂に会して、紫陽花の花咲く庭先での記念写真撮影から始まった。次に両家の顔合わせ、人前結婚式を庭先で行った。私は病気で参列できなかった母の病床へのプレゼントとして、職場スタッフから借りたビデオカメラを担当した。バージンロードを父親である兄と、長女が最後の親子のイベントを行おうとしている。純白のウエディングをまとったMちゃんは想像以上に美しく輝いていたし、父親としての兄もこの時だけは格好良く花嫁をエスコートしていた。
 この結婚披露宴会場の実感として、レストランであることの強みだろう。フルコースの料理が、何よりもフランス料理で最上の味であったことだ。
 そして参列者3分の1は、新郎新婦が中学校時代の同級生であったことから若い人々で埋まっていた。残りの3分の1は新郎新婦の会社関係者、そして後の3分の1は両家の親族であった。合計80名の落ち着いた結婚披露宴はいよいよ最後の新郎新婦、両家代表挨拶へと移った。さすがに新婦のMちゃんの父親へのメッセージは、父親の目に涙をあふれさせていた。私の回すビデオカメラも、何とか無事大団円の新郎新婦のお客様お見送りの場面の撮影である。そして私の施設のメンバーが手作りで準備してくれたプチプレゼントのクッキーが、一人ひとりの参列者に手渡された。
 心地よい成就感を味わいながらほろ酔い気分の我々兄弟妹家族は、歩いて渋谷Tホテルを目指した。我々だけで二次会をして、別れを惜しもうというのだ。
 兄から母の近況報告があり、心配の種がいくらか緩和したような気がした。
 昨日の旧友との再会も同じであったが、このMちゃんの結婚はまた新たな家族が誕生して、新たな人生を踏み出そうとしているのだ。絆がまたひとつ増えていくのだ。私たちはそうしてまた、人生の終焉を目指して歩き出しているのかもしれない。

 

上京 その1 旧友との再会

2009-05-18 05:31:00 | つれづれなるままに
 私とカミサンは、5月14日の夜行バスで上京した。目的は16日の土曜日に姪の結婚式への出席である。そしてついでに人生のスタート地での、旧友との再会をすることであった。
 O市は私の大学卒業と、人生の職場としてのスタート地点である。友人といっても、家族同然にこれまでの30数年間を交流させていただいている。だから、同僚はもう皆退職をして、第二の人生を歩き始めていた。
 同僚家族が集まり、本当に同窓会のような楽しいひと時を過ごした。親たちは皆ジジとババになり、子ども達は皆おじさんとおばさんという年代になっていた。
 この30年間というそれぞれの家族史は、それぞれのファミリーの長い独特の時間なのだと、ふと皆の楽しそうな顔を見ながら思った。楽しいことばかりがあったわけではなく、それぞれが生きて行く上で避けては通れなかった痛みの歴史でもあるのだ。その時間の集約の中での、それぞれの深い笑顔がそこにあった。
 翌日Kさん家族と我々夫婦は早朝から目覚め、ともに食事をした。短い時間ではあったが、別れのための心準備の話をした。今別れたらまたしばらく会えない距離の中に、またそれぞれが帰らなければならないのだ。
 かつての若き頃の年代とは違って、そろそろ仕上げの人生のエリアに我々はいるのだった。これからまた4年とか5年間という時間の過ぎ行く中で、果たして何人が再会できるのかわからないという年代でもあった。
 その象徴がFさん一家でもある。幸福というものを、他人がどう捉えようとも意味がないのかもしれない。しかし、この家族のそれぞれが負っている、人生の中の痛みは深く、重く感じられる。大学の先輩であるFさん(夫)は、今は事故の後遺症の中に通所生活を余儀なくしている。一番元気なはずだった一粒種のお嬢さんは、脳腫瘍の手術を受け、後遺症として心身にダメージを負った。そして彼よりも年上の奥さんは、彼らの支えとしての中核とならざるを得なかったし、今もその立場は変わり得ない。このFさん家族の痛みは、そっくり冒頭のそれぞれの家族共通の痛みでもある。それでもそれぞれがそれぞれの時間を集約し、生きて行くしかないのだ。
 こうして、4年以上のブランクを置きながらでも、こうしてひと時を楽しく馬鹿騒ぎできることを喜ぶしかないのだと思う。
 幸せというものが湯気を立てて、単品で皿にのっているわけではないのだから・・・。