夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

八戸余韻

2008-01-29 07:00:54 | つれづれなるままに
 27日(日)に八戸から帰宅し、きょう28日(月)は夫婦でお休みである。娘たちを「あうん」に乗せて行き、そのままメールのチェックをして、事務方から諸事報告を受ける。 その後自室で、八戸で世話になった方々に手紙を筆で書き始めた。しばらくすると送迎を終えて出社してきたスタッフの内数名から、昨日の国家試験の受験報告を受ける。そういえば昨日は社会福祉士と介護福祉士の試験日だった。県内では国立大学で社会福祉士試験、私大や県立大で介護福祉士の試験が行われたようだ。その内の一人から「大学構内が雪でかちんかちんで、思いっきり転びました」と聞いた。「何人も転んで大騒ぎ・・・。」滑ったのではなく転んだと言う表現を強調するのが面白くて思わず笑ってしまった。滑る人は雪の上ではなく、紙の上でも大勢いるのだろうと思った。
 メールの中に八戸市で開催された講演会の報告があり、アスペルガー症候群の関西の女性で、ニキ・リンコさんという方の講演録のまとめがあった。アスペルガー症候群は一般的には高機能自閉症とも云われ、知的障害のない自閉症とされる。講演を聴いた方からの又聞きなので正確にはわからないのであるが、彼女は講演を青森で行うのは2度目のようだ。サングラスをかけてお話をされるのは、いろいろ見えない方が心理的に具合の良いこともあるらしい。そして更に彼女の語ったという文章を読んでいると、彼女の内面ではコミュニケーション上でかなり特異な拘りがあるように見受けられ、それはまた良く聞いていると私自身も同じような心理状態に今まであったことも気付かされる。たとえば言葉の中身である。それを私たちは他人と自分が同じ基準で言葉を使っているように思いがちであるが、実はかなり差があることが様々な誤解や問題につながってしまうことがある。そして言葉は言った瞬間に消えていくと思いがちであるが、実は彼女たち?には残り続ける(囚われ続ける)ものもあることに気付かされる。私もそうなのだが、人前で話して居るときに質問された方に十分な回答ができなかったときに、その後もずっとその方のことが気になって仕方がないのである。あるいは云うべきことが云えない相手がいると、云えなかった言葉は心の中に残り続けるのである。「適当に」という言葉がある。しかし云われた本人は「適当」という量がもしくは内容がわからないで、すっかり悩んでしまう。私の父もそうだった。「庭先にある盆栽に水をやってくれ」と云われ、「どれくらい?」と聞くと、「適当に」というから、自分で判断して水やりをしていると、後で「こんな量じゃ足りないだろう・・・。」と大目玉を食ったことが、すごいトラウマになって「適当に」という人が憎くなったりするのである。こと左様にニキ・リンコさんをはじめとする、アスペルガーや、自閉症の方たちはいわゆる繊細な心理を持ち、更には視覚的なセンサーを優先させて理解をするという特徴もあるような気がする。私たちが聴覚や視覚や言語など総合的に情報を整理して判断するのに対し、自閉症の人々は視覚的なものに敏感に反応して、気になって仕方のないものがあるとそれを排除せずには居られなくなるのである。
 毎週火曜日夜11時過ぎにNHKBS第二の番組で「名探偵モンク」を再放送しているが、まさに彼もそういう視覚的な特性を活かして活躍しているが、一方でその業績とは相容れない日常生活上の不適応や、苦痛が多いことに驚かされる。先週も絵画の中の表現されたワイングラスが倒れてそのグラスからワインがテーブルにこぼれている油絵に、異常反応したモンクが居た。その絵が彼に不安感を抱かせるものであったからである。絵なのだから仕方がないと言う我々の説明や説得は、そこでは全く意味をなさないのである。「不安」でたまらないのだと思う。
 八戸の不安定な余韻が心の中で、まだ循環している自分である。