音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

明日なき暴走 (ブルース・スプリングスティーン/1975)

2010-10-09 | ロック (アメリカ)


70年代に入ると、アメリカからめっきり減ったものがある。ロックン・ロールである。60年代、アメリカはどこもかしこもロックン・ロールで溢れ返っていた。勿論、その筆頭はかの、エルヴィス・プレスリーだったということは言うまでもない。そして、当時の若者、特に1940年代生まれの輩は、プレスリーに憧れギターを始めた。それはまさにアメリカ中の若者がそうであった。

ニュージーランド州で、1940年代最後の年に生まれたブルース・スプリングスティーンも、そんなプレスリー・フリークの最後の世代であった。オランダ系とアイルランド系の混血でトラック運転手だった父と、イタリア系アメリカ人の母の間に生まれた彼は、敬虔なカトリック教徒でもあった。ブルースは10代の頃から盛んに地元のロックコンサートに参加したが、中々芽がでなかった。バンド・メンバーにも恵まれなかったが、たまたま訪れた西海岸ではその音楽性を評価されデビューの話も持ち上がるが結局お流れ。地元でブルースバンドを結成したが、これも泣かず飛ばすだった。しかし、ブルースは何処か人を惹きつける魅力があったのだろうか、色々な音楽関係者が彼に接近した。当時、ミュージック・ビジネスで一旗揚げようという若い起業家も彼に感心を持ち、それが結果的後々契約問題で一悶着あるような、そんな出会いも経験している。そんな彼もジョン・ハモンドに見いだされてからは大手レコードレーベルからのデビューとなったが、中々大ヒットにはならなかった。そういう意味では最初の大ヒットアルバムが当作品、「明日なき暴走」である。レコードではヒットのなかったプルースだが、ライヴに関して言えば、音楽関係者からは大変高い評価をされていた。しかし、これには理由があって、ブルースはデビュー以来、寧ろシンガー・ソングライターの色を前面ら出すというプロモート方針から、第2のプレスリーではなく、「第2のボブ・ディラン」という方向性で売り出されたのである。冒頭にも書いた様に、70年代は最早、ロックン・ロールに時代を牽引していく力は残っていなかったのである。しかし、レコードは今一、だがステージでは毎回そのパフォーマンスが好評で、次第にその噂は方々に広がっていくのである。その絶賛者のひとり、ジョン・ランドーは、「私はロックン・ロールの未来を観た」と絶賛のコラムを掲載し、それが縁でランドーをプロデューサーに招いて製作されたのがこのサード・アルバムで、前作から一転してロック色が色濃く、ヒットチャートもすぐに反応、アルバムチャートの3位にまで上がったのである。今ですら、まさにアメリカのロックン・ロールを代表する存在となっている彼も、最初は大変苦労をしたのであったが、ある意味で理解者が現れ、ラッキーだったと思う。ちなみに私の周りではこのブルースの評価は区々というより、なぜか全く高くない。私も絶賛することは無いが、西海岸の音楽が主流であったこの時代に、東海岸の、しかも正統的なロックン・ロールというのはある意味で流行なんかに左右されないぞっていう気合が感じられる。また、ブルースはやってやろうという体育系のノリがある一方で物凄くセンシティブなところもあり両面を持ったアーティストであったので、その辺りは中々当時は(今でも)逸材であった。

本当の大ヒットは「ボーンインザUSA」だが、このアルバムは日本でも音楽通を自称する人たちには可なり高く評価された。そして、ブルースの音楽は、80年代で新しいロックン・ロールの手本にもなった。この単純なピートで全く新しいロックン・ロール曲を何曲も作ったのであり、その点は高く評価をするのである。


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