あび卯月☆ぶろぐ

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新ゴーマニズム宣言 第231章

2006-05-11 02:00:18 | 書評・雑誌
今回は格差社会批判の内容。
気になった箇所を二三指摘したいと思う。

まづ、格差社会の実情を指摘する文脈で以下のような記述があった。

上流の子供たちはには「人間っていいな」という差別替え歌が流行っているという。

♪いいな、いいな人間っていいなー
 冷たいお風呂に、腐ったご飯、
 子供の帰りを待たないオヤジ
 僕も帰ろう、おうちがないよ
 デンデンでんぐりがえしで骨折った


この替え歌は格差社会がもたらしたということらしいのだが、
まだ格差社会が問題視されていない十年前、
私が小学生の頃、歌詞は幾分違えどこの替え歌はあった。
無論、私は上流階級の人間ではない。
子供はどんな時代にもこのよなブラックユーモアを含んだ替え歌を作り出すもので
少なくともこの替え歌の例は格差社会の進行と関係無い。

もう一つ。

朝から晩までワイドショーとニュース番組が、同じ映像を洪水のように流している。
それが「世論」を作っているんじゃないか!
「情報」なしに「世論」は形成されない。


若者たちの間で「空気の読めないやつ」というのが馬鹿にされる傾向にあるらしい。
テレビも論壇も変わりゃしない。
空気を読んで商売しているだけだ。


テレビは世論を作るのか、それとも世論の「空気を読んで」いるのか。
一体、どちらなのだろうか。
この箇所を見る限りテレビは一方で能動的で一方で受動的だと取れる。
これを言い出したら卵が先か鶏が先かの議論になるかもしれないけども、
私は輿論をつくるのはテレビだと思う。
報道に関してはそれほど「空気を読むんで」いないだろう。
仮に「空気を読んで」いるのならば
ニュース23はあのような低レヴェルな反日報道はしないと思う。
その点、昨今の朝日新聞も大衆に迎合しないという意味では立派なのかもしれない。
産経新聞など以前は少数派で「空気を読んで」いなかったけれど、
今や多数派になりつつある。
といってもどちらも商売でやっていることには変わりないが。

それと、人間関係において空気の読めない者が馬鹿にされるのは当たり前ではないか。
「空気を読む」という言葉が使われるようになったのは最近だとしても、
集団の和を乱す行為をする者が嫌われるのは、殊に日本においては昔からそうである。
「時代の空気」に逆らうことはあってよいし、
むしろ、評論家などはそうであるべきだが、
その場の「空気が読めない」者が批判されても仕方が無いと思う。
つまり、マスコミが大衆に迎合するのと「空気を読む」のは意味が違う。
前者は言論態度で後者は処世術だ。
(空気を読むが全て括弧附きなのはそういう理由)


以上、格差社会批判の論旨には賛成しつつも疑問点を指摘した次第。