ぼくはブログを書くとき、まずワードで書いてそれをブログ編集画面にコピーしている(直接に編集画面では、やりにくくて長い文など書けない)。自分が何を書いたかを後で見直したかったらワードの方を見ればいいので、自分のブログを見ることはまずない。
ところが先日、たまたま見ていて、Cさんのコメントがあるのに気が付いた。その時メールのほうにも届いていたはずなのだが、なぜか気が付かなかった。なんと3月7日のコメントなのだが、重要だと思うので以下に転記させていただく。(前日のぼくの記事「なつかしき愛の歌」で、「大草原の小さな家」に出てくる歌について書いたことについてのコメントだ。)
・・・・・・・・・・・・・・
今、毎日、夕方と夜中、CATVご利用の方は、観ることができます。
FOX classic というチャンネルで放映中です。
実は、このドラマの最終回は、とても誇り高いシーンで終わります。
主人公のローラが育った町は、いわゆる地上げ屋に全てを奪われます。
町の人たちは、町を去る日に、自らの家々をダイナマイトで爆破します。
土地は奪われても私たちの町と、その思い出は渡さない・・・と。
音楽の話からは、離れてしまいました。
お話のシーンは、残念ながら、どのシーンか覚えていませんが、
父親、チャールズのバイオリンのシーンは、
どのシーンも心に染みるものであることは、確かです。
静かな愛が、そこにはあります。
何度も再放送され、何度も観ています。
今度、観るときには『歌』のシーン、見逃さないようにしなくっちゃ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(以下に書くことは、もちろん、Cさんに対する異論ではなくて、TVドラマに対する異論です。念のため。)
ぼくはTVドラマの方は全然見ていないので、本の方しか知らないのだが、このドラマの最終回というのは、酷いのじゃないか。
本の方には、地上げ屋にすべてを奪われて、というのも、家々を自分たちで爆破して、というのも、出てはこない。ローラ自身はその町で結婚して7年後にミズーリ州に移住するが、お父さんたちはずっとサウス・ダコタ州デ・スメットの町に残り、お父さんはそこで亡くなっている。
ドラマが原作と違うことを非難しているのではない。そんなことは当たり前に起こることだ。しかし、自分たちの住んだ家々を爆破する、というのは、それまでのそこでの自分たちの生活の意味を無にする行為ではないか、と、ぼくは感じる。
ドラマの制作者は、百年以上前の時代を扱った物語に、現代の問題(ここでは、地上げ)を盛り込むことによって新しい意味を持たせる、ということをしたかったのだろうが、NHKの大河や朝ドラなどでもよくやる手法だが、これは全く逆効果。
時代劇でも西部劇でも、登場人物たちが生きた時代にはその時代なりの様々な問題があり、人々はその葛藤の中で、あるいはそれに翻弄されて、あるいはそれを克服しようと苦闘して、それぞれの生を生きている。
そしてその問題は、多くの場合、現代を生きる私たちに無縁ではない。
話を「大草原」に限って言えば、ローラの物語は1870-80年代だ。彼女は1867年生まれ、ミズーリに移住したのは1894年。この物語は、まさにアメリカ西部開拓時代だ。ちょうどこの時代を扱ったノンフィクションに「わが魂を聖地に埋めよ」がある。
映画「ソルジャー・ブルー」のもとになった「サンド・クリークの虐殺」が1971年。「ウンデッド・ニーの虐殺」が1990年。「大草原」はアメリカ先住民の迫害と虐殺の歴史と同時代なのだ。そして、この二つは、重なっている。
ローラのお父さんは、移住者が多くなって落ち着かなくなったから、ウィスコンシンの森の中の家を出て西部に向かう。そして、オクラホマの、インディアン・テリトリーの中に家を建てる。当然、インディアンとのごたごたが起きる。一触即発の危機を経て、けっきょく一家はそこから出てゆくのだが、ここには先住民に対する差別や偏見の描写がたびたび出て来る。お父さん自身は彼らに対して比較的同情的だが、ローラをはじめとする家族も、近くに住む白人たちも、その偏見や差別感を露わにしている。(今年6月、全米図書館協会は、その差別感を理由に、ローラ・インガルス・ワイルダー賞の名前を変更した。)
…こう書いたからと言って、ぼくは「大草原」の物語が嫌いになったわけではない。相変わらず繰り返し読む愛読書のままだ。でも考えてみれば、現代のアメリカは、当時からの問題をまだ解決していない。トランプ政権になってから、その感はさらに深い。移民問題や、マイノリティーに対する偏見の問題。
ローラのお父さんは、開発を文明の進歩だと信じている。そして、その進歩によって人々はどんどん豊かに、幸福になってゆくと。
果たしてそうだっただろうか?
ところが先日、たまたま見ていて、Cさんのコメントがあるのに気が付いた。その時メールのほうにも届いていたはずなのだが、なぜか気が付かなかった。なんと3月7日のコメントなのだが、重要だと思うので以下に転記させていただく。(前日のぼくの記事「なつかしき愛の歌」で、「大草原の小さな家」に出てくる歌について書いたことについてのコメントだ。)
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今、毎日、夕方と夜中、CATVご利用の方は、観ることができます。
FOX classic というチャンネルで放映中です。
実は、このドラマの最終回は、とても誇り高いシーンで終わります。
主人公のローラが育った町は、いわゆる地上げ屋に全てを奪われます。
町の人たちは、町を去る日に、自らの家々をダイナマイトで爆破します。
土地は奪われても私たちの町と、その思い出は渡さない・・・と。
音楽の話からは、離れてしまいました。
お話のシーンは、残念ながら、どのシーンか覚えていませんが、
父親、チャールズのバイオリンのシーンは、
どのシーンも心に染みるものであることは、確かです。
静かな愛が、そこにはあります。
何度も再放送され、何度も観ています。
今度、観るときには『歌』のシーン、見逃さないようにしなくっちゃ。
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(以下に書くことは、もちろん、Cさんに対する異論ではなくて、TVドラマに対する異論です。念のため。)
ぼくはTVドラマの方は全然見ていないので、本の方しか知らないのだが、このドラマの最終回というのは、酷いのじゃないか。
本の方には、地上げ屋にすべてを奪われて、というのも、家々を自分たちで爆破して、というのも、出てはこない。ローラ自身はその町で結婚して7年後にミズーリ州に移住するが、お父さんたちはずっとサウス・ダコタ州デ・スメットの町に残り、お父さんはそこで亡くなっている。
ドラマが原作と違うことを非難しているのではない。そんなことは当たり前に起こることだ。しかし、自分たちの住んだ家々を爆破する、というのは、それまでのそこでの自分たちの生活の意味を無にする行為ではないか、と、ぼくは感じる。
ドラマの制作者は、百年以上前の時代を扱った物語に、現代の問題(ここでは、地上げ)を盛り込むことによって新しい意味を持たせる、ということをしたかったのだろうが、NHKの大河や朝ドラなどでもよくやる手法だが、これは全く逆効果。
時代劇でも西部劇でも、登場人物たちが生きた時代にはその時代なりの様々な問題があり、人々はその葛藤の中で、あるいはそれに翻弄されて、あるいはそれを克服しようと苦闘して、それぞれの生を生きている。
そしてその問題は、多くの場合、現代を生きる私たちに無縁ではない。
話を「大草原」に限って言えば、ローラの物語は1870-80年代だ。彼女は1867年生まれ、ミズーリに移住したのは1894年。この物語は、まさにアメリカ西部開拓時代だ。ちょうどこの時代を扱ったノンフィクションに「わが魂を聖地に埋めよ」がある。
映画「ソルジャー・ブルー」のもとになった「サンド・クリークの虐殺」が1971年。「ウンデッド・ニーの虐殺」が1990年。「大草原」はアメリカ先住民の迫害と虐殺の歴史と同時代なのだ。そして、この二つは、重なっている。
ローラのお父さんは、移住者が多くなって落ち着かなくなったから、ウィスコンシンの森の中の家を出て西部に向かう。そして、オクラホマの、インディアン・テリトリーの中に家を建てる。当然、インディアンとのごたごたが起きる。一触即発の危機を経て、けっきょく一家はそこから出てゆくのだが、ここには先住民に対する差別や偏見の描写がたびたび出て来る。お父さん自身は彼らに対して比較的同情的だが、ローラをはじめとする家族も、近くに住む白人たちも、その偏見や差別感を露わにしている。(今年6月、全米図書館協会は、その差別感を理由に、ローラ・インガルス・ワイルダー賞の名前を変更した。)
…こう書いたからと言って、ぼくは「大草原」の物語が嫌いになったわけではない。相変わらず繰り返し読む愛読書のままだ。でも考えてみれば、現代のアメリカは、当時からの問題をまだ解決していない。トランプ政権になってから、その感はさらに深い。移民問題や、マイノリティーに対する偏見の問題。
ローラのお父さんは、開発を文明の進歩だと信じている。そして、その進歩によって人々はどんどん豊かに、幸福になってゆくと。
果たしてそうだっただろうか?