すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

秋の光(続)

2018-11-10 10:21:09 | 自分を考える
 自分が或る分野について才能があるかどうか、それに情熱を傾けることが自分にとっていいことかどうか、について思いを巡らせるときに必ず心にかかる文章がある。ドイツロマン派の叙情詩人、ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)の詩集「歌の本」の序文の一部だ。
 繰り返し心にかかる文なので以前にも紹介したことがあるが、もういちど引用しておこう。

「・・・その時代は去った! 私は今、熱せられているというよりは、照らされている。しかし、このような冷たい光は、人間にはいつも、あまりにも遅くやってくる。その澄みきった光をうけて、私はいま、自分がつまずいた石をながめている。いまだったら、私は、間違った道をさまようこともなく、それらの石を避けようと思えば、いとも簡単に避けられただろう・・・
・・・私たちは、人生においても芸術においても、やりうることで、自分の才能に最もかなうことを、ただ、行うべきだろう。おもえば、人間のいちばんかなしい誤りのひとつは、自然がこころよく恵んでくれた賜物の価値をおろかにも見そこない、かえって、自分にはとても手にとどきそうもない財宝を最も貴重なものと思い込むことだ・・・
・・・われわれは、自分の尊いところについて無関心で、わざわざ自分のつまらないところをずっと勘違いしていて、それが自分のいいところであると、いつしか思い込んでしまっている・・・」(井上正蔵訳)

 ここに言う「冷たい澄み切った光」は、べつに季節の秋の光ではないし、ましてや人生の秋の光でもないのだが(実際には、ハイネ30歳のときの詩集なので、青春の過ちについての言葉なのだが)、ぼくには昔から、そして今はなおさら、秋の光に思えてしまう。
 そして何度読んでも、そのたびにため息が出てしまう。なんと私の人生を、的確に言い当てているか。
 …こう書くとちょっと後悔の言葉のように取られるかもしれないが、ぼくはそのようには読んでいない。
 激しい情熱は失われたとしても、今は、澄みきった光に照らされている、そう知っていることが、ハイネにとって(ぼくにとっても)価値がある、と思う。
 ハイネは(ぼくも)、今は、自分が何につまずいたかを理解できるようになっている。
 そして、自分にできることは何か、できないことは何か、自分が何に才能がないか、何になら比較的才能がありうるか、自然が自分に恵んでくれたものは何か…を、未だに知ることはできないでいるにしても、そういうことを意識しながら残りの人生の選択ができる。 
 遅まきながらそのことに気づいただけ、まだよかった。
 十年前に気づいていたらもっと良かったかもしれない。でもそれは仕方がない。十年後にもまだ気づかないでいるよりは、あるいは、気づかないまま死んでしまうよりはずっと良い、のだ。これからの十年を、間違った道をさまようことなく生きられる可能性が高いのだから。

 …ぶっちゃけた話、今書いているこれのもとになった文章を、ぼくは9年前に書いている。実際に選択するのに、9年かかってしまった。そして、残りはあと10年くらいかもしれない。
 でも、遅まきながら、いま再びこう書けて、まだよかった。
 進んだり戻ったり回り道をしたりが人生さ。
コメント
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