すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

2018-11-13 22:16:16 | 音楽の楽しみ
 若い頃、笛の音が大好きだった。ケーナ、サンポーニャ(フォルクローレのパンフルート)、尺八、篠笛、オカリナ、フルート、草笛、リコーダー…笛の音であれば何でも好きだった。
 聴くのが好き、が高じて、自分でも吹いてみるようになった。ケーナ、尺八、篠笛、オカリナは何とか吹けた。リコーダーは、一時、アンサンブルに入れてもらっていた。サンポーニャには挑んでみなかった。草笛は、何種類か吹き方を覚えたが、今ではもう忘れてしまっている。指笛と口笛は、吹けるようにはならなかった。
 やっているうちに、尺八、篠笛、オカリナ、ケーナなど西洋音階と少し違うものは、よく知っている歌のメロディーなどを吹くときに気持ちが悪いので、聴くのは好きだが吹くことからは離れた。あれはぼくみたいに移り気でなく、ひとつに集中してやらなければだめなのだろう。そして、その独特の音階・音程を受け入れなければ。楽器を選ぶことは、音楽を選ぶことでもあり、文化を選ぶことでもある。
 フルートだけは、けっこう集中して練習した。通訳の仕事でアルジェリアに長期滞在するときに持って行って、仕事のあと毎日練習した。パリで、友人の友人で東京芸大の講師で作曲を学ぶために留学していた人に、「たいへん筋が良いよ」と言われた。
 でも、歌を始めたときに、笛は止めた。笛を吹きながら歌うことはできない。シャンソン歌手の葵めぐみさんのように、フルートと歌を両立させている人もいる。たいへん素晴らしく、うらやましく思う。でも、歌をうたう間は、ピアノなりなんなり、伴奏者を必要とする。弾き語りはできない。
 今でも、古いフルートとリコーダーは持っている。ときどき取り出してみるけれど、吹くことはしない。吹くことはできても音楽にはならないだろう。
 挑戦してみたけれどまったく鳴らなかったのは、名前は忘れたけどアルジェリアで出会った、アラブの民族音楽の縦笛だ。ただ葦を横に切っただけの形をしていて、ケーナや尺八のような吹き口もなく、斜めに口を当ててエッジに息を当てて演奏する。息を変えてみたり角度を変えてみたり、どうしてもならなかった。砂漠を旅するとオアシスの夜、町のどこかから歌声とともに聞こえてきて、延々と続く不思議な音色の笛だ。
 笛は、乾燥した気候によく合うのだろうと思う。フォルクローレの笛もそうだ。熱帯雨林では、笛は発達していない。樹々の茂みに音が吸われてしまって遠くまで響かないからだろう。ジャングルではタムタムのような打楽器の音がよく伝わる。笛は、サハラの笛も、アンデスの笛も、青空に広がり、草原に広がる。
 パリのプレイエルホールで、ケーナの名手、ウニャ・ラモスのコンサートを聴いたことがある。テーブルの上に何本もの笛を並べて、曲によってそれを取り替えながら吹く。その音色に堪能したが、彼がアンコールに取り出したのは日本の尺八だった。「去年日本に行ったら友人にこれをもらいました。素晴らしい笛なので、自分でも作曲してみました」と言って最後に吹いたのが、その日の最高の曲だった。尺八の音の方が深い。
 でも、ケーナの音色は大好きだ。あの軽さが良い。以前、道玄坂を上がった山手通りに近いところにフォルクローレ専門のライヴの店があって、よく聴きに行った。残念ながらとっくになくなっているが、今でもどこかの駅前の路上で演奏しているグループがあると足を止めて聴く。
 ケーナに限らず笛の音は、ぼくたちが日々の暮らしの中で抱くあこがれの音、そして時には哀しみの音だと思う。だから青空に、草原に、心に、響く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする