すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

生きて負ふ

2018-11-05 09:34:29 | 無いアタマを絞る
 前記事『飛べ』(11/02)で繰り返し「飛べ飛べ」と呼びかけられている対象は何だろう?
 「小さな翼」とか「私の燕」とか「私の天使」とか「私の苦しみ」とか次々に言い換えられて、最後に「私の魂」という言葉に行きつくから、魂だろうか?
 この詩はユダヤ教徒であるゴールドマンによって書かれているが、ぼくはユダヤ教について何も知らないのだが、この詩に限って言うと、この世は苦しみと哀しみに満ちていて、わたしの魂にとっては仮の宿りに過ぎなく、彼方の世界は光と花々と笑いに満ちていて、そちらへ帰るのが、本来の姿、というのは、グノーシス主義的で貴種流離的で(この二つの言葉についての説明は省略するけれど)、私たちの現に今生きているこの世界に対する否定的気分と、そこから逃れたいという思いが強すぎるかもしれなくて、読んだ人の中にはかなり抵抗のある人がいるかもしれない。
 でも、美しいよね? そしてぼくたちは時々、ぼくはたびたび、そのような思いに駆られることがある。若い頃も、歳を取った今も。
 ここには自分という存在に対する愛おしさがあり、それが私たちの心を浄化してくれる、そしてその浄化を通して、私たちは心の傷を回復することができる、と感じられる。
 ところで、魂って、何? 魂って、あるのだろうか?
 この問いに対する答えは、ありません。
 魂というものが在るか無いかは、どちらも立証されていない。実験と観察に基づいて立証されたこと以外は、当面のところは、仮説という扱いになる、これが常に原則であり、出発点。これは相対性理論でも進化論でも神の存在でも同じ。
 宗教の人とか、何かの崇拝者とか、妄信の人とか、話すことがあると大抵は話が堂々巡りになってイライラするのは、彼らがこの原則を認めようとしないからだ。
 仮説であるという前提の上に立ってなら、もう少し有意義な話ができる。
 魂というものは存在する、と考えた方が、安心することができる。自分の死後も自分の魂は存在しつづけると考えた方が、死が怖いとか、自分の命がむなしいとかいう思いは和らげることができる。たとえその自分の死後の魂というのが、いまの自分という個からは離れた、個の記憶を持たないものであるとしても。
 逆に言うと、そういう安心感のために、魂という概念は発明されたものかもしれない(これは仮説です)。
 魂はあるかもしれないし、ないかもしれない。だから私が飛ばすものは魂であると断言することはやめておこう。
 わたしたちはこの地上で生きていて、様々な悲しみや苦しみに出会う。心を痛める。自分の悲しみや苦しみ、身近な人の悲しみや苦しみ、この同じ時に地上に生きているたくさんの国のたくさんの人々の悲しみや苦しみに。
 (山中千恵子のあの絶唱
  行きて負ふかなしみぞここ鳥髪(とりがみ)に雪降るさらば明
   日も降りなむ
を、ぼくは長いこと「生きて負ふ」と間違えて覚えていたのだが、勘違いでなく、そういう意味も込められているのだと思う。)
 私の悲しみや苦しみを、空に飛ばそう。花々と笑いと子供の頃の自分に返そう。空は、光にあふれている。あこがれは捨てずにいよう。
 (やっぱり、ぼくは論理的な思案は不得手だね。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする