すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

山はいつまで…

2019-02-08 21:49:38 | 社会・現代
 去年の秋から、山を歩いていて倒木の多さに心が痛んでいる。特に多かったのは杓子山と、昨日の倉岳山からの下りだろうか。
 まだそんなに古くないと思われるのは去年の台風の爪痕だろう。昨日の下りの月尾根沢などは、もともと植林地の手入れが行き届いていないために荒れてしまった例だろう。
 巨大な木が根っこから倒れて道を塞いでいる。尾根の上にあった大木が強風にあおられて表土ごと引き抜かれて、谷に向かって逆さに倒れている。いずれも、木の大きさに比べて根っこの浅さに驚く。たったこれだけの土の上に立っていたのだ、という感じ。
 ぼくたちのイメージでは、木は大きくなればなるほど地中に深く根を下ろす、と思っているが、実はそうではない。日本の山地は大概は、岩の上を薄い表土が覆っているだけで、そこに木が根をなるべく横に広げてしがみついて育つのだ。
 地震とか台風とか集中豪雨とかがなくても、そういう木はもともと倒れやすい環境に育っている。さらに、特に日本の山は、地殻のプレートのぶつかり合いのせいで崩れやすく、もろくなっている。
 そして、山は何万年もかけて少しずつ崩れ、やがては海に押し流されてゆく。

 ボブ・ディランの初期の名曲「風に吹かれて」の三番の歌いだしは、
 How meny years can a mountain exist
 Before it’s washed to the sae?
 山はどれだけの年月 存在し続けることができるのか
 海に洗い流されてしまう前に?
だった。

 そのように地球の表面は、何万年も何億年もかけて変化してゆく途中で、現在の仮の姿をしているのに過ぎない。その仮の姿が、現在という短い時を生きる人間にとっては変わらぬ姿に見えるとしても、忘れてはいけない。
 人間は、そして人類の総体も、その地球の仮の表面を一時的に借用して存在しているのに過ぎないことを。
 自然災害は起こるべくして起こる、と言っているわけではない。変化していくものだということをしっかり意識しておこう。だから一層、土地を私たちの手で弱くするようなことには反対しよう。そして、危険のありそうなところにはなるべく住まないようにしよう。人口が減っていく状況では、それは可能なはずだ。

 尾根や沢の上部が荒れれば、その荒廃は必ず下流に流れ下り、海までの流域の広い範囲に及ぶ。
 ここで、直接つながりはない付け足しになるが、ぼくには気になっていることがひとつある。
 ぼくの出身地は山梨県だが、その山梨でも一番山深い地域、南アルプスのふもとの奈良田(ならだ)のことだ。リニア新幹線という途方もないものを通すために、山々が削られ、途方もなく長いトンネルが掘られる。掘削工事のため、そしてそのために出た膨大な土砂を運び出すため、林道が作られる。
 荒らされた山は、そこから次第に周囲の山域を荒廃させてゆく。その荒廃はまた谷を荒らし、川を荒らし、そこに住む人たちを追い出し、下流に広がってゆく。
 奈良田は、かつては風習も言葉も独特の土地だったと聞く。例えば、日本の子守唄としては全く異例と思われる、朗々と明るい、歌声が山々にこだましてゆくような子守唄「焼き餅好き(奈良田の子守唄)」がある。
 すでにダム湖のために集落は移動し、温泉も出るので山奥の観光地になっているが、これからさらにどう変化していくだろうか? なるべく昔の姿をとどめて、というのは、そこに住まない人間のエゴだろうか?
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