すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

楽園喪失

2018-04-03 22:16:23 | 社会・現代
 以前、「ツバメ号とアマゾン号」という児童文学を読んでいたら、夏休みに子供たちだけ(兄弟姉妹4人)でヨットを操縦して湖の中の無人島に行ってキャンプするという設定で、びっくりと同時にうらやましかった。現代のイギリスではどうだろうか? そういうことがまだありうるのだろうか? 
 今の日本では、もうないだろう。無人島でキャンプどころか、親や大人の付き添いや監督・監視がない子供たちだけの行動は、ほとんどないだろう。
 これに対して、お重開きという風習があったということは、少なくとも(現在はともかく)、ぼくが子供のころ山梨のあの地域では、子供だけの行動が認められていたということをあらわしている。
 それは、親たちや村落共同体の大人たちも、子供たち自身も、子供だけで行動することがありえる、という意識を持っていたということだ。
 そういえば、ぼく自身、弟や妹や、たまたまお客に来ていた従兄弟や、弟や妹の同級の近所の子供たちを引き連れて裏山に探検に行ったことがある。探検、と言っても、ぼく自身はそこに何度も登っていて、小さい子達にそこを見せたかったのだ。
 戦後すぐ、山に中に住み着いた夫婦が森を切り開いてつつじやチューリップや種々の草花を植えて、その頃には公園のような感じになっていたのだった。
 あれはたぶんぼくが10歳のときだったと思う。下の弟はまだ4歳。帰り道は小さい子たちがくたびれてしまって思いのほか時間がかかり、夕方に家に着いたときには両親や叔母や近所の大人が心配していたようで、引き連れていったぼくは父に殴られた。
 殴られはしたけれども、それは小さい子たちがいたせいで、大きい子達だけで出かけていたら、そんなにひどく叱られはしなかっただろうと思う。父は妹(叔母)や近所の人たちの手前、責任者のぼくをひどく叱らざるを得なかった、という面もあるだろう(すぐに殴る、気の短い人だったが)。
 結果的に殴られたとしても、そういう事がとんでもない、あってはならない事だとは、ぼくもほかの子供も思ってはいなかった。
 子供だけで裏山に探検に行くのは、それ自体は悪いことじゃない。持てる力をフルに発揮しなければならないし、励まし合って、小さい子達をかばいながら行動するので、いろんなことを身につけることができる。
 小さい子たちも、大きい子をまねながら力をつけていくことができる。
 あの頃は、暗くなるまで外で遊んで、というのは当たり前だった。親も、子供が今どこにいるのかなんて、いちいち気にしてなかった(生活で手いっぱいで、気にしてなんかいられなかった)。
 そうやって、子供は自分の力を広げ、成長していくことができる。
 今はどうなのだろうか? 安全管理のためということであまりにも制約が多く、自分たちだけの行動が許されていない子供たちは、力をつけ成長していく機会を大幅に奪われているのじゃないだろうか?
 それに、子供たち自身が、自然の中で暗くなるまで遊ぶよりゲームをしている方が楽しいと思っているかもしれない。
 仕方のないことなのだろうか?
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